アドマイヤグルーヴと、相性度65%のトレーナー   作:君のネクパイになりたい

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[改訂版]アドマイヤグルーヴと、相性度65%のトレーナー

 

 

 

「本当に、学園を去ると? こんな時期に……」

 

 

 

 どうしても諦め切れないのか、への字眉で食い下がる理事長。

 それでも、スティルインラブの意志は変わらなかった。

 

 

 

「善は急げ、とも言いますから。まだ未練を断ち切れるうちに、行動したいのです」

「資格を取りたいというのなら、在籍しながらでも可能! それでも行くという理由はっ」

「……優しさに、今は甘えたくない、からです。私は強くありたい。その為にも、厳しい環境に身を置きたいと、考えました」

「むう……」

 

 

 

 それきり、理事長室には沈黙が広がる。

 もう年の瀬も近い、11月半ば。

 退学するにも、他校に編入するにも、中途半端な時期だ。

 それを踏まえてなお、スティルは頑なで。結局、理事長が折れるしか道は無かった。

 

 

 

「君が自分の未来のために行動すると言うのならば、我々にそれを止める権利はない」

「……申し訳ありません。ご厚意を無駄に──」

「だが!」

 

 

 

 頭を下げようとするスティルだったが、扇子の開く音に遮られる。

 そこには……『心配無用!』と書かれていて。

 

 

 

「学園を去るからと言って、支援を受けられなくなる道理はない! 資金などの援助が必要な時は、遠慮なく連絡してくれたまえ! ポケットマネーから出すぞ!」

「で、ですが、私はもう、トレセン学園の生徒では……」

「問答無用! 一度生徒となったからには、わたしの手から逃げられるなどと思わない事だ! あーっはっはっはっは!」

 

 

 

 体よりも大きな椅子の上で、ふんぞり返って高笑いする理事長。

 どう考えても年下である彼女の、しかしとても大きな……深い愛情を感じ、スティルは、潤む瞳を隠すためにも、今度こそ頭を下げるのだった。

 

 理事長室を出て、廊下を歩く。

 日曜だからか、校内に人気は少なく、遠くグラウンドからの練習の声が届くだけ。

 スティルはゆっくりと、校内を巡った。

 教室。

 カフェテリア。

 屋上。

 ……無人のトレーナー室。

 

 見送りは遠慮したので、“彼女”は今頃、あの子とトレーニングの真っ最中だろう。

 当たり前だけれど、二人には泣かれた。それこそ今生の別れのように。

 仕方ない事とはいえ、胸が痛んだ。

 

 

 

「スティルさん!」

「……たづなさん?」

 

 

 

 一人で別れを済ませて、いよいよ校門へ向かうだけ……という頃に、背後から声を掛けられた。

 息を上げながら駆け寄るその人は、生徒の誰もが頼りとする女性、早川たづな。

 彼女は息を整えると、何やら、折り畳まれた紙切れを差し出す。

 

 

 

「これ、私の連絡先です。どうしても、大人の手続きが必要になったりしたら、連絡してください。……誰にも知られたくない事、だとか」

「っ! ……どうして……」

「女の勘です」

 

 

 

 お腹の上で、手荷物の入った鞄を抱きしめるスティルを、たづなは複雑な表情で見つめる。

 言いたい事が沢山あった。聞きたい事はそれ以上に。

 けれど、退学に際して何度も面談を重ね、答えてはくれないだろうと理解していた。

 だから……その手を握り、ただ、微笑む。

 

 

 

「それ以外でも、気楽に連絡をして構いませんからね?

 助けになれるかどうかは、断言できませんけど。

 それでも、話を聞く事くらいはできます。一人で抱え込まないで」

 

 

 

 木枯らしが寒さを痛感させる中、繋がった手は、温かかった。

 瞳がまた潤んでしまうのは、きっと風のせいだけではない。

 急に、寂しさが襲い掛かって来たせいだ。

 

 

 

「……私、家族以外からは、ずっと疎まれて、嫌われて。

 だから、“あの人”だけだと思ったんです。

 でも、違った。私は沢山の、色んな人達に……愛されていたんですね」

 

 

 

 当たり前……。そう、考えれば当たり前の事だったのに。

 “あの人”の愛があまりにも眩しくて、目が眩んでしまって。

 本当はすぐそばに、幾つもの愛情があったのに、気付かなかった。

 こんな簡単な事にも、気付けなかった。

 

 自分の愚かさと、確かに向けられる親愛の情を感じ、スティルは静かに涙を零す。

 けれど、その涙は……風に吹かれてもなお、頬を温かく伝っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 エリザベス女王杯から、約二週間後。

 すっかり夜の帳が降りたトレセン学園の中庭で、“彼”は人を待っていた。

 その出立ちは、普段の着崩したスーツではなく、仕立ての良い燕尾服であった。

 普段が普段で、しかも最近の出来事とも重なり、練習終わりのウマ娘達から好奇の視線を集めていたが、それもすぐに終わる。

 何故なら……。

 

 

 

「……お待たせ、しました」

 

 

 

 美しいドレスに身を包む、アドマイヤグルーヴが現れたからだ。

 オーロラの浮かぶ星空を、そのまま織り上げたような色合いの、煌びやかで、けれど主張し過ぎる事もない、絶妙なバランスのドレス。

 懇意にしている勝負服職人が、彼女の達成した偉業を記念して作り上げた、至高の逸品である。

 

 

 

「お、おかしく、ありませんか……?」

「似合ってる。凄く綺麗だ」

「……ありがとうございます。“貴方”も、その……す、素敵、です」

「ありがとう。こういう格好は慣れないけど、用意して良かった」

 

 

 

 並び立つ二人を見て、遠目に見ていたウマ娘達から、静かな歓声が上がっている。

 どう考えても、これからデートに向かうという姿を見せられたのだ。

 思春期の少女達には、刺激が強かったかも知れない。

 

 それはさて置き、待ち人を迎えた“彼”は、連れ立って学園の正門へ。

 待たせてあったリムジンを見ると、アルヴが目を丸くしていた。

 

 

 

「えっ……。こ、これで行くんですか? 本当に?」

「そうだよ。さぁ、乗って」

「……大丈夫ですか、お金……?」

「奮発した!」

 

 

 

 どうやら、“彼”の懐具合が心配になっての驚きだったようだが、運転手付きのリムジンでも、時間を限定すればそこまで高くはない。決して安くもないが……。

 なお、依頼は理事長を通じて行った。伝手は使ってこそである。

 

 出発したリムジンの向かう先は、ハロンタワー。

 街の中央付近に建つ展望タワーで、今日はその中にある高級レストランで食事の予定なのだ。

 アルヴは夜間の外出自体に慣れていないらしく、車内でも緊張している様子だった。口数が少ない。

 

 そして、タワー前に到着し、リムジンから降り立った瞬間、美しく着飾ったアルヴに、通りすがりの人々の視線が集中した。

 

 

 

(あの。なんだか、さっきよりも見られているような……?)

(そりゃあ見られるさ。エリ女を連覇した、美しい女王様なんだから)

 

 

 

 声を潜めて訝しむのを、少しからかう様にして落ち着かせる。

 先日行われたエリザベス女王杯。

 連覇を賭けた大勝負で、アルヴは見事な勝利を納めた。

 勝利後のウィナーズサークル内では、感極まって熱烈な抱擁をしてしまった事もあり、話題性抜群である。

 

 

 

「……なら、エスコートをお願いします」

「お任せを」

 

 

 エリ女を引き合いに出されて意識が切り替わったらしく、アルヴは緊張を忘れ、女王としての凛々しい振る舞いを。

 “彼”もそれに応えて腕を差し出し、皆に見せつけるようにして、タワーへ入っていった。

 

 上層にエレベーターが到着すると、二人と同じく、完全予約制のディナーを目当てにする人々の影は、それなりに多かった。

 予約の確認を済ませ、少し奥まった席に案内されて、ようやく一息……といった感じである。

 

 

 

「やっぱり、緊張します……」

「実は、俺も。こういう所、あまり経験なくて。テーブルマナーも記憶が曖昧だったり……」

「……なら、一緒ですね」

「ああ。一緒だ」

 

 

 

 一般常識程度には知っていても、やはりこういう場での失敗は恥ずかしい。

 プライバシーに配慮した間取りのおかげで、多少は人目を気にせずに済むのが幸いか。

 料理が運ばれてくるまでの間は、気を楽にしたアルヴと談笑する。

 その様子からは、スティルが学園を去った事からの落ち込みは、感じられなかった。

 

 ほんの数日前の事だ。

 “彼”は唐突に、事後報告のような形で、スティルの進退の話を聞いた。

 酷く驚かされ、学内も騒然となったのだが、次なるグランプリ……ジャパンカップを控えていたためか、騒ぎは意外なほど早く収束した。

 スティルが何も言わずに去ったのを、寂しく思うのは……仕方ないはずだ。無言で去った理由も、なんとなく理解できる。

 

 だから、少なくともアルヴの前でだけは、何もなかったように振る舞っていた。

 アルヴもまた……そうなのかも知れない。

 

 そうこうしているうちに、料理と飲み物が運ばれて来た。

 “彼”はシャンパンを、アルヴはソフトドリンクを手に、乾杯する。

 

 

 

「改めまして……。エリザベス女王杯連覇、おめでとう」

「“貴方”も、グランプリ連覇トレーナーです。おめでとうございます」

 

 

 

 軽くグラスを合わせて、食事を始める二人。

 予約制の人気店なだけあって、その味は格別だった。

 何度も舌鼓を打つにつれて会話も盛り上がり、話題は今後のトレーニングに加わる、新たなウマ娘についてになった。

 

 

 

「ドゥラメンテさんの参加、御家族の了承が得られて、本当に良かったですね」

「そうだな。初めて会った時は驚いたけど、御両親も気さくな方々で、助かったよ。……ふと思ったんだけどさ。アルヴの左目の色と、ドゥラメンテの目の色、そっくりなんだよな」

「そうですか……? あまり気にしていませんでしたけれど、これも縁、かもしれません」

 

 

 

 ドゥラメンテ。

 誰もが知るアスリート一家に産まれた、最強の血筋を宿す幼い少女。

 まだ中等部にもならない彼女は、エリ女を終えてすぐ、アルヴとエアグルーヴに連れられて現れた。

 どうやらドゥラメンテは、以前からアルヴのレースに惹かれていたようで、学園に忍び込んでまで見学していたらしい。

 それがいよいよバレてしまい、御両親の了承とお叱りを得たのちに、体験入学という形でトレーニングに参加する事になったのである。

 

 

 

「しばらくは、ドゥラメンテと一緒にトレーニングしてもらう事になるけど、アルヴの方は、どうだ?」

「どう、とは……?」

「あー、その……。他の子を担当するのに、抵抗とか……」

「ふふふ。もしそうなら、そもそも紹介したりしません」

 

 

 

 微笑むアルヴが思い返すのは、両親の前で、叱られた子犬のようにしょんぼりするドゥラメンテの姿だ。

 どんなに窘められても、ドゥラメンテは意見を曲げなかった。どうしてもアルヴに教わりたいと言って、聞かなかった。

 こんな我儘を言う事自体が初めてだったらしく、御両親も困惑していたものの、結局は許してくれた。

 愛し、愛されている事がよく分かる、温かい光景だった。

 

 

 

「あの子に……ドゥラメンテさんに、私の走りを。……想いを伝える。上手くできるか心配ですけれど、でも」

「何も、一人でする必要はない。そのために俺が居るんだから」

「……はい。頼りにしています」

 

 

 

 そもそも、ドゥラメンテがアルヴの何に惹かれたのかは、分からない。なんならドゥラメンテ自身も、分かっていない様子だった。

 それでもトレーニングへの参加を断らなかったのは、これがきっかけだと思ったから。

 トゥインクル・シリーズを走り終え、新たな道を選ばなければならないアルヴの、最初の一歩に相応しいと思ったらだ。

 その一歩を一緒に踏み出せる事が、二人にとってはとても大事で、嬉しい事だった。

 

 

 

「展望フロアに行かないか」

 

 

 

 メインの食事を済ませ、デザートも楽しんだ後、“彼”はアルヴを、更に上の階へと誘う。

 食事中は景色を楽しめない席だったし、何より、食事だけで学園に帰るのは惜しかったので、拒む理由はなかった。

 しかし、ここでもまた、アルヴは驚かされる事になる。

 

 

 

「……え? 誰も居ない……」

 

 

 

 いつもなら、夜景を見る人々で混み合うだろう展望フロアに、人影がないのだ。

 あり得ない状況に“彼”を振り返ると、得意げな顔が。

 

 

 

「実は、今日のために貸し切ったんだ」

「えっ!? だ、大丈夫なんですか、お金掛かったんじゃ……」

「……奮発した!」

 

 

 

 得意げ……ではあったが、口元が微妙にヒクついている辺り、相当な額を必要としたのが伺える。

 “彼”の貯蓄へのダメージが気掛かりではあるけれど、それ故に、期待もしてしまう。

 こうまでして、二人きりの状況を作りたい理由が……? それは、もしかして……。

 胸の高鳴りを気付かれたくなくて、アルヴは窓の外へ視線を向ける。

 

 

 

「……綺麗」

 

 

 

 地上350mから見下ろす街並みは、気の早いクリスマスイルミネーションも見られ、宝石箱をひっくり返したように輝いていた。

 この眺めを、二人占めしているという贅沢。

 去年の自分に話したら信じてもらえるだろうかと、なんとなくアルヴは思った。

 すると、“彼”も同じような事を考えていたらしく、楽しそうに笑いかけて来た。

 

 

 

「君と出会った頃の自分に、いつか一緒にディナーに行って、夜景まで見る事になる……なんて言っても、きっと信じてもらえないだろうな」

「それを言うなら、私もです。“貴方”と出会った頃の自分に……その人を愛する事になるなんて言っても、絶対に信じないでしょうから」

 

 

 

 もう少し記憶を戻して、まだ高等部に上がったばかりの自分を、アルヴは振り返る。

 己に厳しくする事だけが正解と考え、愛も、甘さも、拒絶していた。

 だから、アルヴの身を案じるトレーナー達からのスカウトを断って、こちらの意見に従うだけのトレーナーを……“彼”を選んだ。

 結果として、アルヴの目は節穴だった訳だが……。それも今では、笑って話せてしまう。

 本当に、変わった。

 

 

 

「アルヴ。渡したい物がある。……聞いてほしい、お願いがある」

 

 

 

 唐突に、“彼”の声が真剣さを帯びる。

 アルヴへと向き直り、緊張を解すように、大きく深呼吸して。

 懐から取り出されたのは……小さなリングケース。

 開かれたその中に、指輪が輝いていた。

 小さな五つのダイヤが埋め込まれた、銀に輝く指輪が。

 

 

 

「これって……!」

 

 

 

 思わず口元を覆うアルヴ。

 まだそうと決まった訳じゃないのに、勝手に涙腺が緩んでいく。

 胸が一杯になりそうで、苦しくて。

 確かめるように“彼”を見上げれば、その瞳が、しっかりとアルヴを見つめていた。

 

 

 

「アドマイヤグルーヴさん。結婚を前提に、お付き合いしてください」

「……!」

 

 

 

 とうとう、アルヴの目から涙が溢れ出す。

 嬉しいのに、嬉しくて堪らないのに、止めどなく。

 

 

 

「わ、私……わた、し、は……っ」

「無理しないで。ゆっくりで良いから」

 

 

 

 感情が昂ったせいで上手く話せないアルヴに、“彼”は優しく語りかける。

 とにかく何か、言葉にしようとして出てきたのは、昔の自分が犯した過ちのこと。

 ずっと謝りたかった、小さくて、重い後悔。

 

 

 

「しゃ、写真……。勝負服、初めて、着た時……。あの時、本当は、嬉しかった……。嬉しかったんです……。でも私、素直に、なれなく、て……っ」

「……分かってる。今なら分かるよ」

「それだけじゃない……。酷いこと、たくさん言って、嫉妬深くって、甘えたがりの癖に、見栄っ張りで……」

 

 

 

 本当はすぐ頷きたいのに、出てくるのは卑屈な言葉ばかり。

 どんなにレースで勝っても、輝かしい冠を戴く女王になっても、心の奥底に居る、愛に臆病な少女は変わらない。

 こんな面倒な女、きっと嫌がられる。

 重いと思われて、見放されてしまう。

 

 ……でも。

 それでも。

 

 

 

「そんな私でも、いいんですか……?」

「君がいい。君じゃなくちゃ、駄目なんだ」

 

 

 

 “彼”の言葉は、どこまでも真っ直ぐに、胸に届いた。

 臆病だった少女すら、思わず手を伸ばしてしまうような、温かさを伴って。

 気付いた時にはもう、アルヴは頷いていた。

 涙に濡れた笑顔で、何度も。

 

 

 

「はい……。喜んで……!」

 

 

 

 ずっと、不安だった。

 想い合っていると感じていても、確証はなかったから。

 何かの拍子に、あの子を……スティルを追いかけて行ってしまうんじゃないかと、不安が拭えなかった。

 その姿が学園から消えてなお、ずっと。

 けれど、それも終わり。

 

 

 

「指輪、填めてもらえますか……?」

「もちろん。手を」

 

 

 

 差し出された左手を取り、“彼”は恭しく、薬指に指輪を填める。

 いつサイズを測ったのだろう。ピッタリと収まったそれを光にかざし、確かめる。

 五つの輝き。

 なんのモチーフかは分からないが、正直、なんでも良かった。

 この指輪一つで、胸の内に隠していた不安も、全て消し飛んでしまったから。

 まるで魔法の指輪だ。

 

 

 

「アルヴ」

 

 

 

 呼び掛けられて、やっと、“彼”との距離がなくなっている事に気付く。

 その左手がアルヴの肩に置かれ、右手は頬を撫で、顎をゆっくりと持ち上げる。

 自然と、まぶたは降りて。

 街の明かりを背景に、二人の影は、ようやく重なった。

 長く。長く。

 今までの時間を、取り戻すように。

 

 

 

「君を、愛してる」

「……私も。“貴方”を、愛しています」

 

 

 

 そして、一旦は離れても、また影が重なる。今度は、抱擁という形で。

 最初はお互いを見もしなかった二人が、すれ違い、時に傷つけ合って、それでも隣に立ち続け、ようやく結ばれた。

 この日の事を、この喜びを、永遠に忘れないだろうと。

 アルヴは、確かな幸せを噛み締めるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 六年後。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「じゃあ、そろそろ出るよ」

 

 

 

 玄関に置かれた姿見でスーツを確認し、鞄を手に取った“彼”は、家の中を振り向く。

 見送ってくれる家族の数は三人……いや四人。

 小さなウマ娘が二人と、お腹の大きなアルヴだ。

 

 

 

「ええ。いってらっしゃい、“貴方”。ほら、セプターちゃんも、いってらっしゃいって」

「……いってらーしゃい」

「うん。いってきます」

 

 

 

 現役時代よりも髪を伸ばしたアルヴが、まだ舌足らずな次女……アドマイヤセプターを抱き、手を振らせて。

 思わず笑顔が溢れてしまい、二人まとめて抱きしめたくなるが、それをすると離れたくなくなるので、断腸の思いで我慢する。

 そして、アルヴの服の裾を掴んで離さない長女……アドマイヤテンバの前にしゃがみ込む。

 

 

 

「テンバ。お父さんがいない間、二人……いや、三人のこと、守ってくれるか」

「うん、まかせて。わたし、おねえちゃんだもん。がんばる!」

 

 

 

 にっこり微笑むテンバの頭を撫でてやると、「わぁー」と楽しそうにもっと大きく笑い、これから二週間の出張を頑張ろう、という気力をくれる。

 

 アルヴと結婚して、もう六年が経った。

 トレセン学園を卒業と同時に同棲を始め、その数ヶ月後にはアルヴがテンバを懐妊し、いわゆる授かり婚の形になってしまったが、祝福してくれる人々は多かった。

 級友はもちろん、エアグルーヴやドゥラメンテ、孤児院の先生方も駆けつけてくれて、とても温かい式になった。

 

 その後もつつがなく夫婦生活を送り、三年目で二人目のセプターを。六年目の今年に三人目と、なんというか、堅実な家族計画となっている。

 実際にはそんな事は全くなく、ただ互いに、求めるがまま過ごしていたらそうなった……というだけなのだが。

 

 

 

「ねぇ、“貴方”」

「どうした、アルヴ」

「ちょっと気が早いけれど、お医者様から安定期のお墨付きを貰えたら、その……ね?」

「……負担にならない程度に、な」

 

 

 

 つん、人差し指を胸板に置き、「の」の字を描きつつ、アルヴは妖艶に微笑む。まぁ……そういうお誘いだ。

 テンバの時こそ、石橋を叩いて渡るくらいに慎重だったが、三人目ともなると慣れたもので、ちょっと楽しみにしている節もある。

 まだアルヴも二十代半ば。女性としての全盛期を謳歌するのは素晴らしい事だと思うが、ひょっとして自分が道を踏み外させたんじゃないかと、密かに悩む“彼”であった。

 

 と、そんな時、玄関の扉が『ガチャリ』と外から開けられた。

 顔を覗かせたのは、髪をポニーテールに結び、すっかり大人びた二人目の担当ウマ娘、ドゥラメンテだった。

 

 

 

「ゔっゔん。“先生”、そろそろ時間です」

「っと、そうだった。じゃあ、本当に行ってきます!」

「え、ええ。二人とも、体に気をつけて」

「ドゥラおねえちゃん、おとうさんのこと、よろしくおねがいします」

「……ますー」

「ふふ。ああ、任せてほしい」

 

 

 

 まるで本当の姉のようにテンバ、セプターに笑いかけるドゥラメンテ。

 アルヴを通じて出会った彼女とは、正式に入学してからもトレーニングをつけさせてもらっていたのだが、結局、他にはトレーナー候補が上がらず、そのまま“彼”が担当することになった。

 そして、皐月賞、日本ダービーを見事に勝利。菊花賞は危うく怪我で出走を見送るところだったが、どうにかクラシック三冠に全て出走が叶った。三冠目を……菊花賞を、キタサンブラックという新たな怪物にもぎ取られてしまったのだけが、心残りか。

 

 ドゥラメンテはシニア級もしっかりと走り抜け、第一線を退いた後は、“彼”のサブトレーナー見習いとしてチームに所属している。

 これから向かう慰安先の、とある地方のウマ娘クラブにおいては、むしろ彼女の方が主役だ。

 栄光の二冠ウマ娘の指導を、ちびっ子達が待ち望んでいるのだ。

 

 

 

「悪いな、ドゥラメンテ。お父さんの車を貸してもらって」

「いえ。普段はあまり乗りませんから。むしろ運転してもらった方が助かると、父さんも言っていました」

 

 

 

 乗り込む車は、彼女の父が所有する超高級車。“彼”が乗っている車の数倍は値の張る代物である。

 それだけに運転性能は高く、見栄えも非常に良いため、慰安訪問で格好つけるには丁度良いのだった。

 まぁ、絶対に事故ったり擦ったりも出来ないので、とっても心臓には悪いが。

 

 

 

「それより、仲が良いのは結構ですが、子供達の前でああいう話は、情操教育に悪いかと思います。控えてください」

「ぐ。……も、申し訳ない……」

「はぁ……。無事に、元気な子が産まれてくれると、良いですね」

「……ああ」

 

 

 

 お小言は貰ったけれど、アルヴの身を案じ、そして産まれてくる子を祝福してくれる教え子の存在は、とても有難かった。

 単なるトレーナーと担当ウマ娘という枠を飛び越えて、文字通り、家族ぐるみでの付き合いが続いている。

 特に彼女のお父さんとは非常に“ウマ”が合うので、立場の差を忘れて飲みに行く事もしばしば……。

 これも、アルヴが繋いでくれた縁、なのだろう。

 

 車を走らせること数時間。

 お昼過ぎに到着したちびっ子ウマ娘クラブでは、多くのウマ娘が今か今かと待ち構えていた。

 ……ドゥラメンテを。

 

 

 

「君は瞬発力が高い。スタートに気をつければ、誰よりも早くトップスピードに乗れるだろう。

 そっちの君は、ステイヤー向きだな。スタミナに伸びしろを感じる。一定のスピードを維持することを意識してみよう。

 で、君は……」

 

 

 

 群がられるのは教え子の方ばかり。

 順番待ちの子が仕方なーく数人来てくれるだけで、“彼”はとても切ない気分を味わった。

 その分、来てくれた子には重点的に指導ができたし、だからこそ、とある存在にも気付いたのだから、怪我の功名か。

 

 一人。

 たった一人だけ、子供達の群れから離れて、木陰で座り込んでいる子が居るのだ。

 短く切り揃えた栗毛のウマ娘。

 名簿の名前と写真を確かめてみると、その名は「ジュリートキオ」というらしい。妙にトレンディーな香りがする名前だった。

 

 

 

「隣、良いかい?」

「……え。あ、えっと……どうぞ……」

 

 

 

 ドゥラメンテに現場を任せ、ジュリートキオの居る木陰へ。

 その赤い瞳に見つめられた瞬間、“彼”の脳裏に懐かしい顔がフラッシュバックした。

 この子は、“彼女”に似ている……ような気がした。

 

 

 

「何か、用、ですか」

「いや、休憩させてもらおうかと思って。もう歳かな」

 

 

 

 一瞬の動揺を笑顔に隠し、少し離れた位置に腰を下ろす。

 もうじき夏が始まるとあって、日差しから隠れたいというのは本当だった。

 

 

 

「おじさん、有名なトレーナー、なんでしょ。……みんなの所に居た方が、いいんじゃ……」

「そんな大したもんじゃないよ。実際、ドゥラメンテの方が人気だ。……あ、もしかして一人が好きとか。邪魔だった?」

「……そういうわけじゃ、ない、けど」

 

 

 

 ジュリーはおどおどとしている様子だったが、人嫌いという訳ではないようで、チラチラ“彼”の事を伺っている。見知らぬ大人の男が珍しいのだろうか。

 それにしても、一人で走りもしていないのには何か理由が……と考えを巡らせていたら、少女の方から答えを教えてくれた。

 

 

 

「……みんな」

「ん……?」

「みんな、ぼくと走ると、こわがるんだ。べつの人みたいって」

 

 

 

 抱え込んだ膝に顎を乗せ、ギュッと服の裾を掴んで。

 本当は走りたいのに、我慢しているように思えた。

 

 

 

「走るのは、嫌い?」

「……っ」

 

 

 

 ふるふるふる、と首を横に。

 予想は当たっていたらしい。

 

 

 

「でも、みんなを怖がらせたくもない」

「……うん」

「そうか。君は優しい子だな」

「そ、んな、こと……」

 

 

 

 今度は膝に顔を隠してしまうジュリー。照れている、ようだ。

 興味が湧いた。

 人が変わったような走り。それを忌み嫌う自分。まるで、“彼女”の抱えていた悩みと、同じに思えたから。

 何も言わずに姿を消した“彼女”への……想いに応えてあげられなかった事への、罪滅ぼしではないが、なぜだろう。

 この子の笑っている顔が見たいと、どうしようもなく思ってしまった。

 

 

 

「じゃあ、みんなが走り終わった後、君が走るところを見せてくれないか」

「え? ……で、でも……」

「大したトレーナーじゃないけど、経験だけはあるんだ。君の助けになれる……かも知れない。もし駄目でも、一緒に考えよう。どうかな」

「…………」

 

 

 

 立ち上がり、少女に向けて手を差し出す。

 逡巡。

 ゆっくりと伸ばされた小さな手は、ややあって、固く握り返された。

 

 その後、ドゥラメンテやクラブトレーナーの方々に事情を話し、他のウマ娘達が帰る頃を待つ。

 幾人もの親達が、自分の子供を迎えに来て、口々にドゥラメンテの話をしながら帰って行く。

 そこから離れ、トラックの上、スタートラインに二人は立った。

 

 

 

「それじゃあ、ジュリートキオさん。位置について」

「あ、その、前に……」

「ん?」

 

 

 

 いざ計測……といった段階で、少女がストップを掛けた。

 何事かと顔を向ければ、両手の指をモジモジと、恥ずかしげに俯いている。

 一体どうしたのだろう。

 

 

 

「その名前は、ぼくのお母さんがつけてくれた、名前なんだ」

「そう、だろうね。ええと……?」

「えっと、そうじゃなくて……。べつの名前、なの。本当の名前は、いい意味じゃないから……。かくした方がいいから、って。お母さんが……」

「なるほど……」

 

 

 

 ウマ娘の名前というものは、基本的に二つある。

 一つ目は両親から授かる、人間としての名前。

 二つ目は、どこからともなく胸に沸き起こる、ウマ娘としての名前。

 

 異世界がどうたらと講釈を垂れる学説もあるが、そうとしか考えられないほど、この命名は奇妙な現象だった。

 当然問題もあり、こうして“降ってくる”名前には、およそ人の名前とは思えない文字列も含まれてしまう。

 どうしてもその名前で呼ばれるのが嫌で、素晴らしい才能を腐らせてしまったウマ娘も、少なくはないらしい。

 クツシタヌゲタとかブタノカックーニとかサバノミッソーニとか、冗談にしても笑えない。

 ……嘘だ。ウマ娘珍名図鑑で見た時は、思わず吹き出した。

 

 こういった経緯から、ウマ娘としての名前というものは、改名が許される場合も多い。

 元々の名前をもじったり、入れ替えたり、親から貰った名前に因んだり。

 この子も、そういった理由から偽名を名乗っていたのだろう。

 

 

 

「でも、ぼくの走りを見てくれる、なら。おじさんになら、教えた方が、良い……かなって……」

「……いいのか?」

 

 

 

 思わず聞き返すが、意外にも少女はしっかり頷く。

 親が隠すべきと言った名前なのだ、軽々に教えるべきではないと“彼”は思ったが、幼い子の決意を無碍にもしたくなく、少女に近づき、耳を傍立てる事にした。

 まるで内緒話でもするように、少女は口を近づける。

 

 

 

「ぼくの、本当の名前は……ジューダ。ジューダって、いいます。……よろしく、おねがいします」

 

 

 

 言い終えると、どこか晴れやかな顔で、ペコリと頭を下げた。

 ……嘘をついているのが、後ろめたかったのか。

 とても生真面目で、礼儀正しい子だ。

 御両親が愛情を込めて育てているのが、よく分かった。

 年はテンバの一つか二つ上だろうか。自分の子もこんな風に育ってくれたらと、つい思ってしまう“彼”だった。

 

 

 

「位置について。用意…………スタート!」

 

 

 

 和やかな雰囲気もそこまで。

 いざ計測が始まると、少女は……ジューダは真剣な顔で駆け出した。

 正直なところ、頑張って走っている、というだけ。

 掘り出されたばかりの原石を見ているようで、どこからどこまでが宝石なのか、判別がつかない。

 しかし……。

 

 

 

「ここから──っ! ……ぁぁあああっ!!」

 

 

 

 ジューダが本気を出した瞬間、大粒のダイヤが顔を見せた。

 フォームは崩れて、あまり脚も踏み出せていないのに、その速度は異常だった。

 まだ幼子が出すべきではない、きっと長くは耐えられないであろう、“本能”に任せたような走り。

 

 見覚えがあった。

 瓜二つだった。

 目の前を駆け抜けるその姿に、“紅い影”が重なって見えた。

 

 

 

「ど、どう、ですか……?」

 

 

 

 唖然とする“彼”に、ジューダが駆け寄ってくる。

 その前にしゃがみ込み、知らず肩を掴んで、問い質していた。

 

 

 

「君の……君のお母さんの名前は、もしかして……」

「お母さんの名前? お母さんは……あ、お母さんっ!」

 

 

 

 どくん。

 と、心臓が高鳴る。

 ジューダは“彼”の背後に向けて手を振り、そこに誰かが居る事を教える。

 

 振り向いた先に、“彼女”が居た。

 あの頃よりも、少しだけ短くした栗毛。

 ヴェールを被ってはおらず、背丈はほとんど変わっていない。

 垢抜けたように見える顔立ちは、しかし驚いていると、まだ幼くも見えて。

 

 ああ、知っている。

 その名前を知っている。

 とうの昔に燃え尽きたはずの灰を、再び焚き付けてしまう、その名前は──

 

 

 

「ちょうど、むかえに来てくれたみたい。えっと、それで、ぼくのお母さんの名前は……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ── 今でも、愛してる(スティルインラブ)

 

 

 

 

 

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