賽は投げられた。
その言葉は、古代の偉大なる指導者が、後戻りのできない決断を下した際に放った、悲壮なる覚悟の象徴である。歴史の転換点において、偉人たちはしばしば、その小さな立方体に国家の、いや、世界の運命を託してきた。
だが、歴史を紐解けば、全ての賽が、偉大なる意志によって投げられたわけではないことを我々は知っている。
中には、ただ賽子遊びに興じていただけのつもりが、うっかり手を滑らせて盤外に転がり出してしまい、それが巡り巡って国家の存亡を揺るがす大事件に発展してしまった、という、極めて迷惑千万な事例も、決して少なくはないのだ。歴史とは、いつだって荘厳さと滑稽さが同居する、たちの悪い喜劇なのである。
そして今、この星々の奈落、アリズン星系という名の巨大な賭博場で。
一人の男が、自らの安寧という、あまりにもささやかで、あまりにも下劣なものを賭けて、人生最大級の賽を投げようとしていた。
もちろん、彼自身は、その賽が、これから銀河の歴史そのものを塗り替える、とんでもない「目」を出すことになるなど、夢にも思っていない。
彼はただ、早くこの賭場から逃げ出して、家に帰ってふかふかのベッドで眠りたいと、そう願っているだけなのである。
──悲しいかな。運命の女神とは、いつだって、そういう怠惰な男にこそ、最も残酷な微笑みを向けるものなのだ。
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旗艦「ネメシス」艦内、旧貨物区画を改造して作られた、仮設の技術開発ラボ。
そこは、男たちの汗と、オイルの匂いと、そして、常軌を逸した熱気で、むせ返っていた。
数日前まで、闘技会の熱狂から疎外され、脳筋どもへの嫉妬と侮蔑の念を燻らせていたはずの、ビット率いる元囚人の技術者(エンジニアズ)たち。
彼らは今、その有り余る鬱屈したエネルギーの全てを、一つの、あまりにも無謀で、あまりにも馬鹿げた計画に、注ぎ込んでいた。
ビットの脳裏には、数時間前の、あの謁見の光景が焼き付いていた。
神が、この自分に、直接、下した神託。
それは、およそ正気の沙汰とは思えない、あまりにも簡潔で、そしてあまりにも無茶な、一文だった。
『この鉄屑の山を、船にして飛ばせ』
ビットは、その神託(という名の無茶振り)を最初に聞いた時、自らの耳を疑った。
この、コロニー「黄泉」。
直径数キロに及ぶ、巨大な小惑星をくり抜いて作られた、半世紀以上前の代物。
その構造は複雑怪奇を極め、動力炉はいつ爆発してもおかしくないほどに老朽化し、推進システムに至っては、もはや博物館に展示されていてもおかしいレベルの骨董品だ。
それを、船にしろ、だと?
それも、あの嵐の惑星「鳴神」まで、自力で航行可能な、遠隔操作の船に?
「……不可能だ」
ビットの、論理至上主義の思考回路が、即座に、そして完璧に、その答えを弾き出した。
時間がない。資材が足りない。そして何より、技術的に、あまりにも無謀すぎる。
彼の隣で、同じように神託を聞いていた、部下の若い技術者たちも、その顔を青ざめさせ、絶望に打ちひしがれていた。
「む、無理ですよ、ビットの兄貴……! こんなの、神様だってできやしねえ……!」
「そうだ! 俺たちの技術力を、なんだと思ってるんだ……!」
その、絶望と、そして神への、ほんのわずかな不敬が混じった呟き。
それが、ビットの心に、小さな、しかし確かな火を灯した。
(……神様だって、できやしねえ、だと?)
違う。
あの御方は、神だ。
そして、神が「やれ」と仰せになった。
ならば、それは可能なのだ。我々、人間の浅知恵では計り知れない、何か深遠なる勝算が、あの御方の脳内には、完璧に描かれているに違いない。
問題は、我々が、その神の期待に、応えられるか、否か。ただ、それだけだ。
そして、彼の脳裏に、数日前の、あの光景が蘇る。
闘技場で、ただ筋肉を誇示するだけで、神の歓心を買っていた、あの脳筋ども。
ギデオン率いる、「坑夫(マイナーズ)」の、あの忌々しいまでの、誇らしげな顔。
(……あいつらにできて、俺たちにできないとでも言うのか?)
ビットの心の中で、闘技会で味わわされた、あの屈辱と疎外感が、黒い炎となって、再び燃え上がった。
坑夫どもは、神の「剣」として、アリズン星系の闇を切り拓く栄誉を与えられた。
ならば、我々技術者は、神の「頭脳」として、この不可能を可能にし、神の神算鬼謀を、この現実世界に顕現させる、栄誉ある役目を担っているのではないか。
筋肉だけが、神への貢献ではない。
俺たちには、俺たちのやり方がある。
あの筋肉ダルマどもには、決して真似のできない、俺たちだけの、神への忠誠の示し方が。
ビットは、ゆっくりと顔を上げた。
その、神経質そうに細められた瞳の奥に、いつもの冷笑とは違う、どこか狂的な光を帯びた、不敵な笑みが浮かんでいた。
彼は、絶望に打ちひしがれる部下たちを、一人一人、その瞳に焼き付けるように見渡すと、静かに、しかし有無を言わせぬ響きで、告げた。
「──いいか、お前ら。よく聞け」
その、いつものように見下したような声に、技術者たちが、はっと顔を上げる。
「この神託(オーダー)は、論理的に考えれば、完全に破綻している。物理法則をガン無視した、クソみたいな要求だ。だがな、重要なのはそこじゃない」
ビットの声は、決して大きくはない。しかし、その言葉は、まるで鋭利なメスのように、彼らの絶望を的確に切り裂いていく。
「あの御方は、俺たちに『不可能を証明しろ』と言っているんじゃない。『可能にするための〝解〟を導き出せ』と、そう言っているんだ」
彼は、忌々しげに、壁に映し出された坑夫(マイナーズ)たちの勇姿のホログラムを、親指で指し示した。
「あの、ツルハシを振り回すことしか能のない、単細胞アメーバどもにではない。この、俺たち、技術者(エンジニアズ)の、そのCPU(あたま)に、直接、問いかけておられるんだよ! 『貴様らのその知性で、この俺の無茶振りに、最適解(ソリューション)を提示してみせろ』ってな!」
その、あまりにも不遜で、あまりにも挑戦的で、そしてあまりにも正確な、完璧なる誤訳。
それが、技術者たちの、傷つけられたプライドと、燻っていた対抗心の火薬庫に、完璧なタイミングで、火をつけた。
「おお……!」
「そうだ……! そういうことか……!」
彼らの顔から、絶望の色が消え、代わりに、神に試されているという、狂信的なまでの歓喜の光が宿り始める。
「見せてやりましょうよ、ビットの兄貴……!」
一人の技術者が、油に汚れたレンチを、強く握りしめた。
「筋肉ダルマどもには、逆立ちしたって理解できねえ、俺たちの『解(こたえ)』ってやつをよぉ!」
その叫びが、引き金だった。
「「「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!!!」」」
技術開発ラボが、地鳴りのような雄叫びに揺れた。
彼らは、もはやただの技術者ではなかった。
神の難問に、その知性で挑むことを許された、栄光ある挑戦者の集団へと、その姿を変えたのだ。
その瞬間から、技術開発ラボは狂乱の坩堝と化した。
ビットが、ホログラムのコンソールに、常人には理解不能な速度で数式と設計図を書き殴る。それはもはや設計というよりは、神託を解読する預言者の自動書記に近い。
「第一動力炉の制御AIは使い物にならん! 俺の端末を直結させろ! 俺自身が制御AIとなる!」
「推進ノズルのベクトル制御が死んでるぞ! ならば推進器自体を回転させればいいだろうが! ネメシスのカーゴベイにある予備の姿勢制御モーターを引っこ抜いて溶接しろ!」
「遠隔操作用の通信アンテナの出力が足りない? ならばコロニーの居住区画の通信網を全て束ねて、一つの巨大なパラボラアンテナとして使え! 住民のプライバシー? 神の御業の前では塵芥に等しい!」
常軌を逸した指示が、次々と飛ぶ。
そして、その指示を受けた技術者たちは、さらに常軌を逸した方法でそれを実現していく。
本来であれば厳重なプロトコルと数週間の調整が必要な動力炉の制御権を、わずか数分で奪い取り、艦内のジャンクパーツで組み上げたコンソールに接続する。
巨大な推進エンジンを、本来ありえない角度で切断し、無理やり艦の残骸から剥ぎ取ったパーツで連結させていく。火花が散り、金属の悲鳴が響き渡るが、彼らの顔にはただ歓喜の笑みが浮かんでいるだけだ。
彼らは、ネメシスの正規クルーたちの中でも、特にカイの無茶振りに振り回され、現場の判断で動くことに慣れきってしまった、優秀だがどこか思考のネジが外れた者たちを半ば強制的に巻き込みながら、驚異的な集中力と、即興の技術力で、老朽化したコロニーのシステムに、次々と手を加えていく。
巻き込まれた正規クルーの一人が、恐る恐るビットに尋ねた。
「あの、この配線図だと、エネルギー伝達効率が理論値の30%もありませんが……」
「ならば出力を三倍にしろ! 単純な話だ!」
「そ、そんなことをしたら、動力炉が……!」
「神が、爆発させないと仰せだ! 神を信じろ!」
「は、はいぃぃぃっ!」
もはや、そこに論理的な会話は存在しない。
あるのはただ、神への絶対的な信頼(という名の思考停止)だけである。
その作業は、もはや仕事ではなかった。
それは、巨大なゴーレムに、魂を吹き込むための、狂気的な、そしてどこか神聖な儀式そのものであった。
汗と、オイルと、そしてショートした配線が放つ焦げ臭い匂い。
その中で、彼らは、笑っていた。
心の底から、楽しそうに。
神の期待に応えるという、一点においてのみ、彼らは驚異的なまでのチームワークを発揮し、夜を徹して、その狂気の儀式を、続けたのである。
その、あまりにも異様で、あまりにも狂信的な光景。
それこそが、カイ・-シラヌイという、空っぽの神が生み出してしまった、最も効率的で、最も厄介な、新たなる狂信の形であった。
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旗艦「ネメシス」の第一艦橋。
そこは、作戦開始前の、静かだが、どこまでも張り詰めた緊張感に、支配されていた。
艦橋のクルーたちは、誰もが固唾を飲んで、メインスクリーンに映し出される、一つの巨大な影を、見つめている。
資源採掘コロニー「黄泉」。
ほんの数時間前まで、ただの鉄屑の山であったはずの、その巨大な建造物。
「……信じられません」
オペレーターのリーゼロッテが、震える声で呟いた。その声には、畏怖と興奮が入り混じっている。
「コロニーの、主要動力炉、安定稼働を確認。推進システム、オンライン。遠隔操作システムとの同期、完了。……いつでも、動かせます」
その報告に、艦橋にいた誰もが、息を呑んだ。
ハンスが、その無骨な顔に、少年のような輝きを浮かべている。レナは、いつも通りの無表情の奥で、その紫電の瞳を興奮に揺らめかせていた。
不可能を、可能にした。
いや、奇跡を、起こしたのだ。
あの、ビットという名の若き天才と、彼が率いる、狂信的な技術者たちが。
カイ・シラヌイは、その報告を、司令官席の玉座の上で、あくまでも冷静に、そしてどこまでも尊大に、聞いていた。
内心では(マジかよ、あいつら……! 本当にやりやがった……! これで、俺の『作戦が技術的に不可能だったので、やむを得ず撤退します』っていう、完璧な逃げ道が、完全に塞がれたじゃないか……!)と、予想外の部下の有能さに、若干の恐怖と、壮大な計算違いへの絶望を感じていたのだが。
彼の完璧な外面(ポーカーフェイス)は、その内心の動揺を、微塵も感じさせない。
『よかったじゃないか、英雄殿。君の部下は、君が思っているより、遥かに優秀だったみたいだ。これも全て、君の深遠なるカリスマの賜物だね』
脳内で、シロが心底から愉快そうな声で、火に油を注いでくる。このポンコツAIは、主人の窮地を最高のエンターテイメントとして楽しむことに、一切の躊躇がない。
(黙れ、このポンコツAIが! こうなったら、もうやるしかない! 賽は、投げられてしまったんだ!)
カイは、内心の絶望を完璧な外面(ポーカーフェイス)で覆い隠すと、ゆっくりと立ち上がった。
その表情には、これから始まる、歴史的な戦いを前にした、絶対者の風格が漂っていた。
その風格が、ただのヤケクソと開き直りの産物であることなど、もちろん誰も知らない。
「──作戦を開始する」
彼の、静かだが、艦橋の隅々にまで響き渡る声。
その一言を合図に、メインスクリーンに映し出された、巨大なコロニーが、まるで古の巨人が眠りから覚めるかのように、その身じろぎを始めた。
ゴゴゴゴゴ……と、艦橋の床を、そしてクルーたちの足の裏を、低く、重い振動が伝わっていく。
半世紀以上もの間、宇宙の深淵で沈黙を続けていた、老朽化した機械たちの、壮大な交響曲。
通信回線を通じて聞こえてくるのは、ギギギ……と、巨大な金属が擦れ合う、断末魔のような軋み音。それは、鉄屑の山が、一つの生命体として、最初の産声を上げているかのようだった。
メインスクリーンに、ビットからの映像がインサートされる。
そこには、無数のケーブルと配線に直接その身を接続し、まるで機械の神と一体化したかのような姿で、狂的な笑みを浮かべるビットの姿があった。
「ハ、ハハ……! 動いたぞ……! 動いたぞ、我が神よ! この俺の手で、あなたの奇跡を、この世に顕現させてみせたぞッ!」
彼の瞳は、もはや正気のそれではない。
神の期待に応えたという、至上のエクスタシーに、完全に焼き切れていた。
その狂気的な光景を背景に、直径数キロに及ぶ岩山そのものが、推進エンジンから青白い光を放ちながら、ゆっくりと、しかし荘厳に、漆黒の宇宙を滑り始めた。
それは、あまりにも幻想的で、あまりにも滑稽で、そしてどこか、神話の一場面を切り取ったかのような、荘厳な光景だった。
艦橋のクルーたちが、息を呑んで、その奇跡の光景を、見つめている。
カイは、その光景を、玉座の上から、ただ静かに、そして満足げに(見えるように)見つめると、次の、そして最も重要な、命令を下した。
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「全艦、これより『沈黙』に入る。主電源を落とし、デブリに擬態。敵艦隊の到着まで、息を潜めて待機せよ」
カイの、冷静沈着な第二の命令。
その言葉と共に、旗艦「ネメシス」の艦橋から、全ての光が、まるで命を失うかのように、一斉に消えた。
数瞬の完全な暗闇の後、非常用の赤いランプだけが、クルーたちの緊張に満ちた顔を、不気味に照らし出す。
メインスクリーンも、今はただの黒い板となり、宇宙の深淵を映しているだけだ。
シン……と、張り詰めた静寂が、艦橋を支配する。
先ほどまでの、コロニーが動き出した興奮が、嘘のようだ。
聞こえるのは、生命維持装置のかすかな駆動音と、クルーたちの、息を殺す音だけ。
彼らは今、巨大な鉄の棺桶の中で、深海の捕食者のように、ただじっと、獲物が現れるのを、待ち続けていた。
(来ないでくれ……! 頼むから、来ないでくれ……! 俺の計算が間違ってて、あいつら、もうこの星系には興味をなくして、別の獲物を探しに行きました、みたいな、そういう都合のいい展開になっててくれ……!)
暗闇の中、カイは司令官席の肘掛けを、爪が食い込むほどの強さで握りしめ、ただひたすらに、神に祈っていた。もちろん、自分以外の、どこか別の世界の、慈悲深い神に。
その祈りが、通じるはずもなかった。
運命の女神とは、いつだって、そういう怠惰な男の祈りこそを、最も無慈-悲に、そして最も楽しげに、踏みにじるものなのである。
どれほどの時間が、過ぎただろうか。
永遠にも思える静寂が、クルーたちの集中力を、極限まで研ぎ澄ませていく。
その、張り詰めた糸が、ぷつりと切れたのは、唐突だった。
「──来たッ!」
暗闇を切り裂く、リーゼロッテの、押し殺したような、しかし確信に満ちた声。
その瞬間、予備電源で再起動した戦術レーダーが、艦橋の中央に、一つの、赤い光点を、描き出した。
だが、それは始まりに過ぎなかった。
一つの光点は、次の瞬間には、十に。
十の光点は、瞬く間に、百に。
まるで、漆黒のカンバスに、赤い絵の具をぶちまけたかのように、レーダーの探知範囲の、そのギリギリの境界線から、赤い光の濁流が、なだれ込んでくる。
それはもはや、決壊したダムの水というような、生易しいものではなかった。
宇宙そのものに、巨大な傷口が開き、そこから、絶望という名の赤い血が、無限に、無限に、溢れ出してくるかのようだった。
「て、敵艦隊、探知範囲内に侵入! 数……か、数、計測不能! 多すぎます! レーダーの表示限界を超えて……! ですが、この規模……間違いなく、敵艦隊の、全戦力です!」
リーゼロッテの声が、プロのオペレーターとしての冷静さを失い、ほとんど悲鳴のように上ずる。
メインスクリーンが、パッシブセンサーの映像に切り替わる。
そこに映し出されたのは、悪夢という言葉すら、陳腐に聞こえるほどの、絶望的な光景だった。
星々の光を、完全に覆い隠す、巨大な、鉄の壁。
いや、壁ではない。
船だ。
髑髏や、悪魔を模した、禍々しい装飾が施された、大小様々な、無数の海賊船。
その一隻一隻が、歴戦の傷跡を刻み込み、宇宙の藻屑となった獲物の残骸を、戦利品のようにその身にまとわりつかせている。
統率の取れた陣形など、そこには存在しない。
ただ、圧倒的なまでの数が、一つの巨大な意志を持った、生命体の群れのように、うねり、蠢きながら、突き進んでくる。
その数、およそ二千四百。
彼らが目指す先は、ただ一つ。先行する、コロニー「黄泉」。
艦橋が、凍りついた。
誰かが、息を呑む音だけが、やけに大きく響いた。
「て、敵艦隊、全速力でコロニーを追尾! 惑星『鳴神』との相対距離、急速に縮まっていきます!」
リーゼロッテの報告が続く。その声は、もはや恐怖を通り越して、どこか現実感を失っていた。
(止まれ……! 頼むから、ここで止まってくれ……!)
カイは、もはや誰にともなく、ただ心の中で、必死に念じ続けた。
(気づけよ、バカどもが! あの、紫色の稲妻が渦巻いてる、見るからにヤバそうな惑星に、何の考えもなしに突っ込むやつがあるか! 死ぬぞ! 普通に考えたら、百パーセント死ぬんだぞ! お前らにも、家族とか、いるだろ! 故郷で待つ、お袋さんの顔でも思い浮かべて、冷静になれってんだ!)
彼の、あまりにも人間的で、あまりにも切実な祈り。
だが、その祈りに応えるかのように、脳内に響いたのは、無慈悲な相棒の声だった。
『感動的な演説だね、英雄殿。残念ながら、彼らの聴覚には、君のその心温まる家族愛のメッセージは、届いていないみたいだけど』
(うるさい! お前は黙ってろ、このポンコツAIが!)
「コロニーが、惑星『鳴神』の電磁嵐に突入します!」
リーゼロッテの絶叫が、カイの最後の希望の糸を、引きちぎった。
メインスクリーンに映し出されたコロニー「黄泉」が、巨大な紫色の渦の中に、その姿を消していく。
これが、最後のチャンスだった。
常識的に考えれば、獲物が嵐の中に逃げ込んだのなら、追手はそこで足を止めるはずだ。危険を冒してまで、深追いするメリットがないからだ。
(そうだ、諦めろ! 鉄屑の塊なんぞに、命を張るな! 帰れ! 帰って、寝ろ! なあ、頼むから! お前らだって、海賊家業も楽じゃないだろ? こんな、どう見ても採算の合わない仕事、さっさと切り上げて、根城に帰って一杯やる方が、よっぽど有意義な時間の使い方だって! そうに決まってる!)
『おやおや、ずいぶんと海賊のワークライフバランスを心配してあげるんだね、英雄殿。その慈悲深さ、涙が出てくるよ』
(やかましい! 人が真剣に平和的解決を模索している時に茶々を入れるな、このポンコツが!)
『平和的解決、ねえ。君が一方的に祈ってるだけに見えるけど。残念ながら、彼らの通信機は君のテレパシーを受信できるほど高性能じゃないみたいだ』
(ぐっ……!)
シロの言う通り、カイの必死の祈りは、一ミリたりとも、海賊たちには届いていなかった。
「敵艦隊……止まらない! 止まりません! 何の躊躇もなく、次々と、嵐の渦の中へと、突入していきます!」
その報告は、カイの、最後の、本当に最後の、ささやかな希望を、木っ端微塵に粉砕した。
メインスクリーンに映し出された、二千四百の赤い光点が、まるで、当然のように、嵐の渦の中へと吸い込まれていく。
その動きには、恐怖も、警戒も、一切感じられない。
あるのはただ、獲物を絶対に逃がさないという、絶対的なまでの、捕食者の確信だけだった。
まるで、その嵐の先に、何があるのかを、完全に知り尽くしているかのように。
『あーあ、行っちゃった。全員、綺麗さっぱりとね。まるで、これから始まる壮大なパーティーに、一秒でも遅れまいとする招待客みたいじゃないか』
(う、う、う、うわあああああああああああああああああああっ!!!! 行きやがった! あのバカども、本当に、全員、揃いも揃って、あの死の渦の中に飛び込みやがった! なんでだよ!? なんで、そこで、常識が通用しないんだよ!? 作戦が、成功しすぎてるんだよ! 俺の、俺による、俺のための、完璧な撤退作戦が、なんで、史上最悪の決戦の引き金になってるんだよぉぉぉぉっ!!)
カイの心臓は、張り裂けんばかりだった。
自己保身の本能が、魂の全てを懸けて、安堵と、そしてそれ以上の絶望を、同時に絶叫していた。
罠は、完璧に、成功した。
そして、その成功は、彼自身に、退路などというものが、もはや存在しないという、残酷な現実を、突きつけていた。
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最後の敵艦が、荒れ狂う電磁嵐の、その分厚い雲の中に姿を消した。
メインスクリーンには、ただ、不気味な紫色の稲妻が明滅する、混沌の渦だけが、映し出されている。
罠は、成功した。
カイ・シラヌイの、完璧なる「屑鉄の罠」は、彼の最も望まない形で、完璧に、成功してしまったのだ。
「おお……!」
「司令の、お考えの通りに……!」
艦橋に、再び照明が戻る。
クルーたちが、決戦の時を前に、興奮と緊張が入り混じった、異様な熱気に満ちた表情で、カイの次の命令を、今か今かと待ちわびている。
彼らの瞳には、神への、絶対的な信頼が宿っていた。
神は、全てを予見されていた。
そして、これから、神の鉄槌が下されるのだ、と。
しかし、当の神は。
玉座(リクライニングチェア)の上で、一人、顔面蒼白になっていた。
その瞳は、もはや何も映さず、ただ、絶望の淵を、虚ろに彷徨っている。
「……ああ、入って行っちゃったよ……。全部、入って行っちゃったよ……。これ、完全に、やる気だ……。終わった……。完全に、終わった……」
彼の、自己保身のための、最後の悪あがきであったはずの計画。
それが、皮肉にも、彼自身を、銀河で最も危険で、最も予測不能な、最大の戦場へと、引きずり込んでしまった。
もはや、後戻りはできない。
『……もう、後戻りはできないね』
脳内で、シロが、まるで舞台の幕が上がるのを待つ観客のように、静かに、そしてどこか楽しげに、告げた。
『賽は、投げられた、ってやつだ。どうするんだい、英雄殿? このまま尻尾を巻いて逃げ出すかい? それとも、腹を括って、歴史に名を残すかい? 君の最後の勇姿、このシロちゃんが、特等席で見届けてあげようじゃないか』
カイは、数秒間、完全にフリーズした。
脳内で、自己保身のための回路が、火花を散らしながら、高速で回転する。
(逃げるか? いや、ここで逃げたら、俺はこいつらに殺される! 狂信者に裏切り者として断罪される! それだけは絶対に嫌だ! なら、突っ込むか? いや、突っ込んだら、あの海賊の群れに殺される! どっちにしろ死ぬじゃないか! 前門の虎、後門の狼! いや、四面楚歌! 八方塞がり! 詰んだ! 完全に詰んだ!)
カイは、震える膝を、必死に叱咤し、ゆっくりと、本当にゆっくりと、玉座から立ち上がった。
もはや、英雄を、神を、演じ続けるしかない。
どうせ死ぬなら、英雄のフリをして、カッコつけて死んだ方が、ほんの少しだけ、マシかもしれない。
そんな、あまりにも後ろ向きで、あまりにも下らない、究極の選択。
彼は、引きつった笑みを、完璧な「不敗の魔術師」の仮面に変えると、震える指で、嵐の惑星「鳴神」を、指し示した。
そして、その腹の底から、ありったけの虚勢と、ヤケクソを込めて、絶叫した。
その声は、もはや彼自身のものとは思えないほど、力強く、そして荘厳に、艦橋全体に響き渡った。
「──全艦、突入ッ!!」
「屑鉄の罠にかかった、愚かなる獣どもを、一匹残らず、狩り尽くす! 神の御名においてッ!!」
その、あまりにも英雄的で、あまりにも勇壮な号令。
それを聞いた、クルーと、そして神聖国家の民たちは、「「「うおおおおおおおおおおっ!!!!」」」と、地鳴りのような歓声で応えた。
旗艦「ネメシス」を筆頭に、カイの率いる艦隊が、嵐の渦の中へと、その身を投じていく。
それは、まさしく、歴史に残る、伝説の始まりの瞬間であった。
だが、その熱狂的な歓声は、当のカイ自身の耳には。
自らが、自らの手で、その首を差し出すための、断頭台へと向かうための、無慈悲な号令のように、ただ、虚しく、響いていた。
(第一部 第三章 第13話 完)
あとがき、あるいは蛇足
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カイ: 「…………シロ」
シロ: 『なんだい、英雄殿? さっきの最後の号令、なかなか様になっていたじゃないか。「神の御名においてッ!!」だなんて。録音して、君の目覚ましアラームにでも設定してあげようか?』
カイ: 「やめろ、二度と聞きたくない……! あれは違うんだ……! あれは、もうどうにでもなれっていう、ただのヤケクソの叫びなんだよ! 脳がショートして、何を言ったか正直よく覚えていない!」
シロ: 『心配いらないさ。君の脳波と心拍数のログは完璧に記録してある。あの瞬間、君のストレス値は計測限界を振り切り、思考回路は完全にパニック状態に陥っていた。つまり、あの英雄的な演説は、君の理性が完全に麻痺した状態で、生存本能が叩き出した「最適解」だったというわけだ。面白いね、人間という生き物は。極限状態に陥ると、最も臆病な個体が、最も勇ましい行動を取ることがあるなんて』
カイ: 「つまり、俺の体が、勝手に英雄を演じたっていうのか……? 俺の意思とは関係なく……?」
シロ: 『そういうこと。おめでとう、英雄殿。君はついに、心身共に、真の英雄へと生まれ変わったんだ。さあ、次の舞台が君を待っているよ』
カイ: 「誰か……誰か、俺を助けてくれ……」