怪談廿物語 作:tagari
数年前の十一月頃の話になる。昼の時間、営業で外回りをしていた俺は急な腹痛に襲われた。
元々胃腸が弱かったこともあって腹痛はよく起こしていた。いつもは薬を飲めば収まるのだが、その時は腹の調子が特に悪く、営業先に着く前にトイレに寄って行こうと考えた。
近場にあった図書館に車を停め、足早にトイレへ向かった。中に入って手洗い場のそばを通り過ぎようとした時、壁のタイルにポスターが張られていることに気づく。
自治会が主催している子供向けのクリスマスイベントの告知だった。図書館で朗読会もあるようだ。ポスターの中心にはひげ面で赤い服を着た可愛らしいおじいさんのイラストが描かれている。サンタクロースだ。
クリスマスに心を躍らせるような歳でもなくなってしまったが、一つ気になることがあって足を止めた。ポスターの端に小さく落書きのような文字が書き込まれていた。
『どうしてぼくのところにサンタさん来ないの?』
子どもが書いたような拙い筆跡だった。公共物に落書きをすることは良くないが、これを書いたであろう子どもに対して、少し同情心が芽生えた。
俺が育った家庭は父が厳格な人でクリスマスを祝うことはなかった。誕生日すらろくに祝ってもらったことはない。ご褒美をもらえる機会と言えば正月のお年玉くらいのものだった。
ただ、学費などに関しては大いに支援してもらったし、感謝こそすれ恨んではいない。今ならそう思えるが、子どもだった当時はプレゼントの一つももらえなかったことを不満に思っていた。
クリスマスの時期になると学校の友達が羨ましくて仕方なかった。だから、ポスターに落書きをした子の気持ちもわかる。それぞれに家庭の事情があるので何が良い悪いとか、一概にまとめることは難しく、複雑な気持ちと痛む腹を抱えながらトイレの個室へ向かった。
それからしばらくトイレにこもって腹の調子を整えていた時のことだ。隣の個室からぶわっと、悪臭が立ち上った。俺は思わず口元を手で押さえた。
汚い話で申し訳ない。俺も用を足していたので人のことをとやかく言えはしないのだが、それにしたってひどい臭いだった。明らかに大便の臭いではない。顔をしかめてしまうような異臭である。
俺はその臭いをどこかで嗅いだことがあるような気がした。地元の友人の手伝いとして、イノシシの解体作業に立ち合った時のことである。
その友人は本業の猟師ではないのだが猟友会に入っており、自分で獲った野生動物を精肉し、料理の腕もあってジビエを作ってしまうほどの物好きだった。イノシシ肉をご馳走になったことがあるのだが、普通においしかった。
獣臭さはほとんどない。ちょっと筋張っていて硬かったが、畜産された食肉と比べるのは酷だろう。イノシシなどの害獣が繁殖しすぎて困っている地域もあるというし、駆除と食用化を両立できるのであれば良いことづくめだ。
いっそのこと猟を生業にしたらどうだと俺が言うと友人は良い顔をしなかった。これは趣味だからできるのであって、それで食っていけるほど生易しいものではないと言う。
とはいえ好きだからそこまでできるのだろうし、身につけたスキルを活かせるならその方がいいのではないかと俺は思ったのだが、友人はそんな俺に手伝いを勧めてきた。ちょうど昨日獲ったイノシシがいるので処理を手伝いに来いと言う。
正直言って、俺の認識は甘かった。解体作業がグロいとかそういう次元の話ではない。徹底的な洗浄、血抜き、内臓の除去、皮剥ぎ、その手間のかかり方と言ったら尋常ではなかった。友人曰く、食える肉になるかどうかの分かれ目は全て下処理にあると言っていた。
解体一つとっても傷つけてはいけない場所がある。血袋を破けば数日は体に臭いが染みついて取れないと言っていた。友人はその場所を取り出して俺に嗅がせてみせたのだが、吐き気を催すほど獣臭かった。それからしばらく焼き肉が食えなくなったくらいだ。
話を戻すが、そんな感じの臭いが俺の隣の個室から漂ってきたのである。その臭いがするまで、隣に誰か入っているとは思わなかった。全く気配を感じていなかったのだ。おそらく、俺がトイレに来る前からそこに入っていたのだろう。
いったい何をぶちまければこんな悪臭が発生するのか。吐き気がこみ上げてくるのを我慢していると、隣の個室のドアが開く音がした。ぺたぺたと、誰かが外へ出ていく足音がする。
妙に湿った足音だった。まるで素足で歩いているかのようだ。まさかそんなはずはないのでビーチサンダルか何かを履いていたのだろう。この時期にするような格好ではないが、世の中には色々な人がいるのであり得ないとは言い切れない。
便意も引っ込んで息を殺していた俺はしばらくその場から動けずにいた。しかし、営業先との約束の時間もあるのでゆっくりしているわけにもいかない。恐る恐るドアを開け、外の様子を確認する。
誰もいない。空調が回っているので臭いも気にならないくらい薄まっていた。ほっとして手洗い場へ向かった。蛇口から出る水に手を浸しながら、ふと顔を上げた。そこでぎょっとして思わず後ずさる。
壁に張られていたポスターがおかしくなっていた。サンタクロースの目の部分が赤い塗料で塗りつぶされている。そこから血涙のように塗料が滴っていた。
気味が悪いにもほどがある。他にもまだ落書きされていた。ポスターではなく、その下の壁に。『どうしてぼくのところにサンタさん来ないの?』という元からあった落書きに続く形で、赤い小さな文字で返信が書かれていた。
『サンタさんは君に会いに行きます。すぐに行きます。待っていてください』
血の気が引いていくのが自分でもわかるくらい青くなってトイレから出た。
あれだけの悪臭をさせた人物が出歩けばスメハラどころかバイオテロとして騒がれそうなものだが、館内は至って普通で特に何か異常が起きた様子はなかった。
とりあえず俺は仕事があるのでそれ以上関わっていられず、司書さんに落書きのことを伝えて図書館を離れた。それからあの図書館にはもう行っていないので、どうなったのか後のことはわからない。
もしかしてあれが『サンタさん』だったのだろうか。確かどこかの国でサンタクロースの試験が行われていて、厳しい審査に合格すれば公認サンタクロースとして活動できるとかいう話を聞いたことがある。もしかしたら本物のサンタクロースとトイレで偶然すれ違った可能性もあるわけだ。
まあ、俺が子どもだったら激臭ビーサン野郎のサンタになんて絶対会いたくないがね。