悪役を与えられた俺と君と。   作:湊音

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決意の連鎖

 ドラゴンの咆哮が、大地を揺るがした。空気が震え、兵たちは一斉に足を止める。手の中の武器が汗でわずかに滑り、身体が硬直する。

 

「っ……撤退! 後方へ退け!」

 

 クラウスは即座に指示を飛ばす。だが、背後には先ほど現れた魔物の群れ。退路など、存在しなかった。魔物たちは蠢きながら迫り、爪と牙が突き出される。撤退は、もはや不可能だった。

 

 絶望的な戦場を変えるためにルシアンとレイナが動く。直剣を構え、魔物の間を縫うように斬り進む。だが、数が多すぎる。三匹倒せば、五匹が押し寄せる。前に出る余裕など与えてはくれない。

 

「あれを、自由にさせる訳には……いかないっ!」

 

 レイナは叫び、刃を走らせる。だが、鱗に覆われた魔物には、斬撃は十分に通じない。

 

 その時、ルゥが声を張り上げた。

 

「っ……せめて気を引く!」

 

 跳び上がり、ドラゴンの眼を狙って短刀を放つ。鱗に覆われていない一点――だが、刃は僅かに軌道を逸れ、鉄のような鱗に弾かれた。ドラゴンの視線は、微動だにしない。

 

 クラウスは後方のシリルをかばうように立ち、顔を上げる。そして、見てしまった。巨大な瞳が、じっとクラウスを見据えていた。

 

 ドラゴンの口が、ゆるやかに開く。熱気が漏れ出し、空気が歪む。漏れ出した炎が揺らめき、世界が焼ける前の静けさに包まれる。

 

「来る……!」

 

 クラウスの視線が、炎に呑まれる寸前――彼の前に、大盾が立ちはだかった。

 

 盾の表面が、燃えたように赤く染まり、低く唸るような振動音を響かせる。その盾をイグニスが、全身で支えていた。

 

 持ち手は炎の熱に晒され、金属が赤く染まっていた。彼女の掌はすでに焼け焦げ、肉の焼ける匂いが周囲に広がる。皮膚が炭化を始めても、彼女は一歩も引かなかった。

 

「……絶対に守るんだっ!」

 

 ハーフリザードの血を引く者にとって、ドラゴンは畏怖の象徴だった。だからこそ彼女はその炎に屈さぬ者に成れるようにと、イグニスという名を授けられた。

 

「お前の炎なんて怖くない! 私の役割を証明するためにも、この盾の後ろに、何ひとつ通させはしない!」

 

 訓練所では、ただいじめられるだけだった彼女に彼は言った。「誰かを守る力を持つ者こそが、何よりも頼れる存在なんだ」と。

 

 あの日、仲間と誓った。何があっても、彼を死なせないと。

 

「絶対に守ってみせます……! この炎は、決してあなたに触れさせない!」

 

 炎が鎧を焼き潰すその瞬間。イグニスの瞳だけが、強く、揺らがずに光っていた。

 

 ドラゴンのブレスが収まる。辺りは焦げつき、煙が立ち上る。焼けた地面は、じりじりと熱を放ち続けていた。

 

 一人の少女が、盾を構えたまま、そこに立っていた。体の表面は炭のように焦げ、角はひび割れていた。それでも彼女は――盾を離さなかった。

 

「シリル! イグニスの治療を!」

 

 クラウスが叫び、剣を構えて前へと飛び出す。彼とイグニスを繋ぐ加護は、まだ途切れていない。それが、彼女の命がまだ灯っていることを示していた。

 

 彼女が命を賭して得た、ほんの数秒。クラウスはその想いに背かぬよう、ドラゴンへと駆ける。そして、渾身の力で、その顎を切り上げた。

 

 剣がぶつかる。衝撃で剣を握った手が痺れる。それでも、彼は剣を離さなかった。ドラゴンの瞳がクラウスを捉える。その瞳は明確な敵として、クラウスを認識していた。

 

「時間を稼げ! 攻め続けろ! あいつが飛んだら終わる!」

 

 クラウスの声が戦場に響く。

 

 魔物の群れは、相変わらず四方から押し寄せてくる。それでも、誰もがそれぞれの武器を振るい続けていた。焦げた地面に足を踏みしめ、仲間の背を守りながら、ただ前を向いていた。

 

 ルシアンは、剣を握りしめたまま、ドラゴンの動きを見据えていた。しかし、仲間の悲鳴が背後から聞こえる。彼は迷っていた。自分がドラゴンへ向かえば仲間の命が失われるかもしれない。その予感が彼の判断を鈍らせる。

 

 救える命を見捨てられない。それは彼の役割の本質だった。しかし、ドラゴンに背を向けようとしたその瞬間、大斧を持った男が彼の前に割り込む。

 

「クラウス以外の人間は信用していない。だが……今は、お前の力が必要だ。後ろは俺たちに任せてくれ」

 

 それはニードだった。人族への不信を抱えながらも、今この瞬間だけは、手を取り合う。その言葉に、ルシアンは短く頷いた。

 

 剣の閃き、爪の軌道、噛みつく牙――刹那ごとに命が削られていく。それでもなお、彼らは前へ進んだ。誰かが倒れ、誰かが叫び、誰かが立ち上がる。そのすべてを踏み越えて、勇者の一撃を信じて。

 

 そんな努力を嘲笑うかのように、ドラゴンが翼を広げる。空気が震え、影が伸びる。最悪の未来が、現実として目前に迫っていた。

 

 しかし――最悪の未来を否定するように。教会の奥から、爆音が響き渡った。

 

 石壁が砕け、崩落した建物の瓦礫が空を裂くように飛び散る。その破片の嵐の中、魔術師たちの術が炸裂し、炎と光が戦場を塗り替える。その先頭に立っていたのは、ルゥだった。

 

「今度は……逃げてやるもんかっ!」

 

 叫びは震えていた。だが、その震えは恐怖ではない。過去の自分を断ち切る、決意の震えだった。崩れた教会の天井が、ドラゴンの飛翔を阻む。瓦礫が翼を覆うようにして、空への逃走を封じる。

 

 ルゥの脳裏には、ブラッドベアの記憶が走る。あの日、彼女は逃げた。仲間を置いて、恐怖に背を向けて――その事実は、今も胸の奥で爪を立てている。

 

 視界の端には治癒魔法を受けているイグニスの姿。その覚悟を、彼女は知っている。自分は何もできないと身を縮めていた彼女が役割を果たすために命を懸けたのだ。

 

 決意が連鎖していく。荒れ果てた戦場で交錯する意志。誰かの覚悟が、誰かの背を押す。その連鎖が、戦場を塗り替えていく。

 

 戦いは、まだ終わらない。終わらせてはならない。

 

「わんこちゃんナイス!」

 

 レイナが瓦礫の陰から、跳ねるように飛び出した。手にした剣が、一直線にドラゴンの翼を貫く。刃は鱗を裂き、瓦礫の深部にまで突き刺さった。――まるで、大地と翼を縫いとめるかのように。

 

 ドラゴンは咆哮とともにレイナを翼で振り払おうとする。脈打つ筋肉が震え、骨が軋む。それでも、翼は動かない。縫いとめられたその一枚の翼が、巨体の均衡を狂わせていた。

 

 レイナは肩をすくめ、小さく笑う。

 

「もっとカッコいい役割が欲しかったって思ってたけど。『裁縫師』も悪く無いじゃない」

 

 その言葉は、冗談のようでいて、どこか誇らしげだった。決して戦闘向きではない役割。だがレイナは、『切り裂き、貫き、そして縫い留める』という一連の動作を極限まで鍛え上げていた。

 

 その剣は、翼を裂いて地を刺し、加護の補正がそれを封じる鎖のように機能していた。翼は、もはや跳ね上がらない。大地に縫いつけられたドラゴンは、自由を失った。

 

 押し寄せる魔物の波に、前線がぐらつき始める。そのとき――亜人族の兵たちが、人族の兵をかばいながら、前へと押し出た。

 

「お前たちはいつも通り、後ろでビクビク魔法でも唱えてな! 前線の流儀、見せてやるよ!」

 

 ニードの叫びが戦場に響き渡る。その言葉に、亜人兵たちが一斉に咆哮を上げ、士気を爆ぜさせた。屈強な肉体で築かれた壁が、魔物の群れを押し返していく。血と汗が混じるその陣形は、まるで生きた防壁のようだった。

 

 背後では、魔術師たちがその意志に応えるように詠唱を始める。戦場に一瞬の静寂が走り、空気が魔力の気配で満ちていく。鼓動が魔力に同調し、空がわずかに震えた。

 

「……ありがとう」

 

 ぽつりと漏れた感謝の声に、亜人たちは振り返らず、ニヤリと笑う。その笑みは、誇りと皮肉と、ほんの少しの信頼を含んでいた。

 

 次の瞬間――魔術師の唱えた氷の呪文が炸裂する。冷気が奔り、ドラゴンの四肢を凍てつかせた。足元が絡め取られ、巨体は軋みながらも、完全にその動きを封じられる。

 

「ルシアン――決めろ!」

 

 クラウスの声が、戦場に響く。その声に続くように、兵たちの祈りにも似た叫びが、戦場に木霊した。

 

 ルシアンは剣を高く掲げる。全ての力を注ぎ込み、刃に宿す。その光は、空気を震わせるほどに濃く、青白く輝いていた。

 

「いつか君の剣を折ってやろうと思って、ずっと隠れて特訓してたんだ。――でも、ドラゴンの首も悪くない」

 

 クラウスに敗北した、あの日。ルシアンは自分の弱さと向き合い、弱音も吐かず剣を磨き続けてきた。悔しさも、憧れも、すべてを刃に込めて。

 

 その一振りは、もはやただの斬撃ではなかった。人々を理不尽から守るため、神が勇者に授けた浄化の一閃。神話に記された『英雄の一撃』が――今、現実に顕現する。

 

 ルシアンが疾走する。風を裂き、魔物の群れをすり抜け、一直線にドラゴンの首筋へ。その剣が、青白い軌跡を描きながら、巨体を断ち切った。一閃の光。そして、重く地面を揺らす衝撃音。巨竜の首が、鈍い音を立てて地へと落ちた。

 

 全兵が一斉に声を上げた。それは、この地を守り抜いた者たちの――魂が叫んだ、勝利の咆哮だった。兵たちの咆哮が、空を突く。歓喜、勝利、失われた仲間への想い。そのすべてを孕んだ声が、風に乗って戦場を駆け抜ける。

 

 だがその裏で、クラウスは静かに状況を見渡していた。魔物たちは、すでに撤退を始めている。それでも彼は、剣を下ろさなかった。

 

 そのとき、彼の視界の端に、異様な光景が映った。

 

 胴体を裂かれた猿の魔物の上半身を、抱き留めるもう一体の魔物。動かぬ仲間を、腕の中に抱えたまま、じっと動かない。魔物同士の間で交わされるはずのない『情』が、そこには確かに存在していた。

 

 まるで失った仲間を、悲しんでいるように。

 

 クラウスは、目を逸らせなかった。それは、戦場で何度も見た光景だった。仲間が息絶える瞬間。その命を抱き、最後のぬくもりを伝えたことが、彼にもある。

 

 敵と味方。人と魔物。その境界が、ほんの一瞬、揺らいだ。

 

 猿の魔物がクラウスを睨みつける。

 

 その瞳は、言語の壁を越えてクラウスへと訴えかけてきた。――よくも、私の大切な者を殺したな。お前だけは、絶対に許さない。

 

 無情な怪物と思われていた者が、人と同じ目を向けてきた。怒り、悲しみ、憎しみ――そのすべてが、言葉を超えて胸に突き刺さる。

 

 そして仲間の魔術師が炎を放った。残党狩りが始まり、猿の魔物に業火が襲いかかる。

 

 焼け落ちていく最中も――その猿の魔物は、最後までクラウスから目を逸らさなかった。焼け焦げる皮膚の奥で、瞳だけが、静かに、強く、彼を見つめていた。

 

 クラウスは、思わず呟く。

 

「……魔物って、何なんだ」

 

 敵であるはずの魔物。その『心』の片鱗が、理解を超えて胸を打つ。それは、戦場で幾度も命を抱いた彼だからこそ、見逃せなかったもの。

 

 だが、彼はすぐに意識を切り替える。戦場はまだ終わっていない。

 

「今は負傷者の対応を優先! 目標は達成した、後は――生きて帰るぞ!」

 

 クラウスが指示を飛ばす中でも、あの猿の魔物の視線だけは、いつまでも脳裏から離れなかった。戦場は静まり返り、前線は押し上げられた。だが、その代償として、多くの命が、大地に還っていた──。

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