【取扱注意】その英雄、勘違いにつき。   作:化け猫 いろは

31 / 39
第九話 魂の絶叫と集結する亡霊

期待。

それは、未来という名の不確かな闇に投じられる、一本の細く、そしてあまりにも脆い蜘蛛の糸である。

人は、その糸を「希望」と呼び、祈るような気持ちで手繰り寄せる。糸の先には、輝かしい明日が待っていると、信じて疑わずに。

だが、その糸が、神輿を担ぐための無数の綱となり、その全てが一人の人間に結びつけられた時、物語はその様相を一変させる。

期待は「圧力」となり、希望は「呪い」となる。

蜘蛛の糸は、断頭台へと続く、鋼鉄の鎖へと姿を変えるのだ。

 

そして今、一人の哀れな男が、数万の信者から放たれる、惑星そのものよりも重い期待という名の鎖に雁字搦めにされ、その魂の断頭台の上で、人生で最も壮大で、最もみっともない絶叫を上げようとしていた。

もちろん、その声なき叫びが、熱狂する信者たちの耳に届くことは、決してないのだが。

──物語の主役とは、いつだって、最も不自由な囚人なのである。

 

────────────────────────────────────────────

 

コロニー「黄泉」に設置された、タルタロス神聖国家の仮設支援本部。

その最も奥まった一角、本来であればコロニーの管理者室であったはずのその部屋は、今やカイ・シラヌイという名の、不本意なる神が君臨する、仮初めの神殿と化していた。

 

だが、その神殿の主の姿は、信者たちが思い描くような、威厳に満ちたものとは、天文学的な距離でかけ離れていた。

 

「(逃げろ! 逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ! 今すぐ! 全速力で! この呪われたコロニーから、この面倒しかない星系から、全力で離脱しろぉぉぉぉぉっ!)」

 

カイ・シラヌイは、部屋の中央で、まるで檻の中の熊のように、落ち着きなく、しかし誰にも気づかれぬよう、あくまでも優雅な足取りで、ぐるぐると同じ場所を回り続けていた。

彼の内心は、数分前にあの老婆から受けた、不吉極まりない警告によって、もはや観測史上最大級のハリケーンに見舞われている。

 

『悪いことは言わん。……ここから、一刻も早く、立ち去った方がいい』

 

あの、全てを見通すかのような、鋭い瞳。

あの、感謝の裏に隠された、絶対的な確信に満ちた響き。

それは、ただの老婆の戯言ではなかった。

彼の、自己保身のためだけに異常発達した第六感が、告げていた。

あれは、真実だ、と。

このコロニーには、俺の貧弱な魂が耐えうる許容量を、遥かに超えた、とんでもない「何か」が、潜んでいる。

 

彼の脳内では、警報がけたたましく鳴り響き、全身の細胞が、生存本能に基づいた、ただ一つの命令を絶叫していた。

──戦略的撤退(という名の全力逃亡)だ、と。

 

『おやおや、どうしたんだい英雄殿? まるで、夏休みの宿題を最終日まで溜め込んだ小学生みたいに、そわそわしちゃって。何か、お困り事かな?』

 

脳内に響く相棒、シロの声は、どこまでも楽しそうだ。

この銀髪の悪魔は、主人の精神が崖っぷちに追い詰められれば追い詰められるほど、そのパフォーマンスを向上させる仕様らしい。実に、迷惑な話である。

 

「(うるさい、このポンコツAIがァ! 小学生と一緒にするな! 俺は今、この国家の、いや、この銀河の未来を左右する、極めて高度な戦略的判断を迫られているのだ! 分かるか!? この、司令官としての、孤独な苦悩が!)」

 

『へぇ、孤独な苦悩ねぇ。僕の目には、ただ単に「早く帰りたいけど、周りの目が気になって帰れない」っていう、典型的な小心者のジレンマにしか見えないけど』

 

図星だった。

シロの的確すぎるツコミに、カイはぐうの音も出ない。

そうだ、その通りだ。

彼が顔を上げれば、そこには地獄があった。

部屋の外、ガラス張りの壁の向こう側には、彼の部下たち──ネメシスのクルーと、彼を神と崇める元囚人たちの、熱狂的な視線が、無数に突き刺さっているのだ。

彼らの瞳は、燃えていた。

「神よ、我らに次なる使命をお与えください!」

「この者たちを虐げる悪がいるのなら、我らが神の鉄槌を下しましょう!」

「我らの魂、今こそ貴方様に捧げる時です!」

声なき声が、空間そのものを震わせ、物理的な圧力となって、カイの小心な魂を押し潰す。

 

ここで、もし彼が「いや、なんか怖いから帰るぞ」などと言おうものなら、どうなるか。

これまで、彼が血の滲むような努力(と、ありえないほどの幸運)によって築き上げてきた、完璧な「神」の偶像は、音を立てて崩れ去るだろう。

それは、今後の安楽なリモート総督ライフを、根底から揺るがす、最も避けたい事態であった。

 

見栄と恐怖の板挟み。

プライドと自己保身のデッドロック。

彼の思考は、出口のない迷宮を、永遠に彷徨い続ける。

 

(クソッ……! どうする……! どうすれば、俺の神としての威光を保ちつつ、この呪われた場所から、合法的に、そして穏便に、逃げ出すことができる……!?)

 

彼の脳が、自己保身のためだけに、再び、超高速で回転を始めた、まさにその時だった。

部屋の扉が、控えめに、しかし有無を言わせぬ響きで、ノックされた。

カイは、ビクリと肩を震わせると、一瞬で、完璧な神の仮面を被り直した。

 

「……入れ」

 

音もなく入ってきたのは、レナ・ユキシロだった。

彼女は、カイの前へと進み出ると、いつものように、一分の隙もない完璧な礼を捧げた。その人形のような顔には、何の感情も浮かんでいない。

 

「主。民からの、請願にございます」

 

その、あまりにも重々しい言葉に、カイの心臓が、嫌な音を立てて跳ね上がった。

(請願だと!? やめろ! 俺はもう、何も聞きたくない! 見ざる、言わざる、聞かざる! それが俺の座右の銘だ!)

 

だが、レナは、そんな主の内心の絶叫などお構いなしに、淡々と、しかしどこか誇らしげな響きを声に含ませて、続けた。

「民は、申しております。ただ神の救いを待つだけでは、信徒としての務めを果たせぬ、と。この宙域に潜むという『悪』の正体を、我らの手で暴き出し、主の御前(みまえ)に差し出す栄誉を、お与えください、と」

 

その言葉は、カイにとって、まさに地獄からの招待状だった。

だが、その後に続いたレナの言葉は、彼の絶望の闇に、一筋の光明(という名の、限りなく黒に近いグレーな希望)を灯すことになる。

 

「つきましては、周辺宙域の、広範囲索敵の許可を、お願いしたく存じます。悪の巣を特定し、これを殲滅することこそ、主の御心に最も適うことと、愚考いたします」

 

索敵。

その言葉に、カイの悪知恵が、閃光のように煌めいた。

 

(待てよ……。索敵……。そうだ、やり方次第では、あるいは……)

 

カイの脳裏に、一つの、悪魔的な計画が、その輪郭を現し始めた。

それは、彼がこれまでの人生で培ってきた、あらゆる無駄な知識──特に、彼の人生の大部分を占める、ゲームの知識に基づいた、極めて高度な(と本人は信じている)戦略であった。

 

(そうだ。本物の「悪」が見つかる前に、こちらで『手頃な悪』を用意して、それを叩き潰してしまえばいいじゃないか!)

 

それは、マッチポンプという言葉すら生ぬるい、完全なる自作自演計画。

だが、ただ索敵を許可しただけでは、最悪の場合、本当に「巨悪」を見つけてしまう可能性がある。それでは本末転倒だ。

 

どうやって「手頃な悪」を見つけ出す?

 

(いや、見つける必要はない。『推測』するのだ。俺の、神の如き慧眼で!)

 

カイは、内心でほくそ笑んだ。

彼は、おもむろに、部屋に設置された巨大なホログラム星図を起動させた。そこには、彼らがこのコロニー「黄泉」に到着するまでに、ネメシスのパッシブセンサーが収集した、周辺宙域の航行データが、無数の光点として記録されている。

 

(素人どもは、敵の密度が高い宙域ほど、強力なボスがいると勘違いする。だが、それは三流の考えだ)

 

彼の脳裏に、かつて彼が熱中した銀河戦略シミュレーションゲーム『アストロ・サーガ』の記憶が、鮮明に蘇る。

あのゲームにおいて、海賊の勢力圏は明確に二種類に分かれていた。航行データが極端に少なく静かな『コア宙域』と、逆にごちゃごちゃと密集している『フロンティア宙域』だ。

真に危険なのは、前者。静かなのは、最強の海賊王が縄張りを完璧に管理し、無駄な通行を許さないからに他ならない。下手に手を出せば、本拠地に眠る最強戦力が即座に飛んでくる、まさしく死地。

逆に、後者の『フロンティア宙域』はどうか。

 

(──あそこは、いわば『狩り場』だ。システムが、プレイヤーの経験値稼ぎのために、定期的に新しい海賊団をPOPさせる、ボーナスステージのような場所。POPしたての海賊団は、当然、出来立てホヤホヤで戦力も低い。だからこそ、小物たちがひしめき合い、常に小競り合いが絶えない無法地帯になる。そうだ、この星図の航行データが密集している宙域こそ、大した力を持たない、チンピラたちのPOPポイントなのだ!)

 

完璧な、三段論法。

それは、カイ・シラヌイという、偏狭なゲーマーの世界においては、揺るぎようのない真実であった。

彼は、星図上で、最も航行データの密度が高い、一つの宙域を指し示した。

 

(ここだ。ここにいるのは、せいぜい型落ちの駆逐艦が、百隻程度で徒党を組むのがやっとの、POPしたての雑魚海賊団。これを、我が第十三独立遊撃部隊が、神の如き速度で殲滅する。民衆は、その圧倒的な力を見て満足し、俺に更なる期待を寄せるだろう。そして、俺はこう言うのだ。「悪の尖兵は叩いた。だが、本体は我が威光を恐れて、より深い闇へと逃げ去ったようだ。今は深追いする時ではない」と。完璧だ! これで、俺は英雄としての名声をさらに高めつつ、このクソ面倒な場所から、誰にも文句を言わせずに、撤退することができる! 我ながら、天才か!?)

 

カイの脳内で、輝かしい未来予想図が、再び4K解像度で鮮明に映し出された。

 

彼は、内心の歓喜を、完璧な外面(ポーカーフェイス)の下に押し隠すと、あくまでも尊大に、そして神の託宣を下すかのように、厳かに、口を開いた。

 

「……案ずるな。全ては、我が掌の上だ」

 

その、神の如き第一声に、レナの虚ろな瞳の奥に、ほんの一瞬だけ、狂信的なまでの光が宿ったのを、カイは見逃さなかった。

(うわ、またなんか勝手に感動してるよ、この人形……怖っ!)

 

カイは、そんな彼女の反応から、意識的に目を逸らしながら、星図の一点を、その細く、長い指で、指し示した。

 

(──よし、ここからが腕の見せ所だ。ただ「雑魚がいる」では神の威厳に欠ける。俺のゲーマー知識を、それっぽく神託に変換してやる!)

 

「この宙域……ここが悪の心臓だ。今はハイエナが腐肉に群がっているようにしか見えまい。だが、静かに待て。我が威光を前にすれば、亡霊は自らその実体を現す。全ての悪は、この一点へと収束するだろう」

 

(ふふん、どうだ。悪の戦力が無限にPOPしてくる場所なのだから、いわば『心臓』だろう? そして、俺たちという巨大戦力が現れれば、チンピラどもは慌てて徒党を組むはずだ。それを『収束する』と表現すれば、実に神託っぽく聞こえるではないか! 完璧だ!)

 

意味ありげな、そしてどこまでも尊大な、神の託宣。

レナは、その言葉の真意を測りかねたように、一瞬だけ、その人形のような瞳を揺らがせた。だが、それも束の間。彼女は、主の言葉を、その魂の最も深い場所に刻み込むように、深く、そして完璧に、一礼した。

 

「──主の御心のままに

 

かくして、カイ・シラヌイの、完璧なる「弱い海賊を見つけて叩いて、さっさと帰ろう」作戦は、彼の部下たちの目には、「悪の亡霊が、その心臓たる一点に収束することを、完璧に予見した、恐るべき神算鬼謀」として、完璧に誤訳された。

 

そして、その誤訳が、これから本当の地獄の蓋を開けることになるなど、もちろん、この時の彼は知る由もなかったのである。

 

────────────────────────────────────────────

 

旗艦「ネメシス」艦橋。

そこは、カイ・シラヌイという名の神が不在であるにも関わらず、彼の意志(と勘違いされているもの)によって、完璧な緊張感と統率に支配されていた。

レナ・ユキシロの指揮の下、第十三独立遊撃部隊、及び、新たに編成された「タルタロス神聖国家」の義勇艦隊が、カイによって示された座標アルファ9への、一点集中索敵を開始していた。

 

「索敵班、目標宙域に到達。ですが……」

報告するオペレーターの声が、わずかに戸惑いの色を帯びる。

「……司令が示された宙域に確認できるのは、小規模な艦影のみ。いずれもフリゲート以下の、いわゆるチンピラ海賊です」

「司令の御言葉にあった『悪の心臓』らしきものは、現時点では発見できません……!」

 

艦橋に、静かな、そして気まずい沈黙が流れた。

メインスクリーンに映し出されているのは、カイの尊大な予言とは裏腹の、あまりにも平和で、締まりのない光景。無数の小さな光点が、何の統制もなく、ただ無秩序に漂っているだけだ。

それは、誰の目にも、「烏合の衆」にしか見えなかった。

 

「……どういうことだ? 司令の『神眼』が、初めて外れた……とでも言うのか?」

ナビゲーターのハンスが、信じられないといった様子で、低い声で呟いた。

彼の隣で、リーゼロッテが、必死に主を弁護するように、声を張り上げる。

「そ、そんなはずはありません! きっと、何か深遠なるお考えが……! 我々、凡人の浅知恵では計り知れない、何かがあるはずです!」

 

その言葉は、しかし、どこか空々しく響いた。

クルーたちの間に、これまで決して存在しなかった「疑念」という名の空気が、じわりと広がり始める。

神の託宣は、絶対ではなかったのか?

我々は、ただのチンピラ海賊の巣に、全軍で乗り込んできてしまったのか?

その、不穏な空気が頂点に達しようとした、まさにその時だった。

 

最初に異変を告げたのは、索敵を担当していた、レーダー士官の、裏返った声だった。

 

「……ん!? おかしい……! 動き出した!」

その、切迫した声に、艦橋の空気が、再び、ぴんと張り詰める。

レナが、静かに、しかし鋼のような鋭さで、問いかけた。

「どうした」

 

「はっ! ……先ほどまで無秩序に漂っていた艦影が、一斉に、動き始めました! 統制が取れています! まるで……まるで、見えざる何かの号令に従うかのように!」

 

その報告は、悪夢の始まりを告げる号砲だった。

状況は、雪崩を打ったように、信じがたい速度で、展開していく。

 

「第2探査チームより報告! 散開していた艦影が、急速に集結を開始!」

「第3探査チーム、同じく! 小規模な船団が、合流を繰り返し、一つの、巨大な集団を形成しつつあります!」

「動きが……動きが、あまりにも速すぎる! あれが、ただの寄せ集めの海賊の動きだとは、到底思えません! まるで、百戦錬磨の正規軍のような、見事な連携です……!」

 

メインスクリーンに映し出されていた、無数の星屑のような光点が、恐ろしいほどの速度で、一つのポイントへと収束していく。

それは、まるで、巨大な、見えざる磁石に引き寄せられる砂鉄のようだった。

散り散りだった光は、やがて一つの、不吉な光の塊へと姿を変えていく。

 

「……まさか……」

ハンスが、息を呑んだ。

彼の脳裏に、先ほどのカイの言葉が、雷鳴のように蘇る。

『──全ての悪は、この一点へと収束するだろう』

 

「そういうことだったのか……!」

リーゼロッテが、恍惚とした表情で、震える声で言った。

「司令は、ただ場所を特定されたのではなかった……! この、敵が集結する、まさにその瞬間と場所を、寸分の狂いもなく、予見されていたのだ!」

 

クルーたちの顔に、先程までの疑念の色は、もはや一片も残っていなかった。

そこにあるのは、人知を超えた存在を前にした、圧倒的なまでの、畏怖。

そして、狂信。

彼らの神は、星々の動きすらも、その掌の上で転がしているのだ、と。

艦橋は、再び、一つの、宗教的な儀式の場と化していた。

 

だが、その神々しいまでの光景が、地獄への変貌を遂げるのに、時間はかからなかった。

最初は、ただの違和感だった。

 

「……おかしいですね。集結が、終わりません」

戦術オペレーターの一人が、首を傾げながら呟いた。

「目標宙域にいた艦影は、既に全て集結を完了しています。ですが、戦力カウントが、まだ、増え続けています……!」

 

その言葉通りだった。

メインスクリーンに表示されている敵艦隊の総数は、カウンターストップするどころか、その勢いを増して、恐ろしい速度で跳ね上がり続けていた。

 

「どこから……!? 目標宙域外縁部より、さらに多数の艦影が、このポイント目指して殺到しています!」

「報告! こちら第7探査ビーコン! 我々の担当宙域にいた海賊団が、突如反転! アルファ9へと向かいます!」

「第12ビーコンも同様! 全艦隊、狂ったようにアルファ9を目指しています!」

 

報告が、悲鳴に変わっていく。

メインスクリーンに映る戦術マップの光景は、もはや異常としか言いようがなかった。

アルファ9という一点を中心に、周辺のあらゆる宙域から、無数の光の線が、まるで蜘蛛の巣のように、あるいは、巨大な心臓に流れ込む血管のように、伸びてきていた。

この星系に存在する、ありとあらゆる無法者たちが、何かに引き寄せられるように、一つの場所へと、集結しつつあったのだ。

 

「敵総数、まもなく1万を突破! いまだ増加中! 巡洋艦クラスも合流を始めました!」

「……なんだ……。いったい、何が起きているんだ……?」

ハンスの顔から、畏怖の色が消え、純粋な恐怖と混乱が浮かび上がる。

リーゼロッテもまた、その顔を青ざめさせ、ただスクリーンを凝視することしかできなかった。

神の予言は、当たっていた。

だが、そのスケールが、彼らの矮小な想像力を、あまりにも、あまりにも、超越しすぎていた。

 

そして、絶望は、唐突に、空間そのものを引き裂いて、現れた。

 

「──なっ……!? 巨大な空間歪曲を探知! 複数です!」

 

レーダー士官の絶叫が、艦橋を切り裂いた。

メインスクリーンが、警告を示す赤色に明滅する。

集結しつつある大艦隊の、そのど真ん中。

何もないはずの空間が、まるで煮え立つように歪み、次の瞬間、漆黒の宇宙に、巨大な亀裂が、いくつも、同時に、走った。

それは、亜空間から通常空間へと船体を躍り出させる、ハイパードライブの痕跡。

だが、その規模が、尋常ではなかった。

 

「来ますっ!」

 

亀裂の中から、まず、その異様な船首を現したのは、見るからに重装甲で固められた、鈍色の戦艦だった。

一隻ではない。

二隻、三隻……。亀裂から吐出されるように、次々と、その禍々しい巨体を、宇宙空間に晒していく。

その数、実に、十隻。

いずれもが、ネメシス以上の巨体を持つ、ド級の戦闘艦。

それらは、まるで王の到着を待つ近衛兵のように、出現ポイントを固め、完璧な陣形を組んだ。

 

艦橋から、全ての音が、消えた。

クルーたちは、息をすることすら忘れ、その光景に、ただ、凍り付いていた。

チンピラ海賊。烏合の衆。そんな言葉が、滑稽な冗談のように、思考の彼方へと消えていく。

あれは、違う。

あれは、一個の、統率された、そして恐ろしく強力な、「軍隊」だ。

 

そして、その絶望に、最後の追い打ちをかけるように。

十隻の戦艦が守る、その中央の空間が、今度は、星系そのものが悲鳴を上げるかのような、観測史上最大級のエネルギー反応を放って、歪んだ。

 

《b》「──うわあああああああっ!?」《b》

 

オペレーターの一人が、自らの目を疑うように、絶叫した。

空間の亀裂が、先程までとは比較にならないほど、巨大に、そして深く、口を開ける。

その、絶望的なまでに巨大な闇の向こうから、ゆっくりと、本当にゆっくりと、何かが「生まれ出て」きた。

それは、もはや「船」という言葉では表現できない、一つの「建造物」だった。

全長、数キロメートル。

悪趣味なまでの、黒と金の装飾。

無数の巨大な砲塔が、まるで神を威嚇する獣の牙のように、天を衝いている。

その艦首には、巨大な、髑髏を模したレリーフが刻まれていた。

それは、宇宙という名の海を支配する、絶対的な王者の威厳。

いや、もはや、神話に語られる、終末の獣(リヴァイアサン)そのものだった。

 

その、悪夢の化身が、完全にその姿を現した時。

それまでアルファ9に集結しつつあった、一万を超える艦艇が、まるで王の帰還を祝福するかのように、一斉に、その進路を固定した。

 

その矛先は、ただ一つ。

このコロニー「黄泉」が存在する、宙域。

最終的な報告が、レナから、カイの元へと届けられたのは、まさにその時だった。

 

────────────────────────────────────────────

 

その頃、我らが司令官、カイ・シラヌイは。

司令官室の玉座(リクライニングチェア)の上で、一人、勝利の美酒に酔いしれる、完璧なシミュレーションに、浸っていた。

 

(ふふふ……。そろそろ、レナから、チンピラ海賊団の殲滅完了の報告が来る頃か……。いやあ、我ながら、完璧な作戦だった。これで、面倒事は全て片付いた。あとは、凱旋して、当分は、書類仕事に専念するとでも言って、引きこもらせてもらおう……)

 

彼が、そんな完璧な自己満足に浸っていた、その時。

艦橋から、レナを通して、緊急の、そして最終的な報告が、彼の元へと届けられた。

 

『──主。敵戦力の、全体像が、判明いたしました』

 

レナの声は、いつものように淡々としていた。

だが、その声の奥に、隠しきれない、微かな動揺と、そして、それを遥かに上回る、狂信的なまでの武者震いが、確かに感じられた。

カイの心臓が、ドクン、と大きく跳ね上がった。

(よし来た!)

 

彼は、震える指で、手元のコンソールを操作し、艦橋のメインスクリーンと同じ映像を、自室のモニターに映し出した。

勝利の瞬間を、この目に焼き付けてやろう、と。

 

そして、そこに表示された光景に。

彼は、息をすることすら、忘れた。

 

無数の、本当に無数の艦艇が、一つの、巨大な戦艦を中心に見事な陣形を組み、一つの、巨大な「艦隊」を形成していた。

その数、その威容、そして、中央に鎮座する、悪趣味なほどに巨大で、禍々しいまでの威圧感を放つ旗艦。

その全てが、かつてカイがヴァルハラで対峙した、あのシリウスの正規軍の艦隊を、遥かに、遥かに、凌駕していた。

それは、もはや海賊などという、生易しいものではなかった。

一つの、国家の軍隊に匹敵する、絶対的なまでの、暴力の顕現。

そして、その艦隊が集結している場所は、紛れもなく、彼が「チンピラの巣窟だ」と断定した、あの座標アルファ9であった。

 

レナの、静かな、しかし無慈悲な報告が、カイの耳に突き刺さる。

 

『──敵大艦隊、総数、2千4百5十……いまだ増加中。進路を、コロニー『黄泉』に固定。一直線に向かっています』

『──ETA(到着予測時刻)……およそ、48時間後』

 

その言葉は、死刑宣告だった。

カイは、その絶望的な光景を前に、血の気の引いた、真っ青な顔で、ただ、立ち尽くしていた。

彼の、完璧なる「弱い海賊を見つけて叩いて、さっさと帰ろう」作戦が、結果として、銀河で最も短気で、最も危険な、死神そのものを、自らの元へと、ピンポイントで呼び寄せてしまったのだ。

 

『……すごいじゃないか、英雄殿。君の「神眼」は、寸分の狂いもなく、敵の本拠地、それも、全軍が集結する、まさにその瞬間を、完璧に見抜いたんだから』

 

脳内で、シロが、心底から感心したような、そして、腹を抱えて笑っているのが透けて見える、絶妙なトーンで、そう告げた。

 

外面を取り繕うことすら忘れ、ただ呆然と立ち尽くすカイ・シラヌイ。

彼の、自己保身のためだけの、ちっぽけなゲーマーの知識が、虎どころか、神話級の怪物(リヴァイアサン)を、その永い眠りから呼び覚ましてしまったことを。望むと望まざるとにかかわらず、舞台は、最も血塗られた、最終幕へと、その幕を開けようとしていた。





あとがき、あるいは蛇足


────────────────────────────────────────────


カイ: 「……なあ、シロ。冷静に、そして客観的に、今回の事態を分析してみようじゃないか」

シロ: 「おや、珍しい。絶望のあまり、ついに現実と向き合う覚悟を決めたのかい?」

カイ: 「そうだ。そして、俺は一つの結論に達した。……今回の件、どう考えても俺のせいじゃないよな?」

シロ: 「どの口が言うのかな? 『悪の心臓だ』とか『全ては我が掌の上だ』とか、あれほど高らかに宣言していた英雄殿は、一体どこの誰だったかな?」

カイ: 「あれは! あれはだな、あくまで可能性の一つを示唆したに過ぎん! そう、一種のブラフだ! まさか本当に、あのリヴァイアサンみたいなのがホイホイ釣れるとは思うまい、普通!」

シロ: 「『普通』ねぇ。君のその偏狭なゲーマー脳が導き出した『普通』が、今まさに銀河規模の大災害(ビッグバン)を引き起こしたわけだけど、その点についての自己評価は?」

カイ: 「うぐぐ……! だ、だいたいお前が悪い! 俺の唯一無二のパートナーたるお前が、『マスター、その判断は、人類の存亡に関わるレベルで愚かです』と、なぜ体を張って止めなかった! このポンコツAIめ!」

シロ: 「おやおや、僕の忠告を素直に聞き入れたことなんて、君の人生で一度でもあったかな? むしろ『黙れポンコツ! 俺の神算鬼謀に口を出すな!』って一蹴されるのがオチじゃないか。それに……」

カイ: 「それに、なんだ!」

シロ: 「こんなに面白いショーの幕を、僕が自ら降ろすとでも?」

カイ: 「この悪魔AIがぁぁぁぁぁっ!」
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。