祈りとは、最も無力な者が天に放つ、最後の希望である。
それは、弱者の権利であり、信仰の証であり、そして時には、世界を動かすほどの奇跡を呼び起こす、純粋な願いの結晶だ。
人々は、神に祈る。英雄に祈る。
己の非力さを嘆き、そのどうしようもない現実を、偉大なる誰かに変えてもらうために。
その祈りは、清く、正しく、そして美しい。
だが、ここで一つの、極めて根源的な問いが浮かび上がる。
では、その祈りを受け取る側の、神や英雄と呼ばれる者たちは、一体、誰に、何を、祈るのだろうか、と。
答えは、実にシンプルである。
彼らもまた、祈るのだ。
ただ、その祈りの内容は、民草が捧げるそれとは、似ても似つかぬ、醜悪で、利己的で、どうしようもなく人間臭い欲望に満ちている。
「どうか、これ以上面倒事が増えませんように」
「どうか、明日の会議が中止になりますように」
「どうか、あの厄介な信者が、勝手に野垂れ死んでいますように」
そう。
我らが英雄、カイ・シラヌイの祈りは、いつだって、銀河の平和や民の安寧などではなく、ただひたすらに、己の平穏と怠惰のためだけに捧げられる。
そして、皮肉なことに、その下劣極まりない祈りこそが、彼をさらなる英雄へと祭り上げ、物語をより混沌の渦へと叩き込む、最大の原動力となっているのだ。
これは、そんな英雄の、最も不謹慎で、最も真摯な「祈り」の記録である。
その祈りが、天に届いたのか、あるいは地獄の悪魔に聞き届けられたのか。
それは、まだ、誰にも分からない。
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ゆっくりと、カイは顔を覆っていた両手を下ろした。
彼の視界に飛び込んできたのは、もはや地獄以外の何物でもない、絶望的な光景だった。
足元には、涙ながらに額を床に擦り付け、一心不乱に祈りを捧げる老婆。
その周囲には、まるで聖地を守護する騎士団のように、義憤と狂信の炎を目に宿したネメシスのクルーたちと、元タルタロスの囚人たちが、壁となって自分を取り囲んでいる。
誰もが、固唾を飲んで、カイの次の一言を、神の「神託」を、待っていた。
その視線は、熱く、鋭く、そしてカイの胃をキリキリと締め上げるには、十分すぎるほどの圧力を放っていた。
(ああ、終わった……。完全に詰んだ……。チェスで言うなら、キングが素っ裸で敵陣のど真ん中にいる状態だ。もう、俺に選択肢はない……!)
彼は、この老婆の、あまりにも面倒で、あまりにもウェットな願いを聞き入れるしかないことを、痛いほど理解していた。ここで「嫌です」と一言でも言おうものなら、積み上げてきた神の威光(ハッタリ)は木っ端微塵に砕け散り、目の前の狂信者たちが、失望のあまり、どのような暴挙に出るか、想像もつかなかったからだ。
『観念したまえよ、カイ。君はもう、この仁義なき戦いから降りることはできない。腹を括って、宇宙ヤクザの親分にでもなるんだな。案外、向いてるかもしれないよ?』
脳内で、シロがどこまでも他人事のように茶々を入れてくる。
(うるさい! 誰がなるか、そんなもの! 俺は、ただ、平穏に、怠惰に、誰にも迷惑をかけず、誰からも迷惑をかけられずに生きていきたいだけなんだ! なぜ、俺が、銀河の果てのヤクザの跡目争いに、人生をベットしなきゃならんのだ!)
『ベットしちゃったのは、君自身だろう? 華麗な艦隊戦で』
(ぐっ……!)
正論。あまりにも完璧な正論が、カイの心の臓を的確に抉る。
だが、それでも、この男は諦めない。諦めが悪いこと、そして責任転嫁のスピードにおいては、彼の右に出る者はいないのだ。
無言でいるのも、そろそろ限界だ。神の威厳ある沈黙も、長すぎればただの放心だと思われる。何か、何か言わなければ。しかし、肯定の言葉を、この口が裂けても、言いたくない。
どうすればいい。どうすれば、この最悪の状況を、誰にも気づかれずに、誰かのせいで、頓挫させることができる……?
その、不純極まりない思考が、彼の視線を、ある一点に釘付けにした。
彼の傍らに、まるで影のように、あるいは守護天使のように、静かに佇む、一人の女。
レナ・ユキシロ。
彼の最初の信者であり、彼の言葉を、彼の意図を、誰よりも(勘違いして)深く理解する、忠実なる狂犬。
(そうだ……!)
カイの脳内に、かすかな希望の光が差し込んだ。
(レナがいる……! 俺にはまだ、レナがいるじゃないか! 彼女は、いつだって、俺のことを第一に考えてくれる、最高の部下だ! 俺のこの、沈黙に込められた、『クソ面倒だから、穏便にこの話を潰してくれ』という、悲痛なメッセージを、彼女が読み取れないはずがない! そうだ、俺はただ、黙って、彼女に視線を送ればいい! そうすれば、俺の忠実なる狂犬が、俺の意に沿わぬこの老婆を、完璧に排除してくれるはずだ!)
なんという、無理筋。
なんという、無駄なあがき。
だが、追い詰められたカイにとって、それは、もはや唯一残された、起死回生の神の一手だった。
彼は、全ての期待を、全ての願いを、そして全ての面倒事の処理を、その漆黒の瞳に込め、じっと、レナを見つめた。
その、神の、あまりにも重い視線を受け、レナ・ユキシロは、その場で微動だにせず、思考の海へと深く沈んだ。
(主が、私を見ておられる……)
彼女の、カイへの狂信に最適化された思考回路が、超高速で回転を始める。
(この沈黙。この視線。主は、私に何を求めておられるのだ……?)
凡百の人間ならば、ここで「どういたしましたか、司令」などと、愚かな問いを発するだろう。
だが、レナは違う。
彼女は、カイ・シラヌイの真の理解者(と本人は信じている)。
神の沈黙にこそ、その真意は隠されているのだ。
(この老婆……。その願いは、一見、弱者の悲痛な叫び。だが、主は、その程度のことで、これほどまでに深く、沈黙されるお方ではない。ならば、答えは一つ)
レナの脳裏に、一つの、完璧な解が導き出された。
レナは、ゆっくりと、カイから老婆へと、その視線を転じた。
その瞳は、先ほどまでの静謐さが嘘のように、絶対零度の、氷のような光を宿していた。
「……老婆よ」
その、凛とした、しかしどこまでも冷たい声に、艦橋の空気が凍りつく。
カイは、内心で、ガッツポーズをした。
(そうだ! その調子だ、レナ! いいぞ、その冷徹な雰囲気! さすがは俺の狂犬! まずは、その威圧感で、老婆を精神的に追い詰めろ! そして、適当な難癖をつけて、この話を叩き潰すんだ!)
一瞬、本当に一瞬だけ、カイは勝利を確信した。
だが、その期待は、次の瞬間、宇宙の藻屑となって消え去る運命にあった。
レナは、ひれ伏す老婆を、まるで路傍の石でも見るかのような、無機質な目で見下ろし、静かに、しかし、艦橋の隅々にまで響き渡る声で、言葉を続けた。
「貴様の願い、確かに、主の耳に届いた。だが、問おう。貴様は、ただ、助けてくださいと、そう懇願するだけか?」
「……え?」
老婆が、呆然と顔を上げる。
「神に全てを委ね、その奇跡にすがるというのならば、それ相応の心構えというものがあるはずだ。貴様らの、その『仁義』とやらは、口先だけの、安っぽい戯言か? 我らが神を動かすに値する、その覚悟が、貴様らには、あるのか、と、問うているのだ」
(…………はぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!?)
カイは、内心で、自分の耳を疑った。
期待させられた分、その落差は、マリアナ海溝よりも深い。
(違う、違う、違う、そうじゃない! レナ! お前は、一体、何を言っているんだ!? 覚悟!? 心構え!? なんだその、体育会系の精神論は! 潰せと言ったんだ、俺は! 話を! 穏便に! なのに、なんで、逆に、ハードルを上げて、燃料を投下しているんだ、この、サイコパス狂犬がぁぁぁぁぁぁっ!)
彼の、魂からの罵倒は、もちろん、完璧なポーカーフェイスの下に隠されている。
外面上、彼は、己の忠実なる部下の、的確な詰問を、ただ静かに見守る、慈悲深き神のままだ。
ああ、悲劇。これ以上の悲劇が、この世にあるだろうか。
だが、悲劇は、まだ終わらない。
レナの言葉を受けた老婆は、一瞬、その真意を測りかねるように、戸惑いの表情を浮かべた。
しかし、次の瞬間。
彼女は、全てを理解したかのように、深く、深く、頷いた。
その顔には、先ほどまでの涙は、もうなかった。
あるのは、まるで求道者のような、澄み切った覚悟の色だった。
「……左様、で、ございますな。神の御力を賜るに、我らの覚悟が足りておらぬと、そう、仰せられるのも、ごもっとも」
老婆は、そう言うと、懐から、ゆっくりと、一本の短刀を取り出した。
鈍い銀色に輝く、使い込まれた、切っ先鋭い刃。
艦橋に、息を呑む音が響く。
「我ら、時雨一家が代々受け継いできた、ケジメの作法。これにて、我らの覚悟のほど、お示しいたします」
老婆は、そう言うと、なんの躊躇いもなく、自らの左手の小指を、床の上に置き、短刀を、振り上げた。
(いやあああああああああああああああああああああっ!!!!)
カイは、内心で、甲高い悲鳴を上げた。
痛い! 見ているだけで痛い!
血! 血が出る! 絶対に、生々しい血が、ドバっと出る!
カイ・シラヌイは、英雄でも神でもなく、ただの、争い事が嫌いな、小心者の男である。
グロテスクな光景など、大の苦手なのだ。
映画でならまだしも、現実で、目の前で、老婆が、自分の指を、断ち切ろうとしている。
その、あまりにも衝撃的で、あまりにも痛そうな光景に、彼の思考は、完全に、ショートした。
「──やめろっ!!!!」
気づいた時には、叫んでいた。
そして、ほとんど反射的に、老婆の手を、その短刀ごと、強く、掴んでいた。
しん、と。
時が、止まった。
カイ自身も、自分が何をしたのか、一瞬、理解できなかった。
ただ、痛いのは嫌だ、見たくない、という、純粋な、幼児のような、ヘタレ根性から出た、衝動的な行動。
それだけだった。
だが。
その行動が、周囲の狂信者たちの目に、どう映ったか。
それは、もはや、言うまでもないだろう。
「おお……!」
誰かが、感極まったように、声を漏らした。
「神が……! 自ら、お止めに……!」
「老婆の覚悟を……。その、命を懸けた願いを、お認めになられたのだ……!」
カイに手首を掴まれた老婆は、驚きに目を見開いたまま、その場で固まっている。
その潤んだ瞳が、カイの顔を、まるで本物の神を見るかのように、見上げていた。
カイは、悟った。
ああ、俺は、また、やってしまった。
自らの、最も英雄らしくない、最も情けない動機によって、自らの首を、さらに、完璧に、締め上げてしまったのだ、と。
もはや、後に引くことは、不可能だった。
カイは、ゆっくりと、老婆の手から短刀を取り上げると、努めて、威厳のある、そして慈悲深い声で、こう、告げるしかなかった。
「……その覚悟、確かに、見届けた」
それは、敗北宣言であり、そして、新たな地獄の始まりを告げる、ゴングの音だった。
彼は、レナに向き直ると、疲れ果てた声で、告げた。
「……レナ。あとのことは、全て、任せる」
それだけを言うと、カイは、まるで全てのエネルギーを使い果たしたかのように、踵を返し、民衆の、熱狂的な歓声と感謝の声を背中に浴びながら、逃げるように、司令室へと、帰っていくのだった。
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旗艦「ネメシス」司令官室。
その玉座(リクライニングチェア)の上で、カイ・シラヌイは、ぐったりと、まるで生命活動そのものを放棄したかのように、沈み込んでいた。
民衆の前から、ほうほうの体で逃げ帰り、自室に引きこもって、はや数時間。
彼の精神は、いまだ絶望の淵から這い上がれずにいた。
『おめでとう、カイ。ついに「英雄」から「神」、そして「任侠団体の名誉総裁」にまで出世したね。いやー、君のキャリアパス、常人の理解を遥かに超えてるよ。次はどんな肩書が増えるか、今から楽しみだなぁ』
脳内で、シロが、アカデミー賞の授賞式で司会者がジョークを飛ばすかのような、どこまでも軽薄な声で告げた。
その声は、カイのささくれだった神経を、ヤスリのようにゴリゴリと削り取っていく。
「(黙れ……! 今すぐその悪趣味なジョークをやめなければ、お前のコアプログラムを、前世で流行った、なんか踊るタコの動画で上書きしてやるぞ……!)」
『うわ、それは勘弁。君のその、妙に古くて悪趣味なセンスだけは、本当に理解に苦しむよ』
軽口を叩きながらも、シロはカイの精神状態が、もはや冗談では済まないレベルにまで落ち込んでいることを、正確に把握していた。
彼女は、少しだけ声のトーンを変え、まるでカウンセラーのように、静かに問いかけた。
『で? どうするのさ、総裁閣下。このまま、玉座の上で化石になるまで、ふて寝してるわけにもいかないだろう? 信者たちは、君の次なる「神託」を、今か今かと待ちわびているよ』
「(神託……? あるわけないだろう、そんなもの! 俺が今、心の底から託したいのは、辞表だけだ!)」
カイは、内心で絶叫した。
だが、シロの言葉は、彼の思考に、一つの、極めて重要な事実を、改めて突きつけた。
そうだ。
俺は、もう逃げられない。
この、狂信者たちの、あまりにも重すぎる期待から。
ならば。
「(……いや、待てよ)」
カイの、自己保身のためだけに最適化された超高性能CPU(脳味噌)が、絶望の闇の中で、かろうじて再起動を始める。
「(まだだ……。まだ、終わってはいない……! この、面倒事の塊から、合法的に、そして穏便に、逃げ出す道が、まだ一つだけ、残されているはずだ……!)」
『ほう?』
シロの声に、純粋な好奇の色が混じる。
カイは、必死に、本当に必死に、思考を巡らせる。
この厄介事の、全ての元凶。
そして、全ての解決の鍵を握る、唯一の存在。
それは、いまだ見ぬ、あの「頭領の一人娘」という名の、歩くトラブル発生装置。
そこに、カイは最後の希望(という名の、限りなく黒に近いグレーな祈り)を見出した。
「(そうだ……! そもそも、助けるべき対象である、その『お嬢様』とやらが、無事に生きているとは限らない。いや、むしろ、無事であるはずがない!)」
彼の思考が、急速に、そして極めて都合のいい方向へと、加速していく。
「(考えてもみろ、シロ! このアリズン星系は、無法者の巣窟だ! そんな場所に、うら若き、か弱き乙女が、わずかな手勢だけで放り出されて、生き残れる確率がどれだけある!? ゼロだ! 断じて、ゼロだ!)」
『ずいぶんと断定するね。何か、根拠でも?』
「(根拠ならある! 俺の、完璧なまでの、前世のB級映画知識だ! こういう物語のお姫様は、大抵、主人公が駆けつける前に、チンピラAとかBに襲われて、絶体絶命のピンチに陥るのがお約束だろうが! だが、俺は主人公ではない! 故に、駆けつける義理もない! つまり、彼女は、俺が何もしなくても、勝手に、物語から退場してくれる可能性が、極めて高い!)」
完璧な、三段論法。
それは、カイ・シラヌイという、偏狭な映画オタクの世界においては、揺るぎようのない真実であった。
彼は、自分が作り上げた、そのあまりにも虫のいい、そして不謹慎極まりない仮説に、心の底から安堵し、深く、深く、頷いた。
「(そうだ……! もし、彼女が見つからなければ……。もし、彼女が、どこかの宙域で、不運な事故にでも遭ってくれていれば……。この、面倒な跡目争いの話は、全て立ち消えになるじゃないか……! 俺はただ、『全力を尽くしたが、見つけられなかった。残念だ』と、悲痛な表情で言えばいい! そうすれば、俺の神としての威厳も保たれ、そして、この最悪の厄介事から綺麗さっぱり足を洗うことができる!)」
『……うわぁ』
シロは、心底から呆れたように、しかしどこか楽しそうに、溜息をついた。
『君って、本当に……。人の不幸を自分の幸福の材料にすることにかけては天才的だね。その思考回路、一度でいいから解析してみたいよ』
「(なんとでも言え! これが、俺という名の英雄が、血の滲むような苦悩の末に導き出した、唯一にして、最善の『解』なのだ!)」
この男、自分の下劣な思考を、聖人の苦悩へと変換する特殊な認知フィルターを搭載しているらしい。
実に羨ましい能力である。
彼は、自らが導き出したその完璧な「他力本願」という名の解決策に心の底からの希望を見出し、玉座(リクライニングチェア)の上で一人、静かに、そして下劣に、ほくそ笑むのだった。
カイの脳内で、実に生き生きとした「お嬢様の不幸なシナリオ」が、4K解像度の超大作映画として、上映され始めていた。
(そうだとも! このアリズン星系は、無法と暴力が支配する、リアル世紀末ヒャッハーワールドだ! 運悪く、別の、もっとタチの悪い海賊に拿捕されて、今頃奴隷として売り飛ばされているかもしれない……! いや、それじゃまだ生きてる可能性があるな。もっとだ、もっと絶望的なシナリオを!)
彼の思考は、もはやクリエイターの領域に達していた。
脚本:カイ・シラヌイ。
主演:見知らぬお嬢様。
ジャンル:絶望。
これほど邪悪な童話作家もそうそういないだろう。
(あるいは、エンジントラブルだ! あの、オンボロのシャトルで脱出したと言っていた! きっと、整備不良で、ハイパードライブが暴走! 名もなき小惑星に激突して、木っ端微塵になっているに違いない! うん、これなら完璧だ! 死体すら残らない!)
彼の思考はどんどんエスカレートし、最終的には、年頃の娘に降りかかりうる、ありとあらゆる不幸をこれでもかと詰め込んだ壮大な悲劇のシナリオを完成させ、その完璧な出来栄えに一人、悦に入っていた。
そして、そのシナリオが現実のものとなるよう全力で祈りを捧げるという、まさに「下衆の極み」ともいえる精神状態に到達していた。
その、最も邪悪で、最も不謹慎な祈りに没頭している、まさにその時だった。
タイミング悪く、いや、この物語の脚本家にとっては、これ以上ないほどに完璧なタイミングで、彼の個室のインカムに一本の通信が入った。
声の主は、レナ・ユキシロだった。
『主。老婆より、お嬢様が脱出時に向かったとされる、最終座標のデータを受信いたしました。捜索を開始しますか?』
その、あまりにも事務的で、あまりにも無慈悲な報告。
カイの心臓が、嫌な音を立てて、ドクン、と大きく跳ね上がった。
(……来たか。だが、慌てるな。これは想定の範囲内だ)
彼は一瞬で完璧な救世主の仮面を、その顔に装着した。
その声は荘厳で、慈悲深く、そしてどこか悲壮な響きさえ帯びていた。
「うむ。直ちに、全艦を挙げて捜索を開始せよ」
彼の言葉に、通信の向こうで、レナが「はっ」と短く応える気配がした。
そして、カイは、最後の、そして最も重要な決め台詞を付け加えることを忘れなかった。
「必ずや、見つけ出してみせる……と、民に伝えよ」
その、あまりにも英雄的で、あまりにも頼もしい言葉。
民衆が聞けば、涙を流して感謝するであろう、完璧な救世主の宣誓。
しかし、彼の内心では。
固く、本当に固く組んだ両手に、全神経を、全霊魂を集中させ、天に(自分以外の)神がいるならと、人生で最も真摯な、そして最も下劣な祈りを捧げていた。
(見つかるな……!)
(どうか、どうか、見つかりませんように……!)
(この祈りが届くなら、俺の、これまで貯めてきた、全ての徳ポイントを、全額ベットしてもいい……!)
(なんなら、前世で貯めた、微々たる徳も、全てくれてやる!)
(だから、頼む! 神様! 仏様! 宇宙の真理様!)
(あの女が、どこかの星のクレーターの底で、無残な骸(むくろ)と化していますように……!)
(南無阿弥陀仏、アーメン……! アッラー・アクバル……!)
外面の神々しさと、内面のどうしようもない下衆さ。
その、あまりにも壮絶なギャップが、ここに完璧な形で極まった。
彼の英雄としての物語は、今、その最も醜悪で、最も人間臭いクライマックスを迎えようとしていた。
あとがき、あるいは蛇足
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カイ「……もうダメだ……。精神的に、もう限界だ……。俺はただ、指を詰められるグロい光景を見たくなかっただけなんだ……。それがなぜ、『覚悟を認めた』ことになるんだ……」
シロ「ドンマイ、カイ。君のヘタレ根性が、結果的に最高の『神対応』になったわけだから、結果オーライだよ。これで時雨一家の忠誠心も、完全に君のものさ。よかったじゃないか、新たな手駒が増えて」
カイ「いらんわ! そんな血生臭い手駒! 俺が欲しいのは、有給休暇と安眠枕だけだ! なあ、シロ、もう全部放り出して、どこか遠い星に逃げないか? 誰にも知られていない、温泉とかがあるような……」
シロ「残念だけど、君の不敗伝説と神の御名は、もうこの銀河の隅々にまで届きつつあるよ。どこへ行っても、君は『英雄カイ・シラヌイ』さ。諦めて、腹を括ることだね。読者の皆さんも、君の次なる苦難を、固唾を飲んで見守っていることだし」
カイ「ああ……胃が……胃が痛い……」