最前線では、階級と任務が必ずしも釣り合うとは限らない。クラウスは国王との約束通り部隊長として任命された。だが、配属初日。彼に与えられたのは、新兵なら誰もが通る初仕事。
遺体の回収。遺品の整理。戦闘痕の記録。それは、兵士としての通過儀礼。肩書きなど、意味を持たない場所だった。
焼け焦げた野営拠点跡は、地図には再制圧済み区域と記されていたが、足元には砕けた防具、折れた武器、血に染まった土が生々しく残っている。風はなく、空気は重い。喉を通るたび、焦げの粒が肺の奥にまとわりついた。
クラウスの斜め後方。若い兵士が膝をつき、嘔吐していた。肩を震わせながら、地面に何度も胃の内容物を吐き出す。酸っぱい匂いが立ち上がり、別の兵士が拳で口元を覆い、目を背けた。
「俺たち、勝ってるんだよな……?」
「なんで……こんな……」
誰に向けた言葉かは分からない。応える者も、いなかった。
クラウスは振り返らず、無言のまま遺体の傍に膝をつく。男の兵士だった。胸部は焼け焦げ、顔は判別できないほどに崩れている。だが、筋肉質な腕と大きな手が、彼の生前を物語っていた。
硬直した指の隙間に細いヘラを差し込み、痙縮した筋肉を丁寧にほぐしていく。手の内には、煤に覆われた小さな鉄製のペンダント。擦れた刻印は恋人の名前だろうか、あるいは家族か。
「そのペンダント……」
ルゥがクラウスの横でそっと膝をついた。俯いたまま、死者の手を見つめる。
「……そんなに強く握ってたってことは、それだけ大事だったんだよね」
クラウスは言葉を返さず、布を広げてペンダントを包み込んだ。それだけで記録には十分だった。だが今は、それだけで済ませたくはなかった。
「記録係に伝えろ。遺品を保持したまま死亡。保管優先、遺族確認あり」
イグニスは短く頷き、メモを取り始める。
巻き戻る前のクラウスは、こうした作業を無意味だと切り捨てていた。魔物を一体でも多く倒すこと。それが自分の役割だと信じていた。死者の手に何が握られていようと、それは自分とは無関係なもの。そう思い、目を向けることすらなかった。
ルゥは顔を上げず、小さな声を落とす。
「……わたしたち、この人の名前も知らないけど……。それでも、この人が大切に想っていた人に、届けてあげたいね……」
クラウスは、次の遺体へ向かって静かに立ち上がる。空気の重さも、嘔吐する兵士の気配も耳に残ったまま、焼けた土に足を踏み出した。
今の彼は、遺品を拾うことの意味がわかっている。誰かが命の終わりに握り締めたものを解き、残すこと。それは、命を賭して人々を守った戦士への、敬意だった。
クラウスは黙って、焼けた地面を踏みしめる。遺品を拾い、名もなき死者の輪郭を残すこと。それは、これから部隊長として背負っていくものだった。
「……みんな、家族や友だちを守りたくて戦ってるのに。どうして亜人ってだけで、危ない場所に送られの……? 誰かを守りたい気持ちは、同じはずなのに……」
亜人種、平民、商家、貴族、王族。戦場では、その順に並ぶ。亜人種は、いつも最前列だった。最も危険な位置に立たされ、最も多くの血を流す。軍は身体能力に優れるから。と説明するが、その実態は使い捨てに近い。
クラウスは、志願して亜人種部隊の隊長となった。貴族である彼がその任を望んだことは、隊の内外に静かな波紋を広げた。
作業後の野営地の隅では、露骨な視線が交差していた。ルゥとイグニスが焚き火に薪を足すと、火の音に紛れて、ひそやかな声が漏れる。
「あいつら、人間の貴族なんかに媚び売ってやがる」
「恥知らずの裏切り者が」
「戦い方じゃなく、媚びの売り方でも学んでたんじゃねぇのか?」
亜人種の兵たちが吐き捨てるように言い、それに数人が静かに頷いた。ルゥは表情を変えず、木の枝を火にくべながら、淡々と返す。
「……あんたたちがそう思うのも、わかる。でも、私はこの隊で生きて、家族を守りたい。それが裏切りなら、私は何度でも裏切るよ」
クラウスが静かに立ち上がる。焚き火の光がその輪郭を照らし、野営地の空気がわずかに揺れる。彼の視線が周囲をなぞるように巡り、言葉より先に沈黙が場を制した。睨みつけるでもなく、ただ見据えるだけで、兵たちは自然と口を閉ざす。
「俺を信じられないなら、それでもいい。だが、命令には従ってもらう」
その言葉を聞いた兵たちは、道を開けるように静かに広がっていった。その中心に立つ男の名前はニード。
ハーフベアの大男。大斧を背負い、盛り上がった筋肉に戦闘の傷跡が走る。片目は潰れ、黒い眼帯が静かにそれを覆っていた。かつてクラウスと肩を並べて戦った戦友。彼は、亜人たちをまとめる実質的なリーダーである。
ニードは、徴兵期間をとっくに終えていた。それでも戦場に残り続けるのは、自分の種族を見捨てないためだった。
「……貴族様が隊長だって?」
野営地の中央で、ニードが唸るように言った。
「さすが貴族様だな。頭の中に花でも咲いてるのか? 俺たちを舐めるな。命令すりゃ黙って従うとでも思ったか」
クラウスは剣を鞘から抜くことなく、地面に静かに置いた。それから一歩前に出ると、拳を正面に突き出す。ハーフベア種の伝統。拳による決闘の合図。意見がすれ違ったとき、互いの正義を拳でぶつけて決着をつける。
彼は、その伝統を知っていた。巻き戻る前、ニードが意気揚々と語ってくれたのだ。焚き火の前、仲間たちの笑い声が響く中で、拳を突き出す仕草を何度も見せながら。それは、誇りと覚悟を示す儀式だと、彼は言っていた。
「……お前、その意味、分かってやってんだろうな」
その瞬間、野営地の空気が張り詰めた。人間ごときが、ハーフベアのニードに決闘を挑んだ。兵たちの視線が揺れる中、ニードは沈黙したまま拳を見つめる。その瞳の奥に、燃えるような怒りが灯っていた。
周囲の兵たちがざわめく。ニードは鼻で笑った。
「たかが人間種の貴族が……俺に拳を突き出すってか。いいぜ、殴るのは得意なんでな」
その言葉と同時に、ニードが踏み込んだ。だが、彼の拳よりも早く、クラウスの拳が鼻先を鋭く突き抜ける。一瞬の直撃に、ニードの足が揺らぐ。しかし、彼は崩れない。鼻先に走る痛みを堪え、睨み返すように顔を上げた。
「……なるほど。甘ちゃんじゃねぇって訳か」
鼻血を拭い、ニードは息を整えながら、ゆっくりと背筋を伸ばした。
それから始まった殴り合いは、見ている者の時間を奪った。ニードの拳がクラウスの頬を打ち、クラウスは体を捻って鳩尾に打ち返す。息が漏れ、足が軋む。ニードは顎を狙って踏み込み、クラウスは肩で受けてから頬に拳を叩き込む。拳が骨を鳴らし、肉が揺れる。
時間を忘れさせるほどの殴り合いの末。最初に地面へと倒れたのは、ニードだった。クラウスは荒い息を吐きながら、数歩後ろへ下がる。鼻筋は歪み、血が垂れて止まらない。拳は擦れて震え、指の関節が赤黒く腫れていた。
それでも彼は、ニードの肩を支え、ゆっくりと体を起こさせる。そして、ニードの右腕を高く掲げた。
「お前……」
「……やはり、ニードは強いな」
その瞬間、誰もが黙った。拳に込められたものの重さが、場を支配していた。その意味を、亜人兵たちはすぐに理解した。これは信念を貫き通した戦士への賛美。
ただ従わせるためではない。拳で語り合い、互いの想いをぶつけ合う。そしてクラウスは、亜人たちの隊長になるという覚悟を示した。
亜人兵たちの視線が変わった。嘲りは消え、怒りは沈み、黙って焚き火を見つめる者が増えていく。
クラウスが鼻を鳴らす。
「俺じゃなきゃ死んでるぞ……」
ニードは口角をわずかに上げる。
「そりゃあ、殺す気で殴ったからな」
重い息の中、クラウスは思っていた。勝因は、暴君の加護による能力向上。そして、ニードたち亜人種には、まともな食事や休息を与えられていない。クラウスの記憶にあるニードは、自分の倍以上ある魔物の攻撃を受けても、膝をついた姿を見せたことがなかった。
「お前たちのリーダーは、負けた」
クラウスは、鼻から血を垂らしながら、掠れた声で告げた。
「今後は、俺の命令には、どんな状況でも絶対に従ってもらう」
亜人たちは顔を伏せ、互いに視線を交わせずに立ち尽くしていた。その沈黙を裂くように、クラウスが低く絞る声で言う。
「……最初の命令だ。飯を食え。そして、明日の朝までに体力を戻せ」
意味を理解できずにざわめく彼らの背後で、ルゥとイグニスが荷馬車を引いて現れる。荷台には、塩漬け肉、干し魚、穀物パン、スープ。それにエールの詰まった樽が並んでいた。
その光景に、誰もすぐには声を出せなかった。これまでまともな食事を出された記憶など、誰の中にもなかった。
クラウスは荷台にもたれ、苦しげな表情のまま告げた。
「負傷者は俺に報せろ。聖女を引きずり出してでも、治療させてやる」
遠くの方で、シリルの小さなくしゃみが響いた。誰も気づかないような、細く頼りない音だった。
そして最後に、クラウスは痛む身体に鞭を打ち、声を張り上げた。
「明日からの命令はひとつだ。必ず生きて帰ってこい。俺が、お前たちの家族に会わせてやる」
その言葉は風に乗り、焚き火の音に溶けていった。沈黙していた亜人兵たちの中で、一人の男がパンに手を伸ばす。続くように、別の者がスープを受け取り、ためらいながら口を動かした。
それを見た者たちも、次々と食料へと手を伸ばす。やがて誰かが笑い声を漏らし、それが連鎖するように広がっていく。歓声とも叫びともつかない、喉の奥から湧き上がるような声が、焚き火の周囲に満ちていった。
「おい、ニード」
「なんだい大将?」
塩漬け肉をかじりながら肩を組む者、干し魚を投げ合っては笑う者。スープをこぼして叱られ、逆に笑い返す者。その夜、亜人兵たちは騒ぎ、食い、笑った。
「明日から馬車馬のように働かせてやるから覚悟しとけよ……」
クラウスの言葉を聞いたニードは並々に注がれたエールを笑いながら一気に飲み干した。
昼下がりの空に、遠雷のような砲音が散っていった。クラウスは遮蔽物の陰で地図を広げ、指を走らせながら叫ぶ。
「第三班、左翼から回り込め! 第二班は魔法を使える奴を優先しろ! 他の魔物は俺が止める!」
その視線は常に全体を捉えていた。自ら前線に立ちながら、局地戦ではなく戦場全体を指揮している。それは、経験と記憶が積み重ねた技だった。
夜になると、彼は静かな野営地の隅でノートを広げる。敵の配置、部隊の損耗、亜人たちの特徴。現状を過去の記憶と照らし合わせながら、次の奇襲の形を組み立てていく。
結果として、クラウスの部隊は他の部隊に比べて損耗率が著しく低く、勇者部隊に匹敵する戦果を挙げていた。
力でねじ伏せる勇者部隊。それは聖女の癒しと勇者の加護による暴力的なまでの斬撃で成り立つ、究極のワンマン戦術。だが、クラウスの戦い方は違う。記憶と分析、緻密な連携と統率による、群体としての戦いだった。
その夜も、亜人兵のひとりが夕食に誘ったが、クラウスは静かに首を振る。
「悪いな。やれることは全部、今のうちにやっておきたいんだ」
その背を見つめながら、ルゥとイグニスは表情を伏せる。自分たちが彼を止められないこと。休ませてやれないこと。それが、もどかしくて痛かった。彼が命を削っていると知りながら、何もできない。その事実が、二人に重くのしかかっていた。
そこへニードが歩いてきた。夜空を見上げながら、ぽつりと呟く。
「大将は異常だ。強いだけじゃない。頭が切れて、手段も選ばない。戦場であの人を見てると、本気で勝てると思えるんだ。大将がいれば……」
ルゥとイグニスは、静かに頷いた。ニードは焚き火の揺らぎを背に、真顔で言い切る。
「だからこそ、絶対に戦場で死なせるな。それが、俺たちの仕事だ」
その言葉は、焚き火の音にかき消されることなく、三人の胸に深く沈み込んだ。それは義務でも命令でもない、誓いだった。
その夜、三人は静かに拳を合わせる。クラウスを守る。それだけが、今この戦場で自分たちに課された、唯一にして絶対の使命だった─。