神の賽は、常に天の目を出す。
信者はそう信じている。たとえ、その賽がただのイカサマであったとしても、あるいは神自身がヤケクソで盤上に叩きつけただけの、ただの石ころであったとしても。信者の狂信的なフィルターを通せば、いかなる偶然も必然となり、いかなる愚行も神算鬼謀へと昇華されるのだ。
そして、その結果として盤上が血の海と化した時、彼らはこう言って神を讃えるだろう。
──おお、神よ、なんと深き御心。これも全て、我らを試すための大いなる試練だったのですね、と。
今、我らが神、カイ・シラヌイが投げた、人生最大級のヤケクソの賽。
それが、彼の矮小な想像力も、信者たちの狂信的な期待すらも、遥かに、そして斜め上に裏切る、とんでもない「目」を出そうとしていた。
もちろん、投げた本人は、その賽が盤上に転がっていることすら忘れ、ただひたすらに、どうすればこの賭場から無傷で逃げ出せるかということしか考えていないのだが。
──悲しいかな。物語の主役とは、いつだって、最も盤面が見えていない愚か者なのである。
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惑星「鳴神」の大気圏は、混沌の坩堝(るつぼ)であった。
紫電の稲妻が、分厚い暗雲の合間を、まるで巨大な蛇のようにのたうち回り、轟音と共に空間そのものを引き裂く。超高速で循環する大気は、鋼鉄の艦体すらも木の葉のように翻弄する、見えざる暴風の壁。そして、その全てを包み込む濃霧は、あらゆるセンサーを無力化し、すぐ傍にいるはずの味方の姿すら、亡霊のように掻き消してしまう。
まさしく、神の怒りが具現化したかのような、絶対的な拒絶の空間。
その、地獄の釜の底へと、カイ・シラヌイ率いる第十三独立遊撃部隊は、その身を投じていた。
「ぐっ……! 艦体が、軋む……!」
旗艦「ネメシス」の第一艦橋は、もはやブリッジとしての原型を留めていなかった。断続的に艦を襲う、凄まじい衝撃と振動。天井のパネルは剥がれ落ち、火花を散らすコンソールからは、焦げ臭い煙とオゾンの匂いが立ち上っている。立っていることすらままならず、クルーたちは皆、自らの体をシートに固く縛り付け、歯を食いしばってこの嵐に耐えていた。
「右舷スタビライザー、出力低下! 姿勢制御、困難です!」
「前方、高エネルギー反応! 巨大な落雷です! 回避、間に合いません!」
オペレーターのリーゼロッテの悲鳴のような報告が、轟音の中に虚しく吸い込まれていく。
メインスクリーンに映し出されていたのは、もはやただのノイズの嵐。時折、稲妻の閃光が、悪夢の一場面を切り取るかのように、すぐそこまで迫る巨大なデブリの影や、暴風に煽られ無様に回転する味方艦の悲惨な姿を一瞬だけ映し出す。
『こちら駆逐艦"テュポーン"! 機関部被弾! 制御不能、制御不能! ぐわぁっ!』
僚艦からの悲痛な通信が、ノイズの向こうで途切れる。艦橋の誰もが唇を噛み締めたが、今の自分たちにできることは何もなかった。
その、阿鼻叫喚の地獄絵図の中心、司令官席という名の孤島に、カイ・シラヌイは一人、石像のように座っていた。
彼の表情は、完璧な外面(ポーカーフェイス)によって、辛うじて平静を保っている。だが、その仮面の下では、もはや言葉にならない絶叫が、魂そのものをシェイクしていた。
(無理無理無理無理! なんで俺がこんな目に! これはもう戦闘じゃない、ただの自然災害だ! あれか!? 前世で見た、なんかサメが竜巻に乗って飛んでくるパニック映画か!? 次はなんだ、このデブリの中から、なんかエイリアン的なものが出てくるんじゃないだろうな!? 嫌だ! 絶対嫌だ!)
彼の貧弱な想像力が、最悪のシナリオを、これでもかと描き出していく。
だが、彼の本当の恐怖の源は、この嵐そのものではなかった。
嵐の向こう側、この混沌のさらに先で、自分たちの獲物を待ち構えているであろう、あの巨大な、鉄の獣の群れ。
その存在こそが、彼の小心な魂を、根こそぎ削り取っていた。
『いやー、すごいね、カイ。君の「屑鉄の罠」作戦、見事に大成功じゃないか。敵も味方も、仲良くこの地獄のミキサーに放り込まれて、ぐっちゃぐちゃだ。どう? 最高の気分だろう、この混沌の創造主になった気分は』
脳内で、シロが心底から愉快そうな声で言った。このAI、主人の精神が崖っぷちに追い詰められれば追い詰められるほど、その実況のキレ味を増す仕様らしい。
「(黙れこのポンコツがァ! 創造主じゃない、被害者だ! 俺は、この理不尽な自然現象と、あの頭の悪い海賊どものせいで、一方的に被害を被っているだけの、ただの哀れな一般市民だ! 労災を申請するぞ! 誰に!?)」
──実に興味深い自己分析である。その「哀れな一般市民」が、この地獄の釜の蓋を、自らの手でこじ開けた張本人であるという、不都合な真実から、彼は最後の最後まで目を背け続けるつもりのようだ。
『で、どうするのさ、創造主サマ? このままだと君の輝かしい艦隊も、屑鉄ミキサーの具材に仲間入りだけど。いっそのこと、歴史に名を残すために派手に散ってみる? 後世の歴史家は、君の無謀な突撃を「神の憤怒」とか適当に美化してくれると思うよ』
シロの、どこまでも他人事な提案に、カイは脳内で血管を数本破裂させながら絶叫した。
「(んなことできるか、この悪魔め! 誰が死ぬか! まだだ、まだサブプランがある! この嵐だ、絶対に最初の一撃だけは、敵にこちらの正確な位置を悟らせずに、安全に撃てるはずだ! そこで、虎の子の主砲をぶち込んで、大打撃を与えて、速攻で離脱する! 一回で奴らがビビって帰れば儲けもの、もし足りなきゃ、デブリに紛れて、またやればいい! これで、俺の「虎の威を借る作戦」に繋がるんだよ!)」
それは、もはや作戦と呼ぶのもおこがましい、ただのヤケクソの願望。だが、今のカイにとっては、唯一、溺れる者が掴む藁(わら)であった。しかし、銀髪の悪魔は、その藁すら、容赦無く燃やし尽くす。
『まだ言ってるのかい、その虎の話。第一、こんなイケイケの虎相手にそんな話が通じると思う?それに、"またやればいい"って、正気? この嵐の中を何度も突撃したら、敵に沈められる前に、ネメシスが空中分解して、君の自慢の玉座ごと、本物の星屑になるのがオチだと思うけど』
「(……)」
的確すぎる、そして絶望的すぎる正論。
カイは、完全に沈黙した。
だが、状況は彼に、沈黙する時間すら与えてはくれない。彼の、あまりにも甘く、そしてあまりにも虫のいい当初の計画は、もはや跡形もなく消え去った。
故に、彼は、不本意ながらも、先ほど自らがヤケクソでひねり出し、そしてシロに木っ端微塵に論破された、次善(という名の最悪)の策へと、移行せざるを得なかったのだ。
おとりのコロニー「黄泉」が敵の猛攻を受け、ある程度損傷したところで奇襲をかけ、混乱した敵に一撃だけ加えて颯爽と離脱する。
──そう、虎の威を借りる、小心者(チキン)のための、完璧な一撃離脱(ヒットアンドアウェイ)作戦である。
だが、現実はどうか。
彼の貧弱な想像力は、二つの、極めて重要な要素を、完全に見落としていた。
一つは、あの海賊どもの、常軌を逸したまでの、執念深さ。
そして、もう一つは。
あの、ビットという名の若き天才が施した、コロニーへの改造が、彼の想像を遥かに超えた、狂気の産物であったという、恐るべき事実。
「司令! 敵艦隊、進軍速度、衰えません! 嵐を、無理やり突破してきます!」
「同時に、おとりコロニーへの攻撃が、さらに激化! 艦橋からの遠隔操作だけでは、もはや回避不能です!」
ナビゲーターのハンスが、血を吐くような声で報告する。
メインスクリーンに、かろうじて映し出されたコロニー「黄泉」の姿。
その巨体は、もはや満身創痍だった。海賊どもの、容赦のない集中砲火が、その老朽化した装甲を、まるでチーズのように削り取っていく。あちこちで爆発の閃光が走り、巨大な破片が、悲鳴のような金属音と共に宇宙空間へとまき散らされる。
「コロニーの耐久限界が、近づいています! このままでは、我々の攻撃圏内に入る前に……崩壊します!」
リーゼロッテの、絶望に満ちた報告。
それが、カイの、最後の希望の糸を、無慈悲に引きちぎった。
(間に合わなかった……! 終わった……! 俺の、俺の完璧な、一撃離脱からのドヤ顔撤退作戦が……! 始まる前に、終わってしまった……! 俺の安楽な総督ライフが! 俺の輝かしい未来が! あんな、脳みそまで筋肉でできてるような海賊どものせいで!)
彼の脳内で、輝かしい未来予想図が、テレビの砂嵐のように、無意味なノイズへと変わっていく。
彼が、その絶対的な絶望に、完全に思考を停止させ、玉座の上で真っ白な灰と化して燃え尽きかけた、まさにその瞬間だった。
運命の女神とは、いつだって、最も残酷で、最も悪趣味な脚本家なのである。
彼女は、主人公が最も絶望した瞬間にこそ、最も皮肉で、最も救いのない「奇跡」を、プレゼントするのが大好きなのだ。
メインスクリーンの中で、コロニー「黄泉」が、ついにその限界を迎えた。
無茶な急造改造と、度重なる移動、そして敵からの猛攻。その全てが、半世紀以上もの間沈黙を続けてきた、老朽化した巨人の、最後の体力を根こそぎ奪い取っていた。
巨大な艦体が、きしむような悲鳴を上げる。
ビットが無理やり連結させた、不釣り合いなほど巨大な推進エンジンが、断末魔のような火花を散らし、その機能を停止する。
制御を失った巨体は、嵐の暴風に煽られ、まるで木の葉のように、無様に回転を始めた。
そして、轟音と共に、その形を保てなくなり、大気圏の中で、ぼろぼろと、分解を始めた。
それは、カイにとって、作戦の完全な失敗を意味するはずだった。
だが、次の瞬間。
艦橋にいた誰もが、そしておそらくは、この宇宙の脚本家ですら、予想していなかったであろう、信じがたい光景が、その目に焼き付くことになる。
それは、単なる崩壊ではなかった。
普通であれば、大気圏の摩擦熱と敵の砲火によって、燃え尽きて消し飛ぶか、あるいは微細な塵となって霧散するはずだった。
だが、ビットと彼の狂信的な技術者たちが施した、あの常軌を逸した「補強」が、ここで、最悪の、そして最高の奇跡を引き起こした。
彼らは、コロニーの主要構造区画を、ネメシスの予備装甲や、ありったけのジャンクパーツで、文字通り「これでもか」というほどに、無茶苦茶に、そして頑丈に、固めていたのだ。
神の乗り物(おとり)が、脆くてどうする、と。
その結果、どうなったか。
コロニーは、消し飛ぶことなく、巨大な、そして極めて質量の重い、数百の「鉄屑の塊」となって、砕け散ったのだ。
そして、その無数に砕け散ったコロニーの残骸が、惑星「鳴神」の、超高速で循環する嵐の暴風に煽られて、一瞬にして。
──超高速で飛来する、致死性の、鉄屑の散弾へと、その姿を変えたのである。
「なっ……!?」
艦橋のクルーたちが、息を呑んだ。
メインスクリーンに映し出されていたのは、まさしく、神の罰そのものとでも言うべき、圧倒的な光景だった。
数千、数万という、大小様々な鉄の塊が、嵐という名の巨大なスリングショットに放たれた石つぶてのように、海賊大艦隊へと、降り注いでいく。
それは、もはや雨などという、生易しいものではない。
神罰のデブリとでも呼ぶべき、絶対的なまでの、質量の暴力。
海賊たちの艦隊は、その予期せぬ、そして回避不能な鉄の豪雨に、なすすべもなかった。
「ぐわあああっ!」
「シールド、突破された!」
「第三艦橋、直撃! 隔壁、崩壊!」
通信回線から、海賊たちの断末魔の悲鳴が、ノイズ混じりで響き渡る。
彼らの、自慢の重装甲が、まるで紙屑のように、高速で飛来するデブリに貫かれていく。艦体のあちこちで、火球が上がり、次々と、まるで腐った果実が弾けるかのように、爆発していく。
ある艦は、巨大な居住ブロックの残骸に押し潰され、圧壊した。
またある艦は、鋭利な装甲の破片によって、ブリッジごと串刺しにされた。
そして、その神罰に、最後の追い打ちをかけるように。
コロニーの動力炉が設置されていた区画──ビットが「神を信じろ!」の一言で、出力を三倍にまで引き上げさせた、あの狂気のエンジンブロックが、切り離され、巨大な火の玉となって、敵の旗艦である、あの超ド級戦艦へと、吸い込まれるように、激突した。
閃光。
そして、音もなく、しかし艦橋そのものを揺るがすほどの、巨大な爆発。
超ド級戦艦は、その心臓部を、自らが追い求めていた獲物によって貫かれ、その巨体をくの字に折り曲げると、まるで傷ついた巨鯨のように、悲鳴のような金属音を響かせながら、嵐の渦の、さらに深い闇へと、墜ちていった。
その、あまりにも壮大で、あまりにも呆気ない、王の最期。
周囲を固めていた他の戦艦たちが、主を失った巨体に、なすすべもなく巻き込まれ、次々と誘爆していく。
その、あまりにも神がかり的で、あまりにも美しく、そしてどこまでも残酷な光景。
それを、ネメシスの艦橋で、ただ一人。
カイ・シラヌイだけが、口を半開きにしたまま、呆然と、見つめていた。
(……え? なにこれ? 俺、何もしてないんだけど……?)
彼の、小心な魂は、目の前で起きている現実を、完全に、処理しきれていなかった。
『いやあ、お見事。実に、お見事だね、カイ』
脳内に、どこまでも楽しそうな、そして心底から感心したようなシロの声が響き渡る。
『君の「一発殴って逃げる」作戦、殴る前に相手が勝手に自滅してくれたわけだ。しかも、こんなに美しく、芸術的なまでに。これはもう、神の御業と言っても過言じゃない。どうだい? 今の気分は。歴史に残る大虐殺を、指一本動かさずに成し遂げた、生ける伝説になった気分は』
その、悪魔の囁きのような賞賛が、フリーズしていたカイの思考回路を、無理やり再起動させた。
(だだだだ、黙れェ! 虐殺じゃない! これは事故だ! 不可抗力だ! 俺は、俺はただ、ちょっとだけ、威嚇射撃をするつもりだっただけで……! そうだ、ビットだ! あのイカれたメカニックが、コロニーに変な改造をしたせいだ! あいつのせいだ! 俺は悪くない!)
見事なまでの責任転嫁。だが、彼の脳内に浮かぶのは、神の乗り物が脆くてどうするなどと目を輝かせていた、狂信的な技術者の姿。そして、それを「まあ、いいか」の一言で許可してしまった、他ならぬ自分自身の姿であった。
『ほう、事故、ねえ。その「事故」の結果、敵の旗艦は轟沈、艦隊は半壊。君の部下たちは、今頃、君の神算鬼謀に震え上がって、滂沱の涙を流している頃だと思うよ。「おお、神よ、我々の信仰が足りませんでした。一抹の疑念を抱いてしまったことをどうかお許しください!」……ってね』
シロが、狂信者のモノマネを、妙にリアルな臨場感で再現する。
それは、カイにとって、何よりも恐ろしい、未来の預言だった。
(やめろ……! やめてくれ……! そんなわけない! あいつらだって、これがただの偶然だってことくらい……!)
だが、その希望的観測は、あまりにも脆く、そして虚しい。彼は知っている。自分の部下たちが、いかに救いようのない、狂信者の集団であるかということを。
──悲しいかな。カイ・シラヌイの脳内弁護士は、開廷わずか三十秒で、被告人(カイ)の完全敗訴を確信し、静かに法廷から逃げ出したのであった。
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旗艦「ネメシス」の第一艦橋は、先ほどまでの阿鼻叫喚が嘘のように、水を打ったような静寂に支配されていた。
誰もが、言葉を失い、ただ、メインスクリーンに映し出される、あまりにも神がかり的な光景に、釘付けになっていた。
神罰のデブリ。
その、無慈悲な鉄の豪雨によって、一方的に蹂躙され、混乱に陥り、陣形を崩して逃げ惑う、海賊たちの残存艦隊。
その光景は、もはや戦闘ですらなかった。
それは、天変地異に遭遇した、哀れな獣の群れの、断末魔。
その、神聖なまでの静寂を、最初に破ったのは、一人のクルーの、震えるような、しかし確信に満ちた、呟きだった。
「……これも、神の……計算の内だったと、いうのか……?」
その、あまりにも突拍子もない、しかしこの場の全員が、心のどこかで感じていた、一つの「解釈」。
それが、引き金だった。
「おお……!」
「コロニーそのものを、巨大な質量兵器に……!」
「嵐すらも、その兵器を運ぶための、神の御手(みて)だったというのか!」
その「解釈」は、ウイルスのように、瞬く間に艦橋全体、そして通信回線を通じて、艦隊の隅々にまで伝播していく。
そうだ。
そうに違いない。
我らが神、カイ・シラヌイは、この結末すらも、全て予見されていたのだ。
彼の神算鬼謀の前では、物理法則すらも、ただの駒に過ぎないのだ、と。
「おおおおおっ! 神罰だ!」
「神よ! 今こそ、我らに号令を!」
「あの、愚かなる獣どもに、とどめを刺す、栄誉をお与えください!」
クルーたちの、そして元囚人たちの、狂信的なまでの熱気が、再び艦橋を満たしていく。
混乱に陥り、離脱しようとする敵の残存艦隊。
それは、誰の目にも、絶好の、そして二度とないであろう、殲滅の好機であった。
彼らの、燃えるような、期待に満ちた視線が、ただ一点に、突き刺さる。
玉座に座る、彼らの神に。
その視線は、もはや物理的な質量を伴って、カイの心臓を、鷲掴みにするかのようだった。
レナの、絶対の信頼を込めた、紫電の瞳。
ビットの、神の知性を目の当たりにした、畏怖に満ちた眼差し。
クルー達の、神の御業を前に、ただひれ伏すしかない、敬虔な信徒の視線。
(……なんで、俺を見るんだ……)
カイの内心で、か細い、そして悲痛な叫びが木霊する。
(俺は、何もしてない! あれは、ただの事故だ! ビットの、あのイカれた改造と、海賊どもの、あの異常な執念が引き起こした、奇跡的な、そして最悪の事故なんだ! 俺じゃない! 俺じゃないんだァァァァッ!)
だが、その魂の絶叫は、もちろん誰にも届かない。
それどころか、彼の呆然とした表情は、彼らの目には、「自らの神算鬼謀が、完璧に成就したことへの、静かなる満足」として、完璧に誤訳されていた。
もはや、彼に逃げ場は、なかった。
退路は、完全に断たれた。
(虎の威を借りるはずが、虎を、半殺しにしてしまった……!)
(これ以上、刺激してどうする!? このまま見逃せば、あいつら、二度と俺たちに関わってこないかもしれないじゃないか!)
(そうだ、それが最善だ! 何もしない! それが、俺にとっての、最善手だ! 奴らも大損害だ、もうこりごりだろう! これ以上関わるのは、リスクが高すぎる!)
だが。
彼の自己保身の本能が、そう結論を下した、まさにその瞬間。
彼の、もう一つの、そして最も厄介な本能が、それに「待った」をかけた。
見栄と、プライド。
そして、自分が作り上げてしまった、「不敗の魔術師」という名の、あまりにも重すぎる、偶像。
ここで、もし彼が「いや、もういい。見逃してやれ」などと言おうものなら、どうなるか。
この、熱狂の渦は、一瞬で冷め、そして「疑念」へと変わるだろう。
なぜ、神は、とどめを刺さないのか?
まさか、神は、恐れているのか?
その、一度生まれた疑念の種は、やがて芽吹き、彼の神の威光を、根こそぎ食い尽くす、巨大な不信の木へと成長するに違いない。
そうなれば、この狂信者たちの忠誠も、いつまで続くか分からない。それは、今後の、彼の安楽なリモート総督ライフを、根底から揺るがす、最も避けたい事態であった。
(……やるしか、ないのか……)
(ここで、やらなければ、俺は、こいつらに、見限られる……)
(ああ、もう! なんで、俺が! なんで、俺が、こんな面倒な決断を、しなきゃならんのだ!)
カイは、観念した。
いや、開き直った。
彼の、ナルシストだが小心者で怠惰な、複雑怪奇な人格が、この究極のピンチに、自己保身の回路を、限界以上にぶん回す。
事ここに至るまで、心のどこかでは、何とかなるだろうと、高を括っていた。
だが、もう、どうしようもない。
この、狂信者たちの、あまりにも重すぎる期待。
その神輿の上から、降りることは、もはや許されない。
ならば。
ならば、踊ってやる。
この、彼らが望む、「神」という名の、道化を。
たとえ、その先に待っているのが、さらなる地獄だとしても。
その、究極の覚悟(という名のヤケクソ)が、彼の思考に、一つの、劇的な変化をもたらした。
普段、彼の脳の大部分を占めている、小心者で、怠惰で、常に文句ばかり垂れている人格が、すっ、と意識のディープエリアへと、沈んでいく。
そして、代わりに、水面に浮かび上がってきたのは。
彼の、もう一つの人格。
極限状況においてのみ、その真価を発揮する、冷徹で、傲慢で、そして、戦場の全てを、ただの数字と確率で支配する、前世の天才ゲーマーとしての人格。
「不敗の魔術師」のOSが、ついに、再起動(リブート)したのだ。
──なんと盛大な現実逃避だろうか。
彼の内心の独白が、いつもの情けないツッコミから、冷徹で、どこか相手を見下したような、トップランカーのそれへと、変貌する。
(フン……なんだこのクソゲーは。NPCが勝手に暴走して、ステージギミックがバグって、敵も味方も壊滅状態か。だが……面白い。敵の陣形は完全に崩壊、指揮系統は麻痺、個々のユニットはパニック状態に陥って、完全に思考停止(フリーズ)してる。これはもう、戦争じゃない。ボーナスステージだ)
その、あまりにも不遜で、あまりにも傲慢な思考。
だが、その思考は、彼の外面と、完璧に、そして恐ろしいまでに、一致していた。
カイは、ゆっくりと、玉座から立ち上がった。
その表情からは、先ほどまでの呆然とした色は、完全に消え去っていた。彼の背筋は、まるで鋼鉄の支柱が入ったかのように、ピンと伸びている。
彼の瞳には、冷たい、しかしどこまでも深い、盤面の全てを見通すトッププレイヤーの光が宿っていた。
彼は、艦橋の中央、三次元戦術ホログラムが設置された、指揮官専用のプラットフォームへと、ゆっくりと、しかし確かな足取りで、歩みを進めた。
カツン、カツン、と、彼のブーツの音だけが、静まり返った艦橋に響き渡る。
その、神の如き威厳に満ちた背中に、クルーたちは、息を呑んで、見入っていた。
「全艦、手動制御に切り替え」
カイの声は、もはや震えていなかった。
それは、鋼鉄の響きを持つ、絶対者の声だった。
「これより、本艦隊の全権限を、このネメシスに、いや、この私に、委譲せよ」
その、あまりにも尊大な、しかし誰もが納得せざるを得ない、完璧な命令。
クルーたちは、まるでプログラムされたかのように、一斉に、その指示に応えた。
カイは、戦術ホログラムの前に立つと、まるで世界大会の決勝戦、その最後の試合に臨むプロゲーマーのように、静かに、目を閉じた。
センサーも、視界も、ほとんど役に立たない、この嵐の渦の中。
彼の脳内に広がる、完璧にマッピングされた戦場の盤面だけが、この宇宙における、唯一絶対の「真実」だった。
彼は、ゆっくりと、両手を広げた。
その指先が、ホログラムの光の粒子に、そっと触れる。
そして。
(──さて、と。チュートリアルは終わりだ。ここから、スコア稼ぎの時間と行こうじゃないか)
彼の指が、神速の、恐るべき速度で、踊り始めた。
あとがき、あるいは蛇足
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シロ「まずはチュートリアル突破おめでとう、カイ。素晴らしいスコアでのファーストステージクリアだったよ。お待ちかねのクリア報酬だけど、残念なお知らせがあります」
カイ「どうせロクなもんじゃないんだろ。言ってみろ」
シロ「うん。今回の完璧すぎる勝利によって、君の『神格化』フラグが完全に確定してしまった。その結果、次回アップデートから、君の部下っていうNPC全員に、『狂信 Lv.MAX』の永続バフが付与されることになりました! これで君が何を言っても、何をしても、全てが神の御業として自動的に肯定されるよ。やったね!」
カイ「……最悪のデバフじゃないか。味方の思考が完全に固定化されて、柔軟な指示に対応できなくなる。好感度も常にMAXだと、かえってパラメータの調整が面倒になるんだが」
シロ「ちなみに、そのアップデートに伴って、新しいクエストも大量にアンロックされたよ。『神の御前会議』『信者の悩み相談室』『聖地ネメシスの艦内ツアーガイド』……ソーシャル系のデイリークエストが山積みだ。どうする?」
カイ「……このアカウント、デリートできないのか?」
シロ「残念ながら、サービス終了までお付き合いください、神様。それじゃあ2ステージ目も頑張ってね!」