熊の手の煮込みにやられたルゥが、テーブルに突っ伏している。そんな中、クラウスは紅茶を置き、静かに口を開いた。
「ルゥ、イグニス。今回の訓練、気になったことがある」
二人は、顔を上げる。クラウスの言葉に導かれるように、視線が彼へと集まった。
「地図、魔物、周囲の反応。仕組まれていた可能性が高い」
「おっけー。あたし、人の会話拾うのだけは天才だから任せといて」
「……調べる……がんばります……」
クラウスは人差し指をそっと立て、耳を寄せろという仕草を見せた。ルゥとイグニスが身を乗り出し、クラウスに耳を向ける。彼は低く、小さな声で説明を始める。やがて、三人は目を合わせる。言葉はなくとも、互いの意志は通じていた。作戦は、静かに動き出した。
クラウスの指示を受け、イグニスはすぐに動いた。聖女シリルは書庫から出て、次の講義に向かう途中だった。そこへ、息を切らしたイグニスが駆け寄る。
「……シリル様、急ぎでお願いが……訓練中に、怪我人が……血、いっぱいで……!」
「えっ、それは……大丈夫? 今すぐ医務室に——」
「……今、手が足りなくて……その……とりあえず、そこの倉庫で安静にしてもらっていまして……」
イグニスが指差した扉の奥から、どこか苦しげな声が漏れてきた。
「いたいー。だれかー。たすけてー。いたいー!」
あまりにも芝居がかった悲鳴に、シリルは一瞬だけ足を止めた。けれど、すぐに表情を整え、静かに頷く。
「……わかりました。案内してください」
倉庫の扉が閉まり、静寂が満ちる。部屋の奥では、クラウスが机の前に座り、静かに待っていた。
「……怪我人は?」
「いません。すみません、聖女様。お話がしたくて……少しだけ、協力してもらいました」
イグニスは申し訳なさそうに頭を下げる。その隣で、ルゥが満面の笑みを浮かべ、胸を張った。
「あたし、ちょっと演技上手い方なんですよ!」
ルゥ以外の三人は、言葉を失う。
「……まぁ、あれは無かったと認める。だが、聖女と呼ばれる君が助けを求められて、断れるはずがなかっただろう?」
部屋の中には、物資保管用の木製棚が並び、隅には古びた地図と箱が積まれている。明かりはひとつ。天井から吊るされたランプだけが、静かに揺れていた。クラウスは机の前に立ち、表情を崩さぬまま、シリルと向き合う。
「1つ聞かせてくれないだろうか」
クラウスの声は低く、柔らかかったが、問いかけは真っ直ぐだった。
「君はそこまでして、勇者を一位にしたいのか?」
シリルは一瞬、表情を強張らせる。だがすぐに微笑を整え、静かに答えた。
「勇者様は王国の希望です。人々が彼に求めているのは、英雄としての姿。その期待に応えるためには、名実ともに一位である方が……」
クラウスは一拍、間を置いた。だがその沈黙は、冷静さではなく、怒りを押し殺すためのものだった。
「それが本心なら、それでいい。……だが、俺たちの班を妨害してまで、やることか?」
声は低いが、言葉の端に鋭さが滲む。シリルは小さく首をかしげる。
「……何のことでしょう?」
クラウスの視線は揺るがなかった。その瞳には、明らかな苛立ちが宿っていた。
「王国からの嫌がらせには、ある程度目をつぶるつもりだった。訓練の妨害も、評価の操作も……それが国のやり方なら、黙って受けるしかないと思っていた」
クラウスは一度言葉を切り、シリルを見据えた。
「だが、地図のすり替えは別だ。命がかかっていた。……それを、国の都合の延長みたいに扱われるのは、さすがに看過できない」
シリルはわずかに眉を動かす。
「どうして、それを行ったのが私だと?」
クラウスは視線を逸らさずに、わずかに距離を詰める。
「疑う理由ならある。勇者が座学で二位だった。君が一位。……それで、怪しいと考えた」
シリルの表情に、かすかな揺れが走る。
「……怪しい、とは?」
「ルシアンは加護による直感で動くタイプだ。経験と閃きには優れるが、論理構築や暗記には向かない。実際、小テストではうちのルゥ以下だったからな」
時間が巻き戻る前のルシアンは、訓練では驚異的な成績を叩き出していた。 だが座学では、いつも集中力を欠いていた。成績は平均より少し下。決して、二位に食い込めるような出来ではなかった。
巻き戻る前の経験から、今回の座学成績は『誰かが手を加えたもの』以外に、説明のしようがなかった。クラウスは一拍置いて言う。
「実技で一位を取れない勇者に、俺より上の科目を作りたかった。それができるのは、座学で一位を取れる君だけだ。……違うか?」
シリルは、ほんの一瞬だけ黙った。それは否定でも肯定でもなく、言葉を探す沈黙だった。
「……勇者様の努力を、ほんの少し、後押ししただけです。その行いをあなたへの妨害と決めつけるのは——」
「じゃあ、俺の班を潰そうとしたのは、後押しの範疇なのか?」
その問いに、シリルは短く息を止める。聖女が沈黙した隙をついて、扉の向こうから軽いノックが響いた。
「お待たせ〜。演技派の出番です〜」
ルゥが軽やかに扉を押し開けて入ってくる。手に持った白い封筒の封は丁寧に開かれていた。
「これ。聖女さまの手紙。王国の役人とのやりとり。ちゃんと残ってるよ」
シリルが目を見開き、口を開きかける。
「そ、そんな手紙……見たことありません……!」
ルゥはニヤリと笑い、封筒を指先でひらひらと揺らした。
「わたしの役割って盗賊なんだよ? 本物と偽物の入れ替えくらい……造作もないってば」
ルゥの役割にはそんな能力はない。だが、妙に自信満々なその笑顔は聖女に本当にできるのではないかと疑わせるには、十分だった。
シリルの顔色が変わる。
「そんな……封蝋の刻印は王家直属の物、そう簡単に偽造できるはずが……」
言葉の途中で、自分が認めてしまったことに気づく。その瞬間、クラウスは一切動かず、ただ静かに視線を落とした。すでに答えなど知っていたかのように。
「やはり、あんたが繋がっていたか」
シリルは息を飲み、言葉を探そうとしたが何も言えなかった。クラウスは、静かに視線を戻す。
「俺は、王国と敵対するつもりはない。今回の事も訓練中の事故だった。そう処理しても構わない」
シリルが戸惑いながら顔を上げる。
「それならばどうして……?」
「これからの訓練で、勇者が一位になることも構わない。むしろ、俺たちが協力して英雄としての一位を演出してやってもいい」
シリルは、驚きと警戒の入り混じった目でクラウスを見つめた。その瞳には、困惑と戸惑いが静かに揺れていた。
「その代わり、卒業後の部隊の指揮官は俺だ。それだけは譲らない」
クラウスは視線を逸らさずに、冷静に言葉を継いだ。
「名目上の部隊長なら、ルシアンに譲っても構わない。俺が欲しいのは、実権だけだ」
その瞳に、揺らぎはなかった。シリルは、すぐには答えられなかった。クラウスは、部隊長の名さえも譲ると言った。魔族との戦争において、部隊長を任されることは貴族にとって何よりの名誉だった。
王国の貴族としての沽券に関わるほどの重みを持つ役職。貴族であれば、その肩書にこそ執着する。ましてや、実力者ならなおのこと。
だがクラウスは、それをルシアンに譲ると言った。自分は、実権さえあればそれでいいと。
「この条件を、王国の役人に伝えてくれ。それだけでいい」
数秒の沈黙ののち、シリルは小さく頷いた。
「……わかりました。伝えます」
真意の読めないまま、シリルはただ頷くしかなかった。理解しきれないままそれでも、クラウスの提案には抗えなかった—。