アドマイヤグルーヴと、相性度65%のトレーナー 作:君のネクパイになりたい
夏合宿が始まった。
例年7月から8月にかけて、海辺の専用施設を借り切って行われるこれは、ウマ娘にとって大きく成長する機会だ。
もちろんアルヴも、秋の大目標に向けてのトレーニングを予定しているのだが……。
遠征バスから降り、宿舎に運び込む荷物を持つアルヴへと、“彼”が歩み寄った。
「アルヴ」
「何かしら」
「こんな風に言われるのは、あまり良い気分じゃないだろうけど」
周りに人が居ないのを見計らい、やや声をひそめて。
真っ直ぐに、アルヴを見つめる。
「今年の夏は、君から目を離さないからな」
目を離さない。
普通なら、変な事をしないように目を光らせておく……という意味だろう。
しかし違う。違うと分かる。
もう一人にはしない。
“彼”はそう言っているのだと、今のアルヴなら理解できた。
「分かってる。ちゃんと、“貴方”の隣に居るから」
「ああ。まずは京都大賞典に向けて、しっかり調整しよう!」
頷き合い、決意を新たにする二人。
夏合宿を終えた後、秋から冬にかけては大きなレースが目白押しだ。
その中でアルヴが登録するのは、京都大賞典、天皇賞(秋)、そしてエリザベス女王杯。
それぞれが格式高いレースなのは言わずもがな、エリ女は連覇を狙う。前年の覇者であるアルヴへのマークは、相当なものになるだろう。例年以上に、気合いを入れて臨まねば。
だからアルヴは、“彼”と一旦別れ、割り当てられた部屋に荷物を運び入れた後……大黒柱に頭突きした。
ごすん、と大きな音が鳴った。
「……あ、アルヴさん? 何、してんの?」
「気にしないで。邪念を振り払っただけだから」
「そ、そうなんだぁ……」
同室になったウマ娘達がドン引きしているものの、アルヴはそれどころではなかった。
何故なら、顔がニヤけるのを噛み殺すので、精一杯だったから。
(油断した……! なんなのよ、いきなり……っ。女垂らし、ジゴロ、ええと、あとは、ええと……ああもう、思いつかない! バカ! たわけ!)
トレーナーが、担当ウマ娘と一緒に居る。一緒に居ると宣言する。
ただそれだけの事が、なんとも心強くて、嬉しくて。顔が緩むのを止められない。
こんなだらしない顔、見せたくない。今のうちに落ち着かないと。
窓を開けて、アルヴは深呼吸する。
何度も。何度も。
そうしているうちに、自然に去年の夏合宿が思い出された。
(去年は、がむしゃらにトレーニングしていただけだった)
桜花賞、オークスのティアラを逃し、自分の不甲斐なさを憎み、ただ、いたずらに走り続けた。
結果として倒れてしまい、先輩……昨年度で卒業したエアグルーヴと、“彼”にも迷惑を掛けてしまった。
今思えば、なんて子供染みた行動だったろうと、恥ずかしくも感じる。
(でも、今年は違う。色々な事をしたい)
夏合宿と言っても、2ヶ月にも渡る長期間、息抜きも無しにトレーニングばかりでは、肉体も精神も参ってしまう。
これを予防するため、トレーナーやウマ娘は、周辺にあるレジャー施設を利用したり、地域の催し物にも積極的に参加する事を推奨されていた。
去年は無視していたこれらに、参加したい。
トレーニングをしっかり行った上で、クラシック級での思い出作りを……“彼”と。
困難なスケジュールになるけれど、事前調査は済んでいる。
特に、8月末の夏祭りは、絶対に参加しなければ。
そのためなら、今まで以上に頑張れる気がする。
と、そこまで考えて、おかしくなった。
思わず一人で笑ってしまう。
「……私って、こんなに欲張りだったのね」
でも、悪い気分じゃない。
今の自分は、そんなに……嫌いじゃない。
おでこは赤くなってしまったが、今年のアドマイヤグルーヴは、かつてない程に絶好調だった。
余談だが、トレセン学園を卒業したエアグルーヴは、早々に某たわけ氏と同棲を始めたらしい。
周辺関係者の皆の反応は、「そりゃあそうなるよね」で完全一致したそうな。
ジリジリと照りつける太陽。
まとわりつく湿った空気。
焼けた砂浜。
猛烈な暑さが、体力と思考力を奪っていく。
合宿が始まって、すでに1ヶ月。
夏の過酷さは、なおも増している。
(暑い……)
トレーニングをするウマ娘もそうだが、それに付き合うトレーナーも……“彼”もまた、体力勝負であった。
アルヴの体調管理をしつつ、自分も体調を維持しなければならない。
分かってはいるのだが……太陽の光とは、こんなニモ身を苛むものダッタだろうか……?
「──じょうぶ?」
「え……?」
「大丈夫……じゃなさそうね」
気がつくと、隣には水着姿のアルヴが立っていた。心配そうな顔をしている。
「ごめん。なんだか今年は……いや今年も、か。やっぱり暑いな」
「そうね……。とにかく、日影に行きましょう。熱中症が心配だわ」
「……ありがとう。そうしようか」
アルヴに腕を引かれ、夏バテ気味の体をどうにか動かして、木陰に腰を下ろす。
なんとも情けないが、周囲を見れば、同じように休んでいる人影もちらほらと。
タイミング的にも丁度良いので、“彼”もアルヴと休憩を挟む事に。
「そういえば、もうすぐ夏祭りがあるんだって」
「……! え、ええ。そうらしい、わね」
「よかったら一緒に行かないか? ……息抜きに、でもさ」
クーラーボックスから取り出したばかりの、冷えたスポーツドリンクを呷りながら、それとなくを装って、夏祭りに誘う。内心は心臓バクバクである。
毎年この時期になると、近くにある神社の境内などを飾り付け、結構な規模のお祭りが開かれる。
出店はもちろん、盆踊りや花火もあり、夏の風情を味わうにはピッタリだ。
だからと言って、アルヴのような美少女を誘う緊張感が消える事は、全くないのだが。
「……ずるい」
「え」
「私から、誘うつもりだったのに」
「…………えっ」
ぷくー、と軽く頬を膨らませ、そっぽを向くアルヴ。
その可愛らしさと発言に、“彼”はペットボトルを落としそうになる。
こんな表情、初めて見た。
「なんでそんなに驚いているの」
「いやだって……。というか、え? 誘うつもりだった、って事は……?」
思わず耳を疑いたくなるが、膝を抱え、小さく苦笑いするアルヴに、聞き間違いではないのだと確信する。
同じ事を考えていた。同じ気持ちだった。
そんな些細な事実が……妙に気恥ずかしい。
「行くわ、夏祭り。……ちょっと、楽しみ」
「そ、そっか……。うん、よかった……」
優しい声が耳に届くけれど、その方向を見る事ができない。
アルヴとの間にクーラーボックスがあって良かったと、“彼”は思った。
それが無ければ、年甲斐もなく跳ねる心臓の音が、彼女に聞こえそうだったから。
いつの間にか、気怠さも吹き飛んでしまっていた。
そんなこんながあって、ようやくやって来た夏祭り当日。
早めにトレーニングを切り上げ、一緒に祭りに行くつもりだった“彼”は、「現地集合にしましょう」と言うアルヴに従い、一人で先乗りしていた。
神社前の階段、鳥居の柱を背に時間を確認すると、待ち合わせ時間の20分前だった。
「早く来過ぎたかな」
祭り自体はもう始まっていて、人出もそれなり。
同じように待ち合わせをしている人も居る。
友人同士。親子連れ。……恋人達。
浮ついていく気分を、「大人として節度を守れ」という理性と、「少しくらいハメを外そう」と唆す本能が揺さぶっていた。
「ごめんなさい。待たせたかしら」
「ん? ああ、アルヴか。いいや、待──」
待ちかねた声が聞こえて、“彼”はその方向を振り返り……呼吸を忘れる。
駆け寄ってくるアルヴは、浴衣を着ていた。
髪型こそ同じだが、菖蒲色……青みのある紫色の浴衣は、意外にもアニマルプリント。ディフォルメされた子犬が遊んでいた。
それが、普段の彼女が身にまとう大人っぽさを中和し……。
「か」
「……か?」
「可愛い」
「え……っ!?」
うっかり口が滑るほどに、可愛らしかった。
唐突に誉めそやされ、アルヴもまた驚き、頬を染める。
「い、いきなり、何を言うのよ……」
「あ、いや、すまない。つい……」
視線を逸らすアルヴと、同じく照れ臭そうに、頬をかく“彼”。
通りすがる人々すら、思わず口元に笑みを浮かべてしまうような、甘酸っぱい雰囲気が漂う。
誰もが見惚れるクールビューティーが、いきなり可愛いに全振りしてきたのだ。“彼”の反応も致し方ない。
そして、アルヴに同行していた、もう一人の少女も微笑んでいる。
「ふふふ。よかったですね、アルヴさん。一緒に選んだ甲斐がありました」
スティルインラブ。
ようやく彼女の存在に気付き、慌てて「こんばんは」と挨拶を。
当然というか、スティルも浴衣姿である。
赤を基調とするそれは、アルヴとは対照的な、艶やかながら落ち着きのある大人のデザイン。
髪もまとめ上げ、ヴェールを外したその姿は、顔立ちの幼さを忘れさせるほどに、美しかった。
「君が、アルヴの浴衣を?」
「はい。私も新調したかったので。……どう、ですか」
「そりゃあもちろん、凄く綺──似合ってるよ」
「……。ありがとうございます」
またもや口が滑りそうになったところを、寸手で回避。無難な褒め言葉に逃げる。
この夏はアルヴから目を離さないと、そう決めた。
なのに、目の前で他の女の子をガッツリ褒めては、本末転倒というか、目移りしているだけ。
しっかりしなければ……と、気を取り直す。
「スティルさんの方も、“彼女”と待ち合わせ?」
「そうなのですけど……。どうやら、あの子が先走ってしまったようでして、追いかけないと。どうかお二人とも、楽しんでくださいね? では……」
「うん、ありがとう。気をつけて」
どうやら、スティルの待ち人は先に会場入りしていたようだ。
世間話もそこそこに、気持ち早足で階段を上がっていく。
それを見送るアルヴの表情は……どことなく、気不味そうだった。
「どうして、綺麗って言ってあげなかったの」
「……なんの事かな。それより、行こう。時間がもったいない」
「あっ」
戸惑うアルヴの腕を取り、“彼”も階段を上がり始める。
答えてはいけないと、“彼”は思った。
今はアルヴとの夏祭りに集中しなければ。いや、集中したい。他は二の次にする。
祭りの会場に入ると、されるがままだったアルヴも再起動し、いよいよ二人の夏祭りが始まった。
まずは、定番の買い食い。
夕飯も兼ねての腹拵えだ。
「……ん。この焼きそば、美味しい。やるわね、ゴルシさん」
「こっちのたこ焼きもなかなか……。アルヴも食べてみるか? ほら、口開けて」
「え、あっ、えっと……ぁ、あ〜……」
腹拵えが済んだら、これまた定番の遊びを。
輪投げ、くじ引き、ヨーヨー釣り、型抜き……。
中でも型抜きは、アルヴが意外な才能を見せた。
「くっ、また失敗か……。簡単なやつを選んでるんだけどな……」
「……できたわ」
「なにぃ!? す、スゲェなお嬢ちゃん……。難易度エクストリームの101匹ワンちゃん型抜きを成功させるとは……!」
(……これ犬なのか? ディテールが潰れて分からない……)
一番盛り上がったのは、最後に遊んだ射的だろうか。
なかなか狙った獲物が落とせず、“彼”が意固地になっただけ……とも言えるが。
「……ああっ、もうちょっとだったのに!」
「残念だったなぁ兄ちゃん。もう一回いくかい?」
「ねぇ、もういいから。ぬいぐるみなんて、荷物になるだけだし……」
「いいや、絶対取る! もう一回だ……!」
「へっへっへ、毎度ありー」
食べ歩き、遊び回り。
ひとしきり楽しんだ二人は、人混みから離れた、とある波止場に居た。
「風が気持ちいいな」
「……ええ」
地元の人に教えてもらった花火の穴場だけあって、周囲に人影はない。
二人きり。
並んで座り、海風を感じている。
アルヴの膝の上では、大きな犬のぬいぐるみが優しく撫でられ、くつろいでいた。
「まさか、こんな風に夏祭りを楽しむ日が来るなんて、思ってもみなかった」
「そう、なの?」
「ああ。学生時代に出来なかった事を、やり直してるみたいだ」
“彼”にとっては思い出したくもない……いや。虚無過ぎて思い出すのも難しい過去なので、これ以上振り返る事はないけれど。
その虚無感があればこそ、今日の夏祭りは楽しかった。
一生の思い出になると、確信できた。
「私も……楽しかった。こんな風に、誰かとお祭りを回る自分なんて、想像した事なかった。……でも」
アルヴも同じ気持ちだったのか、浮かべる微笑みは穏やかだった。
しかし、最後に言葉を付け加えようと深呼吸。
普段なら言えない事でも、今夜なら言える気がした。
素直な気持ちを、素直な言葉で。
「こんなに楽しかったのは…………きっと、“貴方”とだったから。……だと思う」
見つめる“彼”の横顔が、驚いたようにアルヴを振り向く。
これではもう、勘違いのしようがない。素直な言葉に乗せられた気持ちは、間違いなく伝わっている。
けれど。
“彼”がその気持ちに、素直に応える訳には、いかない。
だから誤魔化そうと、苦笑いで取り繕う。
「あー、アルヴ。そういうこと、あんまり気軽に言っちゃダメだぞ。男は単純だから、すぐに勘違いし──」
「“貴方”以外には言わないから、問題ないわ」
しかしアルヴは畳み掛けた。
ずい、と拳ひとつ分近づいて、ジト目で“彼”を見上げる。
何か言おうとした“彼”の唇が、何も言わずに結ばれてしまった。
「……分かってる。こんな事を言われても、今は迷惑だって。それでも、伝えたかった。知っていて欲しかった。私は今……し……幸せ、だってこと」
また、拳ひとつ分、近づいて。
伝えたいのは、単なる感謝の気持ちだけでは、ない。
心を満たす、もどかしくて、温かくて、切ない気持ちを……知って欲しい。
「これから先も、“貴方”の隣に居たい。来年も、再来年も、その先も、ずっと。……こんな風に」
また、近づく。
もう二人の間に距離はなかった。
肩が触れ合う距離で、アルヴは“彼”を見つめる。
見つめ返してくれる瞳は、どこか、今までと雰囲気が違って見えた。
「アルヴ」
「……ん……」
唐突に、頬に手を添えられた。
驚いたのは一瞬。すぐに喜びが胸に溢れ、自然と瞼が下りる。
もっと近づく気配。
吐息。
刹那の躊躇いを越えて、影が、重なる──
ドォーン!
「うぉっ」
「きゃっ」
──かと思いきや、空を彩る炸裂音に、思わず夜空を見上げる。
満月の光にも負けない、満開の花が咲き乱れていた。
ドォン、ドォン、と。
幾重にも、幾重にも。
「綺麗、だな」
「……ええ……」
綺麗。
確かに綺麗だった。
だけど、だけれども、今だけは空気を読んで欲しかった……!
千載一遇のチャンスを逃し、アルヴは肩を落とす。
あと1秒でも遅れてくれていれば、きっと、絶対に……っ。
「……ぁ」
不意に、手を握られた。
“彼”を見やると、花火を見上げたまま。けれどその頬は、花火を色を反射してから、赤く染まって。
繋がった、気がした。
手だけではなく、目には見えない、もっと深い部分が。
「ふふ……」
嬉しくて。ただ、無性に嬉しくて。
繋いだ手の指を、恋人達のように絡めて、“彼”の肩に頭を預ける。
思っていた形とは、少し違ったけど。
確かに影は、重なっていた。
( きて )
夜闇。
今や覚えている者も少ない、山中の廃てられた神社に、赤い影が立ち尽くしていた。
月を分厚い雲が隠し、星明かりすら無い中。
紅い瞳だけが、爛々と揺らめいて。
( キ て )
時を経ても未だ朽ちない、丈夫な軒柱に体を預け、無心に呼びかけるのは、愛おしい面影。
決して、こちらを振り向いてはくれない、後ろ姿。
( こ コ に き テ )
それでも、赤い影は呼びかける。
浴衣の懐に潜ませた、細身の万年筆の感触を、確かめながら。
──気配。
「……あら。“貴方”は……?」
いつの間にか、背後に黄金の双眸があった。
影に溶け込んだその存在は、摂理を外れたものだけが感じ取れる、“偉大なる祖”の現し身だ。
「ふふふ……! まさか“貴方”が来るだなんて。予想外でしたけれど、直接お会いできて光栄だわ」
「────」
畏敬の念をもって、赤い影が一礼する。
しかし、漆黒の存在は微動だにせず。
湿った空気が緊張を孕む。
わずかに残っていた虫や小動物も、恐れをなして逃げていく。
「わざわざ“
「オ前ガ、アノ男ヲ喰ライ尽クスツモリ、ナラ」
ようやく発せられた声は、うら若き乙女のようで、シワがれた老人のようで。
恐らく拳を開いたのだろう。
ミシリ、ミシリ……と。およそ尋常ではない“力”が込められていると、理解できた。
……が、一触即発な空気は、唐突に霧散する。
「ダガ……思イ過ゴシ、ダッタ。オ前ハ、モウ……」
「……ええ。ワタシはもうただの女。もうこんなにも、薄まってしまった」
相対するだけで赤い影の現状を悟ったのか、漆黒の影の声には憐れみが宿る。
以前なら反感を覚えたはずだ。
今はもう、そんな気も起きない。
孤独に、耽っている。
「不思議ですか? ワタシがどうして、“彼”に固執するのか」
「────」
「ふふふっ。単純ですよ。ワタシはただ……また愛されたいだけ」
沈黙を貫く漆黒の影に、赤い影は独白でもするように語る。
「分かっている。“彼”は違う。尊きものはあの瞬間に砕け、ワタシ達も再び分かたれた。
ここに存在するのはただの残滓……。でも、出会ってしまった。触れ合ってしまった。……だからもう、手遅れ」
語りはするが、説明するつもりは無いのだろう。
起きた事をただ並べて、自分で確認するための言葉。
自分に言い聞かせているようにも聞こえた。
「愛されるのはあの子ばかり。ワタシは疎まれ、忌み嫌われるだけ……だったのに」
とうとう、空が泣き始めた。
赤い影は寒さに身を震わせながら、あの温もりを思い出す。
こんなワタシを、綺麗だと言ってくれた……あの温もりを。
「あの味を知ってしまったら、もう耐えられない。もう一度味わうためなら、なんでもするわ。例え、“裏切り者”と呼ばれても」
それは、飢えたケモノの表情だった。
頬がこけ、あばらが浮くほどに痩せたケモノが、ようやく見つけた獲物を前にして浮かべる、歓喜と、焦燥と、不安の入り混じった、奇妙な笑みだった。
「“貴方”は、ワタシを止めますか……?」
「イイヤ。……ソレモ、アルベキ姿ノ、ヒトツ」
そう言い残し、漆黒の影は文字通り、闇に溶けていった。
助けはしないが、止めもしない。
事実上の不干渉……といった具合いか。重畳だろう。
そして、漆黒の影と入れ替わりに、待ち望んだ人影も現れる。
すっかり濡れ鼠になってしまった、“彼”だ。
「早く、こちらへ」
覚束ない足取りを、手を引く事で軒下へと。
赤い影も少し濡れてしまったが、“彼”に比べればマシだった。
一体、どれほど雨の中を歩かせてしまったのか。
「ごめんなさい。この雨は、予想できなかったのです」
隣に腰掛け、ハンカチで髪拭き、何度も絞って……。
その間、“彼”は無反応だった。
夢を見ているような状態なのだから、無理からぬこと。
「こんなに冷えて……。さぁ、温めてさしあげますから……」
もはや、濡れていない場所を探すのは不可能。このままでは凍えてしまう。
赤い影は“彼”の服を脱がせ、その頭を胸に抱きながら、ハンカチで体を拭っていく。
優しく。優しく。
冷えてしまった肌に、己の体温を染み込ませるように。
「ああぁ。可愛らしくて、可哀想な“貴方”……。
あの子が選ばなかった、“貴方”。ワタシを選ばなかった、“貴方”。
我慢なんてしなければ……。もっと曝け出していれば、ここへ来る事も、なかったでしょうに」
赤い影の声は、欲望を、飢えを刺激する毒。
満たされてさえいたなら、なんの影響もなかったはず。
そう。
あの波止場で、
「いいんですよ……? あの子に出来なかったこと……ワタシなら、全部……」
ここなら誰の目もはばからず、触れ合う事ができる。
我慢する必要なんてない。
だって、“彼”だって心の奥底では気付いている。無意識のうちに望んでいる。
分かたれているからこそ得られる、結びつく悦びを。
だがその時、あり得ない事が起きた。
夢の中に居るはずの“彼”が、抵抗するように身じろぎしたのだ。
「……だ……め……アル……ヴ……」
ハッと、息を飲む。
虚ろな“彼”の瞳に、ワタシが映っていない。
夢の中ですら、あの子を求めている。
「ああぁ、そうなのね……。もうそんなにも深く……っ」
赤い影のまなじりから、雫が溢れる。
分かっている。ああ、分かっていたのに。
そんな“貴方”だから、ワタシ達は惹かれた。
そんな“貴方”だから、例え万分の一の欠片でも、囚われてしまうのに。
しかし……この場において、“彼”の想いの強さは逆効果だった。
もう求められないと、もう選ばれないと示された事で、赤い影は覚悟を決めてしまった。
「許しなんて乞わない。ワタシには、もうこの道しかないんだから。だから……」
赤子のような抵抗を抑え込み、“彼”を床へ組み敷く。
赤い影の、紅い瞳がより煌々と、燃え上がる。
雨は降り続いていた。
星も月も隠れた世界で、影が重なり…………融けあっていく。
ワ
て
ア
シ
を
タ
し
イ
胡乱で回りくどい表現にかけて日本語はセカイイチー!
なお、隠し設定の説明は完結後の予定。
乙女チックが止まらないアルヴさんと、食べ尽くす気満々なスティルさんを見ているとtntnがirirするので続きます。
次回、秋の訪れ。