怪談廿物語 作:tagari
自分が夢の中にいるという自覚がある夢を『明晰夢』というらしい。私は幼い頃、それを何度か見たことがあった。
と言っても、楽しげな記憶ではない。大抵の場合、それは悪夢だった。何か恐ろしい怪物が現れて追いかけられている途中で、「あ、これは夢だ」と気づくのだ。
しかし、成長するにつれてそんな夢は見なくなった。夢自体をそもそも見なくなる。実際は見ているのかもしれないが、起きるとすぐに忘れているのだろう。つまり、その程度のどうでもよいことでしかなかった。
私が自分の見る夢を再び気にするようになったのは、大学生になってからだ。事の発端は住居の引っ越しだった。
実家を出て一人暮らしを始めた頃は右も左もわからずに勧められた物件を選んだが、入学から一年が過ぎて大学生活やバイトにも慣れてくると、それまで住んでいたアパートの家賃を高く感じるようになった。
多少、アクセスが不便でも安いところに移りたい。いくつか物件を調べて納得のいく引っ越しができた。見た目は少し古ぼけたアパートだが、内装は綺麗だ。ワンルームにキッチン、トイレ、ユニットバス付の物件でその割に値段も手ごろだった。
当初は掘り出し物を見つけたと満足していたのだが、それから間もなく体に不調を感じるようになった。ある時、夜寝ていると、初めて金縛りというものを体験した。
起きているのに手足が全く動かせない。圧迫感と息苦しさを感じ、首と眼球だけ辛うじてのろのろと動かせる状態だった。同じゼミの友達にその話をしたのだが、疲れているだけじゃね?と薄い反応を返されるだけだった。
その時は恐ろしかったのだが、冷静になって考えてみれば友人の反応は正しかった。後で調べてみると金縛りという現象は科学的にメカニズムが解明されているらしい。疲れやストレスなどの原因によって、体は眠っている状態ではあるのだが、脳が中途半端に覚醒しているのだ。
つまり、起きているように感じているだけで実際は眠っている時に見る夢のようなものである。記憶から再現された空間を現実のように見ているに過ぎない。起きていると思い込んでしまうがゆえに、その中で体を動かせないことに恐怖してしまうのだ。
体の自由を奪われることに対する防御反応と言うべきか、この制限は容易に危機感へと直結する。その恐怖や危機感は夢にも反映される。体が動かないことに対するもっともらしい理由付けのために、脳が勝手に“お化け”を作り出して見せるわけだ。
そうとわかれば怖くなかった。私は元々オカルトについて否定的な人間である。それから何度も金縛りにあったが、そのたびに「これは夢だ」と気づくようになった。
思えばこれも明晰夢に当たるのだろうか。明晰夢を見る人は訓練すればある程度自由に夢の筋書きを変えることもできるという。体が動かせないまま時が過ぎるのを待つしかないこの退屈な時間を変えられはしないかと思ったのだが、うまくいかなかった。
金縛り自体は大したことではないのだが、引っ越しをしてから金縛りを頻発していた。自分が思っているよりも新しい環境にストレスを感じているのだろうか。度重なる金縛りにうんざりするようになった。
そんな状態が続いていたある日の夜、またいつものように金縛りにあっていると、違和感に気づいた。私が寝ているベッドの足側の先に押し入れがあるのだが、その戸が少しだけ開いていた。
朝になって起きてから確認してみたが、戸はしっかり閉まっていた。まあ、夢の中のことなので多少の齟齬は出るだろうとその時は思ったのだが、次に金縛りにあった時もこの押し入れの戸が少しだけ開いていたのである。
一度気になり始めると、そこばかりに目がいくようになった。まるで私の神経を逆なでするかのようにちょっとだけ押し入れが開いている。その隙間の奥にいるはずもない妄想の怪物が潜んでいるかのように思えてくる。
平常心さえ保つことができれば何てことはないのだが、それが難しくなってきた。そう言えば、子どもの頃も得体の知れない怪物の夢を見たなぁと思い出した。あの時はどうやって対処したのだろうかと。
できれば思い出したくもないことだったからだろうか、はっきりと当時の記憶を呼び覚ますことはできなかった。ただ、『合言葉』があったことだけは辛うじて思い出せた。
これは夢だと気づいた時、その合言葉を唱えるとたちどころに悪夢から目覚めることができた。そんな魔法の言葉があった。
今にして思えば、その言葉を唱えたから目が覚めたのではなく、“目が覚めたかのように夢の内容が変わった”ということなのだろう。あるいは目が覚めるタイミングまで夢が中断されたとか、スキップされたとかそのあたりの処理はどうにでもなりそうだ。
要は夢なのだから、自分が“かくあれかし”と思い込めばその通りになるわけだが、そう簡単に事が運べば苦労はない。夢は意識と無意識が触れ合う点であり、膨大な無意識の領域の一角が見えた過ぎないものだと聞いたことがある。何でもかんでも思い通りになるほど単純ではないのだろう。
しかし、私は悪夢を強制的に終わらせる方法を知っていた。経験と実績に裏付けされた“合言葉”だ。それがある種のルーチンのように働き、金縛りというくだらない悪夢を消し去ってくれる可能性はあった。
問題はその言葉を思い出せないことである。何しろ昔の話だ。記憶を遡ることも難しいほど幼い頃のことであれば、あまり難しい意味や言葉の連なりではないだろう。
何かのアニメのキャラクターとかそれに関連する言い回しではなかった気がする。自分で考えた呪文であり、かつそれは無作為な音の羅列ではなく、日常生活で使うような言葉でもなく、幼い子どもでも忘れず覚えられる、そんな言葉。
考えれば考えるほどにわからなくなった。忘れてしまったパスワードを必死に打ち込んでログインで弾かれている時のようなもどかしさを覚える。
相変わらず金縛りはしょっちゅう起きて、夢の中の押し入れの戸はちょっとだけ開いていた。それが無性に苛立つように感じ始め、ある時、いっそのこと開け放ってやろうと考えた。
微妙に開いた隙間が見えるから気になるのだ。最初から全開にしておけば中に何もないことがはっきりする。なので、寝る前にあえて押し入れの戸を開けてから就寝することにした。
そんなことをしたところで夢の中の出来事を変えられる保証なんてないのだが、その時の私はいつになく虫の居所が悪く、やけくそになっていた。そしてその夜、私は自分の行動を後悔することになる。
いつものように金縛りが起きた。だが、明確な変化があった。押し入れの戸が開いている。寝る前に自分が開けたそのままの状態になっている。
押し入れの中には引っ越した時に荷物をまとめた段ボール箱がいくつか入っていた。大したものは入っておらず、荷ほどきもせずに突っ込んでいた。それ以外には何もないはずだ。余計なことを想像するなと自分に言い聞かせた。
物音がする。押し入れの奥、死角となっている空間に何か潜んでいるのではないか。それが出て来ようとしている気がしてならなかった。暗くてよく見えないが、窓の外からカーテン越しに薄っすらと差し込んでくる街灯の光によって、黒いもやのような何かが照らされている。
この時ばかりは、たかが夢と楽観することはできなかった。全身にあらん限りの力を込めて抵抗しようとしたが、やはりぴくりとも動かせない。助けを呼ぶため声をあげるが、口がうまく動かせず、うめき声しか発せられない。
枕元にスマホを置いていることを思い出した。何とかこのアパートの場所を知っている友人に連絡して助けに来てもらえないか。手も足も動かせないので必死につながれと念じるしかない。もはやそこが夢の中であるということも忘れ、冷静な判断力を失っていた。
しかし、その懸命な思いは夢に反映されたのか、急にスマホの着信が鳴り始めた。鳴ったはいいが、金縛りの最中であるため応じることができない。スマホの画面の光が暗い部屋の中で明滅する。
その光によって押し入れから這い出て来るモノの姿がはっきりと目に見えた。塗りつぶされたように黒い数本の腕だ。押し入れの奥から異様な長さの腕がこちらへ向かってゆっくりと伸びてきている。
生きた心地がしなかった。夢ならば覚めてくれと願った。できるはずだ。魔法の言葉さえ思い出すことができたなら。死に物狂いで記憶を掘り返そうとした。
そんな私をあざ笑うかのように、枕元のスマホから笑い声が聞こえ始めた。どこにつながったのか、数人が集まって愉快そうに笑う声だ。寒気が止まらなかった。とどめを刺すように黒い手が、ついに私の足に触れた。
まるで氷を押し当てられたかのように冷たく感じた。しっかりと掴まれる感触がある。ベッドの下へと引きずり降ろされる。うーうーと唸ることしかできず、足から尻、頭へと床に落ちる鈍い衝撃が響く。
このまま押し入れの中へと連れて行かれるのだろうか。そう考えると走馬灯が走った。過去の体験が脈絡もなく濁流のように脳裏を駆け巡った。そして、忘れていた記憶をようやく思い出す。
探していた答えは『音階』だった。
心の中で「ドレミファソラシドドシラソファミレド」と繰り返し唱えた。幼い頃の自分はそうして怪物から逃れ、夢から覚めることができた。それを唱えていると不思議と心が落ち着いて、気がつけばベッドの上で朝を迎えていた。
自分の中で決められたルールに従うということは存外、大きな影響を持つらしい。習慣は大切にしなければならないという教訓になった。それからというもの、私が金縛りに悩まされることはなくなった。
私の部屋に悪霊がいたのかどうか知らないが、気にすることもなくなった。それから度々、金縛りは起きたが大学を卒業するまで同じ部屋に住み続けた。
余談だが、私が押し入れを全開にしたあの日の夜、ゼミの友人が奇妙な体験をしたそうだ。
その日、友人は仲間数人と集まって飲み会をしていた。宴もたけなわとなり酩酊していると、私から電話がかかってきたそうだ。
電話の向こうで私はずっと「ドレミファソラシドドシラソファミレド」と言い続けていたらしい。後日、あれはどういう意味だったのかと友人に聞かれた。
さて、私はこの秘密の言葉を友人に話した記憶はないのだが。当日の着信履歴を調べてみたが、私たち双方のスマホに通話の記録は存在しなかった。酔い潰れて勘違いでもしたのだろうということで話は終わった。
仮にあの日の悪夢が正真正銘の現実だったとしても問題はない。私は既に、対処法を知っているのだから。