アドマイヤグルーヴと、相性度65%のトレーナー 作:君のネクパイになりたい
「すみません、お待たせしました……!」
「いいえ。私も少し前に来たところだから」
昼前の駅前で、二人の少女が挨拶を交わす。
嫌が応にも人目を引く彼女達は、髪色と同じく対照的な出立ちだった。
栗毛の少女、スティルインラブは、秋らしい色合いのゆったりしたワンピースドレス。
青鹿毛の少女、アドマイヤグルーヴは、瑞々しい青を基調とするパンツルック。
二人で並び立つと、殊更に美しさが際立つ、互いを引き立て合う組み合わせである。
「ええと……。本日は、お付き合い頂き──」
「スティルさん」
誘った側として、来てくれた事に礼を尽くそうとするスティルを、アドマイヤグルーヴ……アルヴが止める。
その視線は逸されているが……ほんのりと、頬に赤みが差して見えて。
「そういうのは、必要ないわ。……友達、なんだから」
「……はいっ」
相変わらず不器用ながら、確かに伝わってくる友情の念。
スティルの頬も緩んでしまう。
「今日は、どこへ行くの?」
「それは…………秘密、です。でも、アルヴさんなら喜んでくれるはずです」
「そう。期待、してるわ」
スティルにしては珍しい、ちょっとした悪戯心。
その先導を受けるアルヴも、どこか楽しげに微笑んでいる。
かつてのぶっきらぼうな表情を知る人物が見れば、きっと驚き、喜ばしく思うだろう変化だった。
そして、辿り着いた目的地にて、彼女の表情は更なる変化を遂げる。
「こ、ここは……!」
そこはいわゆる、ドッグカフェ。
かつてのアルヴが、周囲の目を気にして、入れなかった場所。
ネットで調べたり、雑誌で情報を眺めては、溜め息をついていた場所。
ちょっと素直になった今ですら、気恥ずかしくて未挑戦の場所だった。
「このお店、少し前に話題になりましたけれど、今なら落ち着いて入れると思いまして……」
「…………」
「あ、アルヴ、さん……?」
「はっ」
とうとう……。とうとうこの時が……。
思わず感動に浸っていたアルヴだが、しかし、スティルに呼びかけられて正気に戻る。
念願成就の時が来たとはいえ、いや、だからこそ緩んだ顔は出来ない。しっかりしなければ。
「お気に召しませんでしたか……?」
「そんな事ないわっ。……その、は、早く入りましょう」
「……ふふ。はい」
気を引き締めるアルヴだったが、逸る気持ちは抑えられないらしく、ソワソワとスティルを促している。
その姿があまりにも微笑ましくて、自然とスティルも笑顔になっていた。
事前に予約をしてあったので、店員にその旨を伝え、注意事項の説明なども受けて、いよいよ入店する二人。
二重になっている扉を開けると、そこには。
(ここが、天国……?)
開店当初はごった返していたらしいこのカフェだが、スティルの言った通り、今は人の波も落ち着いているようだった。中にはウマ娘の姿もあった。
犬達も程よく暇を持て余しているのか、さっそくアルヴ達に群がる。
(ど、どうしよう。どうすれば。どうなるの)
大型犬。中型犬。小型犬。
ゴールデンレトリバー。シベリアンハスキー。秋田犬。芝犬。チワワ。
それぞれのつぶらな瞳が、「構って」と訴えている。実にサービス精神旺盛であった。
その中の一匹……。一番近くに居た、フワフワな毛並みのゴールデンレトリバーの近くにしゃがみ込み、アルヴは呼びかける。
「……さ、触っても、いい……?」
「ワフ」
言葉を理解しているのだろうか。
ゴールデンレトリバーは鼻先をスッと差し出し、撫でられ待ちの体勢に。
恐る恐る手を伸ばし、躊躇いがちに……触れる。
フワフワの毛並みが指先をくすぐった。
「〜っ!」
感無量。
我が人生に一遍の悔い無し。
いやいや前言撤回。もっと堪能しなければならない。
今まで我慢してきた分、もっと、もっと、もっとわんこを!
そこからのアルヴの記憶は曖昧である。
わんこを愛で、わんこに揉みくちゃにされ、わんこにオヤツをあげ。
ただただ、幸福な時間が過ぎて行った。
「──ヴさん。……アルヴさんっ」
「え?」
アルヴが再び正気に戻ったのは、結構な時間が経ってからだった。
スティル自身も犬達と戯れて楽しんでいたが、生憎と、こういったカフェは時間制である。
長めに取っていた時間も終わりが近い。
「そろそろ時間ですので、カフェでお昼に致しませんか?」
「も、もうそんなに時間が……。あっという間、だったわ……」
「うふふ。楽しんで頂けたみたいで、良かったです」
「ええ……。最高だった……」
それを聞き、一瞬、この世の終わりが来たかの様な顔をするアルヴ。
しかし、わんこと触れ合った時間を反芻する事で、どうにか気を持ち直した。
この後は、ドッグカフェのカフェ部分で、自分達のお腹を満たす予定なのだ。
「ここはメニューも凝っているらしいですね」
「そうみたいね……。あ、これ可愛い……でもこっちも……」
話題になった一因であるカフェのメニューは、もはやレストランと言っても過言ではないレベルであり、味もさる事ながら、見た目にこだわりが見られた。
特に気になったのは、特注の金型を使用した、わんこ型のミートボール(もうボールじゃないが)のランチセットと、オムライスセット。
オムライスの方は、ニンジンなどの具材をわんこ型にくり抜いて、絶対に崩れないよう蒸して火を通してから、丁寧にチキンライスに混ぜており、スプーンを入れると小さなわんこが溢れてくる……らしい。
各種デザートにも犬のモチーフが用いられ、目にも楽しい一品ばかりだった。
店長兼メインシェフの女性曰く、「この店に魂賭けてます!」とのこと。
気合いの入れようが違う。
「アルヴさん。よろしければ、シェアしま──」
「するわ。ありがとうスティルさん」
「……本当にお好きなんですね」
「う。えっと……まあ……」
食い気味に提案を承諾され、流石に目を丸くするスティル。
若干キャラが崩壊している気もするけれど、それほどまでに好き、という事なのだろう。
アルヴも恥ずかしそうではあるが、決して否定しない。
「お待たせしましたー!」
「……どうも」
「ありがとうございます。……まぁ、これは……!」
ややあって、注文した料理が運ばれてきた。
メニューの写真でも可愛らしい雰囲気は伝わってきたのだが、実際に目にすると、スティルでも目を輝かせる愛らしさで溢れていた。
皿やスプーンなどの食器、ドリンクのコースターにも犬達が描かれたり、模られたり。
あまりの仕事の丁寧さに、店長が倒れたりしないか、ちょっと心配になる程である。
(まずは一枚写真を……ううん、違うわね。全体を写してから、細かいところをアップにして、加工は無し、と)
一方で、アルヴの熱の入れようも相当であった。
携帯を構える表情が、もう鬼気迫っている。
“彼”がこの場に居たら……きっと苦笑いして、でも楽しそうにしていたであろう。
「私の分も、撮りますか?」
「……そうさせて貰うわ。ごめんなさい、気を遣わせて……」
「いいえ。今まで見られなかったアルヴさんが見られて、嬉しいです」
「そ、そう……」
驚きはしたものの、今日のアルヴが見せてくれたのは、どれも可愛らしい一面ばかり。
はしゃぐ子供を見守るような心境で、スティルは微笑んでいた。
「はぁぁ……。凄く、よかった……」
スティルの食べる速度に合わせて、ゆっくりと食事を楽しんだのち、二人は街を歩いていた。
満足そうに自分のお腹をさするスティルの隣で、アルヴは未だにドックカフェでの時間を反芻しており、心なしか、顔の色艶も良くなっている気がする。
これだけ喜んでもらえたなら、誘った甲斐があるというものだ。
「まだ帰るには早いけれど、この後はどうするの?」
「腹ごなしがてら、少し散策をした後、水族館に行こうかと……。いかがでしょう……?」
「水族館……。いいと思うわ。そこで少しゆっくりしましょう」
「はい」
街中から少し離れ、人通りが少なくなった道を、ゆっくりと進む。
天気の話。季節の話。級友の噂話。
他愛のない会話は、とめどなく続いた。
(不思議……。クラシック級ではレースでのライバルで、シニアでは……恋敵で。そんな相手なのに、気持ちが落ち着く)
普通なら、いがみ合い、憎み合い、顔すら見たくない相手になっても、おかしくはないのに。
実際、恨みそうになった記憶だってあるのに、隣を歩くスティルを見ると、アルヴの中からそんな気持ちは消えてしまう。
とても奇妙で、もどかしく、でも手放し難い、不思議な感覚。
そんな風に考えていたからだろう。
ふとアルヴは、トレーニング中のある出来事を思い出した。
「そう言えば……。最近、私のトレーニングを盗み見ている子が居るの」
「そうなのですか? お知り合い……ではなさそうですが……」
「ええ。知らない子。でも……」
長い黒髪の、変わった形の流星を持つウマ娘。
恐らく年下であろう彼女は、いつからだろう。アルヴがトレーニングしているのを、物陰から伺っているのだ。
それだけなら、単にアルヴに憧れる後輩かとも思うのだが……。
「声を掛けようとすると、凄い速さで逃げて行って。あの子、才能あるわ」
「……もしかして、アルヴさんも、後進の育成に力を?」
「そうなる、でしょうね」
アルヴの本能、とでもいうべき感性が告げていた。
あの黒髪のウマ娘とは、何か、不思議な縁がある……と。
ジュニア級、クラシック級、そしてシニア級を経て、アルヴのトゥインクル・シリーズは、エリザベス女王杯で一区切りとなる。
その後の道としては、変わらず第一線で走り続けるか、引退して普通の学生に戻るか、後進の育成に努めるか。
他にも、様々な形でレースに関わる道を選ぶウマ娘が多いけれど、アルヴの場合は……スティルと同じように、後輩のために尽力する事になるだろう。“彼”の隣で。
思えばこれも、スティルの影響なのかも知れない。
彼女が後進の育成をしている姿を見て、自分も……というのは、少々短絡的な気もするが、しかし、影響が全くないとも言い切れなかった。
「あ。水族館、着きましたね。入りましょうか」
「ええ」
そうこうしている間に、次なる目的地が見えてきた。
時間的には、そろそろ夕暮れ。
水族館はナイトシアターの時間に入り、スティルの目当てはこれのようだ。
中に入ると、今度は美しい姿の魚達が二人を出迎える。
普段は明るくライトアップされている展示も、少し明度と色合いを変えるだけで、グッと神秘的な雰囲気を増す。
熱帯魚やクラゲ、群れをなす回遊魚達。
子供達が少なくなる時間帯でもあるためか、館内は非常に静かで、落ち着いた雰囲気に包まれていた。
「少し、座りませんか」
「……そうね」
大きな一枚のアクリルガラスで仕切られた、巨大水槽の近く。
家族連れなどが座れるスペースを指し、スティルが休憩に誘う。
きっと、ここからが本題だ。
アルヴはそう直感した。
無言で水槽の向こう側を眺め、どれくらい経ったか。
不意にスティルが口を開いた。
「私……。学園を、去ります」
静かな声。
人気のない水族館でなければ、簡単にかき消えてしまいそうなその一言が、強かにアルヴの耳を打つ。
胸が、締め付けられる。
「もう、決まった事、なの」
「いいえ。まだ決心した、というだけです。元々、あの方とは同じような話をしていましたので」
アルヴが隣のスティルを見やる。
スティルは水槽を見つめたまま、穏やかな笑みを浮かべていて。
「私のせい、なの……?」
「……私自身のせいです。長く留まるほど、未練が強くなってしまいますから……」
動揺を無理に押さえつけた、硬い表情のアルヴに対し、返されるのは苦笑。
考えてみれば、当たり前だ。
スティルほど愛情深いウマ娘が、たった一度断られた程度で、完全に想いを断ち切れるはずがない。
自分が逆の立場だったら……とアルヴは考えそうになり、かぶりを振る。
嫌だ。想像すらしたくない。
今はもう、耐えられそうにない。
「それに、進みたい道も見つけたんです」
「進みたい道?」
「はい。管理栄養士の資格を取ろうかと」
けれど、スティルの笑顔は崩れないのだ。
気丈に振る舞っている……ようにも見えなかった。
アスリートは体が資本。であればこそ、食の問題とは切っても切り離せない。
身体能力ゆえに燃費が悪い子。食が細くて成長が遅くなってしまう子。アレルギーで食事制限が必要な子。色んな問題を抱えたウマ娘が居る。
スティル自身も食事を摂るのが極端に遅い、という問題を抱えており、そんな子達を栄養学の観点から支えられたら……と、明るい表情で語っていた。
本気で、新しい道に踏み出そうとしている。
そんな風に見えた。
「アルヴさん。これを」
懐から棒状の“何か”を取り出し、アルヴへ。
スティルの手の平にあったのは、いつかの勉強会で見た、あの万年筆だった。
「これって……」
「もう気付いていらっしゃったと思いますが……。“彼”から頂いた、ホワイトデーの、プレゼント……です」
「……やっぱりそうだったのね。全く、あの女ったらし……!」
少しだけ……けっこう……かなり気不味そうにスティルが説明すると、アルヴは愛しいはずの“彼”に向けて毒づいた。
経緯はどうあれ、結果的には友人に粉を掛けていた形なのだから、三行半を突き付けられても文句は言えない。
……のだが、惚れた弱みか、アルヴはひとまず保留とする。
今大事なのは、何よりもスティルの事なのだから。
「でも、どうして私に……」
「これも未練、ですから。“彼”への気持ちは、全て、置いて行くつもりです」
決意は、硬いようだった。
いや、そこまでしなくては断ち切れないほどに、“彼”を。
……で、あるならば。
アルヴはスティルの手に、自分の手を重ね……万年筆を握らせる。
「受け取れないわ」
「……何故です?」
「これは、貴方へのプレゼントだもの。貴方への気持ちまで、盗むつもりはない。……思い出まで、置いていかないであげて」
二度目になるが、経緯はどうあれ、これは“彼”からスティルへのプレゼント。
きっと、悩んだはず。
あの当時だって、“彼”とアルヴは……まぁ、それなりに通じ合っていたと思える。
それを押してもプレゼントを送った気持ちを、その尊厳を、犯したくはなかった。
「言っておくけれど、腹が立ってない訳じゃないわ。後で絶対に“おしおき”しますから……!」
「あ、あはは……。手加減、してあげて下さいね……?」
なお、しっかりと正妻ポジの主張も忘れない。
スティルの乾いた笑いが、“彼”の儚い未来を予見させた。
然もあらん。
「……ふと、考える時があるの」
重なった手を離さないまま、アルヴは呟く。
そのオッドアイが見つめるのは、かつて存在した/あり得たかも知れない、寂しい光景。
「“彼”が貴方を選んで、貴方も“彼”を選んで。……私は一人で、それを見ている。そんな世界を」
「……!」
「どんな時でも互いを想い合って、励まし合って。きっと、お似合いの……なんだったかしら。……そう。
シンデレラ・フィットなんて言われるくらいの二人に、なっていたのでしょうね。最初から擦れ違っていた私とは、違って」
「そ、れは……っ……」
スティルの表情が、悲しげに歪む。
何か言いたくて、でも結局、何も言えなかった。
ぐるぐる、ぐるぐると。複雑な感情が、胸の内をかき混ぜる。
けれど。
「勘違いしないで。私はそれで良かったと、今だからこそ思うのよ」
アルヴはスティルを見据え、微笑むのだ。
柔らかく、そして力強さも感じさせる微笑みを、浮かべているのだ。
「擦れ違って。ぶつかって。お互いに傷付け合って、関係が壊れそうにもなった。
……でも。擦れるうちに角が取れて、お互いを磨くように、ゆっくりと形を変えて。今、ようやく重なり合えている」
その胸にあるのは、確かな証。
手探りで積み重ねてきた、思い出。
互いを想う事で生まれる……愛という感情。
「この喜びはきっと、最初から良好な関係だったら、得られないものだった。
だから、これで良かったの。
今の私達には、シンデレラ・フィットにだって負けない絆がある。そう、信じられるから」
それは、途方もなく美しい姿だった。
自らの内に生じた想いを信じ、不確かで形のないものを、自分を通して現しているような。
きっと誰もが見惚れてしまう、愛を知った少女の姿だった。
あぁ。
なんて、眩しい。
「今のアルヴさん、とても素敵です。思わず、憧れてしまうくらい」
「……貴方にそう言って貰えるなんて、光栄だわ」
身を焦がされる感覚を覚えながら、しかしそれに身を任せ、スティルも微笑む。
こんな可能性があったなんて。
もしかしたら、私も……。
そう思うと切ないけれど、それ以上に感情を動かされてしまった。
こんな風になりたかったと、思ってしまうくらいに。
「私のライバルが、貴方で良かった。貴方に出逢えて、本当に良かった。貴方以外だったら、きっと……諦められませんでした」
「……私も、貴方と同じ道を歩けて……いえ、走れて良かった。貴方が居てくれたから、今の私がある。……ありがとう、スティルさん」
「こちらこそ、ありがとうございます。アルヴさん。……大切にします。この、今日の思い出も」
万年筆と同時に、沢山の気持ちを握らされて。スティルは自分の未来を想う。
色んな問題が立ちはだかる事だろう。
心が折れそうになる事も、あるかも知れない。
でも、きっと大丈夫。
だって私は、あのアドマイヤグルーヴの、友だったのだから。
まだ見ぬ未来を前に、決して負けはしないと。
スティルは、この命に誓うのだった。
「準備はできてるか、アルヴ」
瞑目していたアルヴの意識を、“彼”の声が引き戻す。
遠く、観客達のくぐもった声援が聞こえて来る。
レースの控え室まで届く声量の理由は、ただ一つ。
今日のレースが……エリザベス女王杯が、特別な日になる可能性があるからだ。
「はい。問題ありません」
「そうか。……いよいよ、だな」
勝負服の確認も済ませて、アルヴは頷く。
そう。いよいよ、だ。
京都大賞典では、周囲のマークがキツく、囲まれて抜け出せなくなり、結果が振るわなかった。
天皇賞(秋)では、ゼンノロブロイの走りに肉薄するも、わずかに届かなかった。
悔しい結果だったが、しかしおかげで、集中力はかつてないほど高まっている。
確実に、全身全霊を懸けられる。
「ゴール前で待ってる。君が一番に駆けて来られるように」
「……ん。待っていてください。必ず、一番早く、辿り着きますから」
二人。向かい合って、決意を新たに。
見つめ合ううちに触れたくなり、“彼”の胸に体を預ける。
“彼”はしばらく手を彷徨わせていたが、やがて、しっかりと抱き締めてくれた。
それが嬉しくて、アルヴは目を閉じ、“彼”に向けて唇を差し出す。
けれども、望んだ感触は、唇ではなく額に落ちてきて。
「いくじなし」
「今はまだ駄目。全部終わったら、話をしよう。俺達の、これからの話を」
「……分かりました」
ちょっとくらい良いじゃない、と不満げなアルヴをたしなめ、“彼”はその背中を地下バ道へと送り出す。
声援が明瞭に、震える空気は肌を粟立たせた。
深呼吸。
数歩踏み出し、そして振り返る。
「いってらっしゃい。アルヴ」
「行ってきます。トレーナーさん」
何も言わなくても、望んだ言葉をくれる“彼”。
胸に溢れる想いを隠そうともしないで、アルヴは大きく微笑んだ。
今日は。今日こそは。今日だけは。
誰にも一着を譲らない。
連覇を賭けた、運命のエリザベス女王杯が、始まる──。
『おまけの一幕 デートに行く前日のアルヴさん』
「週末のトレーニングを休みたい? 珍しいな、アルヴがそんな風に言うなんて」
アルヴの休日申請を受け、“彼”は意外そうに返した。
ちなみに、今はトレーニング終わりのおねだりタイムであり、今日はくっつきたいのを我慢し、スティルとのデートに合わせて休みをねだった形である。
「何か、誰かと遊びに行く約束でも?」
「はい。デートの約束が入っているので」
「そっか。たまには息抜きも必」
ピシリ。
と“彼”が凍りついた。
そして、錆びついた機械のような動きでアルヴを見る。
ちょっとした悪戯のつもりで、あえて誰とのデートなのかを言わなかったが、思った以上の反応に、アルヴは隠れてガッツポーズをし……。
「で、でっ、ででででっ、デートぉおおぉおっ!? お、お、え? なん、だ、え、あっ、はぁっ!?」
驚いて百面相する“彼”を見て、逆に驚いてしまった。
思わず吹き出すのも、仕方がないだろう。
「ぷっ。くふっ、ふふふ、ふふふふふっ! トレーナーさん、凄い顔……ふふっ、ダメ、お腹痛い……っ、ふふっ」
「だ、だって、デートって……!」
「相手はスティルさんです。早とちりしないでください。ふふふ……っ」
「へ……?」
珍しく……というか、誰かの前では初めて、お腹を抱えて笑うアルヴ。
それほど“彼”の狼狽ぶりが凄かったのだが、種明かしをすると、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をするものだから、また笑いが込み上げて来る。
「い、言い方が意地悪だぞ……。あんな言い方されたら、誰だって……」
「そうですね、ごめんなさい。少し、意地悪したかったんです。次のデートは、“貴方”が……誘ってくれますか?」
「……もちろん。必ず」
「約束ですよ。破ったら、許しませんから」
情けない顔を見せたからか、次の約束のおねだりには、キリッとキメ顔で答える“彼”。
悪戯ついでに言質も取り、実に御満悦なアルヴなのであった。