駐屯地の一角に、墓石が並んでいる。今回の作戦で命を落とした兵士たちが、ここに埋葬された。土はまだ新しく、周囲には花も供えられていない。
彼らは、ドラゴン討伐の成功を支えた。前線に立った者も、補給を担った者もいた。誰もが、自分の役割を果たして死んだ。
墓の前に、兵たちが集まっている。誰も口を開かず、ただ立っていた。誰もが彼らと言葉を交わす時間が足りなかったと悔やんでいた。
『生きて、家族に会わせる』
クラウスは誓いを果たすことができなかった。それでも、誰も彼を責めなかった。その誓を現実にするため彼がどれだけ必死だったかを、誰もが理解していた。
ドラゴン討伐は成功した。それによって、未来は確かに変わった。だが、その代償として、人間も亜人種も、多くの命が失われた。彼らの犠牲があってこそ、クラウスの自領は今も平和を保っている。
フィリスも、子供たちも、きっと安らかな日常の中にいる。戦いの記憶を知らずに、穏やかな時間を過ごしているのだろう。誰かを生かすために、誰かを殺す。その矛盾は、部隊長としての責任と共に、クラウスの肩に重くのしかかっていた。勝利の報告を終えた今も、その重圧は消えなかった。
包帯を巻いたイグニスがそっとクラウスの肩に触れた。その手の温度は、まだ生きていることの証だった。
「ここ数日、一睡もしてませんよね」
シリルの治癒魔法で、イグニスは命をつなぎとめていた。火傷の痕は残るかもしれないが、命だけは守られた。
「……眠ってるよ」
クラウスは、嘘をついた。本当は、目を閉じるたびに、あの猿の魔物の視線が蘇る。仲間を失った魔物が、最後まで睨みつけてきた。その目に、敵意だけではないものがあった。
憎しみの奥に、守ろうとする意志が見えた。それは、戦場で何度も見てきた、人間の目と何も変わらなかった。
「嘘です。クマ、ひどいですから」
「気のせいだよ」
会話は短く、冗談めいていた。だが、その裏では、終わらない戦争の足音が確かに響いていた。 ――そして、フィリスのスキルが“魔王”だと判明する日も、刻一刻と近づいていた。
それ以降も、クラウスたちは剣と希望を携えて戦場を駆け続けた。ドラゴン討伐という偉業の余韻の中でも、戦いは終わらなかった。
クラウスは気丈にふるまい続けた。その背に、戦友たちは信頼と誇りを見ていた。だが、その影では、心も体も確かに削れていた。ルゥは眉を曇らせ、イグニスは何度も言葉にならない警告を口にしかける。誰もが、クラウスの限界に気づいていた。
戦場にも、変化が訪れていた。かつて蔓延していた亜人種への差別は和らぎ、人種と亜人種が、同じ志のもとで肩を並べるようになった。その結束は前線を押し上げ、魔物の領域を少しずつ侵食していく。
クラウスは、幾度となく最前線に立った。兵を導き、地を奪い、命を賭けて進んだ。
進軍のたびに、抵抗は弱まっていった。だが、そこには確かな違和感があった。――魔物の振る舞いが、変わり始めていた。
突撃よりも、庇護。攻撃よりも、執念。怯えた子供を背にかばう、母親のような魔物。血を分けた家族の仇を討とうとする魔物。逃げる者に盾となる魔物。
彼らは、もはやただの“敵”ではなかった。その変化に気づいていたのは、クラウスだけだった。戦場の叫びの奥で、彼だけが見ていた。泣いていたのは、誰だったのか。守ろうとしていたものは、誰だったのか。
疲弊したクラウスの意識は、限界を越えていた――そして、意識は途切れた。
クラウスの身体が、戦場の土に崩れ落ちた。最前線で道を切り開き、誰よりも命を賭けてきた彼が、ついに限界を超えた瞬間だった。
兵たちはすぐに彼を拠点へ運んだ。テントの中には、張り詰めた空気が漂っていた。
ルゥ、イグニス、ニード。かけがえのない仲間たちは、今にも泣き出しそうな声で、シリルに訴えた。
「早く、治してよ!」
シリルはすぐに魔法を発動した。だが、クラウスの身体には何の変化も起きなかった。
「身体的な損傷は見当たらないの。魔法じゃ癒せない……」
静かにそう告げた彼女の声に、テント内の空気が凍りついた。
重く苦しい空気から逃げるように、シリルは外へ出た。そこで目にしたのは、思いがけない光景だった。
テントの周囲には、兵士たちが群がっていた。人種、亜人種、様々な種族が集まっている。クラウスが倒れたという知らせを聞き、駆けつけてきたのだ。
シリルはその場で、質問攻めにあった。
「クラウス様は大丈夫なのか!?」
「命に別状は!?」
シリルが「大丈夫です」と説明しても、声の波は止まらなかった。不安と焦燥が、群衆の中で膨れ上がっていく。その混乱の中心にあるのは、たったひとり――クラウスという存在だった。
クラウスは微睡む意識の中目を開けると、戦場に立っていた。だが、目の前にいるのは見知った兵たちではない。彼の前に並ぶのは、魔物たちの背中だった。とっさに剣を構えようとする。しかし、腕は動かず、指も震えない。体の感覚が、遠ざかっていく。
「助けて……! 子供が見つからないの!」
悲鳴のような声が、頭の中でノイズのように響いた。誰が叫んでいるのか。頭に響く言葉は人種のものだったは、耳に入ってくる叫びは獣のものだった。
視界の奥で、狼型の魔物が吠える。人の倍はある巨体。その咆哮は攻撃ではなく、傷を背負う者のうめきに近かった。
その隣で、鳥型の魔物が羽を広げて叫ぶ。
「怪我人を運べ! 奴らから守れ!」
そして、背の曲がった蜘蛛型の魔物が地を這いながら声を上げる。
「またあいつだ! あいつを殺せ! 恋人の仇なんだ!」
クラウスは口を開く。だが、声は出なかった。脳が、目の前の光景の意味を拒絶していた。仲間を庇い、敵に怒り、誰かを守る。それは、クラウスたち人族の戦場と何も変わらなかった。
痛む頭に訴えるように、背後から声がする。
「……どうして……もう、やめて……」
聞き慣れた声だった。あの日、守ると誓った相手から石を投げられ、絶望の淵に立っていたクラウスを救った一人の少女の声によく似ていた。
だが、振り向けない。身体が、氷のように固まっていた。
クラウスの横を、一人の少女が通り過ぎていく。銀色の髪。褐色の肌。尖った耳。その姿は彼の記憶に深く刻まれている。
それは――クラウスが命を賭してでも守ろうとした、フィリスの姿だった。
彼の視線は動かず、夢は静かに歪んでいった。光も音も、全てが崩れていった。
目を覚ましたクラウスがいたのは、王級の客室だった。窓から差し込む光、整えられた室内。先ほどまで見ていた夢とはあまりにも対照的な、安らぎの空間。
彼の目覚めに気づいたメイドが、驚いた様子で部屋を飛び出していく。それは、1週間に及ぶ眠りからの目覚めだった。
クラウスは水を口に運びながら、王妃から状況説明を受けていた。国中の治療師が彼のために召集され、治療がいかに大規模だったかを聞かされても、まだ夢と現実の境界は曖昧なままだ。
「……仲間は、いや。戦場はどうなって……違う。魔物って、なんだと思いますか……?」
「その問いの答えは、彼女が持っているでしょう」
思考の定まらないクラウスを、王妃は静かに手で制し、数度手を叩いた。ゆっくりと扉が開き、神官が青白く光る水晶を携えて入室する。その後ろには、フィリルの姿。
クラウスは思わず身を起こそうとするが、身体がふらつき、手元の器を倒してしまう。水がシーツに広がり、冷たさが肌に染みた。
静かに、王妃が語り出す。その表情には、覚悟の色が滲んでいた。それでもなお、どこか優しさが残っている。
「神が私に与えた役割は――『詐欺師』でした。誰もが私の言葉を信じてしまう。言葉を交わした相手の思考を読み、誘導する加護があります」
その言葉で、今まで王妃が自分の頼みにすんなり応じてきた理由に、初めて合点がいった。全て、仕組まれていた。信じさせられていた。
クラウスは強く歯を噛みしめる。怒りが胸を焼く。信じた分だけ、裏切られた。王妃の穏やかな声が、余計に彼を苛立たせる。
そして、王妃は笑みを崩さぬまま、言葉を継いだ。
「貴方は言ったでしょう? 役割は、必ずしも悪ではない。剣と同じ。使い方次第で、人を守ることができると」
それは、確かにクラウス自身が口にした言葉だった。だが今、その言葉が自分に向けられた瞬間――胸の奥に、冷たいものが走った。
王妃を信用していいのか。その思考すら、彼女の加護によって誘導されているのではないか。疑念は静かに、しかし確かに、彼の心を蝕んでいく。
「……彼女の役割によって、魔物との共存が可能ではないか。私はそう考えました」
その問いすら、自分の意思を誘導するためのものなのか。今も王妃の掌の上なのか。思考の底が揺らぐ。
それでもクラウスは、王妃に与えられた言葉を返すしかなかった。違う。返したのではない。選んだのだ。疑念の中で、信じることを。
「……王妃。その言葉、信じていますよ」
王妃は、微笑みを崩さずに応じた。
「ええ。落ち着いたら、次は彼女と三人でお茶にしましょう」
王妃は静かに神官とフィリルに視線を送り、ひとつ頷いた。神官が手にする水晶に、フィリルがそっと指先を添える。水晶が淡く光を放ち、空気がわずかに震えた。神の加護が降りる――役割が告げられる。
『魔王』
かつての世界で、人類の敵として恐れられたその役割。だが今、それは人と魔物の平和のために授けられた役割となった。
フィリルの力は、王妃の予言通りに世界を変えていった。彼女を通すことにより魔物との意思疎通が可能となり、彼女を通訳とした和平交渉は、今や日常の風景となっている。かつて剣と牙を交えていた者たちが、友好の意思を交わすようになった。言葉の隔たりはまだ残るが、それでも信頼関係が少しずつ築かれていく。
戦争は、終わった。最前線へ送られていた兵士たちは次々に故郷へと戻り、荒れ果てた街には少しずつ人の営みが戻りはじめた。民の不安も、半年にわたる平穏の中で、静かに、確かに、落ち着いていった。
フィリルに役割が与えられてから、クラウスの仲間たちにも変化があった。特にルゥとイグニスの変わりようには、目を見張るものだった。
「フィリルちゃんを見ると……なんていうか、可愛がりたくなるんだよね」
ルゥはフィリルを抱きしめながら照れくさそうに笑いながら、そう言った。
「なんでしょう……? 彼女を守らないとって本能的に思うというか……」
イグニスは、フィリルの頭を撫でながら呟いた。フィリルは甘やかされるという経験が少ないせいか、顔を真っ赤にしてされるがままになっていた。
魔物との対話を重ねる中で、変化の原因は徐々に明らかになっていった。かつて、人と魔物はひとつの言語を共有し、ともに暮らしていた時代があった。亜人種のルーツを辿れば、それは両種族が支え合い、生きていた証そのものだった。
しかし、長い時の流れの中で、互いの言語は分岐し、容姿の違いが偏見を生んだ。魔物は次第に異形として忌避され、共存の記憶は忘れ去られていった。
フィリルの魔王の加護に触れたことで、ルゥやイグニスにも、血に刻まれた本能が呼び起こされたのかもしれない――そして、平和な時間はゆるやかに流れていく。
ルゥは故郷の宿屋へ戻り、盗賊の加護を活かして家族の手伝いをしながら、料理の配達員として街を駆けている。
「ん~……ドラゴンより、ブラッドベアの前足の方が手ごわかったかも? 今度、お店で出してあげるから、楽しみにしてて!」
笑いながら軽快に走るその姿は、かつて戦場で見せた鋭さとは違い、穏やかで柔らかなものだった。
イグニスは騎士団に加わり、レイナの部隊に所属している。包帯を外したその姿には、火傷の痕ではなく、以前よりも硬質化した鱗が広がっていた。それは、彼女の決意に身体が追いついた証であり、役割を全うした彼女の誇りだった。
「皆を守れるのは嬉しいんですけど……お洋服が、ちょっと引っかかるのが悩みですね」
その声に、かつて訓練所で怯えていた少女の面影はなかった。平和になった世界では騎士団の仕事も減り、レイナと共に街で買い物をする姿が、よく目撃されている。
そして、クラウスは王城の訓練所で剣を振っていた。向かいに立つのは、ルシアン。かつて同じ戦場を駆け抜けた二人は、微笑みを浮かべながらも、その視線は鋭かった。
「さて、暴君。久しぶりの模擬戦といこうじゃないか」
クラウスは笑った。
「そう呼ばれていた頃が懐かしいな。今じゃフィリルのせいで、俺が『魔王様』扱いだよ」
その言葉に、傍らで聞いていたフィリルとシリルが思わず笑みをこぼす。フィリルが魔物たちに「私を守ってくれる大切な人」と説明したせいで、クラウスは今や宗教染みた勢いで魔物たちに崇められている。
そして、それは巻き戻る前の世界でも同じだった。クラウスによって逃がされたフィリルが魔物の地へ向かったあと、彼は『魔王を守った英雄』として語られていた。民に敬われ、魔物たちの忠誠を受けた彼の加護は、時を捻じ曲げるほどの力を持っていた。
「クラウス様……この剣が未来を切り拓きますように。神の名において、ご加護を」
シリルの祈りの声が光となり、勇者の身体を静かに包み込む。膨れ上がった暴君の加護に対抗するため、ルシアンが選んだ手段は聖女の加護を受けることだった。
戦争が終わり、重圧から解き放たれた彼は、負けず嫌いという子供のような一面を隠そうともせず、むしろ誇らしげに見せていた。
その傍ら、フィリスが控えめに歩み寄る。
少し緊張したような、それでいて淡く憧れるような瞳で彼を見つめていた。
「クラウス様、私も何かできると良いのですが……」
フィリルに与えられた加護は、魔物と心を通わせ、従わせる力を持つものだった。戦時中であれば、それは忠誠の名のもとに命を投げ出して戦う兵士を生み出す、恐るべき加護となっただろう。だが、今は平時。彼女の力は、もっぱら魔物との意思疎通、通訳としての役割に留まっている。
「俺が勝ったら、サンドイッチを作ってもらえないかな。卵に野菜、ハーブとチーズ。あれが好きなんだ」
フィリスは驚いたように目を瞬かせ、小さく笑みを浮かべて頷いた。
「分かりました。心を込めてお作りしますね」
クラウスはフィリルの頭を軽くなでると、ルシアンに向け一歩踏み出し、わざとらしく腕を広げる。
「我こそは魔王クラウス。勇者よ。我を倒して、世界が救えるかな?」
その演技じみた仕草に、ルシアンは苦笑しながらも胸を張って応える。
「勇者の剣によって魔王は討たれ世界に平和が訪れる。それがお約束だろ?」
クラウスの口元がわずかに吊り上がる。
「ぬかせ」
剣と剣が交差する。鋼がぶつかり、火花が舞う。澄み渡る青空の下、その音は空へと昇り、争いの終焉と、未来への祝福を告げる鐘のように響いた──。
これでこのお話は終わりです。
初めてのファンタジー作品ということで拙い文章ですが、ここまで読んでくださった方に心からの感謝を。