「……おい、これ本気か?」
ヨハンの声は、目の前の光景に対する純粋な驚愕でわずかに上ずっていた。
彼のベッドの上に置かれていたのは一着の真新しい軍服。それだけならただの定期支給品だ。だがその軍服は、ヨハンが知っている「それ」とは明らかに異次元の代物だった。
色はこれまでのくすんだグレーではなく、深みのある漆黒。生地はゴワゴワとした再生繊維ではなく、明らかに高級な化学繊維特有の滑らかな光沢を放っている。そして添えられた支給品リストにはこう記されていた。
『最新式多機能戦闘服 “ナイトフォール”:ドライテック素材、体温調節機能、簡易ステルス機能付き。全兵士に通達。旧式軍服は本日中に全て廃棄処分とすること。司令官 カイ・シラヌイ』
「簡易ステルス機能……だと?」
隣のベッドのハンスが、信じられないといった表情で呟く。
簡易ステルス機能付きの軍服など、特殊部隊やエースパイロットにしか支給されない超高級品だ。俺たちのような使い捨ての「生贄」に与えられるようなものでは断じてない。
「何かの間違いじゃないのか……? それか新型の棺桶とか」
「馬鹿言え。とりあえず着てみようぜ」
ヨハンは半信半疑のまま、真新しい軍服に袖を通した。
その瞬間。
「……は?」
声にならない声が漏れた。
なんだ、この肌触りは。
まるで高級なシルクのシーツに包まれているかのような、滑らかで優しい感触。これまで着ていた軍服が硬いサンドペーパーだったとすれば、これは天女の羽衣だ。
関節を動かしても全く突っ張らない。伸縮性に富み、体の動きを一切阻害しない。それどころか、まるで自分の筋肉の一部になったかのように完璧にフィットする。
「……天国か、ここは?」
ハンスも同じように感動の声を上げていた。彼の死んだ魚のようだった目に、ほんの少しだけ光が戻っている。
これまで俺たちが着ていた軍服は何だったのか。
それはただの「囚人服」だった。レナ・ユキシロ大尉が掲げる「鋼の規律」の象徴。
『軍人たるもの、身なりに構うな』
『不快もまた精神を鍛えるための一助となる』
彼女の精神論の下、俺たちは肌が擦り切れて血が滲んでも文句一つ言うことは許されなかった。それが強さだと信じ込まされてきた。
だが、これはなんだ?
この圧倒的なまでの「快適さ」は。
この人間として扱われているという、確かな「実感」は。
「……なあ、ヨハン」
「なんだ」
「俺、もしかしたら新しい司令官のこと、ちょっとだけ勘違いしてたかもしれん」
ハンスの言葉にヨハンは何も答えられなかった。
だが心の中では、彼と全く同じことを考えていた。
メディアが作り上げた空っぽの英雄。
幸運だけで成り上がった坊ちゃん野郎。
俺たちを使い潰すことしか考えていない冷酷な指揮官。
──本当に、そうだろうか?
少なくともこの軍服を俺たちに与えたという、ただ一点において。
カイ・シラヌイという男は、レナ・ユキシロという「鬼教官」よりも百万倍、俺たちのことを「人間」として見てくれている。
それは否定しようのない、物理的な「事実」だった。
その時、個室のスピーカーから無機質なアナウンスが流れた。
『全兵士に通達。本日より食事メニューを試験的に変更する。各自、定刻までに第一食堂に集合されたし』
「食事メニューの変更?」
ヨハンとハンスは顔を見合わせた。
どうせクソまずい固形栄養食のフレーバーが、チキン味からビーフ味に変わるその程度のことだろう。
そう高を括っていた。
この時の彼らはまだ知らなかったのだ。
自分たちがこれから体験することになる、本当の「奇跡」を。
そしてカイ・シラヌイという男が、「魔術師」と呼ばれる本当の意味を。
────────────────────────────────────────────
厨房は戦場だ。
オットー・シュミットは、三十年間軍の厨房で鍋を振り続けてきた、この道一筋のベテラン厨房長である。
彼の哲学はシンプルだ。
「軍隊の食事は腹を満たすための燃料である。味など二の次、三の次」。
特にこの「スケープゴート・フリート」においては、その哲学は絶対だった。明日死ぬかもしれない兵士たちに美食など必要ない。ただ腹が膨れ、最低限の栄養が摂れればそれでいい。
だからオットーは、新しい司令官が厨房に姿を現した時、心底からうんざりしていた。
カイ・シラヌイ。噂の若き英雄。
どうせ現場も知らぬ若造が、「食事の改善を」などと青臭い理想論を語りに来たのだろう。
「──というわけで厨房長。この固形栄養食は今日限りで全て廃棄だ」
カイ・シラヌイはオットーの目の前で、固形栄養食のブロックをゴミ箱に放り投げると、天使のような笑みでそう言い放った。
「……は?」
オットーは自分の耳を疑った。
この若造は今、なんと言った?
廃棄? この山のように積まれた貴重な食料を?
「き、貴官は正気でおっしゃっているのか! これは一ヶ月分の、全兵士の命を繋ぐ食料でありますぞ!」
「だから問題なのだ」
カイは人差し指を立てて、まるで子供に言い聞かせるように言った。
内心とは百八十度違う、完璧な外面用のセリフを諳んじながら。
「こんなものでは命は繋げても、心は繋げない。兵士たちの士気は食事の質と正比例する。これは古今東西、あらゆる戦場で証明されてきた絶対の真理だ」
(問題なのはこんな犬の餌以下の代物を、俺がこれから毎日食わされるという事実だ! 俺の繊細な舌と胃袋が着任初日でストライキを起こしているんだよ、察しろこの石頭!)
──せんさい…?どの口が言うのだろうか。前世では化学調味料の海で無邪気に泳いでいた男である。
(また精神論か……!)
オットーは内心で悪態をついた。レナ大尉もこの新しい司令官も、結局は同じ穴の貉(むじな)だ。
「しかし司令! この艦にある食材は限られております! 新鮮な野菜も肉も、満足には……」
「分かっている」
カイはオットーの言葉を遮ると、おもむろに厨房長のコックコートをひったくりそれを羽織った。
「なっ、何を……!」
「百聞は一見に如かずだ。厨房長、少しの間そこをどいてくれたまえ。私が本当の『食事』というものを見せてやろう」
(これ以上お前の作るクソまずい飯に付き合う気はないという意味だ。見て覚えろ、そして明日から俺のために美味い飯を作れ、オヤジ)
それはひょっとしてプロポーズという奴だろうか?…いや、想像してはいけない。
そう言うとカイは、まるで自分の庭を散歩するかのように悠然と厨房の中を歩き始めた。
彼は、貯蔵庫の隅に追いやられていた乾燥野菜や塩漬けの肉、そして誰も見向きもしなかった様々な種類の合成スパイスの瓶を、次々とテーブルの上に並べていく。
「司令、そのようなものでは……」
「まあ、見ていたまえ」
カイは不敵に笑うと、そこから神がかり的な手際で調理を始めた。
巨大な寸胴鍋に湯を沸かし、乾燥野菜と塩漬け肉の塊を放り込む。そこへオットーが見たこともないような組み合わせで、次々とスパイスを投入していく。
厨房内に、これまで嗅いだことのないような芳醇で食欲をそそる香りが立ち込め始めた。
(馬鹿な……!? ただの出汁を取っているだけのはず……! なのにこの、暴力的なまでの美味そうな匂いはなんだ!?)
オットーは呆然と立ち尽くす。
カイの手は止まらない。
彼は兵士たちが主食としていた味気ない圧縮クラッカーを粉々に砕くと、それを謎の液体と混ぜ合わせ鉄板の上で焼き始めた。
ジュウウウウという音と共に、さらに香ばしい匂いがオットーの鼻腔をくすぐる。
調理開始からわずか一時間。
カイは額の汗を拭うと、満足げに言った。
「よし、できたぞ。厨房長、味見をしてみてくれ」
オットーの前に差し出されたのは一つの深皿。
中には黄金色に輝く、とろりとしたスープ。その上にはこんがりと焼き色のついたパンのようなものが浮かんでいる。そして細かく刻まれた鮮やかな緑色の乾燥パセリが、彩りを添えていた。
(……これが、あのガラクタのような食材から作られたものだと……?)
オットーは恐る恐る、スプーンでスープを一口だけ掬って口に運んだ。
その瞬間、オットーの全身に衝撃が走った。
「!!!!」
美味い。
美味い、美味い、美味い、美味い!
なんだ、この味の暴力は!
塩漬け肉から染み出た濃厚な旨味と乾燥野菜の優しい甘みが、完璧な調和を織りなしている。そして複雑に絡み合ったスパイスの香りが、その味を何次元も上のステージへと昇華させている。
スープに浸ったあのクラッカーの塊は、まるで焼きたてのパンのように外はカリッと、中はモチモチとした食感に生まれ変わっていた。
「ば、馬鹿な……。ありえん……。これは魔法だ……」
オットーは、スプーンを持つ手がわなわなと震えているのに気づいた。
三十年間自分が信じてきた料理の哲学が、今目の前の若者によって粉々に打ち砕かれた。
食事は燃料?
味など二の次?
冗談じゃない。
これは燃料などではない。
これは「魂」だ。
兵士たちの凍てついた心を内側から温める、太陽の光だ。
オットーはその場に、膝から崩れ落ちた。
そして目の前のコックコートを着た若き英雄に向かって、深々と頭を下げた。
「……閣下」
その声は尊敬と畏怖、そして狂信に打ち震えていた。
「閣下は……魔術師でいらっしゃる……! 我々がただの石ころだと思っていたものを黄金に変える……食の魔術師でいらっしゃったのだ……!」
『へぇ、食の魔術師だって。よかったじゃない、新しい二つ名ができて』
カイの脳内でシロが面白そうに茶々を入れる。
カイはそんな相棒の声を無視して、内心でガッツポーズを決めていた。
(よし! 計画通り! これで俺の食事のクオリティは保証された! 前世で給料日前にやっていたインスタントラーメンと駄菓子を組み合わせた貧乏アレンジレシピが、こんなところで役に立つとはな! フハハハハ! 俺の天才的な発想にこの世界の人間はひれ伏すしかないのだ!)
この男、自分の食生活を改善したいというただそれだけの理由で、一人のベテラン料理人の人生観を根底から破壊してしまったことに全く気づいていない。
そしてこの「奇跡のスープ」が、やがて艦内の兵士たちの胃袋を掴み、彼を絶対的な「神」へと祭り上げていく最初の号砲になるということも。
────────────────────────────────────────────
医務官のエミリア・ハインラインは目の前のデータを見て、我が目を疑った。
彼女は論理とデータだけを信じる、典型的な理系の人間だ。非科学的なこと、感情論の類は一切信用しない。
だが今、彼女の目の前にあるデータはもはや科学の領域を超え、オカルトの域に達していた。
【第十三独立遊撃部隊 兵士健康データ週次報告】
・平均睡眠時間:4.2時間 → 7.8時間(+85%)
・レム睡眠割合:12% → 25%(+108%)
・ストレスホルモン(コルチゾール)平均値:基準値の180% → 基準値の75%(-58%)
・艦内での暴力・傷害事件発生件数:週平均5.7件 → 0件
「……ありえない」
エミリアは眼鏡の位置を直しながら、何度もモニターの数字を見返した。
何かの間違いだ。システムのエラーか、あるいは誰かがデータを改竄したか。
だが、あらゆる角度から検証してもこのデータが「本物」であることは疑いようがなかった。
この一週間で、この艦の兵士たちの心身の状態は劇的なまでに改善していた。
まるで地獄の住人が一斉に天国へと移住したかのような、異常なまでの変化。
そしてその原因は、あまりにも明白だった。
新しい司令官、カイ・シラヌイ。
彼が着任してからこの艦は、文字通り生まれ変わった。
全ベッドへの低反発マットレスの導入。
目に優しい間接照明の設置。
そして厨房から毎日提供される、あの「奇跡」としか言いようのない美味な食事。
エミリアは当初、彼の改革を「軟弱な戯言」と冷ややかに見ていた。
戦場で必要なのは快適な環境ではない。強靭な精神力だ、と。
だがデータは、彼女の考えが完全に間違っていたことを証明していた。
(……私は、何を見ていたのだろう)
彼女はこれまでの自分を恥じた。
自分は医務官として兵士たちの体を診てきたつもりだった。だが本当の意味で、彼らの「心」を診てはいなかった。
彼らに必要だったのは精神論や薬の類ではなかった。
ただ、人間としての当たり前の「尊厳」だったのだ。
温かい食事。
安らかな眠り。
それだけで人は、ここまで変われるのか。
カイ・シラヌイ。
あの若い司令官はそのことを、本能的に理解していた。
彼はただの軍人ではない。
人の心と体のメカニズムを完璧に理解し、それを最も効果的な形で戦場の兵士たちに適用してみせた。
彼は真の「名将」だ。
いや、もはや将という器に収まる存在ではない。
彼は、人を癒し導く、「救世主」だ。
エミリアは報告書の作成画面を開くと、震える指でキーボードを叩き始めた。
宛先はヴェガ軍総司令部、人事局。
件名は『カイ・シラヌイ司令官の着任が部隊に与えた驚異的影響に関する報告』。
彼女はそこに一切の私情を挟むことなく、ただ客観的なデータと科学的な考察だけを書き連ねていった。
だがその報告書を読んだ者が、行間から彼女のカイ・シラヌイへの熱狂的なまでの賞賛と、もはや信仰に近い何かを感じ取ることは想像に難くなかった。
『……というわけでカイ・シラヌイ司令の施策は、兵站と衛生管理の観点から見て革命的と断言できる。彼の存在は我がヴェガ軍全体の士気向上、ひいては戦争の早期終結に必要不可欠であると結論する』
報告書の末尾を彼女はそう締めくくった。
自分が書いたこの一枚の報告書が、カイ・シラヌイという男の「英雄伝説」をさらに加速させ、彼をより一層逃げ場のない地獄へと追い込んでいくことになるなど、この時の彼女は知る由もなかった。
────────────────────────────────────────────
レナ・ユキシロは自分が築き上げてきた世界が、足元から崩れ落ちていく音を聞いていた。
場所は第一食堂。
かつては墓場のように静まり返っていた、あの場所。
今そこは、レナが知らない全く別の空間へと変貌していた。
兵士たちの笑い声が響いている。
それは死を覚悟した乾いた笑いではない。心の底から楽しんでいる、生気に満ちた笑い声だ。
彼らが食べているのは固形栄養食ではない。湯気の立つ温かいスープと、こんがりと焼かれたパン(のようなもの)。その誰もが子供のように目を輝かせながら、食事を頬張っている。
そしてその輪の中心に、あの男がいた。
カイ・シラヌイ。
彼は司令官の席ではなくごく自然に、一般兵士のテーブルに混じって彼らと同じものを食べていた。
「司令! このスープ、おかわりいいですか!」
「ははは、いいとも。だが食いすぎると模擬戦闘で動きが鈍るぞ?」
(いいぞいいぞ、もっと食え。そして俺に心酔しろ。そうすりゃ当番とか面倒な作業を全部押し付けられるし、あの狂犬女からの盾にもなる。まさに一石二鳥だ!)
「大丈夫です! このスープを飲めば力が三倍になりますから!」
兵士たちがまるで旧知の友のように、親しげに彼に話しかける。
そしてカイ・シラヌイは、その一人一人に穏やかな笑みで応えている。
レナは食堂の入り口で、ただ立ち尽くしていた。
誰も彼女の存在に気づかない。
いや、気づいていながら意図的に無視している。
彼らの視線は全て、カイ・シラヌイという新しい「太陽」にだけ向けられていた。
レナは彼らから数メートル離れたテーブルに、一人で座った。
目の前に置かれた食事は兵士たちのものと、全く同じものだ。
一口、スープを口に運ぶ。
……美味い。
悔しいほどに美味い。
この温かさが凍てついた自分の体に、じんわりと染み渡っていくのが分かる。
だがその美味さが、レナの心をより一層孤独にした。
兵士たちはこの食事を与えられたことで変わった。
彼らはレナが教えてきた「鋼の規律」をいとも簡単に捨て去り、カイ・シラヌイが与えた「快適さ」という名の麻薬に溺れている。
(……私が、間違っていたとでも言うのか)
アンダーソン准将。
あなたが教えてくれた軍人としての誇り。
逆境に屈しない強靭な精神。
その全てがたった一杯のスープの前に、無価値だとでも言うのか。
レナは唇を強く噛み締めた。
血の味が口の中に広がる。
その鉄の味がスープの優しい味と混ざり合い、彼女の胸をどうしようもなくかき乱した。
自分が築き上げてきたはずのこの艦隊。
自分が命をかけて守ろうとしてきた兵士たち。
その全てが今、自分の手から離れていく。
あの胡散臭い笑みを浮かべた、一人の男によって。
(……認めない)
断じて認めるものか。
あれはまやかしだ。
戦場では温かいスープも柔らかいベッドも、何の役にも立たない。
最後に物を言うのは実力だけだ。
次の戦いで必ず証明してみせる。
どちらが正しく、どちらが本物であったかを。
レナはスプーンを置くと静かに立ち上がった。
彼女が食堂を出て行くまで、結局誰一人として彼女に声をかける者はいなかった。
背中に突き刺さる兵士たちの楽しげな笑い声が、まるで自分への嘲笑のようにいつまでも耳の奥で響いていた。
じっくり、ことこと、煮込みましょう。