森の奥へ逃げた二人は、木の根元で荒く息をしていた。肩が上下し、握った拳が小刻みに震えている。ルゥの尻尾は脚の間に巻き込むように垂れ、耳もぴたりと伏せていた。奥歯がカチカチと鳴る。
「また……あたし、助けてもらって、逃げるだけなの?」
出発の日、両親に言った言葉が頭をよぎる。
「あたし、活躍してくる。それでこの宿屋を国一番になるくらい宣伝してくるね」
それは、ただの見栄じゃなかった。自分の力で変わりたい。そう思っていた。
でも今、何もできずに逃げてきた。
ルゥは震えるナイフを見つめながら、言葉を絞り出した。
「……くっ、熊の手って……美味しいって、お父さんが……言ってた」
声はかすれて、喉の奥で引っかかる。
「き、今日は……三人で……熊鍋にでも、しようよ」
その声は震えていた。けれど、逃げるための言葉ではなかった。呼吸はまだ浅く、耳も伏せたままだったが、取り出した短刀を握る手だけは、少しだけ力を取り戻していた。
イグニスはその姿を見つめていた。肌は白を通り越して青ざめ、頬の鱗もわずかに色を失っていた。足元は不安定で、気を抜けばその場に崩れ落ちてしまいそうだった。
それでも、立っていた。胸の奥で、何かが静かに軋んでいた。
ルゥは震えながらも、前を向こうとしていた。その姿が、イグニスの中の何かを確かに動かした。
「……誰かを守る力がある、頼りになる役割だって……言ってくれた。それに、まだ……クラウス様に助けてくれてありがとうって、言えてない……」
その言葉は、誰に向けたものでもなかった。ただ、自分自身に言い聞かせるように、静かに吐き出されたものだった。二人は互いに顔を見合わせた。瞳には、まだ迷いがあった。けれど、足は前を向いていた。
何も言わず、二人は歩みを戻した。それは、守られるだけだった自分に、別れを告げる足取りだった。
二人の少女を逃がした後、クラウスは剣を盾のように構え、ブラッドベアと対峙していた。一分でも、一秒でも長く魔物を引きつけることで、少女たちが安全に逃げ切れる。そう自分に言い聞かせながら。
何度目かも分からない攻撃を受け流す。衝撃が、じわじわと身体を削っていく。膝が揺れる。呼吸が浅くなり。手に持つ剣の重さが増していくような感覚。彼の限界は、すぐそこだった。それでもクラウスは、剣を下ろさなかった。
ーーそのときだった。
「うりゃあああああっ!」
ルゥの声が、空を裂いた。枝を飛び移りながら、高所から短刀を投げつける。
「そこ、左目いただき!」
刃が唸り、ブラッドベアの瞼を傷つける。獣が咆哮し、前足を振り上げた。
「私が、止めます……!」
暴れ狂う突進を、イグニスが真正面から受け止める。踏み込み、両腕で衝撃を受け流す。盾と爪の間には火花が散り、足元の地面がめり込むほどの圧。
クラウスの目に、二人の背が映る。痺れていた腕に、じわりと力が戻る。空気を求めて暴れていた肺が静まり、霞んでいた視界が晴れていく。—二度目の人生でようやく、クラウスはこの感覚に辿り着いた。
『暴君』とは、民を恐怖によって従わせ、目的のためならば手段を選ばない。一見すれば、悪逆非道な存在として印象づけられる。
だが、暴君は『暗君』とは決定的に異なる。
「……痛みが、引いていく……?」
国のため。民のため。仲間のため。目的は違えど、民から蔑まれようとも最後まで何かのために意思を貫いた者だけに与えられる称号。それが、暴君。
だが、暴君とは君主である。君主である以上、彼を信じ、付き従う者がいなければその真価は、決して発揮されない。
暴君という役割には、対象との『信頼関係』を前提として発動する君主としての加護があった。人々から忌避され、嫌悪される性質ゆえにこの加護を得た者は極めて少なく、その実態を知る者は、ほとんど存在しなかった。
その加護は、君主に忠誠を誓った者の意思によって発動し、君主自身の能力を向上させる。さらに、誓われた忠誠の深さに応じて、誓った者にも加護が及び、様々な能力が強化される。
「イグニス、肩を借りる!」
「……どうぞ!」
クラウスは駆けた。跳び、イグニスの肩を足場に、一気に空へ。
ルゥが作ってくれた死角を、クラウスは見逃さなかった。獣がわずかに首を傾けた瞬間、狙いを定める。
今までの斬撃は通らなかった。分厚い毛皮に阻まれ、浅い傷しか残せなかった。何度斬っても、血は滲むだけで、獣は止まらなかった。
だが今は違う。クラウスの剣が、獣の首筋を狙って振り下ろされる。
刃が触れた瞬間、毛皮が裂けた。肉が割れ、骨が軋む。手応えが、腕に伝わる。ブラッドベアの身体は震え、そして——崩れた。
静まり返った森の中。息を切らした三人が、並んで立っていた。
「……戻ってよかった」
ルゥが、汗に濡れた顔をゆるめる。
「……私でも……守れました……」
イグニスが、ほんの少しだけ胸を張った。
「ありがとう。逃げろと言ったのは俺だ。でも……戻ってきてくれて、本当に助かった」
その言葉を最後に、三人は膝から崩れ落ちる。地面に座り込むように、力が抜けていった。異変に気づいた教官が迎えに来たのは、それから少し経ってからのことだった。
午後。広場の中央では、表彰式の準備が整えられていた。成績上位の班が呼ばれ、名札と賞状が一人ずつ手渡されていく。
その最中、訓練所の門をくぐって台車が押し込まれてきた。その上には、首を落とされた巨大な魔物の死体が横たわっている。
「……ちょ、え……ブラッドベア……!?」
「マジで倒したの? あれ、討伐隊案件じゃなかったっけ……!」
訓練生たちが騒然とする中、教官が簡潔に告げる。
「この個体は訓練区に迷い込んだ高危険種。クラウス班が討伐を完了。よって、実地訓練第一位と認定する」
ざわめきは収まらない。クラウスは賛辞を受けながら、一切表情を変えずに黙っていた。ルゥは隣で小声を漏らす。
「えっ、本当に褒められてるやつ……!? ねえ、これってすごいやつだよね?」
イグニスは訓練生たちの視線に戸惑いながら、黙って頷いていた。
夕食時。功績が認められ、クラウス班には特別メニューが振る舞われた。
「わー! やっぱり肉だよね! 表彰って言ったら肉!」
ルゥが勢いよく皿を覗き込む。
「これは……」
イグニスは目の前の料理に眉間を寄せる。
配膳されたのは、ルゥの提案によって用意された――ブラッドベアの前足を使った煮込み肉。ルゥが口に運ぼうとした瞬間、ぴたりと箸を止める。
「……くっ……くさい……! 手のニオイっていうか、土? 沼? え、なにこれ、臭い……!」
イグニスは黙って箸を伏せた。
「……訓練所って、こんなものまで料理にするんですね……」
クラウスはいつも通り食事を終え、淡々と紅茶を啜っていた。ルゥは葛藤するように皿を見つめる。
「でも、残したら……負けだから……。あたし、自分ルールで食事残せないのよ……!」
覚悟を決めて一口。表情が曇る。
「クラウス~、紅茶で流し込んでもいい……?」
「どうぞ。ただし、ここで吐き出すなよ」
「……ううっ……! なんでこんな味なの!? 功績メニューって、もっとこう……祝福の味じゃないの!?」
ルゥは涙目で箸を握りしめ、震える声で訴える。
「これ、勝利の肉じゃなくて……罰ゲームの肉じゃん……! あたし、褒められてるのに、なんで泣きそうなの……!」
クラウスは静かに紅茶を啜りながら、ひとこと。
「それでも、食べるのか?」
「食べるよ……! だって残したら負けだからぁぁぁ……!」
笑いが生まれたその席に、言葉よりも確かなものがあった。それは、戦いを共にした者だけが持つ、揺るぎない信頼だった—。