整備長のバルツァー・クロイツァーはこの艦「ネメシス」で最も古参のクルーの一人だ。彼はアンダーソン准将の時代からこの艦のあらゆる傷、あらゆる呻きを知り尽くしてきた。彼の仕事場である機関部は艦の心臓。そしてバルツァーはその心臓の鼓動を聞き分ける唯一の聴診器だった。
だからこそ彼は、新しい司令官から届けられた最新の備品発注要求リストを見て己の目を疑った。
「……なんだ、これは」
リストに並んでいたのはおよそ戦闘艦には不釣り合いな、理解不能な品々の羅列。
・超高解像度ホログラフィック・ゲームコンソール:五十台
・没入型VR(仮想現実)ヘッドセット:百台
・最新式音響システム連動型マッサージチェア:二十脚
・業務用全自動コーヒーメーカー(最高級豆付き):五台
・その他、カードゲーム、ボードゲーム、ダーツセット一式
バルツァーはリストを叩きつけるように机に置くと、深く深く溜息をついた。
新しい司令官、カイ・シラヌイ。
艦内の空気が彼が着任してから劇的に変わったことは、機関部の薄暗い底にいても感じていた。兵士たちの顔つきがまるで違う。死人のようだった目が今は生き生きとした光を宿している。
その原因があの「奇跡のスープ」と「天女の羽衣」にあることももちろん知っている。
だがこれはどうだ。
ゲーム機? マッサージチェア?
やりすぎだ。完全に一線を越えている。
レナ大尉が聞いたら卒倒するどころか、司令官室に斬り込みかねない内容だ。
「……司令は、この艦を遊園地か何かにするおつもりなのか」
隣でリストを覗き込んでいた若い整備兵が呆れたように呟いた。
バルツァーはその若者の頭を無言でコツンと殴った。
「馬鹿者。司令のお考えを我々凡人が推し量れると思うな」
「しかし整備長。これではまるで……」
「黙って考えろ」
バルツァーは油に汚れた指で自身のこめかみをトントンと叩いた。
カイ・シラヌイ。不敗の魔術師。
あの男がただの快楽主義者であるはずがない。卒業演習で見せたという神がかり的な指揮。着任後の常識外れだが的確すぎる改革。
その全てが一本の線で繋がっているはずなのだ。
軍服。食事。ベッド。そして娯楽。
これらはバラバラの点ではない。
一つの壮大な計画を構成する、緻密に計算された布石。
バルツァーは目を閉じた。
彼の脳裏にこの艦の兵士たちのかつての姿が浮かぶ。
戦闘で仲間を失いPTSDに苦しむ者。
故郷に残してきた家族を思い夜な夜な悪夢にうなされる者。
死の恐怖から逃れるために薬物に手を出す者。
そうだ。
この艦は地獄だ。
兵士たちの魂は常に見えざる敵――「戦争」という名の巨大な暴力――によって蝕まれ続けている。
レナ大尉の鉄の規律はその魂の腐敗を一時的に抑えつけることはできても、決して癒すことはできない。むしろその締め付けが彼らをさらに内側から追い詰めていた。
そこにカイ・シラヌイは現れた。
彼はまず兵士たちの肉体を癒した。快適な軍服と安らかな眠りで。
次に彼らの腹を満たした。温かい食事で。
そして最後に彼は、彼らの「魂」を救おうとしているのではないか。
ゲーム。娯楽。
それは現実を忘れさせるための一時的な麻薬ではない。
それは「聖域」なのだ。
この血と硝煙に満ちた地獄の艦内で、兵士たちが唯一ただの「人間」に戻れる場所。
仲間と笑い合い、競い合い、没頭できる架空の世界。
その聖域に魂を退避させることで彼らは、現実の過酷な戦闘に耐えうる強靭な精神性を再び取り戻すことができる。
「……そういうことか」
バルツァーは目を開いた。
その目には先ほどの困惑の色はなく、深い畏敬の念が宿っていた。
「司令はこの地獄に聖域を創ろうとしておられるのだ。我々がただの鉄の棺桶だと思っていたこの艦を。兵士たちの魂を守るための最後の『砦』に」
ちがう、そうじゃない。
「せ、整備長……?」
若い整備兵が何やら壮大な勘違いを始めている上官の顔を不安そうに見つめている。
だがバルツァーはもう止まらない。
「分かったか! 司令は我々が想像も及ばぬ高みからこの戦争を見ておられる! 兵器の性能でも兵の数でもない! 兵士一人一人の『魂の強度』こそが最終的な勝利を左右すると、そう喝破しておられるのだ!」
バルツァーは拳を強く握りしめた。
「……よし。お前ら、聞け!」
彼は機関部に響き渡る大声で部下たちに檄を飛ばした。
「この発注リストはただの備品リストではない! 我らが司令の深遠なる戦略構想そのものだ! 全員心してかかれ! 寸分の狂いもなく完璧に、司令の『聖域』をこの艦に顕現させるのだ!」
「「「は、はいっ!!」」」
整備兵たちは何が何だか分からないまま、それでも鬼気迫る上官の気迫に押され力強く返事をした。
こうしてカイ・シラヌイの「俺が暇な時に遊ぶゲームが欲しい」という極めて個人的で怠惰な欲望は、現場の長によって「兵士の魂を救うための崇高な聖域創造計画」へと完璧に誤訳された。
そしてその誤訳がこの艦隊をさらに異常な狂信者集団へと変貌させていくことになる。
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ハンスは自分の人生がこの一ヶ月で信じられないほど変わってしまったことを実感していた。
ほんの少し前まで彼は毎日、娘への遺書を書き綴っていた。
いつ死んでもいいように。
いや、いつ死ぬのかということだけを考えて生きていた。
だが今はどうだ。
彼は食堂のテーブルで一枚の紙片を食い入るように見つめていた。
それは遺書ではない。
彼の心を希望と興奮で満たす魔法の羊皮紙だ。
【第一回 ネメシス杯 eスポーツ大会 開催のお知らせ】
・種目:最新式VR艦隊戦シミュレーション『ギャラクシー・コマンダー7』
・優勝賞品:一週間の特別休暇 + 司令官からの特別褒賞
・参加資格:第十三独立遊撃部隊所属の全兵士
・大会スローガン:『遊ぶ時も、戦う時も、全力で』
・主催:カイ・シラヌイ司令官
「……おい、ハンス! 見たかこれ!」
向かいの席のヨハンが子供のようにはしゃいでいる。
「当たり前だ! 俺はもうエントリーしたぞ! お前知ってるか? 俺、故郷の星じゃ『ギャラコマ』でちょっとは名の知れたゲーマーだったんだぜ!」
「嘘つけ! お前みたいなヒョロヒョロがゲーマーなわけないだろ!」
食堂はかつての墓場のような静寂が嘘のように、熱狂と興奮の渦に包まれていた。
誰もが大会の話題で持ちきりだ。
誰とチームを組むか。
どんな戦術を使うか。
そしてどうすれば、
ハンスは胸が熱くなるのを感じた。
死ぬことしか考えていなかった日々に「楽しみ」が生まれた。
明日を待ち遠しいと思えるそんな感情を、何年ぶりに思い出しただろう。
カイ・シラヌイ司令官。
あの人は俺たちに全てを与えてくれた。
人間らしい服。
人間らしい食事。
人間らしい眠り。
そして人間らしい「楽しみ」を。
彼はただの指揮官ではない。
彼は俺たちの生活と人間性を守ってくれる。
彼は聖人だ。
「……なあ、ヨハン」
「なんだよ改まって」
「俺、決めたよ」
「何をだよ」
ハンスは真剣な目でヨハンを見つめ返した。
「俺はあの人のために戦う。この艦を守るためじゃない。ヴェガのためでもない。カイ司令が作ってくれたこの『日常』を守るために、俺は命を懸ける」
ヨハンは一瞬きょとんとした顔をしたが、やがてニヤリと笑って拳を突き出した。
「……当たり前だろ。言わせんなよ恥ずかしい」
ハンスはその拳に自分の拳を強く打ちつけた。
彼らの心は完全に一つになっていた。
それは恐怖や規律で縛られた偽りの忠誠心ではない。
心の底から湧き上がる感謝と尊敬、そして狂信的なまでの絶対の信頼。
カイ・シラヌイ司令、万歳。
あなたが俺たちの神だ。
ハンスは故郷の娘に新しい手紙を書き始めていた。
それはもう遺書ではなかった。
『愛するマリアへ。父さんは今とても楽しい。ここでは毎日がお祭りのようだ。今度、艦の中でゲームの大会があるんだ。もし優勝したらお前のところにすぐにでも帰れるかもしれない。父さん、頑張るからな』
その手紙が彼の最後のものになる可能性が極めて高いという現実から、今の彼は都合よく目をそらしていた。
人間とは希望という名の光を与えられると、かくも盲目になれる愚かでそして愛おしい生き物なのである。
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『――というわけで君がただ自分の娯楽のために発注したゲーム機が、現場では「兵士の魂を救うための聖域創造計画の礎」として神聖なアーティファクトのように扱われているわけだけど。ねえ、今どんな気持ち?』
カイの脳内でシロが、心底から愉快でたまらないといった口調で尋ねた。
場所はカイの自室。彼は早速設置させた最新式のマッサージチェアに深々と身を沈め、その極上の揉み心地にだらしなく顔を緩ませていた。
(……うるせぇなぁ。結果的に兵士たちの士気が上がっているんだからいいじゃないか。これも俺の深遠なるカリスマのなせる技というわけだぁ……)
カイはふんぞり返って内心でそう嘯いた。
『カリスマねぇ。君の行動原理はいつだって「自己保身」と「怠惰」の二つだけじゃない。今回だって本当の理由は、「俺も暇な時に遊びたいし、兵士どもがストレスで反乱でも起こしたら面倒だから適当にガス抜きさせとこう」くらいにしか考えてなかったくせに』
図星だった。
シロの的確すぎる分析にカイはぐうの音も出ない。
(……そ、それはそれも理由の一つではあるが! 決してそれだけではない! これは俺という存在を兵士たちにより深く、より効果的に刷り込むための高度な心理作戦なのだ!)
『はいはい、心理作戦、心理作戦。でもさ、ちょっと気にならない?』
『何がだ』
『君がやっていること、客観的に見ると完全に「カルト教団の教祖」の手口と一致するんだけど』
シロの言葉にカイの眉がピクリと動いた。
『まず信者を外部から隔離された閉鎖的な環境に置く。今の君たちで言えばこの「ネメシス」という名の鉄の箱だね』
『……』
『次に既存の価値観を徹底的に破壊する。レナ・ユキシロが築き上げた精神論という名の古い神を、君は快適さという物理的な暴力で殴り殺した』
『……』
『そして衣食住という人間の根源的な欲求を君が完全にコントロールし与える。信者たちは君なしでは生きていけないと本気で思い始める』
『……』
『仕上げに共通の「娯楽」と「目標」を与えることで共同体意識と熱狂を生み出す。今回のeスポーツ大会がまさにそれだ。どう? 完璧な狂信者製造工場の完成って感じじゃない?』
シロの冷徹で的確な分析。
それはカイが無意識のうちに行っていたことの本質を的確に言い当てていた。
(……きょ、狂信者製造工場だと!? 人聞きが悪いことを言うな! 俺はただ俺の快適な生活のために周囲の環境を最適化しているだけだ!)
『だからそれが一番タチが悪いって言ってるの。無自覚な教祖ほど危険なものはないんだから。今の兵士たち、君が「あの星を撃ち落とせ」って言ったら何の疑いもなく引き金を引くと思うよ。たとえその星が自分たちの故郷だったとしてもね』
シロの言葉は冗談ではなかった。
その声にはいつもの軽薄さとは違う、わずかな氷のような響きが混じっていた。
カイはマッサージチェアの心地よい振動を感じながら、一瞬ほんの一瞬だけ、自分がとんでもない火薬庫の上でタップダンスを踊っているのではないかという恐怖を垣間見た。
(……いや、待て。考え方を変えるんだ、カイ・シラヌイ)
彼の天才的な(と本人が思っている)頭脳がこの絶望的な状況を自分にとって最も都合の良い未来へと変換するためにフル回転を始める。
(狂信者…? 違うな。これは狂信者などという野蛮なものではない。これは…そう! 『俺の言うことなら何でも聞く、超高性能な自動操縦の駒』だ!)
『うわ、最低な言い方…。でも、まあ意味は合ってるのが腹立つ』
(そうだろ!? 見ろシロ! 俺はついに究極のオートメーションシステムを開発したのだ! 俺が「あれやっといて」と一言呟けば彼らが勝手に敵を殲滅し、勝利という名の報告書を俺の机に届けてくれる! これぞ真の指揮官の姿! 究極の効率化! 完璧なるリモートワーク環境の構築じゃないか!)
カイの脳内ではもはや輝かしい未来しか見えていなかった。後方司令部のふかふかのソファに寝そべりポテチ片手にゲームをしながら、たまにモニター越しに「うん、そこ、いい感じにやっといて」と指示を出すだけで英雄としての名声が自動的に積み上がっていく。そんな夢のような光景が。
『君のその脳内お花畑、そろそろ除草剤撒いた方がいいんじゃない? その完璧なリモートワークとやらを始める前にまず、すぐそこまで迫ってる初陣を乗り越えないといけないんだけどそのご予定は?』
シロの無慈悲な正論がカイの妄想に突き刺さる。
(う、初陣…? ああ、そういえばそんな面倒なイベントがスケジュールに入っていたな…)
カイはマッサージチェアの振動を「強」にセットし、物理的な快楽で思考を麻痺させようと試みた。
(…問題なァい。問題ないぞォシロ。その初陣こそ俺の完璧な計画の第一歩だァ。適当に敵の攻撃をやり過ごし最小限の労力でそこそこの戦果を挙げる。そうすれば上層部は「おお、カイはやはり天才だ! だが彼ほどの逸材を最前線で失うわけにはいかん!」と考え、俺を後方の安全な部署に栄転させてくれるに違いない! 俺が育てたこの『自動操縦の駒』たちはそのための最高のプレゼン資料というわけだ!)
『…つまり初陣の目的は勝利じゃなくて、「いかに楽して勝ったように見せかけ後方に逃げる口実を作るか」ってこと?』
(当たり前だろうが! 戦闘などという野蛮な行為に俺様が自ら手を汚す必要がどこにある!? 俺は俺の快適な後方勤務ライフのために戦うのだ! 見ていろシロ! これぞ怠惰を極めし者のための究極の生存戦略だ!)
『はいはい。せいぜいその可愛い自動操縦の駒たちにコックピットから引きずり出されて、無理やり最前線に担ぎ上げられないように気をつけることだね。教祖様?』
その言葉を最後にシロは、心底呆れ果てたように気配を消した。
一人残されたカイはマッサージチェアの電源を切るとゆっくりと立ち上がった。
窓の外には漆黒の宇宙が広がっている。
彼はこれから始まる初陣のことなど一切考えず、ただ後方司令部で遊ぶ『ギャラクシー・コマンダー7』の最初の機体はどれにしようかということだけを真剣に悩んでいた。
この男、自分の破滅フラグが乱立する音をマッサージチェアの作動音か何かと勘違いしているらしい。
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旗艦「ネメシス」のトレーニングルーム。
その一角でレナ・ユキシロは一人、木剣を振るっていた。
ヒュッ、ヒュッと空気を切り裂く音だけが静寂の中に響き渡る。
彼女の額には玉の汗が浮かび、鍛え上げられた全身の筋肉が悲鳴を上げていた。
だが彼女は決して手を止めない。
肉体の限界を超えたその先にこそ「真実」があると信じているからだ。
艦内の空気は完全にあの男の色に染め上げられた。
兵士たちの浮ついた笑い声。
娯楽室から漏れ聞こえる電子音と歓声。
その全てがレナの神経をヤスリのように少しずつ、少しずつ削り取っていく。
(……これが貴様のやり方か。カイ・シラヌイ)
兵士たちを骨抜きにする。
飴とさらに甘い飴で彼らの牙を抜き、爪を剥ぎ、ただの従順な家畜へと変える。
アンダーソン准将が命をかけて守ろうとした彼らの「誇り」を完全に踏みにじって。
(……許さない)
レナは木剣を握る手にさらに力を込めた。
ギリと骨が軋む音がする。
(だが焦るな。私よ)
彼女は自分自身にそう言い聞かせた。
今の自分は孤立している。兵士たちの心は完全にあの男に奪われた。
ここで自分が感情的に動けばそれこそあの男の思う壺だ。
『嫉妬に狂った時代遅れの鬼教官』
そう兵士たちに思わせて喜ばせるだけだ。
だから今は耐える時。
この屈辱と焦燥を全て己の力に変える。
そして来るべき時にそれを一気に解放する。
その「時」はもうすぐそこまで来ている。
――初陣。
この艦隊が初めて本物の敵と対峙するその瞬間。
戦場ではまやかしは通用しない。
甘い言葉も快適な環境も何の役にも立たない。
そこにあるのは絶対的な「実力」と冷徹な「結果」だけだ。
その時こそ化けの皮を剥いでやる。
カイ・シラヌイ。
お前がただの幸運だけで成り上がった口先だけの詐欺師であることを。
そして私が信じるアンダーソン准将が教えてくれた鋼の規律と強靭な精神力こそが唯一勝利を掴むための道であることを。
全兵士の目の前で証明してみせる。
レナは最後の一振りに渾身の力を込めて木剣を振り下ろした。
ゴウッと空間が唸りを上げる。
その切っ先は見えない敵――カイ・シラヌイのあの不快な笑みを浮かべた顔面を正確に捉えていた。
(……待っていろ)
決戦の時を前にして、彼女の凍てついた瞳の奥で復讐の炎がこれまでになく激しく燃え上がっていた。
――そして、幕は上がる。