人間という生き物は、不思議なことに、自らの破滅が確定した瞬間にこそ最も饒舌に、そして最も壮大な計画を語り始めるものである。それは一種の現実逃避であり、あるいは断頭台の上で放つ、人生最後の壮大なジョークなのかもしれない。
今、まさにそのジョークを、銀河史上最も壮大かつ滑稽なスケールで展開しようとしている男がいた。
その名は、カイ・シラヌイ。
これから始まる彼の初陣は、後に「ヴァルハラの静寂」として歴史に刻まれることになる、奇妙な戦いの幕開けであった。
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旗艦「ネメシス」の司令官室からブリッジへと続く、冷たく長い廊下。その中央を、カイ・シラヌイはまるで凱旋将軍のごとき落ち着き払った足取りで歩いていた。背筋は伸び、その表情には一切の揺らぎもない。すれ違う兵士たちは誰もが畏敬の念を込めて敬礼し、その神々しいまでの姿に、これから始まる初陣への絶対的な勝利を確信していた。
その、完璧な英雄の仮面の下で、カイの内心が史上最大級の嵐に見舞われていることなど、もちろん誰一人として知る由もなかった。
(無理無理無理無理! 絶対に無理! なんで俺が艦隊の指揮を執らなきゃならんのだ! 俺の仕事は後方でハンコを押すことだろうが! 契約違反だ、訴えてやる! 誰を!?)
彼の精神は、出撃命令が下された十分前から、すでに機能停止寸前であった。手足の先は氷のように冷え、心臓はドラムロールのようにうるさく鳴り響き、今すぐ床に突伏して「お腹が痛いので帰ります」と泣き叫びたい衝動と、必死に格闘している最中なのである。
『いやー、いよいよだね、英雄殿。歴史に名を刻む最初の戦いだ。どんな神がかりの戦術を見せてくれるのか、今から楽しみだよ』
脳内に響く相棒、シロの声は、これから起こるであろう悲劇(あるいは喜劇)を最前列のVIP席で鑑賞する観客のように、どこまでも弾んでいた。このポンコツAIは、主人の極度のストレスを最高のポップコーンとして嗜む趣味をお持ちのようだ。
(黙れこの悪魔! 楽しみなのはお前だけだ! ……いや、待てよ。楽しむ、か。フフフ……そうだ、お前は何も分かっていない。俺も、そしてこの戦いを見ている銀河のクソ大衆どもも、楽しませてやるんだよ、これからな!)
突然、カイの内心の絶叫が、不気味な自信に満ちた哄笑へと変わる。そのあまりの変わり身の速さに、シロが怪訝な声を上げた。
『……急にどうしたの? ついに恐怖で頭の回路が焼き切れた?』
「(フン、愚か者め。お前は、この戦いがただの戦闘だと思っているのか? 違うな。これは、オリオン・アーム・インダストリー提供の、壮大なリアリティショーなんだよ!)」
カイは内心で胸を張り、これから自分が仕掛ける、戦闘を利用した完璧なメディア戦略について語り始めた。
「(いいか? この艦隊での俺の行動、俺の改革、そしてこれから始まる戦闘、その全てがスポンサーによって撮影され、編集され、銀河中に配信されるコンテンツになる。俺が卒業演習で見せた『奇跡』の再現を、奴らは期待しているのさ)」
『へぇ、じゃあその期待に応えて、華麗に敵を殲滅するってわけ? 君らしくもない』
「(馬鹿を言え! そんなことをしたら、戦闘狂の英雄として最前線に未来永劫縛り付けられるだけじゃないか! 俺の狙いはその逆! 俺が欲しいのは、英雄という名の死刑宣告じゃない。後方勤務という名の安寧だ!)」
カイの内心のテンションが、プレゼンターのようにヒートアップしていく。
「(だから、こうするのだ! 名付けて、『カイ・シラヌイの 後方どうでしょう ~サイコロ振ったら最前線!ここをキャンプ地とする!~』)」
『……毎回思うけど、君の作戦名、本当にダサいよね』
「(うるさい! まず第一幕! 戦闘が始まったら、俺は卒業演習の時のような神がかり的な防衛指揮を仕方なく見せつける! 最初の15分で、視聴者の心をガッチリ掴む! 『おお、カイはやはり天才だ!』と誰もが熱狂するだろう!)」
『うんうん、それで?』
「(だがな、シロ。いつまでもドンパチやってたんじゃ、どんな派手な戦闘シーンでも視聴者は飽きる。そこで第二幕だ。俺は意図的に戦闘を膠着させる! 見せ場は最初だけ! あとはひたすら地味な睨み合いを続ける! いわゆる『塩試合』に持ち込むのさ!)」
『塩試合ねぇ。スポンサーが怒りそうだけど』
「(そこで第三幕が効いてくる! 戦闘シーンがつまらなくなった時、スポンサーと視聴者は何に興味を持つと思う? そう! 俺がこの一ヶ月で成し遂げた、この艦の『劇的ビフォーアフター』さ!)」
カイの脳裏には、完璧なテレビ番組の構成が浮かんでいた。
――地獄のようだった艦内の食堂が、今では兵士たちの笑い声が響くレストランに! あの固形栄養食が、匠(カイ)の手によって奇跡のスープに! これはもはや、ただの艦隊ではない。家族なのだ! BGM:感動的なオーケストラ。
そんな映像が、つまらない戦闘シーンの合間に、これでもかと差し込まれるのだ。
「(どうだ! 戦闘よりも、俺の行った艦内改革の方が、間違いなく面白いコンテンツになる! 視聴者は、俺の戦術よりも、俺が導入した低反発マットレスのメーカーを知りたがるだろう!)」
『……つまり、戦争をダシにしたライフスタイル提案番組で名を売ろうってこと? 最低だね』
「(そして最後の第四幕! 戦いが終わった後のインタビューだ! 感動的なVTRが流れた後、やつれた表情でカメラの前に立った俺は、司会者からの『なぜ、これほど兵士の生活を?』という質問に、こう答えるのだ!)」
カイはそこで一度タメを作り、完璧なキメ顔(内心で)を作って、こう言った。
「(『私は、最前線で戦う兵士たちの、魂を支えたいんです』……ってなァ!)」
『うわぁ……』
「(どうだ!? これで銀河の誰もがこう思うだろう! 『カイ・シラヌイは戦術の天才だが、彼の本質は戦場にはない。兵士の生活を支える後方支援こそが、彼の天職だ』と! スポンサーも、戦闘狂の英雄より、兵士に優しい聖人の方が企業イメージが上がると判断する! かくして俺は、企業の圧力によって、念願の後方司令部勤務という名の玉座を手に入れることができるのだ! これぞ完璧な計画! フハハハハ!)」
――哀れな男、カイ・シラヌイ。彼の完璧な計画は、常に「相手が自分の描いたシナリオ通りに動いてくれるはずだ」という、極めて楽観的な前提の上に成り立っている。彼が作り上げたコンテンツが、彼の意図とは全く違う形で解釈され、狂信的な熱狂を生み出すことになる可能性など、もちろん彼は1ミリも考えていない。
やがて、重厚なブリッジの扉の前にたどり着く。深呼吸一つ。カイは完璧な聖人君子の仮面を被り直し、その扉が開かれるのを待った。
扉の向こうにあるのは、地獄か、あるいは念願の後方勤務へと続く栄光の舞台か。
もちろん、そのどちらでもない、壮大な勘違いのリアリティショーの舞台であることを、彼はまだ知らない。
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シリウス主権連合、第五艦隊旗艦「テュール」。そのブリッジは、ヴェガの「ネメシス」とはまた違う意味で、張り詰めた空気に支配されていた。
巨大なメインスクリーンに映し出されているのは、一隻の巡洋艦。第十三独立遊撃部隊旗艦「ネメシス」。そして、その指揮官の顔写真。
カイ・シラヌイ。
「……これが、例の『不敗の魔術師』か。思ったよりも、随分と若いな」
艦隊司令長官、グスタフ・フォン・ベルガー提督は、白熊のような巨体を司令官席に深々と沈め、その思慮深い瞳でスクリーンを見つめていた。百戦錬磨の老将である彼の顔には、戦場を前にした高揚感ではなく、未知の獣を前にした狩人のような、深い警戒の色が浮かんでいた。
「提督。彼の卒業演習の戦闘データ、改めて解析が完了しました」
隣に立つ参謀長が、緊張した面持ちで報告する。
「結論から申し上げますと……理解不能です」
「理解不能、だと?」
ベルガーは片方の眉を上げた。
「はい。彼の戦術は、我々の持つどの戦術理論のフレームワークにも当てはまりません。序盤の完璧な防御機動は、我が軍の最新鋭の戦闘予測AIの算出結果を遥かに上回る精度でした。しかし、その後の行動が……」
参謀長は言葉を濁した。その後の行動。それは、あらゆる軍人にとって狂気の沙汰としか思えないものだった。
罠を看破しておきながら、あえてその中心に突っ込む。
敵が後退したのを見て、補給を無視した単艦での猪突猛進を開始する。
そして極めつけは、航行禁止区域である高密度デブリ帯への、自殺行為としか思えない突入。
その一つ一つが、士官学校の教科書で言えば「絶対にやってはいけないこと」のオンパレードだった。
「常人であれば、ただの狂人か愚者と判断するところでしょう。しかし……」
参謀長が操作すると、スクリーンにデブリ帯での戦闘ログが再生される。
無数のデブリを紙一重で回避しながら、まるで踊るように敵艦を撃破していく、青い光跡。
それは、愚者の動きでは断じてなかった。全てが計算され尽くした、神業の領域。
「彼は、デブリ帯に発生した偶発的な磁気嵐すら、自らの戦術に組み込んでみせたのです。偶然か、あるいは……」
「……あるいは、それすらも予測していた、か」
ベルガーは低い声で呟いた。彼の額に、じわりと汗が滲む。
この若者は、危険だ。
これまでの我々の常識が、一切通用しない。
猪突猛進に見せかけた動きは、敵AIの思考の裏をかくための壮大な罠。
デブリ帯への突入は、自殺行為を装い敵を誘い込むための、悪魔的なまでの深謀遠慮。
「この男は、戦争をチェスか何かと勘違いしている。そして、我々を盤上の駒としか見ていない。……実に、不愉快な男だ」
ベルガーは、カイ・シラヌイという若者に、生理的な嫌悪感と、そして本能的な恐怖を感じていた。
このような規格外の存在を相手にする時、最もやってはならないことは何か。
それは、相手の土俵に乗ることだ。奇策には奇策で応じようなどと考えた瞬間、こちらの負けは決まる。
「……シュタイナー少佐の陽動部隊は、予定通り先行しているな?」
「はっ。第一から第三波までの陽動部隊が、予定宙域に到達しております」
「よろしい」
ベルガーは、ゆっくりと立ち上がった。その巨躯が、ブリッジにいる者たちに無言の圧力を与える。
「全艦隊に告ぐ。我々の目的は、敵旗艦『ネメシス』の撃沈ではない。奴らの完全なる封殺だ」
彼の声が、ブリッジに厳かに響き渡った。
「奴は天才かもしれん。だが、率いているのは旧式の巡洋艦たった一隻を旗艦とする、寄せ集めの『おとり艦隊』に過ぎん。戦力差は、こちらが圧倒的に上だ」
ベルガーの瞳に、老練な狩人ならではの冷たい光が宿る。
「我々は、奴の奇策に乗る必要はない。本隊はこの宙域で万全の陣形を維持する。シュタイナーの陽動部隊に、波状攻撃を仕掛けさせろ。じっくりと、時間をかけて、鼠を嬲り殺すようにな。奴がどんな奇策を弄しようとも、援軍も補給もない状況ではいずれ必ず消耗する。我々は、奴が力尽きて沈むのを、ここでゆっくりと待つだけでいい」
それは、大艦隊を率いる者が取りうる、最も堅実で、最も屈辱的な戦術だった。
相手を好敵手と認めず、ただの害獣として、時間をかけて嬲り殺す。
老将ベルガーが、若き天才カイ・シラヌイに対して用意した、最大限の「敬意」の形であった。
彼が、カイ・シラヌイの真の目的が「戦わずに相手が疲れて帰るのを待つ」という、自分と全く同じ結論に至っていることなど、知る由もなかった。
こうして、銀河史上まれに見る、壮大な「お見合い」の幕が切って落とされたのである。
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旗艦「ネメシス」第一ブリッジ。
その中央に設置された司令官席に、カイ・シラヌイは深々と身を沈めていた。その表情は泰然自若。まるでこれから始まる死闘を、観劇でもするかのように落ち着き払っている。
(近い近い近い! 席がスクリーンに近すぎる! もう少し後ろに下げてくれんか! 敵の光点がデカくて怖いんだよ!)
もちろん、内心はそれどころではなかった。メインスクリーンに表示される、自軍を示す一点の青い光と、それを遥かに上回る数の赤い光点。その絶望的な戦力差に、彼はすでに半泣き状態だった。
「敵部隊、三方向より急速接近! 距離五千!」
「第一波、アタック・ポッド発進! 数、およそ三千!」
「敵艦隊より強力なジャミング! 通信及び索敵レーダーにノイズ!」
ネメシスのブリッジに、オペレーターたちの緊張に満ちた声が飛び交う。
メインスクリーンには、漆黒の宇宙を引き裂いて殺到する無数の光点――敵のアタック・ポッド――が映し出されていた。その光景は、まるで巨大な蟲の群れが獲物に襲いかかるかのようで、生理的な嫌悪感と恐怖を掻き立てる。
来た。
ついに来てしまった。
「司令! ご決断を!」
若き女性オペレーター、リーゼロッテ・シュミットが悲鳴に近い声を上げた。
もう敵のミサイルが目視できる距離まで迫っている。
「うろたえるな」
カイの声は、不思議なほど冷静だった。
(俺が一番うろたえてるわ!)
「全艦、10秒後に回避運動パターン・デルタへ移行。敵の第一波は、最小限の動きでやり過ごす。いいな?」
「「「はっ!」」」
ブリッジのクルーたちが、一斉に指示に応える。その声には、司令官への絶対的な信頼が満ちていた。
カイの命令一下、ネメシスを中心とした十五隻の艦隊が、まるで一つの生き物であるかのように、滑らかな動きで陣形を変える。
その直後、彼らが今までいた空間を、凄まじい数のミサイルとレーザーが薙ぎ払った。
爆炎が宇宙に咲き乱れる。
「て、敵の第一波、完全に回避! 損害、軽微!」
オペレーターが、信じられないといった声で報告する。
神がかり的なタイミング。
まるで、敵の攻撃がどこに着弾するかを、寸分の狂いもなく予測していたかのような、完璧な回避。
ブリッジが、どよめきに包まれた。
「す、すごい……!」
「司令……! まるで、敵の攻撃が全て見えているかのようです……!」
リーゼロッテが、憧憬の眼差しでカイを振り返る。
カイはそんな彼女に、ふっと穏やかに微笑みかけた。
(当たり前だ! この攻撃パターンは、俺が前世で千回は見た『アストロ・サーガ』のチュートリアルステージと全く同じなんだよ! AIの思考パターンなんざ、お見通しなんだよ、バーカ!)
そう、カイはゲーム知識をフル活用して、完璧な回避機動を指示していたのである。
彼の脳は、この瞬間、一つの超高性能演算装置と化していた。前世で蓄積した「アストロ・サーガ」という名の膨大なデータベース。そこに、リアルタイムで流れ込む敵の配置、弾道、エネルギー量といった無数の変数を代入し、コンマ数秒で最適解を弾き出す。常人ならば情報の奔流に溺れるだけのその作業を、彼は鼻歌交じりでやってのけるのだ。
これが、彼の言う「圧倒的な防衛指揮」の正体であった。……もちろん、その超高性能CPUが計算している最終目標は「いかに楽して生き残るか」という、極めて低レベルなものであることを忘れてはいけない。
敵の攻撃は、第二波、第三波と、休む間もなく続けられた。まるでネズミをいたぶる猫のように、執拗に、そして多角的に。
だが、その全てを、カイは完璧に捌ききった。
彼の指示は常に的確で、無駄がなかった。
「艦首、仰角5。3秒後に来る」
「右舷、第3象限。弾幕密度を120%へ。そこが崩れる」
「イオンフレア、座標070にプリセット。タイミングは任せる。必ず食いつく」
その光景は、もはや芸術の域に達していた。
ブリッジのクルーたちは、いつしか恐怖を忘れ、目の前で繰り広げられる神の御業に、ただただ魅入られていた。
我らが司令は、やはり本物の「魔術師」だったのだ、と。
だが、その熱狂に水を差す者がいた。
カイ・シラヌイが神の御業を演じる旗艦のブリッジとは対照的に、駆逐艦「フューリー」の艦橋は絶対零度の静寂に支配されていた。その中央、艦長席に座るレナ・ユキシロは、ただ冷徹に、あの男の化けの皮が剥がれる瞬間を待っていた。
(……おかしい)
彼女は、この戦況に言いようのない違和感を覚えていた。
確かに、カイ・シラヌイの防御指揮は完璧だ。天才的と言ってもいい。
だが、なぜ攻撃しない?
これだけの防御能力があるのなら、いくらでも反撃の隙はあったはずだ。
敵は陽動部隊。数こそ多いが、所詮は烏合の衆。こちらの精鋭が反撃に転じれば、一気に蹴散らすことも可能なはず。
なのに、この男はただ、避け続けているだけ。
まるで、戦う意思がないかのように。
そして、戦闘開始から三十分が経過した頃。
敵の波状攻撃が、ふと途切れた。
「……敵艦隊、動きを止めました」
リーゼロッテの報告に、ブリッジに安堵の空気が流れる。
カイは内心で、ガッツポーズを決めた。
(よし! 来た! 計画通り! 最初の15分で視聴者の心はガッチリ掴んだ! これで見せ場は十分だ。さあ、ここからはお待ちかね、退屈な膠着状態という名の「感動VTRを流すための尺稼ぎ」タイムと行こうじゃないか!)
「……司令。いかがいたしますか? 今なら、反撃も可能かと……」
リーゼロッテが、進言する。彼女だけではない。ブリッジにいる誰もが、そう思っていた。これだけ完璧に敵の攻撃を捌いたのだ。今こそ、反撃の狼煙を上げる時だと。
だが、カイから発せられた命令は、彼らの予想を根底から覆すものだった。
「いや、動くな」
カイは、静かに、しかし有無を言わせぬ響きで言った。
「全艦、無駄弾を撃つな。エネルギーがもったいない。奴らにはおとなしく帰ってもらおう。」
ブリッジが、水を打ったように静まり返った。
誰もが、その命令の意味を理解できなかった。
無駄弾を撃つな?
エネルギーを温存しろ?
なぜ?
これほどの好機に、なぜ動かない?
オペレーターたちは、困惑の表情で顔を見合わせる。
だが、その中でリーゼロッテだけが、はっと息を呑んだ。
彼女の脳裏に、これまでのカイ・シラヌイの行動が、走馬灯のように駆け巡る。
肌触りの良い軍服。温かい食事。快適なベッド。そして、娯楽室の創設。
それら全てが、一つの線で繋がった。
(……そういう、ことか)
リーゼロッテの瞳に、畏敬と、そして狂信的なまでの光が宿った。
「違う…これは防御じゃない。来るべき必殺のカウンターのための、極限の駆け引き…!」
理解した。司令が支配しようとしているのは、空間ではない。時間そのものなのだ。
肌触りの良い軍服、温かい食事、快適なベッド、そして楽しい娯楽。この完璧な環境下にいる我々にとって、この膠着状態は苦痛ではない。むしろ快適な日常だ。我々の時間は、あっという間に過ぎていく。
だが、敵は違う。いつ攻撃されるか分からない恐怖、伸びきった補給線への不安、そして何も起こらない苛立ち。敵の兵士にとって、この一分一秒は地獄のような長さのはずだ。司令は、この艦を快適な空間にすることで、敵味方の体感時間を完全にコントロールしているのだ!
こちらは何日でも、何ヶ月でもこのままでいられる。だが、先に精神と時間が尽きるのは敵の方だ。敵の戦意が腐り落ち、自滅するか、あるいは最後のヤケクソの攻撃を仕掛けてきた、その最も脆くなった瞬間を叩く。これは、敵の心を内側から腐らせる、恐るべき時間稼ぎという名の攻城戦……!
彼女の壮大な勘違いは、ウイルスのようにブリッジ全体に伝染していく。
「そうか……! だからエネルギーの温存……!」
「我々の想像も及ばぬ、深いお考えがあったのだ……!」
「さすがだ……! さすがはカイ・シラヌイ司令……!」
クルーたちは、勝手に納得し、勝手に感嘆し、そして勝手にカイへの信仰を深めていった。
もちろん、当のカイ・シラヌイ本人は、そんな深遠な考えなど微塵も抱いていなかった。
(……え? なにそれ? 俺そんなこと考えてたの? まあ、なんか格好いいから、そういうことにしておくか)
カイは、部下たちの盛大な勘違いに便乗することを、即座に決定した。
彼は、深く頷くと、重々しく告げた。
「……その通りだ。よくぞ見抜いた。だが、この作戦は諸君の絶対的な信頼なくしては成り立たない。俺を信じ、沈黙を守れ。いいな?」
「「「はっ!!」」」
ブリッジのクルーたちが、まるで一つの声であるかのように、力強く応えた。
その瞳には、もはや疑いの色など微塵も残っていなかった。
ただ、神の言葉を信じる、敬虔な信徒の瞳があるだけだった。
一人、レナ・ユキシロを除いては。
彼女は、唇を強く噛み締めていた。
血が滲むほどの強さで。
(……違う。断じて違う)
あれは、作戦などではない。
あれは、ただの「臆病風」だ。
あの男、敵と戦うのが怖いだけなのだ。
だから、亀のように殻に閉じこもり、嵐が過ぎ去るのを待っている。
そのための、見え透いた口実だ。
(……許さない。この私が、お前の化けの皮を剥いでやる)
レナの凍てついた瞳の奥で、復讐の炎が、決戦の時を前に、これまでになく激しく燃え上がっていた。
だが、カイは彼女の様子がおかしいことなど全く気付いてもいなかった。
(そうだそうだ、もっと俺を崇めろ。俺は、お前たち凡人には理解できない高みから物事を見ているのだ。フハハハハ!)
この男、救いようがない。
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シリウス主権連合、第五艦隊陽動部隊旗艦「フレスベルグ」。
指揮官であるクルト・シュタイナー少佐は、忌々しげに舌打ちをした。
「……クソッ! なんだというんだ、あの男は……!」
彼の目の前のスクリーンには、微動だにしない敵艦「ネメシス」の姿が映し出されている。
こちらが仕掛けた三十分に及ぶ猛攻。その全てを、まるで子供の癇癪をあやすかのように、ひらりひらりとかわしきってみせた。
そして今、こちらの攻撃が止まったのを見ると、あろうことか、彼もまたピタリと動きを止めたのだ。
「……少佐。ベルガー提督より入電です。『予定通り、第四波攻撃を開始せよ』、と」
副官の報告に、シュタイナーはギリッと歯噛みした。
「分かっている!」
彼は、心の底からこの作戦に反吐が出そうだった。
波状攻撃。聞こえはいいが、要はただの嫌がらせだ。本隊は安全な場所で高みの見物を決め込み、自分たちだけが危険な前線で、的になる。
しかも、その相手が、全く反応を示さない。
「まるで、壁にボールを投げつけているようだ……。いや、違う。これは……」
シュタイナーの脳裏に、一つの光景が浮かんだ。
幼い頃、父親に連れて行ってもらった動物園。
巨大な肉食獣が、檻の前に群がる子供たちを、気だるげな、しかし絶対的な強者の目で見下ろしていた。子供たちが石を投げようが、大声で罵声を浴びせようが、その獣は微動だにしなかった。
我々はその子供で、カイ・シラヌイは、あの獣だ。
彼は、我々を相手にする価値もないと、そう判断しているのだ。
「……舐められたものだな」
シュタイナーの口から、低い声が漏れた。
彼は、典型的な軍人だった。誇り高く、そして血の気が多い。
この、じわじわと神経をすり減らすような戦いは、彼の性分に最も合わないものだった。
「どうするんだ、少佐? 提督の命令通りに、また無意味な攻撃を繰り返すのか?」
副官が、苛立たしげに尋ねる。
シュタイナーは、しばらくの間、沈黙していた。
彼の頭の中では、二つの選択肢が激しくせめぎ合っていた。
命令通り、無意味な消耗戦を続けるか。
あるいは、命令を無視してでも、あの不愉快な天才の鼻を明かすか。
「……おかしいと思わないか?」
シュタイナーは、独り言のようにつぶやいた。
「なぜ、奴は反撃してこない? こちらが攻撃を止め、これだけの隙を見せているというのに。奴が本当に天才ならば、この好機を逃すはずがない」
「それは……」
「……罠だ」
シュタイナーは、確信を込めて言った。
「奴のこの不気味な沈黙は、罠だ。我々が痺れを切らして、さらに深追いしてくるのを待っているのだ。我々が突出したところを、どこかに隠しているであろう別働隊で、一気に叩くつもりなんだ」
「べ、別働隊ですと!? しかし、斥候からの報告では……」
「斥候の目など、あの『魔術師』が欺けないはずがないだろう!」
シュタイナーは、自らの導き出した結論に、興奮と恐怖で打ち震えていた。
そうだ、そうに違いない。
あの卒業演習の時のように。
常識外れの、誰もが予想だにしない場所に、彼は牙を隠している。
危なかった。ベルガー提督の慎重すぎる命令が、結果として我々の命を救ったのだ。
「……全艦に通達! これより我が隊は、後退する!」
「こ、後退ですと!? 提督の命令は……!」
「黙れ! これは戦略的後退だ! 奴の罠に誘い込まれる前に、一度距離を取る! 提督には、私から報告する! 敵に、未知の策あり、とな!」
シュタイナーは、自らの判断が第五艦隊を救う英雄的な決断であると、微塵も疑っていなかった。
そして、彼のこの「英雄的な勘違い」が、カイ・シラヌイの「完璧な勘違い」と組み合わさることで、この奇妙な戦いを、さらに誰も予想のできない方向へと転がしていくことになる。
メインスクリーンの中で、赤い光点が、ゆっくりと後退を始めた。
その光景は、膠着した戦況が、ついに動き出すことを告げる、不気味な狼煙のようにも見えた。
こうして、ヴァルハラ星域に奇妙な静寂が訪れた。
片や、神の深謀遠慮を信じ、沈黙に勝利を確信する者たち。片や、未知の怪物を前に、その沈黙に恐怖し足がすくむ者たち。
そして、その全ての勘違いの中心で「計画通りだ」とほくそ笑む、たった一人の怠惰者。
このまま、カイ・シラヌイの完璧な作戦とやらは、成功してしまうのだろうか。
いや、断じて。
この宇宙の脚本家は、この哀れな道化に、これ以上の安息を与えるほど優しくはない。
なんて完璧な作戦なんだ!