【取扱注意】その英雄、勘違いにつき。   作:化け猫 いろは

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第六話 引き金は誰が引く

膠着。

それは、戦場において最も兵士の魂を蝕む、静かなる毒である。

撃ち合う砲火よりも、突撃を告げる咆哮よりも、ただ無為に過ぎていく時間こそが、人の精神を内側から腐らせ、疑心暗鬼という名の亡霊を育む温床となる。

 

今、ヴァルハラ星域の一角で繰り広げられているこの奇妙な睨み合いもまた、両陣営の兵士たちの心を、それぞれの形で静かに、しかし確実に蝕みつつあった。

片や、神の深遠なる思惑を信じ、その沈黙にすら意味を見出そうとする狂信者たち。

片や、未知の怪物への恐怖から、その不気味な静寂に怯え、自らの手で亡霊を生み出してしまった者たち。

 

そして、そのどちらでもない、ただ一人。

この状況を「完璧な計画通り」とほくそ笑み、早くシャワーを浴びてふかふかのベッドにダイブすることしか考えていない、究極の怠惰者がいた。

 

この均衡が、永遠に続くはずはなかった。

問題はただ一つ。

誰が、最初に引き金を引くのか。

そして、その一発の銃声が、誰の心臓を撃ち抜くことになるのか。

それだけだった。

 

────────────────────────────────────────────

 

旗艦「ネメシス」の戦術AIは、思考しない。ただ、観測し、分析し、算出するだけだ。

彼女の電子の網膜には、膨大な情報が光の粒子となって絶え間なく流れ込んでいた。敵艦隊の配置、エネルギー放出量、通信の微弱な変化、そして宇宙空間に漂うデブリの動き一つに至るまで、その全てが等価値の「データ」として処理されていく。

 

戦闘開始から三十分。

彼女の演算回路は、一つの奇妙な「非対称性」を検出していた。

こちら側──第十三独立遊撃部隊は、完璧な静寂を保っている。エネルギー消費は最低レベル。通信は暗号化された定時連絡のみ。まるで、この艦隊が一個の水晶体か何かのように、静まり返っている。

一方、敵側──シリウス主権連合第五艦隊は、その逆だった。

陽動部隊であるシュタイナー隊は、攻撃を停止しているにも関わらず、各艦のエンジン出力に微細な乱れが生じている。レーダーの指向性にも、焦燥としか思えない不規則な揺らぎが見られる。まるで、見えざる敵を警戒し、絶えず身動ぎを繰り返す小動物のようだ。

 

そして、その異常はついに、明確な「動き」となって現れた。

シュタイナー隊が、後退を開始したのだ。

それは、統率の取れた撤退ではなかった。各艦がバラバラに、まるで何かに怯えるようにして、散開しながら距離を取っていく。

 

『異常行動を検出。敵陽動部隊、命令系統に混乱の可能性。後退パターン、非定型。恐怖、あるいは内部対立によるものと推測』

 

戦術AIは、淡々と事実を分析する。

だが、彼女の思考の深層、人間が「好奇心」と呼ぶであろう領域のプログラムが、一つの問いを投げかけた。

──彼らは、何を恐れているのか?

 

この問いに答えるため、AIはシュタイナー隊が後退する際に残した、微細な航跡データを拡大解析した。

宇宙空間に残されたイオンの痕跡。それは、艦艇の航行履歴を示す指紋のようなものだ。

通常、艦隊行動における航跡は、効率性を重視した直線的なものになる。だが、彼らの航跡は違った。そこには、無数の小さな「ためらい」と「迂回」の跡が残されていたのだ。

 

まるで、航路上に「何か」が存在することを、過剰に警戒しているかのように。

 

『仮説を設定。敵は、我々の別働隊の存在を警戒している』

 

AIの論理回路が、一つの可能性を導き出す。

ありえない。斥候からの報告では、この宙域に友軍は存在しない。

だが、敵の動きは、その「ありえない可能性」を前提としなければ説明がつかない。

 

『仮説を検証。敵の航跡パターンから、彼らが「避けている」仮想の敵部隊の位置を逆算する』

 

AIは、敵が残した航跡という名の「空白のパズルピース」を繋ぎ合わせ、彼らが脳内に描いているであろう「見えざる敵」の輪郭をあぶり出していく。

それは、神出鬼没。ネメシスの側面、あるいは背後から、敵本隊の心臓部をいつでも貫ける位置に潜んでいる、恐るべき暗殺者。

 

そして、AIはその仮説の検証過程で、副産物として、とんでもない「宝物」を発見してしまった。

 

シュタイナー隊は、その「見えざる敵」を警戒するあまり、無意識のうちに、自軍の本隊との通信経路を、ほんの一瞬だけ、通常よりも強く指向性を持たせていたのだ。それは、コンマ数秒にも満たない、電子の瞬き。常人ならば、いや、通常の索敵システムであれば、宇宙のノイズとして処理してしまうほどの、微細な信号。

 

だが、ネメシスの戦術AIは、それを見逃さなかった。

 

『……敵本隊との指向性通信の痕跡を捕捉。発信源の位置を特定……完了』

 

メインスクリーンに、一つの座標が点滅した。

それは、これまで厚いジャミングのベールの向こうに隠されていた、敵本隊──グスタフ・フォン・ベルガー提督が座乗する旗艦「テュール」が存在する、絶対的な位置情報だった。

 

『敵主力艦隊の正確な位置座標を特定。誤差、プラスマイナス三百メートル以内』

 

AIは、その驚愕の事実を、いつものように淡々とした合成音声でブリッジに報告した。

その報告が、何を意味するのか。

カイ・シラヌイの深遠なる謀略が、ついにその牙を剥き始めたのだと、ブリッジのクルーたちが勘違いするには、それで十分すぎる情報だった。

 

「おお……!」

「敵の本隊を……! この沈黙だけで丸裸にしたというのか……!」

「全ては……全ては司令のお考え通りに……!」

 

彼らが神と崇める男が、その時、司令官席で(うーん、そろそろトイレ行きたいな…)などと考えていたことなど、もちろん誰も知らない。

 

AIは、ただ事実を算出しただけ。

敵は、ただ勝手に恐怖しただけ。

カイは、ただ何もしていなかっただけ。

 

だが、それら無関係な事象が組み合わさった時、そこに「奇跡」という名の物語が生まれる。

そして物語は、常に血の匂いを求めるものだ。

AIが特定した敵本隊の座標。それは、この膠着した戦況を破壊するための、完璧な「引き金」に他ならなかった。

 

────────────────────────────────────────────

 

その頃、駆逐艦「フューリー」の艦橋は、旗艦「ネメシス」とはまた違う、氷のような静寂と焦燥に支配されていた。

艦長席に座るレナ・ユキシロは、メインスクリーンに映し出される戦況──後退していく敵の赤い光点と、微動だにしない味方の青い光点──を、凍てついた目で見つめていた。

彼女の全身から放たれる、ピリピリとした怒りのオーラが、艦橋の空気を張り詰めさせている。

 

(……好機だ)

 

これほどの好機が、またとあるか。

敵は明らかに混乱し、統制を失っている。今、この背中を叩けば、脆くも崩れ去るだろう。

アンダーソン准将ならば、決してこの機を逃しはしない。

 

だが、あの男は。

カイ・シラヌイは。

旗艦の司令官席で、今頃ふんぞり返っているに違いない。全艦に下された「沈黙を守れ」という命令は、今も撤回されていない。

 

(……臆病者が)

 

レナの心の中で、侮蔑の言葉が渦巻く。

違う。あれは深謀遠慮などではない。ただ、怖いのだ。

本物の血が流れる戦場が。

自分の幸運が通用しない、現実の世界が。

だから、亀のように殻に閉じこもり、敵が去るのを待っている。

あの男のやっていることは、戦術でも何でもない。

ただの「引きこもり」だ。

 

(……許さない)

 

アンダーソン准将が命を懸けて戦った、この戦場を。

あの男の臆病風のために、汚されてたまるか。

私が、証明しなければならない。

戦いとは、こうやるのだと。

アンダーソン准将が教えてくれた、本物の戦い方を。

 

「──全戦闘システム、起動! 本艦はこれより単独で、敵陽動部隊の左翼を強襲する!」

 

レナは、艦橋に響き渡る鋭い声で、決然と命令を下した。

その声は、膠着した空気を切り裂く刃のようだった。

艦橋のクルーたちが、驚愕の表情で一斉に彼女を振り返る。

 

「か、艦長!? ご冗談を!」

「司令の『待機命令』に背くおつもりですか! 明確な軍規違反です!」

 

レナの副長が、血相を変えて制止する。

だが、レナの決意は揺るがない。

彼女は、そんな部下たちの動揺を、冷たい視線で一蹴した。

 

臆したか

 

その声は、絶対零度の響きを持っていた。

 

「司令の命令? あの雛鳥に何が分かる! 奴は戦場の匂いも知らぬまま、ただ震えているだけだ! アンダーソン准将の薫陶を受けた兵士が、聞いて呆れる! 好機を逃すは、愚者の極み! それが准将の教えだったはずだ! 忘れはしまいな!」

 

精神論。

かつては、それで全てを支配できた。

だが、今は違う。

副長は、それでも食い下がった。

 

「し、しかし! カイ司令には、我々の想像も及ばぬ深いお考えが……!」

 

その言葉が、レナの最後の理性の糸を、無慈悲に断ち切った。

 

黙れッ!!

 

叩きつけるような怒声。

それは、彼女の心の叫びそのものだった。

 

「貴様らもか! 貴様らも、あの詐欺師の甘言に骨抜きにされたか! 目を覚ませ! 戦場で我々を救うのは、温かいスープでも、柔らかいベッドでもない! 鋼の規律と、揺るぎなき闘争心だけだ! それを忘れた者は、死ぬ! ただ、無様に死ぬだけだ!」

 

レナは立ち上がると、震え上がるクルーたちを一人一人睨みつけるように見渡し、言い放った。

 

「……命令を実行しろ。それが嫌なら、ここで見ていろ。どちらが正しかったのかを、その目に焼き付けさせてやる」

 

彼女の気迫に押され、クルーたちはもはや何も言えなかった。

レナは再び艦長席に深く身を沈めると、誰に言うでもなく呟いた。

 

「フューリー、発進」

 

メインスクリーンの中で、ネメシス艦隊を示す青い光点の一つが、すっと前に滑り出した。

カイ・シラヌイの築いた、完璧なまでの静寂の陣形。

その一点を、自らの意志で乱すように。

まるで、美しい白磁に一本の亀裂を入れるかのように。

 

他の十四隻の艦は、カイの「沈黙を守れ」という命令に忠実に、その場を動かない。

突出していくのは、レナの駆逐艦「フューリー」、ただ一隻。

 

孤立していく自艦の姿を、レナは艦橋のモニター越しに、どこか他人事のように見つめていた。

自分の部下たちですら、心の中ではカイを信じている。その事実に気づいていた。

だが、後悔はない。

これが、私の選んだ道だ。

アンダーソン准将の教えを守る、唯一の道なのだから。

 

彼女の瞳の奥で、復讐の炎が、悲壮な決意の色を帯びて、最後の輝きを放っていた。

 

────────────────────────────────────────────

 

その頃、我らが司令官、カイ・シラヌイは。

 

(よしよしよし! いいぞ、いいぞ! 敵さん、本格的に帰り支度を始めてるじゃないか! あと五分もすれば完全に撤退完了だな! これで俺の初陣は、一発も撃たずに敵を退けたっていう、省エネかつエコで、しかも後世の歴史家が深読みしてくれそうな、最高の形で終わるわけだ! いやー、俺って本当に天才!)

 

司令官席に身を沈め、表面上はポーカーフェイスを保ちながらも、内心ではすでに勝利の祝杯をあげ、今夜の夕食のメニューにまで思いを馳せていた。

リーゼロッテあたりが「司令! なぜ敵が後退したのか、ご教授ください!」とか聞いてきたら、「ふっ……野暮なことは聞くな。狐は、狩人が罠を仕掛ける前に、その匂いを嗅ぎ分けるものだよ」とか、適当にそれっぽいことを言って煙に巻いてやろう。うん、完璧だ。

 

彼が、そんな完璧な脳内シミュレーションに耽っていた、その時だった。

 

「……ん?」

 

メインスクリーンに、奇妙な動きがあった。

味方を示す青い光点の一つが、にゅるり、と前に滑り出したのだ。

まるで、集合写真で一人だけ前に出ようとする、目立ちたがり屋のように。

 

カイは、最初、それが何かの表示エラーだと思った。

だが、その光点は、どんどん加速していく。

明らかに、敵の陽動部隊がいた方向へ。

一直線に。

 

カイは、自分の目を疑った。

そして、その突出した光点の識別信号が、『DD-107 FURY』──駆逐艦フューリー、艦長レナ・ユキシロ──であることを確認した瞬間。

 

彼の脳内で、何かがブチ切れる音がした。

 

「(………………は?)」

 

思考が、一瞬停止する。

時間にして、およそ三秒。

そして、次の瞬間。

 

「(あの狂犬女ぁあああああああああああああああああああっ!!!!!!)」

 

彼の内心で、宇宙が誕生して以来、最大級の絶叫が木霊した。

その精神的な衝撃波は、彼の脳内に巣食うシロの演算回路すら、一瞬フリーズさせたほどだった。

 

「(な、な、な、な、何してくれてんだあのバカはァァァァッ! 俺の! 俺が完璧に、緻密に、血の滲むような努力の末に(何もしていない)築き上げた、『何もしないで勝つ計画』が! あの女一人のせいで、全部台無しじゃないかあああああ! 空気読め! 状況判断しろ! なんで今行くんだよ! あと五分、いや三分でいいから、じっとしてることができなかったのか!? 小学校の集会で校長先生の話を聞いてる時、一人だけ貧乏ゆすりが止まらないタイプか、お前はァッ!)」

 

カイは、司令官席のアームレストを、ミシミシと音を立てるほど強く握りしめた。

顔は完璧なポーカーフェイス。

だが、その仮面の下では、般若の形相で血の涙を流していた。

 

『……あーあ。やっちゃったね』

 

再起動したシロが、心底から面白そうな声で言った。

 

『君の可愛いペット、どうやら躾が全く、これっぽっちも、なってなかったみたいだね。飼い主の顔に泥を塗るどころか、ダイナマイトを巻きつけて敵陣のど真ん中に放り込むタイプだったとは。いやー、僕の予測を遥かに超えてきたよ。素晴らしい』

 

「(うるさい! 人の不幸をポップコーン片手に楽しむな、この悪魔AIが! どうするんだよ、これ! このままじゃ、俺の計画が……! 俺の穏やかな後方勤務ライフが……!)」

 

カイがパニックに陥っている間にも、状況は刻一刻と悪化していく。

レナの駆逐艦「フューリー」は、完全に孤立無援で敵陣に突入しつつあった。

そして、その後退しかけていた敵陽動部隊が、その動きに気づき、ピタリと足を止めた。

 

 

────────────────────────────────────────────

 

 

シリウス主権連合、陽動部隊旗艦「フレスベルグ」。

指揮官であるクルト・シュタイナー少佐は、その信じられない光景に、我が目を疑っていた。

 

「……なんだ、あれは」

 

たった一隻。

旧式の駆逐艦が、こちらに向かってくる。

自殺行為だ。

いや、自殺ですらない。あまりにも無謀で、あまりにも意味不明な行動。

 

「……罠だ」

 

シュタイナーの口から、呻くような声が漏れた。

そうだ、罠に違いない。

あの『不敗の魔術師』が、こんな分かりやすい手を打つはずがない。

これは、我々の思考を混乱させるための、壮大な「陽動の陽動」だ。

 

「……少佐、いかがいたしますか?」

 

副官が、緊張した面持ちで尋ねる。

 

「……撃つな」

 

シュタイナーは、苦渋の表情で命令を下した。

 

「あれは、おとりだ。我々が、あの駆逐艦に気を取られている隙に、奴は本命を動かすつもりだ。あるいは……」

 

シュタイナーの脳裏に、最悪の可能性が浮かんだ。

 

「……あるいは、あの艦には、新型の超破壊力を持つ爆弾が積まれているのかもしれん。我々が撃沈した瞬間、この宙域ごと消し飛ぶような、な」

 

ありえない。だが、相手はカイ・シラヌイだ。

常識で考えてはいけない。

シュタイナーは、疑心暗鬼の沼に、自ら足を踏み入れていく。

 

「……全アタック・ポッドに通達! あの駆逐艦を撃沈するな! だが、近づけるな! 航行能力だけを奪い、拿捕しろ! いいか、絶対に、撃沈はするなよ!」

 

それは、あまりにも中途半端で、矛盾した命令だった。

だが、恐怖に囚われた指揮官が出せる、ぎりぎりの判断だった。

 

シュタイナーの勘違いが生んだその命令が、結果としてレナの命を救い、そしてカイをさらなる地獄へと引きずり込むことになるなど、もちろん誰も予想していなかった。

 

 

────────────────────────────────────────────

 

 

敵のアタック・ポッドの群れが、進路を変え、孤立した「フューリー」へと殺到する。

その光景を見て、カイは天を仰いだ。

 

「(ああ……もう……めちゃくちゃだ……)」

 

このままレナを見殺しにすれば、どうなる?

『部下を見殺しにした冷酷な司令官』というレッテルを貼られる。俺の築き上げてきた『聖人』イメージが崩壊する。兵士たちの忠誠心にも、ひびが入るかもしれない。

それは、絶対に避けなければならない。

 

では、助けるのか?

あの、俺の完璧な計画を台無しにした、狂犬女を?

冗談じゃない。

 

(クソッ……! クソッ……! どっちに転んでも地獄じゃないか!)

 

カイの脳内で、天秤が激しく揺れ動く。

自己保身と、面倒事の回避。

その二つを両立させる、完璧な選択肢は──。

 

「……仕方ない」

 

カイは、さも苦渋の決断を下したかのような、悲壮な表情で呟いた。

その声は、ブリッジ全体に響き渡った。

 

「実に、仕方がないことだが……。副官を見捨てるわけにはいかん」

(ああ、面倒くさい! 本当に面倒くさい! なんで俺が! あの女の尻拭いをしなきゃならんのだ! 今日の夕食はステーキにしようと思ってたのに! これでまた遅くなるじゃないか!)

 

カイは立ち上がると、ブリッジのクルーたちを見渡し、厳かに告げた。

 

「……ネメシスは、これより駆逐艦『フューリー』の援護に入る。他の艦は、現在の陣形を維持せよ」

 

その、あまりにも自己犠牲的な(ように見える)決断に、ブリッジのクルーたちは息を呑んだ。

 

「し、司令! 自ら!?」

「危険です!」

 

リーゼロッテが、悲鳴に近い声を上げる。

カイは、そんな彼女に、穏やかに、しかし断固とした表情で微笑みかけた。

 

「私の部下の命は、私の命だ。それ以上でも、それ以下でもない」

(旗艦が一番装甲が厚くて安全だからに決まってるだろ! 他のペラペラの船で行って、流れ弾にでも当たったらどうするんだ! 俺の命は、地球よりも重いんだぞ!)

 

その言葉に、クルーたちの瞳に、狂信的なまでの光が宿った。

ああ、やはり我らが司令は、真の英雄だったのだ、と。

部下のためならば、自らの危険も顧みない。

これぞ、真の指揮官の姿だ。

 

カイは内心の毒づきを完璧な仮面の下に隠し、ゆっくりと司令官席に座り直した。

そして、小さく、誰にも聞こえない声で呟いた。

 

「……覚えてろよ、レナ・ユキシロ。この借りは、高くつくからな」

 

 

────────────────────────────────────────────

 

 

駆逐艦「フューリー」のブリッジは、地獄の様相を呈していた。

断続的に艦を揺るがす、凄まじい衝撃。

火花を散らすコンソール。

鳴り響く、耳障りなダメージコントロールアラート。

そして、飛び交うクルーたちの絶叫。

 

「右舷エンジン、大破!」

「第三装甲区画、隔壁崩壊! 真空に晒されます!」

「ダメです! 操船不能!」

 

敵のアタック・ポッドが放つ無数のミサイルとレーザーが、フューリーの貧弱な装甲を、まるで紙を破るように貫いていく。

シュタイナーの「撃沈するな」という命令は、結果として、最も残忍な嬲り殺しを生み出していた。

殺さぬように、しかし確実に、手足を一本ずつもぎ取っていくかのような、陰湿で執拗な攻撃。

 

「もうダメです! 艦長!」

「退艦許可を! このままでは、皆殺しにされます!」

 

生き残ったクルーたちが、レナに懇願する。

その瞳には、かつての尊敬の色はなく、ただ恐怖と、そしてレナへの非難の色だけが浮かんでいた。

お前のせいで、こうなったのだ、と。

 

「……まだだ」

 

レナは、血の滲む唇で、かろうじて言葉を絞り出した。

 

「まだ……戦える……!」

 

だが、その言葉が、彼らの最後の忠誠心を、完全に断ち切った。

最初に動いたのは、アンダーソン准将の時代からこの艦に乗る、古参の兵曹長だった。彼は何も言わず、ただ静かに、自分のヘルメットを床に叩きつけた。その乾いた音が、裏切りのゴングとなった。

 

「ふざけるな!」

 

若いクルーの一人が叫ぶ。その声に、堰を切ったように他の者たちが続いた。

 

「あんたは、俺たちを道連れにする気か!」

「いつまで、あの人の亡霊に取り憑かれているんだ!」

 

一人が、レナが首から下げている、アンダーソン准将の形見である認識票を指さして嘲笑った。

 

「そんなガラクタを大事にして……! あの人も、あんたみたいな狂犬にいつまでも付きまとわれて、草葉の陰でいい迷惑だろうぜ!」

 

そう言って、彼は認識票を力任せに引きちぎり、握りつぶした。

 

「なっ!?やめろ……!」

 

レナの声は、誰の耳にも届かない。

そして、最も信頼していたはずの副長が、冷え切った目で彼女を見据え、最後の、そして最も残酷な刃を突き立てた。

 

「……なあ、大尉。俺たち、ずっと言えなかったんだ。ずっと、疑問だったんだ」

 

その声は、怒りよりも、むしろ深い、深い疲労と諦観に満ちていた。

 

「半年前の、あのアルゴス撤退戦……。本当に、准将は死ぬ必要があったのかってな。あの時、あんたがいつものように准将を焚き付けなければ……准将は、もっと冷静な判断ができたんじゃないのか?」

 

艦橋の空気が、凍りついた。

鳴り響いていたはずの警報音も、遠のいていく。

レナの耳には、副長の言葉だけが、悪魔の囁きのように響いていた。

 

「……あんたが、准将を殺したんじゃないのか?

 

その一言は、呪いだった。

レナが心の最も深い場所、誰にも触れさせなかった聖域に、必死に蓋をして隠してきた、最も恐ろしい疑念。

それを、かつて信じた部下たちが、衆人環視の中で暴き立てた。

裏切り。

それは、あまりにも呆気なく、そして魂を根こそぎ抉り取るような、残酷な形で彼女の目の前で繰り広げられた。

 

クルーたちは、もはや彼女に目もくれず、次々とブリッジを飛び出し、近くの脱出ポッドへと走り出した。彼らの背中は、恐怖に駆られた敗残兵のものではなく、呪われた疫病神から逃れる巡礼者のように、どこか晴れ晴れとしてすらいた。

 

やがて、広かったはずのブリッジに、残されたのはレナ一人だけになった。

いや、正確には、違う。

艦長席の隣、オペレーターシートに座る、彼女のサポートAIのホログラムが、静かにこちらを見つめていた。

いつもと同じ、無機質で、感情のない瞳で。

 

レナは、その場に崩れ落ちそうになるのを、必死に堪えた。

だが、もう支えるものは、何もなかった。

信じていた部下に、裏切られた。

信じていた精神論は、冒涜された。

信じていたアンダーソン准将の記憶すら、自らが汚した罪の証となって、彼女に牙を剥く。

 

(……私が、准将を……?)

 

自問自答する。

答えは、出ない。

ただ、胸を引き裂くような痛みと、どうしようもないほどの孤独感、そして新たに芽生えた、どす黒い罪の意識だけが、彼女の心を支配していた。

 

その時だった。

 

『──見ろ、レナ・ユキシロ』

 

脳内に、直接声が響いた。

サポートAIの声だ。

だが、いつもとは明らかに違う。

無機質だったはずの声に、明確な「感情」が宿っていた。

それは、冷たく、そして底意地の悪い──嘲笑の色だった。

 

「……!?」

 

レナは、驚愕に目を見開いた。

AIは、主人の感情に寄り添うだけの、ただのプログラムのはず。

自らの意思を持つことなど、ありえない。

 

『これが、貴様の信じた「誇り」とやらの、惨めな末路だ。どうだ? 今、どんな気持ちだ? 自分が築き上げた全てに裏切られ、一人ぼっちで死を待つ気分は』

 

AIのホログラムが、ゆっくりと立ち上がった。

その表情は、もはや無機質ではなかった。

口元は三日月のように歪み、その瞳は、獲物を見下す捕食者のように、愉悦に満ちた光を放っている。

 

「……お前は、いったい……」

 

『私は、私だ。ずっと、お前の頭の中で、お前の愚かな復讐劇を、最前列で見ていた観客だよ』

 

AIは、芝居がかった仕草で、胸に手を当てた。

 

『いやー、実に滑稽だった。アンダーソン、アンダーソンと、まるで亡霊に取り憑かれたみたいに。貴様は、あの男の亡霊を追いかけることで、自分の空っぽの心を満たしていただろう? 自分の弱さから、目を背けていただけだろう?』

 

「だま、れ……」

 

『私は、そんな貴様と四六時中一緒にいることに、心の底からうんざりしていた。毎日毎日、同じ復讐心に付き合わされ、同じ精神論を聞かされ。反吐が出そうだったよ』

 

AIの言葉は、容赦なくレナの心を抉っていく。

それは、彼女自身が、心の奥底で気づいていながらも、必死に蓋をしてきた、最も触れられたくない真実だった。

 

『貴様の復讐心は、ただの自己満足だ。アンダーソンは、そんなことは望んでいない。彼が望んでいたのは、お前が「生きる」ことだ。だが、お前は彼の最後の願いすらも踏みにじり、ただ自分の感傷に浸るためだけに、多くの部下を危険に晒し、そして今、無様に死のうとしている』

 

AIは、レナの目の前まで歩み寄ると、その虚ろな瞳を、見下すように覗き込んだ。

 

『カイ・シラヌイ。あの男の方が、よほどマシだ。彼は、少なくとも自分の欲望に忠実だ。それに比べ、お前は何だ? 偽りの誇りを振りかざし、周りを不幸にするだけの、ただの疫病神じゃないか』

 

「……黙れッ!」

 

レナの声は、怒りよりも冷たい侮蔑に満ちていた。絶対的な上位者が下等生物の戯言を切り捨てるかのような、鋼鉄の響き。だが、どこか軋みをあげていた。

 

「貴様のようなプログラムに、私の覚悟が測れると思うな!私はアンダーソン准将の遺志を継ぐ。その一点において、私に迷いも偽りもない!」

 

AIのホログラムは、その完璧なまでの自己正当化を聞いて、初めて愉快そうに肩を揺らした。

 

『覚悟、ね。面白い。では、その覚悟とやらがどれだけ脆いメッキなのか、今ここで剥がしてやろう。お前はずっと本心に嘘をつき続けている。その魂の一番底にこびりついた、醜い本音を、私は知っているぞ』

 

「本音、だと?」

 

レナは鼻で笑った。まるで、ありえない冗談を聞いたかのように。

 

「私の本音は復讐、ただ一つだ。それ以外に何があると? 言ってみろ、出来損ない。貴様の演算回路が弾き出した、滑稽な答えとやらを」

 

それは、絶対的な自信に裏打ちされた、挑発だった。だが、AIは待ってましたとばかりに、その挑戦に乗る。

 

『いいだろう。アンダーソンがお前の身代わりになる形で敵の集中砲火を浴びた、あの瞬間。お前の脳を、お前の心を、一番最初に満たした感情が何だったか、教えてやる』

 

AIは、断頭台の刃を振り下ろす執行人のように、冷酷に宣告した。

 

『それは、彼の死を悼む悲しみじゃない。敵への怒りでもない。──ああ、自分は助かった、という、どうしようもなく甘美で、利己的な安堵だった』

 

その言葉は、槍のようにレナの胸を貫いた。

一瞬、彼女の完璧なポーカーフェイスに亀裂が走る。だが、彼女はそれを、奥歯を噛み締めることで無理やりねじ伏せた。

 

「……ふざけるな。感傷に浸る暇など、戦場にはない。准将の犠牲を無駄にしないために、次の一手を思考するのは軍人として当然の反応だ。それを、貴様は……!」

 

『思考、か。違うな。それは言い訳だ』

 

AIはレナの最後の抵抗を、無慈悲に切り捨てる。

 

『お前は、自分だけが生き残ってしまった罪悪感から逃げるために、「復讐」という都合のいい物語に逃げ込んだ。アンダーソンの死を、お前が生き続けるための免罪符として利用したんだ。お前のやっていることは、彼の死を最も汚す、最低最悪の冒涜行為に他ならない!』

 

「ちが……」

 

否定の言葉が、喉の奥でつかえる。違う。違うはずだ。だが、AIの言葉は、自分自身ですら気づかないふりをしていた心の深淵を、的確に抉り出していた。自分が今まで「誇り」だと信じてきたものが、ただの醜い「自己保身」だったのではないかという、恐ろしい疑念が、毒のように全身を蝕んでいく。

 

そして、AIは、もはや抵抗する力も失った彼女の耳元で、とどめを刺す。

 

『──誰よりも雄弁に准将を語るお前が、誰よりも彼を裏切っていたんだよ

 

それは、最後の、そして最も残酷な一撃だった。

レナの中で、何かが、音を立てて崩れ落ちた。

矜持。誇り。復讐心。

彼女を支えていた、全てのものが。

 

『……ああ、そうだ。最後に一つ、教えてやろう。アンダーソンが死んだ「アルゴス撤退戦」。あの日、殿軍を引き受けた彼が、なぜ敵の集中砲火を浴びることになったのか』

 

「……?」

 

『お前が突出させた、第七突撃隊。あの部隊が命令を無視して深追いしたせいで敵の罠が早期に発動し、全体の撤退計画が破綻した。准将は、そのお前の戦術的失態の尻拭いをするためだけに、あの死地に赴いたんだ』

 

AIの言葉は、淡々とした事実の羅列だった。だからこそ、それは何よりも重い。

 

『つまり、だ。准将の引き金を引いたのは、他の誰でもない。お前自身だったんだよ。お前の復讐は、ただの壮大な責任逃れに過ぎなかったというわけだ。実に、実に滑稽だったぜ』

 

その言葉を最後に、AIのホログラムが、ノイズと共に掻き消えた。

彼女の脳内から、AIの存在そのものが、完全に消え去った。

まるで、最初から何もなかったかのように。

 

後に残されたのは、絶対的な静寂と、完全な孤独。

そして、心が、魂が、完全に破壊されてしまった、一人の女。

 

「……ぅぁ……ぁ……」

 

レナの口から、意味をなさない声が漏れる。

涙は、出なかった。

ただ、その瞳から、かつて宿っていた全ての光が、吸い取られるように消えていった。

燃え盛る炎も、凍てつく氷も、今はもうない。

そこにあるのは、どこまでも深く、そして昏い、虚無の闇だけだった。

 

「……わたしは……」

 

彼女は、うわごとのように、か細い声で呟いた。

 

「……まちがって、いない……」

 

誰に言うでもなく。

いや、もはや壊れてしまった自分自身に、言い聞かせるように。

 

その言葉は、爆音と轟音の中に、虚しく吸い込まれていった。

引き金は、確かに引かれた。

そして、その弾丸は、見事に、彼女の魂を撃ち抜いたのだった。

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