悪役を与えられた俺と君と。   作:湊音

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一人きりのやり直し

 翌朝。屋敷の裏手にある石張りの訓練場は、まだ人の気配もなく、薄い朝靄に包まれていた。クラウスは木剣を構え、静かにそこへ立っていた。

 

 手にした剣は軽く、戦場で握っていた物とは比べものにならない。だが、掌に収まる感触は確かで、クラウスは何度も握り直しては、構えを整えた。

 

 呼吸を整え、足裏で地面の硬さを確かめる。間合いを測り、腰を落とす。

 

 そして、一閃。

 

 空を裂くような剣筋が走る。無駄のない動き。鋭い踏み込み。それは、最前線で数年を過ごした男の技だった。しかし、二度目、三度目と繰り返していく中で呼吸が揺れた。脚がもつれ、腕が重くなる。

 

「……身体が、鈍ってる」

 

 低く、絞るような声が漏れた。

 

 再び構え直す。型は染みついている。目も、思考も、敵の動きを想定して動いている。五度目の斬撃で肺が軋み、汗が額に滲む。背筋は伸びきらず、踏み込みも甘い。

 

 かつてなら、この程度の動きは朝の準備運動にもならなかった。今は、ほんの数手で全身が悲鳴を上げている。

 

「身体は、三年前のままか」

 

 木剣を下ろし、クラウスは息を吐いた。視線を空へ向ける。屋敷の塔が朝陽に照らされていた。時間だけが、何もなかったかのように流れている。

 

「戦える身体じゃないな」

 

 手のひらには、血豆ひとつない。あの戦場で何度も裂けた感触は、思い出せるのに、痕跡は残っていない。クラウスは静かに立ち尽くし、眉間に皺を寄せる。

 

「いや、戦えなければならない」

 

 生き延びるためではない。名誉のためでもない。

 

 今度こそ『自分が知る結末に抗う』ために。

 

 朝の訓練場に風が吹き抜ける。クラウスは休憩を挟みながらも木剣を手に、石張りの地面の上で動きを確認していた。指先には技術の感覚が残っている。だが、踏み込みは遅れ、呼吸は浅い。

 

 木剣が風を切る音に混じって、甲冑の音が規則的に近づいてくる。訓練場の空気がわずかに揺れ、クラウスは振り返った。そこには、一人の女性騎士が立っていた。

 

 腰まである赤い髪が風に揺れる。ハーフプレートの鎧に、動きやすさを重視した布地の腹部。腰には細身の直剣が下げられていた。

 

「クラウス・ローデル殿ですね。講師として派遣されました、王国騎士団所属のレイナ・フォル=ディールです」

 

 声は柔らかく、表情にも笑みが浮かんでいた。だが、その目だけは冷静にクラウスを見定めていた。

 

 クラウスは木剣を下ろし、静かに応じた。

 

「クラウスです。よろしくお願いします」

 

 レイナは無言で木剣を手に取り、数歩だけ距離を取った。たったそれだけの動きなのに、滑らかで無駄がない。

 

「今日はどれくらいできるのか確認で。形式的な任務だし、無駄な時間は省くわ。準備はいい?」

 

 クラウスは構えながら、彼女の動きに目を走らせる。立ち姿。剣の握り方。踏み込みの予備動作。それらは、過去に戦場で幾度も目にしたものだった。

 

 背を合わせて剣を振るった戦場。「背中は私が守る。あなたは貴族らしく、前だけ見てなさい」その言葉も、その目も、クラウスは確かに覚えていた。

 

 今のレイナは、何も知らない。けれどクラウスにとっては、紛れもない“再会”だった。

 

「じゃあ、始めるわよ」

 

 レイナは迷いなく踏み込む。木剣が一閃。クラウスは受け流すが、反応に僅かな遅れがある。彼の記憶に身体が追いついていない。

 

 打ち合いは、最初こそ探るような間合いだった。だが三手目から、レイナの剣速が明らかに上がる。四手目には、刃先がクラウスの肩をかすめるほどの距離まで踏み込んでいた。五手目、その一撃は当てるつもりだった。クラウスがわずかに身を引いた瞬間、レイナは手を止めた。

 

「意外と筋は良いじゃない。体力はまだまだみたいだけどね」

 

 クラウスは息を整え、言葉を選ぶ。

 

「確認にしてはやりすぎじゃないですか……?」

 

 その言葉に、レイナは特に反応を見せなかった。

 

「基本動作を反復練習して。汗くらいかくつもりで」

 

 木剣を下げて、彼女はそう言った。

 

 クラウスは静かに頷く。その仕草も、声の調子も、記憶のまま。だがレイナにとってはこれが初対面。それでも、もう一度こうして向き合えている。彼にとってはそれだけで、十分だった。

 

 石畳の上に立つクラウスは、木剣を肩の高さに構えていた。

 

 振り下ろし。踏み込み。戻し。

 

 教本に載っている基本を思い出しながら木剣を振るう。それだけなのに、肩が重く、呼吸は浅くなり、脛に鈍い痛みが残る。

 

 クラウスは一振りごとに呼吸を整えながら、自分の中に残る戦場の記憶をなぞっていた。敵の動き。剣の軌道。仲間の叫び声。それらは今もなお鮮明に彼の中に残っていた。だが、振るう剣はその記憶に届かない。身体だけが、過去に置いていかれているようだった。

 

「良い感じ、焦らなくても良いから丁寧にね」

 

 剣を振る。空気を裂く音が、思考のざわつきを押し流していく。自分が過去に戻っている。クラウスはようやく、その事実を冷静に見つめられるようになっていた。

 

「振り下ろしは良いわね。でも、踏み込みが甘いわ」

 

 死んだはずの自分が、なぜ今ここにいるのか。その問いは、剣を振るたびに胸の奥で静かに響いていた。

 

「もっと重心を落として。力を逃がさないように」

 

 誰かに話すべきなのか。父に。レイナに。信じてもらえるだろうかと、一度は考えた。

 

 もしこれが本当に過去を繰り返しているのだとしたら。誰かに話したことで、何かが変わってしまうかもしれない。彼女の最後。戦場の崩壊。誰かがその未来に触れたなら、もう同じ道は辿れない。

 

 踏み込んだ足が、ほんのわずかに空を蹴った。地面を捉えきれないその動きに、迷いが滲んでいた。

 

「今のは、惜しい。あと半歩踏み込めるわよ」

 

 それが良いのか、悪いのか。今の彼には分からなかった。今のところ、自分しか知らない。自分だけが覚えている。そして、時間は静かに未来へと進んでいる。

 

 語るべきではない。この記憶は、自分の中に閉じておく。それが、今の彼にできる唯一の選択だった。

 

「もう一度。集中を切らさないで」

 

 クラウスは剣を振る。今度は、少しだけ鋭く。誰にも見せない決意が、その音に滲んでいた。

 

 誰かに伝えれば、望まぬ方向へと未来が変わるかも知れない。そしてその変化が、求める結末を遠ざけてしまう可能性がある。だから今は、沈黙を選ぶ。既に経験した未来をなぞらないために。変えるためにこそ、語らずに進む。

 

 クラウスは、自分だけの記憶を胸に、静かに剣を振り続けていた——。

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