訓練所の壁には成績表が貼られている。そして、一位にはルシアンの名が並んでいた。剣技、座学、魔道理論、戦術評価。全てで最高点。教官たちは静かに頷き、訓練生たちは憧れとともにその名を口にした。
「やっと本領発揮って感じだよな」
「勇者ってのは、こうでなくっちゃ」
一方、クラウスも常に上位にはいた。だが、かつてのような成績ではない。八位、六位、九位——安定はしているが、突出はしていない。
「クラウスも堕ちたな。ちょっと前は凄かったらしいけど、今じゃ亜人種好きの変態だって噂だろ」
「成績落ちたのも、そっちに夢中だからじゃねえの? もう終わってるよ、あいつ」
訓練所の中庭。昼休みのざわめきの中、クラウスは一人、木陰のベンチに腰掛けていた。周囲の視線は冷たく、言葉は刺さるようだったが、彼は気にする素振りすら見せなかった。
「どうぞ、ハーブティーです」
「あぁ、ありがとう」
クラウスはイグニスから木製の小さなカップを受け取ると、静かに口をつけた。訓練所では卒業式が近づき、少しでも良い配属先を得ようと、誰もが焦りを滲ませている。そんな喧騒の外側で、二人の間には、風のようにゆるやかな時間が流れていた。
「なぁぁぁんで二人でいちゃついてるのさ!」
ルゥはベンチの前に立ちふさがった。先ほどまでクラウスに言われた通り、黙々と情報収集をしていた。それなのに戻ってみれば、クラウスはイグニスと並んで座り、薬草茶を飲んでいる。
「ルゥさんも、どうぞ」
イグニスは、毛を逆立てて不機嫌を露わにしているルゥに、木製の小さなカップをそっと差し出した。
「イグニス、ありがとっ!」
ルゥはカップを受け取りながら、少しだけ声の調子を緩めた。
「それで、どうだった?」
「うーん……クラウスの予想通り。どこも勇者勇者って騒いでて、他はクラウスの悪口ばっか。なんか、嫌な感じだった」
イグニスは、空になったポットの縁を指でなぞりながら、ふと視線を遠くに投げた。その目は、いつもより少し鋭く、少し冷たかった。何も言わないまま、風の音に紛れるように、静かに息を吐く。
「イグニス、殺気が漏れてる。せっかくの茶がまずくなるから、落ち着け」
「……狙っての行動だとは理解しています。ですが、尊敬する方が悪く言われるのは、やはり気分の良いものではありません」
クラウスは、シリルを通して王国と静かに手を結んだ。部隊の実権を握ることを条件に、勇者の名誉を立てる役目を担うこと。それが彼の選んだ取引だった。
その午後、訓練所に張り出された一枚の紙が、訓練生たちの間でざわめきを呼んだ。卒業式典を前に、訓練の成果を王へ報告する目的で、二人の訓練生による模擬戦が行われる。その対戦相手として選ばれたのはクラウスとルシアンだった。
「この組み合わせ、前にもあったよな?」
「あぁ。クラウスが不正して勝ったって噂だったけど、今回は勇者の圧勝だろ」
卒業式典の日。観覧席には、華美な装飾を纏った役人たちが整列し、王族と思しき男女が静かに視線を投げていた。いつもは訓練の声が響く演習場も、この日ばかりは無機質な静けさに包まれている。
「こうして君と剣を交えるのをずっと待っていたんだ」
訓練初日、クラウスは勇者に勝利した。その一戦は、訓練所内外に波紋を広げた。勇者の威信を揺るがす再戦を避けるため、クラウスとルシアンが直接対峙する場面は、意図的に組まれなかった。
「ルシアン様! 今度こそ、本当の力を見せてやってください!」
「暴君! 今度こそ不正を見逃さないからな!」
周囲の訓練生たちからは、ルシアンへの声援とクラウスへの野次が飛び交っていた。その声のひとつに反応するように、ルシアンは音のした方へとゆっくり向き直る。そして、ためらいなく剣を抜き、刃先をそちらへと向けた。
「これは模擬戦とは言え、僕と彼の決闘だ! 邪魔をしないでくれ!」
クラウスは、勇者の言葉に目を見開いた。巻き戻る前の世界のルシアンなら、決して口にしなかったはずの台詞だった。彼はいつもこう語っていた。勇者とは人々に支えられる者だ。だからこそ、人々を蔑ろにしてはならない、と。
「気を病んでいるようであれば、すまない。僕は君が不正を働いたとは思っていない」
「……さぁ、それはどうだろうな」
ルシアンから初めて向けられた視線に、クラウスは思わず目を逸らした。ルシアンにとって勇者という役割を与えられた瞬間は、自分が物語の主人公として神に選ばれた証だと感じていた。
周囲の者たちは彼を讃え、貧しい平民としての過去も神が与えた試練だったと理解していた。
「君に勝つため、僕は努力した。それを汚されるわけにはいかない」
クラウスに敗れたあの日、ルシアンは自分が特別ではないことを思い知らされた。勇者が暴君に負けるはずがない。そう信じて臨んだ模擬戦だった。それ以来、彼は勇者という役割にふさわしい自分になるため、黙々と努力を積み重ねてきた。
「お喋りはいい。さっさと始めようじゃないか」
クラウスは審判役の男に一瞥をくれると、ゆっくりと剣を抜いた。その動きを確認した男は、無言のまま模擬戦開始の鐘を鳴らす。
鐘の音を聞いた瞬間、ルシアンは迷いなく踏み込んだ。踏み込みは深く、剣の軌道は直線的で鋭い。まるで迷いを断ち切るような一撃。だがクラウスは、わずかに体を捻りながら剣を滑らせるように受け流す。その動きには力みがなく、無駄もない。まるで水面を撫でるような精度だった。
「どうして訓練で手を抜いたんだ……?」
ルシアンは言葉と同時に二撃目を繰り出す。今度は斜め下からの斬り上げ。勢いに任せた剛剣ではなく、狙い澄ました一閃。クラウスはそれを見切り、剣の腹で受け止めると、反動を利用して間合いを詰める。刹那、二人の剣が火花を散らす。
「さぁな。聖女様にでも聞いてみたらどうだ?」
「あぁ……。そういうことか……」
クラウスが手を抜いたのは、国の命令だった。それを知った瞬間、ルシアンの胸に走ったのは、怒りでも悲しみでもなく、深い虚しさだった。自分が一位を取れたのは、努力の果てではなく、忖度の結果だった。誰かの都合で、誰かの思惑で、自分の勝利が演出されていた。それは、彼が勇者として積み重ねてきた誇りを、根底から否定するものだった。
「本気で戦えよ、クラウスッ!」
「十分、本気を出してるさ」
三合、四合。剣戟は続くが、ルシアンの剣には焦りが滲み始めていた。一撃ごとに力みが増し、動きは荒く、軌道も粗くなる。クラウスは、避けられる攻撃をあえて受けるように見せかけ、わざとらしく体勢を崩してみせた。その仕草は挑発とも取れるほど自然で、ルシアンの苛立ちをさらに煽る。
「どうして! 君だって自分が悪く言われていることは知っているだろう!」
ルシアンにとって、クラウスは絶対的な強者だった。死体を見ただけで震えが走るような魔獣を、彼は討伐し、周囲の否定や疑念も、実力で黙らせてきた。
けれど今、クラウスは中傷の的になっている。聖女を脅し、亜人種の二人を奴隷のように扱っている。そんな噂が、訓練所の隅々まで広がっていた。
「……噂は本当なのかい?」
ルシアンの言葉に、クラウスは肩をすくめるようにして答えた。
「そう言われているなら、そうなのかもしれないな」
その返答に、ルシアンはわずかに眉を寄せる。距離を取り、剣を構える。刀身がゆっくりと光を帯び始める。淡い輝きは徐々に強さを増し、風を巻き起こす。観覧席からは歓声が上がり、空気が震える。
「君と剣を交えて分かった。君は、そんな人間じゃない」
「……何が言いたい?」
クラウスの声は低く、感情を読み取らせない。
「君は、本当はどっちなんだ……?」
その一言を残し、ルシアンは剣を振りかぶった。刀身に収束した光が風を裂き、周囲に威圧感を放つ。
「目的のためなら手段を厭わない。それが俺の役割だからな」
その言葉と同時に、ルシアンの剣が振り下ろされた。光を纏った刃が空気を裂き、衝撃波のような圧が地面を震わせる。クラウスは、その一撃に呑まれた。
彼の身体は宙を舞い、壁際へと弾き飛ばされる。次の瞬間、鈍い衝突音が響き、クラウスは石壁に叩きつけられた。石材が砕け、瓦礫が崩れ落ちる。
静寂。そして、勝敗を告げる鐘の音が場に響く。観客たちは勇者の勝利に沸き立ち、歓声を上げた。
「やっぱ勇者だな!」
「最後は悪役に勝つって、物語の通りだな!」
ルゥは悔しそうに唇を噛み、イグニスは拳を握りしめる。けれどクラウスだけは、何も動じることなく、ふらつく足取りで中央へと歩いていく。
ルシアンの前に立つと、クラウスは剣を静かに納めた。
「……まぁ、せいぜい頑張れよ。勇者様?」
ルシアンが言葉を返すより先に、クラウスは背を向けて歩き出した。周囲の称賛も、嘲笑も、彼には関係ない。正義の味方『勇者』。誰もが憧れ、敬う存在。
そしてクラウスは、悪しき『暴君』と呼ばれることさえ厭わなかった。それが自分に課された役割であるならば、どんな手段を使ってでも、望みを叶える覚悟があった。
慌てて駆け寄ってきたルゥとイグニスに向かって、クラウスは倒れ込むように身を預けた。
模擬戦が終わり、訓練所の広場には荘厳な布が掲げられていた。王国の旗が風に揺れ、式典の空気をさらに張り詰めさせる。卒業式典。例年とは異なり、王族の来訪によって場の緊張はひときわ高まっていた。
壇上には国王と王妃が並び、卒業生たちを静かに見渡す。
「勇者ルシアン、総合成績第一位。王国の誇りとして、これより正式に軍務を許可する」
祝福の言葉とともに、騎士団長の印章が手渡される。聖女シリルも、王国直轄の補佐職として勇者に随行することが告げられた。
訓練所の生徒たちは歓喜に沸き立つ。
「これで魔物ども、一掃できるぞ!」
「勇者殿に任せれば、もう安心だ!」
誰もが期待に満ち、祝賀の声をあげていた。だが、その場に違和感を覚える者は、一人としていなかった。
本来なら、この場で部隊長の任命が行われるはずだった。戦場を動かす実務指揮官。その決定が、なぜか告げられないまま、式典は進んでいた。
式の終わり、クラウスはシリルに呼び止められ、教官室へと足を運んだ。扉を開けると、そこには王国の国王と王妃が並んで座っていた。シリルは静かにその脇に立ち、クラウスを招き入れる。
「シリルから話は聞いています」
王妃が口を開くが、その言葉に重なるように、国王が続けた。
「約束通り部隊長の実権は、君に与える。だがその前に、確認しておきたい。君は我に背こうとしておらぬか?」
クラウスは、短く息を吐き、静かに語り始めた。
「私の役割は暴君です。それで誤解されるのは当然でしょう。それも仕方のないことだと理解しています。ですが俺の班には、盗賊のスキルを持つ少女がいます」
国王の眉が、わずかに動いた。
「……盗賊、だと?」
「ええ。彼女は宿屋の娘でした。料理が好きで、人懐っこくて、笑顔を絶やさないハーフウルフです。ですが、彼女は誰からも物を盗んだことがありません。民を脅したことも、傷つけたことも、一度たりとも」
クラウスは、ランプの灯りを見つめる。
「役割とは、何でしょうか。必ずしも悪ではない。剣と同じです。使い方次第で、人を守ることもできる。暴君である俺が言っても、信じてもらえないかもしれませんが……」
王妃は小さく目を伏せた。国王は黙したまま、クラウスに視線を向け続けている。クラウスは最後に、静かに言葉を置いた。
「俺の望みはただ一つ。役割が何であれ、この力を使って大切な人を守れれば、それでいいのです」
クラウスの言葉が静かに広間に落ちる。誰も口を開かず、ただ灯りの揺らぎだけが時を刻んでいた。やがて、国王が隣に立つ王妃へと視線を向ける。王妃は、ゆっくりと目を伏せそして、静かに頷いた─。