【取扱注意】その英雄、勘違いにつき。   作:化け猫 いろは

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第八話 狂犬はかく語りき

歴史とは、常に勝者によって記述される、都合のいい物語である。

そして、物語である以上、そこには必ず「主人公」と、その偉業を彩るための「劇的な演出」が必要となる。

後世の歴史家たちは、この「ヴァルハラの戦い」をこう記すだろう。

 

──若き英雄カイ・シラヌイは、絶望的な戦力差を覆すため、あえて完全な沈黙を選んだ。それは、敵将の精神を内側から破壊するための、恐るべき心理戦であった。彼の副官レナ・ユキシロの捨て身の突撃すら、敵の陣形を乱し、その心に疑心暗鬼という名の毒を注ぎ込むための、計算され尽くした布石だったのである。英雄の静かなる怒りが神の一撃となって敵旗艦を穿った時、勝敗は決した。それは、個の天才が、数の暴力を凌駕した、歴史的な瞬間であった、と。

 

実に、美しく、そして英雄的な物語である。

もちろん、その物語に、当の主人公である男が、ただ家に帰ってふかふかのベッドで眠りたいと願っていただけの、究極の怠惰者であったなどという、不都合な真実が記されることは、決してない。

物語は、いつだって真実よりも面白いものなのだ。

そして、その面白さを加速させる、最も優れた燃料は、常に「狂信」という名の、制御不能な炎なのである。

 

────────────────────────────────────────────

 

旗艦「ネメシス」のブリッジは、狂乱の坩堝と化していた。

本来であれば、規律と冷静さが支配するはずのその空間は今、兵士たちの歓喜の絶叫と、勝利を称え合う怒号によって、その原型を留めていない。ある者は涙を流しながら抱き合い、ある者はコンソールを力任せに叩いて自らの興奮を表現していた。

 

そして、その狂乱の中心、司令官席という名の孤島に、カイ・シラヌイは一人、石像のように座っていた。

彼の瞳は、もはや何も映してはいなかった。ただ、メインスクリーンに映し出される、一方的な虐殺の光景──十四隻の味方艦が、蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う敵の残存艦隊を、嬉々として狩り立てる様を、虚ろに見つめているだけだった。

 

(……なんで、こうなった……?)

 

彼の脳内では、そのあまりにもシンプルで、そしてあまりにも絶望的な問いだけが、壊れたレコードのように無限にループしていた。

完璧な計画だったはずだ。

塩試合に持ち込み、戦闘の合間に感動的なリフォーム番組のVTRを流し、「私は兵士の魂を支えたいんです」という名言で締めくくり、念願の後方勤務を勝ち取る。その完璧なシナリオは、どこで道を間違えたのか。

 

『どこで、って……全部じゃない?』

 

脳内で、シロが心底から愉快そうな声で言った。その声は、まるで喜劇のクライマックスで腹を抱えて笑い転げる観客のようだ。

 

『そもそも、君が相手の指揮官を過小評価しすぎてたのが第一の敗因だね。相手は君のことを「理解不能な怪物」だと過大評価して、勝手に恐怖して、勝手に自滅してくれた。君の塩試合計画は、相手の深読みによって、最高の心理戦に昇華されちゃったわけだ』

 

(俺のせいじゃない……! 俺は悪くない! 勝手に勘違いしたあいつが悪い!)

 

『次に、君が部下の狂信度を完全に見誤ってたのが第二の敗因。君の「早く帰りたい」っていう本音から出たやる気のない一撃を、彼らは「神の鉄槌」だと解釈して、勝手にテンションMAXになっちゃった。君が育てた可愛いペットたちが、今や君の制御を離れて、嬉々として敵を食い散らかしてる。どう? 最高の気分だろう?』

 

(黙れ……! 俺は、あんな野蛮な猟犬を育てたつもりはない……! 俺が育てたのは、俺の言うことを何でも聞く、可愛いポメラニアンだったはずだ……!)

 

『最後に、君の最大の誤算は、レナ・ユキシロという名の、規格外のトラブルメーカーを完全に計算に入れていなかったことだね。彼女のあの意味不明な単独突出が、結果として敵の疑心暗鬼を決定的なものにし、君の「神の一撃」をアシストし、そして君の部下たちの勘違いを完璧な物語へと昇華させた。いわば、今回のMVPは彼女だよ。後でたっぷり褒めてあげなきゃね』

 

シロの言葉が、カイの思考を現実へと引き戻した。

そうだ、レナ・ユキシロ。

全ての元凶。俺の完璧な計画を、その狂犬じみた行動一つで粉々に打ち砕いた、あの女。

 

カイの虚ろだった瞳に、ゆっくりと、しかし確かな怒りの炎が灯り始めた。

 

(……そうだ。あいつのせいだ。全部、全部、あの狂犬女のせいだ……!)

 

怒りは、絶望に沈む人間にとって、最も手軽で、最も強力な浮き輪である。

カイの思考が、責任転嫁という名の安直なゴールを見つけたことで、急速に回転を取り戻していく。

 

(許さん……! 断じて許さんぞ、レナ・ユキシロ! 俺の穏やかな後方勤務ライフを奪った罪は、万死に値する! だが、ただ殺すだけでは生ぬるい。もっと、もっと効率的で、俺にとって有益な形で、その罪を償わせてやらねば……!)

 

そうだ、とカイは膝を打った(心の中で)。

この状況は、見方を変えればチャンスでもある。

あの女は、今頃、自分の無謀な行動が招いた大勝利に、さぞかし混乱していることだろう。いや、それどころか、部下に見捨てられ、艦も半壊し、絶望の淵にいるはずだ。

 

(フフフ……これだ! これしかない!)

 

カイの脳裏に、新たな、そしてあまりにも悪魔的な計画が閃いた。

それは、この絶望的な状況を逆手に取り、あの忌々しい狂犬を、自分にとって最も都合のいい「奴隷」へと作り変えるための、完璧な計画。

 

「……リーゼロッテ」

 

カイは、ゆっくりと顔を上げた。その表情からは、先ほどまでの虚無と絶望は消え去り、代わりに、部下の失態を憂い、そしてその身を案じる、慈悲深き司令官の顔が完璧に作り上げられていた。

 

「は、はいっ! 司令!」

 

狂乱の渦の中心で、唯一冷静さを保っていたリーゼロッテが、弾かれたようにカイを振り返る。

 

「追撃部隊に連絡。残敵の掃討は、各艦の判断に任せると伝えろ。それと……」

 

カイはそこで一度言葉を切ると、悲痛な表情で、スクリーンに映し出されたボロボロの駆逐艦「フューリー」を指差した。

 

「旗艦ネメシスは、これより駆逐艦フューリーの救援に直ちに向かう。副官の安否が、何よりも優先されるべきだ」

(あの女を生かしておくためじゃない。俺がこれから、ありとあらゆる面倒事を押し付けるための、完璧な駒として再利用するために、だ!)

 

その、あまりにも自己犠牲的な(ように聞こえる)言葉に、リーゼロッテの瞳が感動に潤んだ。

 

「し、司令……! ご自身の武功を誇るよりも、まずは部下の命を……! なんという、なんという慈悲深さ……!」

 

ブリッジのクルーたちも、その言葉を聞き、口々に「おお……」「我らが司令……」と、さらなる狂信の炎を燃え上がらせる。

 

カイは、そんな彼らの熱狂を背中に感じながら、内心で冷たく、そして愉悦に満ちた笑みを浮かべていた。

 

(見ていろよ、レナ・ユキシロ。お前が俺から奪った平穏の代償は、高くつくぞ。お前の残りの人生全てを、俺の快適な生活のために捧げさせてやる。それこそが、お前に与える、最大の「罰」であり、そして俺からの、最大限の「慈悲」なのだからな)

 

この男、自分のことを本気で神か何かと勘違いし始めているらしい。

旗艦「ネメシス」は、ゆっくりとその巨体を反転させると、英雄という名の悪魔を乗せて、半壊した駆逐艦「フューリー」へと、その艦首を向けたのだった。

 

────────────────────────────────────────────

 

駆逐艦「フューリー」のブリッジは、もはやブリッジとしての機能を完全に失っていた。

天井は半分が吹き飛び、そこから見える漆黒の宇宙には、無数の星々が、まるで砕け散ったダイヤモンドのように冷たく輝いている。コンソールは火花を散らし続け、艦内の至る所から、金属の軋む悲鳴が聞こえてくる。

 

その地獄のような光景の中心に、レナ・ユキシロは一人、力なく座り込んでいた。

彼女の純白の軍服は、煤と、そして自らが流した血で汚れ、その美しい銀髪は乱れ、もはやかつての鋼鉄の女の面影はどこにもなかった。

 

彼女の瞳は、ただ虚空を見つめていた。

何も映さず、何も感じず、何も考えず。

ただ、そこにあるだけ。

 

心が、死んでいた。

信じていた部下たちに裏切られ、信じていたアンダーソン准将の教えは無価値だと断じられた。そして何より、自らの存在理由そのものであった復讐心すらも、忌まわしいサポートAIによって、准将を死に追いやった罪から逃れるための、醜い自己欺瞞であったと無慈悲に暴かれた。

 

『准将の引き金を引いたのは、他の誰でもない。お前自身だったんだよ』

 

あの声が、魂に刻み付けられた呪いのように、今も思考の残骸の中で木霊している。

自分は、空っぽだった。

アンダーソン准将の亡霊という名の鎧を纏い、復讐という名の剣を振り回していただけの、ただの人形。

その鎧も剣も、今はもうない。

後に残されたのは、絶対的な虚無と、洗い流すことのできない罪の意識だけ。

 

「……わたしは……まちがって、いない……」

 

誰に言うでもなく、か細い声が唇から漏れる。だが、その言葉に、かつてのような鋼の響きはない。ただ、壊れてしまった心が、意味もなく繰り返すだけの、空虚な音。

 

その時だった。

 

ガコン、と重い金属音が響き、半壊したブリッジの扉が、外側からこじ開けられた。

逆光の中に、一つの人影が浮かび上がる。

ゆっくりと、こちらに近づいてくる。

 

そのシルエットを、レナの虚ろな瞳が捉えた。だが、そこに憎悪の光が灯ることはない。もはや、彼女の心には何かを憎むだけの熱量すら残されていなかった。

 

「……カイ・シラヌイ……」

 

それは、問いかけでも、非難でもない。ただ、目の前に現れた現象を、そのまま口にしただけの、感情のない呟きだった。

 

カイは、ブリッジの惨状を一瞥すると、ゆっくりとレナの前まで歩みを進めた。

彼は、座り込んだまま虚空を見つめる彼女の姿を見て、内心で眉をひそめた。

(……なんだ? 様子がおかしいぞ。殺気も、憎悪も、一切感じられん。まるで、魂が抜けた殻のようだ)

計画では、ここで彼女の最後のプライドをへし折り、屈服させるはずだった。だが、目の前にいるのは、もはや折るべきプライドすら残っていない、ただの壊れた人形だった。

 

(……フン。手間が省けたというわけか。まあいい、これならこれで、好都合だ)

カイの思考は、即座に自己中心的な結論へと飛躍する。

 

彼はレナの隣にゆっくりとしゃがみ込むと、その虚ろな瞳を覗き込んだ。

 

「……終わったのか。君の、長い復讐ごっこは」

 

その声は、侮蔑でも同情でもなく、ただ冷徹な事実確認の響きを持っていた。

レナの瞳が、ぴくりと微かに動く。だが、それだけだった。

カイは、そんな彼女の反応などお構いなしに、完璧な慈悲の仮面を被って、囁きかける。

 

「君が犯した罪は、大きい。本来であれば、軍法会議ものだ」

(そうだ、その通りだ! お前のせいで俺の完璧な計画は台無し! 万死に値するとは、まさにこのことだ! さあ、罪の意識に苛まれるがいい!)

その言葉は、しかし、すでに罪悪感の海に沈んでいたレナの心に、新たな波紋を広げることはなかった。ただ、彼女の虚無を、より深くするだけだった。

絶望に染まりきったその魂に、カイは全く予想もしなかった言葉を投げかける。

 

……だが、俺はそうはしない

 

レナの視線が、初めてゆっくりとカイの顔に向けられた。

 

「なぜなら」とカイは続けた。「俺の艦隊には、君が必要だからだ」

 

「……ひつ、よう……?」

 

意味が、分からなかった。

必要?

この、全てを失い、全てを間違えた、役立たずで、罪深い、この私が?

 

「君のその闘争心、その実戦経験、そして何より、アンダーソン准将から受け継いだという、その揺るぎない精神。それは、俺にはないものだ。俺は、魔術師などと呼ばれてはいるが、所詮はシミュレーションの中でしか戦ってこなかった、ただの若造に過ぎん」

(そうだ、俺は戦いたくない。面倒な戦闘は全部お前に押し付ける。俺はただ、安全な場所で見てるだけだ。そのための、完璧な口実作りだ。どうだ、感動的だろう?)

 

それは、完璧なまでの謙遜。

そして、完璧なまでの、自己否定。

銀河の英雄として、神とまで崇められている男が、今、自分の前で、自らの無力さを告白している。

 

レナの壊れた思考回路では、その言葉の真意を測ることはできない。

ただ、その言葉だけが、何のフィルターも通さず、空っぽの心に直接響いてきた。

 

カイは、そんな彼女の混乱などお構いなしに、最後の、そして最も決定的な一撃を放つ。

彼は、ゆっくりと手を伸ばすと、レナの血で汚れた頬に、そっと触れた。

 

(うわ、肌荒れてんな。まあ、いいや。こういう時は、ボディタッチが効果的だと、前世の恋愛マニュアル本に書いてあった)

 

その、不意の温もりに、レナの体がびくりと震える。

何年も忘れていた、人肌の温かさ。

 

「復讐も、過去も、もう捨てろ」

 

カイの声は、悪魔の囁きのように、優しく、そして甘く響いた。

 

「君がこれから見るべきは、アンダーソンの亡霊じゃない。俺だ」

 

そして、彼は、その凍てついた魂を、根こそぎ溶かすような、絶対的な言葉を紡いだ。

 

俺の隣で、俺のために戦え、レナ

 

その声は、罪悪感という名の冷たい海の底で、溺れかけていた彼女の耳に届いた、唯一の音だった。

 

もう、息ができなかった。

「考える」という行為そのものが、肺に流れ込んでくる水のようだった。准将のこと、裏切った部下のこと、自分の犯した罪のこと。考えれば考えるほど、思考は重くなり、魂は深く、暗い場所へと沈んでいく。

自由であること。自分の意志で何かを選ぶこと。それが、これほどまでに苦しいとは知らなかった。

いっそ、このまま。

思考も、感情も、この「わたし」という重たい枷も、全て海の底に沈めてしまえたら、どれだけ楽になれるだろう。

 

その時、水面から一条の光が差し込んだ。

カイ・シラヌイの声だ。

 

彼は、手を差し伸べてはくれなかった。

彼は、罪を赦そうとは言わなかった。

彼は、ただ、囁いたのだ。

 

──もう、考えなくていい。

──もう、苦しまなくていい。

──お前の意志も、お前の罪も、全て俺が引き受けてやる。

──だから、お前はただ、俺の言うことだけを聞いていればいい。

 

それは、悪魔の誘惑だった。

あまりにも甘美で、抗いがたい、救済の囁き。

彼女は、暗い海の底から、その光を見上げた。

自分で泳ぎ、この苦しい水面を目指すのではない。

ただ、この身を委ね、光の持ち主に引き上げてもらう。その代償として、「わたし」を差し出す。

 

(……ああ)

 

選択は、一瞬だった。

彼女は、自らの意志で、息をすることをやめた。

「わたし」という名の、重く、冷たい鎧を、海の底へと脱ぎ捨てる。

復讐心も、矜持も、罪悪感も、全て。

体が、ふわりと軽くなる。

 

もう、何も考えなくていい。

もう、何も感じなくていい。

空っぽになったこの身に、ただ、あの方の命令が満たされるのを待てばいい。

 

レナは、ゆっくりと顔を上げた。

 

その顔を見て、カイは内心で勝利のガッツポーズを決めた。

(っしゃオラァ! 陥落ゥ! 難攻不落と謳われた『氷の狂犬』ルート、ここに完全攻略完了! 俺ほどの主人公にかかれば、こんなチョロいもんだぜ!)

彼は、レナの能面のような表情を、好感度がMAXになったヒロインが見せる「心を許しきった無防備な顔」だと、極めて都合よく解釈した。

 

(見てみろよ、この安らいだ顔! あれだ、いわゆる“ツンデレ”ってやつが、俺にだけ見せるデレ顔ってやつだ! 復讐だのなんだの肩肘張ってたのが馬鹿らしくなって、俺という存在のデカさに気づいて、魂が安心しきってるんだな、これは! あー、たまんねぇ!)

 

前世の記憶が、彼の脳内で輝かしいファンファーレを鳴り響かせる。

 

『へぇ、計画通り、ね。よかったじゃない、君の言うことを何でも聞く、とっても「素直な」ワンちゃんが手に入って』

シロの声は、心底から面白がっている響きを持っていた。

 

────────────────────────────────────────────

 

カイが手を差し伸べると、レナは、まるで壊れかけた人形のような、ぎこちない動きで、その手を取った。

彼女は、カイに支えられるようにして、ゆっくりと立ち上がる。

そして、次の瞬間。

カイと、そして彼と共にブリッジに入ってきた兵士たちは、信じられないものを目にすることになる。

 

レナ・ユキシロは、その場に、静かに、膝をついた。

まるで、王の前に傅く騎士のように。

あるいは、神の前にひれ伏す信徒のように。

 

彼女は、乱れた銀髪をかき上げ、ゆっくりと顔を上げた。

その顔が、吹き飛んだ天井から差し込む、ヴァルハラの冷たい星の光に照らし出される。

 

そこにいたのは、もはや「狂犬」ではなかった。

 

これまで、彼女の顔を覆っていた、厳しい規律と復讐心という名の仮面が剥がれ落ち、その下に隠されていた素顔が、初めて白日の下に晒されていた。

透き通るように白い肌。

芸術品のように整った、繊細な顔立ち。

長い睫毛に縁取られた、大きな瞳。

それは、まるで精巧に作られたビスクドールのような、人間離れした美しさだった。

 

兵士たちが、息を呑む。

あの「狂犬レナ」が、これほどの美貌の持ち主だったとは、誰も知らなかった。

 

だが、カイを本当に戦慄させたのは、その美しさではなかった。

彼女の表情。

そして、その瞳。

 

彼女の表情筋は、ふ、と弛緩して、薄く、穏やかな笑みの形に固定されていた。

だが、それは喜びの笑みではない。感情の伴わない、ただの筋肉の動き。

そして、その瞳。

かつて、燃えるような炎と、凍てつくような氷を宿していたはずのその瞳は、今、何の光も発していなかった。

ただ、目の前のカイの姿だけを、まるで鏡のように、無機質に映し出している。

主の姿だけを映す、完璧な硝子玉。

 

「……司令」

 

彼女の唇から、鈴の鳴るような、しかし何の抑揚もない声が漏れた。

 

「このレナ・ユキシロの剣、そしてこの命、全てを貴方に捧げます。なんなりと、お申し付けください」

 

その、あまりにも完璧な従属の言葉。

カイは、一瞬、背筋にぞくりと悪寒が走るのを感じた。

(……あれ? なんか、思ったのと違う……? もっとこう、反発しながらも、仕方なく従う、みたいな感じになるはずじゃ……)

彼の貧弱な想像力を、現実は遥かに超えていた。

 

だが、そんな彼の微かな違和感は、すぐに自己保身と怠惰の欲望によって上書きされる。

(まあ、いいか! 結果的に、俺の言うことを何でも聞く駒が手に入ったんだ! これで、面倒な書類仕事も、戦闘指揮も、全部あいつに丸投げできる! 俺の完璧なリモート後方勤務ライフが、また一歩近づいたぞ! フハハハハ!)

 

彼は、内心で盛大なガッツポーズを決めると、外面では、あくまでも慈悲深い君主の仮面を被り続けた。

 

「……顔を上げろ、レナ。君の忠誠、確かに受け取った」

 

その光景を、固唾を飲んで見守っていた兵士たちの間で、爆発的な感動の波が広がっていた。

 

「おお……! あの、あの狂犬レナ大尉が……!」

「司令は、ついに、あの狂犬すらも完全に手懐けられたのだ……!」

「もはや、この艦隊に敵はない! 我らが司令は、真の覇王だ!」

 

こうして、カイ・シラヌイの伝説に、また一つ、新たな、そして最も歪んだ一ページが書き加えられた。

彼自身は、ただ面倒事を押し付けるための都合のいい部下を手に入れたと喜んでいたが、その実、彼が手に入れたのは、最も忠実で、最も有能で、そして、最も危険な「狂信者」であったことを、彼はまだ知らない。

 

────────────────────────────────────────────

 

旗艦「ネメシス」への帰路、そして帰還後の艦内は、もはや戦勝記念式典そのものだった。

誰もが、歴史的な大勝利に酔いしれ、カイ・シラヌイの名を、神の名のように繰り返し叫んでいた。

カイは、その熱狂の渦の中心で、完璧な英雄の笑みを浮かべながら、内心では(早く終わんねぇかな、この茶番……腹減った……)ということしか考えていなかった。

 

だが、彼の受難は、まだ終わらない。

司令官室に戻り、ようやく一息つこうとしたその瞬間、彼の個室のメインスクリーンに、強制的な通信割り込みが入った。

そこに映し出されたのは、オリオン・アーム・インダストリーの、あの忌々しいロゴマーク。

 

『やあ、シラヌイ君。いや、今や「ヴァルハラの英雄」と呼ぶべきかな?』

 

スピーカーから響く、人を食ったような軽薄な声。

オリオン社の上級役員、カイの事実上の「飼い主」である男だ。

 

「……これは、何の御用でしょうか」

 

カイは、内心の苛立ちを完璧に押し殺し、あくまでも礼儀正しく応じた。

 

『何の用、とはつれないな。君の晴れ舞台を、我々スポンサーが記録しないわけがないだろう?』

 

男はそう言うと、ウィンクと共に、一枚のデータファイルをカイの画面に送りつけてきた。

そこに映し出されていたのは、先ほどの戦闘を、まるで一本のアクション映画のように編集した、ド派手なプロモーションビデオだった。

カイの神がかり的な防御指揮。

レナの悲壮な単独突出。

そして、クライマックスで放たれる、敵旗艦を粉砕する「神の一撃」。

BGMには、やたらと勇壮なオーケストラが鳴り響いている。

ビデオの最後は、こう締めくくられていた。

 

『──不敗の魔術師、カイ・シラヌイ。彼の伝説は、まだ始まったばかりだ。提供は、オリオン・アーム・インダストリー』

 

「……」

 

カイは、無言でそのビデオを見終えた。

彼の後方勤務への夢が、原子レベルにまで分解されて宇宙の塵と化す音が、はっきりと聞こえた。

 

『どうだね? なかなかの出来だろう? すでにヴェガの全ネットワークで配信を開始し、視聴率は記録的な数字を叩き出している。君の関連グッズの売り上げも、うなぎ登りだよ。君のおかげで、我が社の株価もストップ高だ。本当に、君は最高の「商品」だよ』

 

男の言葉は、もはや何の遠慮もなかった。

カイは、英雄であると同時に、オリオン社にとって最高の広告塔であり、金づるなのだ。

そんな金のなる木を、後方の安全な部署で遊ばせておくはずがない。

 

(終わった……。俺の人生、完全に、終わった……)

 

カイが、再び絶望の淵に沈みかけた、その時。

男は、さらに追い打ちをかけるように、とんでもない爆弾を投下した。

 

『というわけで、この歴史的勝利を記念して、君には緊急生放送のインタビュー番組に出演してもらうことになった。今から、十分後だ。準備はいいかね? 英雄殿?』

 

「……は?」

 

今、なんと言った?

生放送?

インタビュー?

十分後?

 

カイの思考が、三度、完全にフリーズした。

 

『ああ、心配しなくてもいい。君の部下たち──あの熱心な信者の諸君にも、サプライズゲストとして出演してもらう手筈になっているからね。あと、君が手懐けたという、あの美しい狂犬も、もちろん一緒だ。銀河中のファンが、君たちの「絆」の物語を、今か今かと待ち望んでいる。せいぜい、我々を、そして銀河を、楽しませてくれたまえよ』

 

それだけ言うと、男は一方的に通信を切った。

後に残されたのは、「放送開始まで、あと9分58秒」という、無慈悲なカウントダウンタイマーと、燃え尽きて真っ白になった、一人の哀れな男だけだった。

 

十分後。

銀河中に配信される仮想スタジオのセットに、カイ・シラヌイは座っていた。

彼の顔には、完璧な英雄の笑みが浮かんでいる。

その内心が、もはや言葉にならない絶叫で満たされていることなど、もちろん、誰にも分かりはしない。

 

「──さあ、それではお聞きしましょう! この歴史的な勝利を、あなたはどう受け止めていますか、シラヌイ司令!」

 

女性司会者の、甲高い声が響く。

カイは、最後の、本当に最後の悪あがきとして、用意していた(この十分間で必死に考えた)完璧なシナリオを実行に移そうとした。

 

(そうだ、ここで言うんだ! 『今回の勝利は、あくまで兵士たちの奮闘の賜物。私一人の力ではない。むしろ、今回の戦いで、私は自らの未熟さを痛感した。私のような者が最前線に立つのは、全軍にとって不利益だ。私は、後方で兵站を……』)

 

だが、彼が口を開くよりも早く。

部屋の扉が勢いよく開き、三人の男女が乱入してきた。

リーゼロッテ、ハンス、そして、人形のような微笑みを浮かべた、レナ・ユキシロ。

 

「「「司令!」」」

 

リーゼロッテとハンスが、感極まった表情でカイに駆け寄る。

 

「司令の神算鬼謀、我々、感動いたしました!」

「あの『沈黙』が、敵の精神を破壊するための罠だったとは! そしてレナ大尉の突出すらも、全ては計算の内だったとは!」

 

二人は、司会者のマイクを奪い取らんばかりの勢いで、カイの(全て勘違いの)偉業を、熱く、そして狂信的に語り始めた。

スタジオが、どよめきに包まれる。

司会者が、興奮した様子で、隣に立つレナにマイクを向けた。

 

「ユキシロ大尉! あなたは、司令の作戦を、いつから知っていたのですか!?」

 

カイは、必死の形相で、レナにアイコンタクトを送った。

(頼む! 頼むから、何か、まともなことを言ってくれ! 「あれは私の独断でした」と、そう言ってくれれば、俺はそれを庇う形で、「だからこそ、私は彼女を支えるために後方に」と、話を繋げられる! 頼む、最後の希望だ!)

 

レナは、そのカイの切実な視線を、真っ直ぐに受け止めた。

そして、その硝子玉のような瞳を、ほんの少しだけ、細めた。

まるで、主の真意を完璧に理解した、とでも言うかのように。

 

彼女は、ゆっくりとマイクを受け取ると、その人形のような唇を開いた。

その声は、静かだったが、銀河の隅々にまで響き渡るような、絶対的な確信に満ちていた。

 

「──司令の御心は、常に我々の遥か高みにあります」

 

それは、カイが最も望まない形の、完璧な答えだった。

 

「我々兵士は、ただ、司令がお示しになる光を信じ、進むのみ。あの方こそが、この腐敗したヴェガを救い、全ての民を導く、唯一の希望なのですから」

 

狂犬は、かく語りき。

 

その言葉が、決定打だった。

スタジオは、熱狂的な拍手と歓声に包まれる。

「シラヌイ!」「シラヌイ!」というコールが、地鳴りのように響き渡る。

 

カイは、その熱狂の中心で、完全に、思考を停止していた。

全ての逃げ道を、最も信頼すべき(と計算していた)部下によって、完璧に塞がれた。

もう、打つ手はない。

詰みだ。

 

やがて、司会者が、涙ながらにカイに最後の質問を投げかけた。

「司令! この、銀河中の期待の声を、あなたはどう受け止めますか!?」

 

カイの頭は、真っ白だった。

用意していたセリフも、最後の悪あがきも、全てが消え去った。

そして、彼の口から、無意識に、本能的に、あの時と全く同じ、最悪の言葉が漏れ出た。

 

…………やるべきことを、やったまでです

 

その瞬間、銀河の熱狂は、最高潮に達した。

空前絶後の偉業を成し遂げながらも、一切驕ることなく、ただ謙虚に全てを背負おうとする、若き英雄の姿。

これぞ、我々が待ち望んでいた、真の救世主だ、と。

 

その狂乱の中で、カイだけが、静かに、絶望の淵に沈んでいた。

どうして、こうなった。

彼の視線の先で、レナ・ユキシロが、ただ一人、彼だけを見て、うっすらと微笑んでいた。

その瞳の奥に、かつての炎とは違う、どこまでも昏く、そして独占欲に満ちた、歪な光が宿っていることに、まだ誰も、カイ自身さえも、気づいてはいなかった。

彼の地獄は、まだ始まったばかりである。

 

(第一章 完)

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