怪談廿物語 作:tagari
皆さんは自分のことを何と呼んでいますか? 僕とか、私とか、俺とか。
子どもの頃、使っていた呼び方をそのまま使っていますか? その時々によって使い分けている方も多いでしょう。仕事や公共の場ではこれ、プライベートではこれ、といった具合に。
俺はある事情から自分のことを『僕』と呼べなくなってしまいました。そのことについて話したいと思います。
俺が通っていた小学校の近くに、とある敷地がありました。大きさは数十メートル四方ほど、地面はコンクリートで舗装され、高いフェンスで囲まれていました。中に置かれていたのは車です。
壊れて随分経つような車が何台も置かれ、縦に積み重ねられているものまでありました。詳細はわかりませんが、廃車を一時的に保管しておくための場所だったのでしょうか。俺たちはその場所を『車置き場』、または『置き場』と呼んでいました。
置き場は道路沿いの木立の中に隠すように作られていました。フェンスで敷地全体が封鎖され、どう見ても立ち入りは禁止されていましたが、子どもたちの中にはここで遊ぶ者がいました。
フェンスには子どもくらいの体格ならギリギリ擦り抜けられる隙間があったのです。普段は人気もなく、中に入っても気づかれることはありませんでした。
その当時、俺とその友達のグループ内で流行っている遊びがあって、それが置き場でのジャンク拾いでした。置き場の中は壊れてボロボロになった車から外れた部品があちこちに落ちていて、それを拾って誰が一番カッコイイ部品を見つけられるか、という遊びでした。
当然、子どもが勝手に入っていい場所ではなく、壊れているものだろうと無断で持ち出していいわけがありません。しかし、そのスリルも含めて楽しんでいました。放課後の帰り道、置き場に立ち寄っては部品を漁り、友達と見せ合って交換などしていました。
ある日のこと、そんなモラルのない遊びに終止符を打つ噂が立ち始めました。隣のクラスで聞いた話によると、置き場に幽霊が現れたと言うのです。特にそれ以上の情報はなく、誰が言い出したのかもわからない噂でした。
俺は信じなかったのですが、仲のいい友人らはそれきり置き場に近づかなくなりました。これは幽霊が怖いからというより、不法侵入を繰り返すことでいい加減大人にバレる時が来るのではないかという、当たり前の自制だったのでしょう。
ですが、俺だけはその自覚が足りませんでした。なぜこんなに楽しい遊びを止めてしまうのか理解できず、その日は一人で置き場へ向かいました。
夏の炎天下、夕方になっても暑さがおさまらない放課後のことでした。いつもは友達数人と声を潜め、ちょっかいを出し合う道中も今日は一人。ズボンを土で汚しながらフェンスの隙間をくぐりました。
セミの声だけがやかましく響いていました。錆びのついていないボルトやナットなど、落ちている部品を拾っては捨て、拾っては捨て。あれでもない、これでもないと探していました。
しかし、全く面白くない。結局、部品そのものの価値よりも、友達とわいわい騒いでいることが楽しかったのだとようやく気づきました。選んでいた部品を放り出し、もう帰ろうかと立ち上がった時のことでした。
フェンスがガチャガチャと揺れる音がしました。俺がいた場所は車の陰になっていて音が鳴っている方向の様子は見えませんでした。誰か来たのかと驚いて息を潜めました。
ガチャガチャと金属のフェンスが激しく擦れ合う音がしばらく続きました。隙間をくぐるだけならこんな音はしません。何をやっているのか、何者なのかと次第に怖くなってきました。
そして、ぴたりとフェンスの音は止み、今度は足音が聞こえました。コンクリートを踏みしめる乾いた音。誰かが駆け足でこちらに近づいていました。
遊びに来た子どもならいいが、もしここを管理している大人だったとしたら。それは置き場を探索する時、常に抱えていた恐怖でした。物陰に隠れたところで回り込まれれば簡単に見つかってしまうでしょう。俺はとっさに、近くの車の下に潜り込みました。
車体と地面の間のわずかな空間。こんなところに入り込もうとするのは車の整備をする人間か、猫くらいのものでしょう。子どもでも狭いと感じる隙間に何とか体をねじ込みます。ひとまずここなら見つかるまいと思い、誰が来たのか隙間から確認しようとしました。
足音は俺が隠れている車のすぐそばで止まりました。俺が顔を横にひねると、それの足が見えました。
元の色が何なのかわからないくらい汚れたボロボロのスニーカーが見えました。そして、異様なほど細い足首。黒ずんだ褐色の皮膚が骨に直接張り付いているかのような細さでした。
「ぼくじゃなきゃだめだ。ぼくじゃなきゃだめだ」
それは唐突に言葉を発します。同じことをひらすらに繰り返していました。
息の根が止まるかのような怖さでした。車の下の陰の中、コンクリートに照り返された太陽光の熱が充満するうだるような暑さの中、俺の全身から血の気が引いていきました。
そこでようやく置き場に幽霊が出たという噂を思い出したのです。来るんじゃなかったと後悔しました。しかし、もうどうすることもできない。息を殺して化け物が去るまで待つしかありませんでした。
どれほどの時間が経ったでしょうか。それは相変わらず「僕じゃなきゃダメだ」と言い続けていました。それ以上、こちらに何かしてくる気配もありません。
俺の方もだんだんと異常性に慣れてきて、精神的な怖さと狭苦しい環境に閉じ込められている不快さがせめぎ合ってきました。汗をかいて喉も乾いて、とにかくここから出たいと思い始めました。
何らかのバイアスが働いたのでしょう。これは本当に幽霊か、と疑問に思いました。もしかしたら幽霊の噂を流した隣のクラスの誰かかもしれない。俺のことを怖がらせようとしているただの人間じゃないのかと。
そもそも「僕じゃなきゃダメだ」とは一体何のことなのか。最初はその得体の知れなさを恐ろしく感じたが、次第に意味不明すぎて苛立ってきました。何か言いたいのことがあるのならはっきり伝えて仕舞いにしてくれと思って。
「お前なんかいらない」と、言ってしまった。
自分のことをやたら主張してくるそいつに、もうたくさんだという気持ちを込めて放った言葉でした。すると、それは急に静かになって、すたすたと帰り始めました。
どういうわけかわかりませんが、とにかくこれで外に出られると安堵しました。遠ざかっていく音の方を見ると、確かに去っていく誰かの足が見えました。
別にどこもおかしいところはない、普通の子どもの足のように見えました。がりがりに痩せているわけでもない。おそらく、車の下に潜り込んだ時、明るい場所から暗い場所に急に移ったので、眼が慣れなかったのでしょう。暗順応というやつです。
最初に見間違ってすぐ恐ろしさから目をそらしてしまったので勘違いをしたのだろうとその時は思いました。ただ、気になったことが一つ。
その子どもはなぜか、俺が履いているものと全く同じスニーカーを履いていました。
俺はその体験をした次の日、幽霊の正体が気になって学校の連中に聞いて回ったのですが、奇妙なことに噂の出どころがわかりませんでした。幽霊の話自体、知らないという者ばかり。
それどころか『置き場』で遊んだことがあるという子さえいませんでした。あそこは立ち入り禁止になっていて誰も入ったことはないと皆が言うのです。
あの事件以降、俺の頭はどうにかなってしまったので自分の記憶が正しいかどうかもわからないのですが。
その日から俺は少しおかしくなりました。自分の家に帰って来ても、なぜかそこが自宅とは思えない。まるで他人の家に上がり込んだかのような感覚になりました。
両親や学校の友人と会っても、関係性を思い出すのに時間がかかりました。それが誰か知ってはいるのですが、頭の中ですぐにつながらないのです。同窓会で十数年ぶりに再会した友人でも目にしたかのような感覚とでも言いますか。
家族と行った旅行の写真など見ても、その時のエピソードは一つも思い出せませんした。いつどこで撮ったのかすら記憶にありません。
でも、机の引き出しの中にいくつも入っていたジャンク品のことだけはよく覚えていました。あの日、自分の身に起こったことも。
それから俺は自分のことを『僕』と呼ばなくなりました。自分の中から『僕』がなくなってしまったことに気づきました。それはあの時、持ち去られてしまったのです。
「『僕』じゃなきゃダメだ」と言う怪物に、俺は「いらない」と返答してしまいました。だから拾われてしまったのでしょう。ちょうど俺が置き場でジャンク品を探して、勝手に持って帰ってしまったように。
ですが、今ではそれほど困っていません。あの日以前の『僕』はなくなってしまいましたが、『俺』として新しく歩んだ人生はしっかりと残っています。だから、まだマシだったのかなと思うのです。もしあの時、全部取られていたらどうなっていたのでしょうか。
僕とか俺とか、そういう区別もなく自分という存在そのものを失っていたら。私は誰のこともわからなくなってしまうのか、誰も私のことをわからなくなってしまうのか。幽霊のようにさまようことになるのでしょうか。