『死喰い人』? 名前からしてどう考えても喰種だろ 作:kkk
意識が浮上する。
まるで深い水の底から、ゆっくりと水面を目指すように。最初に感じたのは、柔らかな感触だった。背中と後頭部が、信じられないほど心地よい何かに包まれている。次に、微かに香る、古いが手入れの行き届いた木の匂い。そして、どこかでパチパチと薪がはぜる音。
「……ん」
重い瞼をこじ開けると、視界に飛び込んできたのは見慣れない天井だった。太く、黒光りする梁が縦横に走り、その間は漆喰か何かで白く塗り固められている。なんだ、ここ。俺の部屋の、シミだらけの天井じゃない。
体を起こそうとして、すぐに違和感に気づいた。
まず、着ている服が違う。ゴワゴワした病院の寝間着でもなければ、愛用のヨレヨレのスウェットでもない。シルクかと思うほど滑らかな、仕立ての良いパジャマだ。そして何より、体が羽根のように軽い。昨日まで部活の疲れで鉛のようだったはずの四肢が、まるで嘘のようにスムーズに動く。
ゆっくりと上体を起こし、周囲を見渡した。
そこは、映画でしか見たことのないような、豪奢な一室だった。
俺が寝かされていたのは、天蓋付きの巨大なベッド。部屋の中央には暖炉があり、赤い炎が静かに揺らめいている。壁には風景画や肖像画が飾られ、窓には分厚いベルベットのカーテンがかかっている。机も、椅子も、本棚も、すべてが使い込まれたアンティーク調で、統一感のある空間を形作っていた。
「……どこだ、ここ」
絞り出した声は、自分のものではなかった。 いや、声変わり前の、少し高くて澄んだ、聞き覚えのない少年の声。混乱が頂点に達し、俺はベッドから転がり落ちるようにして立ち上がった。ふらつく足で部屋を横切り、壁際に置かれていた大きな姿見の前に立つ。
そして、絶句した。
鏡に映っていたのは、俺――鈴木 蒼(すずき あおい)ではなかった。
そこにいたのは、色素の薄い、雪のような白髪の少年だった。切り揃えられた髪はサラサラと流れ、フレームの細い眼鏡の奥には、どこか凪いだ湖面を思わせる静かな瞳がこちらを見つめている。通った鼻筋、薄い唇、陶器のように白い肌。まだ幼さは残るものの、その顔立ちは完璧と言っていいほど整っていた。
この顔を、俺は知っている。
「ありま……きしょう……?」
そうだ。この顔は、俺が前世で――前世?――愛読していた漫画、『東京喰種』に登場する最強の喰種捜査官、若き日の有馬貴将そのものだった。
その事実を認識した瞬間、脳内に堰を切ったように記憶の濁流が流れ込んできた。
そうだ、俺は鈴木 蒼。どこにでもいる、ごく普通の男子中学生だった。昨日の放課後、友達と駄弁りながら横断歩道を渡っていて、信号無視のトラックが突っ込んできて……そこからの記憶がない。 つまり、俺は死んだのか。そして、転生した、と。
ラノベや漫画でよくある展開だ。だが、なぜ。なぜよりにもよって、この人に?
有馬貴将。作中最強のキャラクターであり、CCGの白い死神と恐れられた男。その人生は、壮絶の一言に尽きる。そんな人間の身体に、俺みたいな一般人が入ってしまって、どうしろと?
「落ち着け……落ち着くんだ、俺……」
鏡の中の有馬貴将(仮)に言い聞かせる。そうだ、有馬さんなら、こんな時でも冷静沈着に状況を分析するはずだ。俺も彼を見習わなければ。中身が凡人でも、ガワが有馬貴将である以上、それっぽく振る舞う必要がある。たぶん。
俺は深く息を吸い、思考を切り替えた。
まず、現状把握だ。ここはどこで、今はいつなのか。
部屋を改めて観察する。机の上には、羊皮紙らしき紙の束と、鳥の羽根がついたペン、インク壺が置かれていた。本棚に並ぶ本は、どれも分厚く、革の装丁だ。タイトルは……読めない。英語のようだが、筆記体が独特すぎて解読不能だった。
窓のカーテンをそっと開けて外を見る。眼下に広がっていたのは、どこまでも続くかのような広大な森。遠くに湖が見え、その向こうには山々が連なっている。少なくとも、俺が知っている日本の風景ではないことは確かだった。
「CCGの施設……か?」
ぽつりと、そんな言葉が口をついて出た。 そうだ、その可能性が高い。『東京喰種』の世界には、喰種捜査官を養成するためのアカデミーが存在する。ここは人里離れた場所にある、その特殊な訓練施設なのかもしれない。俺は、有馬貴将としての才能を見出され、幼い頃からここで英才教育を施されている最中、ということか。そして、何らかの事故で本来の有馬貴将の魂が消え、代わりに俺の魂が入り込んだ……。
うん、ありえる。そう考えると、色々と辻褄が合う。
この超人的に軽い身体も、CCGの捜査官候補として鍛えられた結果だとすれば納得がいく。
机の上に、一通の封筒が置かれているのが目に入った。俺はそれを手に取る。宛名には、流麗な筆記体でこう書かれていた。
『有馬 蒼(Arima Aoi)様』
「ありま……あおい?」
前世の俺の名前と同じ響き。これも何かの因果だろうか。いや、今はそんなことより、この身体の名前がわかったことの方が重要だ。俺はこれから、有馬 蒼として生きていくらしい。
よし、状況はだいぶ整理できてきた。
俺、鈴木 蒼は死んで、『東京喰種』の世界に転生した。
今の俺の名前は有馬 蒼で、容姿は若き日の有馬貴将そっくり。
そして、ここはCCGの捜査官養成施設で、俺はその候補生である。
完璧な状況分析だ。有馬さんばりの洞察力じゃないか?
そう一人で悦に入っていた、その時だった。
コン、コン。
不意に、窓を叩く音がした。
振り返ると、ガラスの向こうに一羽の大きな鳥がいた。茶色い羽根に、大きな丸い目。フクロウだ。そのフクロウは、片足に小さな巻物のようなものを括りつけて、健気に窓を突き続けている。
「フクロウ……?」
その単語に、俺の脳内で警報が鳴り響いた。
フクロウ。すなわち、"梟"。
『東京喰種』において、"梟"は特別な意味を持つ。隻眼の梟、不殺の梟……いずれも、最強クラスの喰種を指すコードネームだ。
まさか、こんな施設にまで喰種が?いや、待て。このフクロウは手紙を持っている。と、いうことは……。
「伝令か。CCGも洒落たことをする」
俺は、このフクロウがCCGによって特殊な訓練を受けた伝令用の鳥だと結論付けた。喰種のコードネームを伝令に使うとは、なんとも皮肉が効いている。
警戒しつつ、重厚な窓の掛け金を外して開けると、フクロウは待ってましたとばかりに室内へ飛び込み、机の上にちょこんと着地した。そして、まるで「これを取れ」と言わんばかりに、手紙を括りつけた足をすっと差し出してくる。
「ご苦労」
有馬貴将ならそう言うだろう、というイメージで声をかけ、足から手紙を慎重に解き放つ。フクロウは任務完了とばかりに一声鳴くと、再び窓から飛び立ち、森の彼方へと消えていった。
さて、問題はこの手紙だ。
CCGからの、一体どんな指令だろうか。
封筒は厚手の羊皮紙でできており、裏には奇妙な紋章が描かれた赤い蝋で封がされていた。盾の中にライオン、蛇、鷲、穴熊が描かれている。どこかの分局のマークだろうか。
俺は慎重に封蝋を剥がし、中の便箋を取り出した。そこには、緑色のインクで、やはり流麗な筆記体が並んでいた。
『ホグワーツ魔法魔術学校』
『校長:アルバス・ダンブルドア』
「……暗号か」
出だしからこれだ。CCGはどこまで秘密主義なんだ。
「ホグワーツ魔法魔術学校」。これが、俺が所属する施設の正式名称らしい。なんとも大仰な名前だ。「魔法魔術」というのは、おそらく対喰種用の特殊技術の総称だろう。クインケの運用技術とか、そういう類のものに違いない。
そして、アルバス・ダンブルドア。これが、この施設のトップの名前か。総議長か、あるいはアカデミーの校長か。やたらと長い肩書がついているが、それだけ偉い人物なのだろう。
俺は続きを読む。
『親愛なる有馬 蒼様
この手紙をもちまして、ホグワーツ魔法魔術学校に貴殿の入学が許可されましたことを心よりお知らせいたします。教科書ならびに必要な教材のリストを同封いたしました。
学期は九月一日に始まります。七月三十一日までにお返事をいただきたく、貴殿のフクロウをお待ちしております』
「……なるほど」
全てを理解した。
これは、正式な召集令状だ。
どうやら俺は、これまで基礎的な教育を受けてきただけで、九月から本格的に「学校」に通うことになるらしい。そこで、喰種捜査官としての専門的な「魔法魔術」を学ぶというわけだ。
そうか、そうだったのか。
俺の置かれた状況、そしてこれから為すべきことが、一本の線で繋がった。
俺は有馬貴将の才能を持って、この世界に生まれた。そして、CCGの最高学府で学び、いずれは最強の喰種捜査官になることを期待されている。
なんという壮大な物語。なんという重圧。
だが、不思議と恐怖はなかった。
むしろ、心の奥底から静かな闘志が湧き上がってくるのを感じた。
鈴木 蒼としての人生は、トラックの前で唐突に終わった。平凡で、退屈で、けれど平和だった日々はもうない。
今の俺は、有馬 蒼だ。
俺は再び、姿見の前に立った。
鏡の中の白髪の少年が、静かに俺を見つめ返している。その瞳には、先ほどまでの混乱の色はもうない。あるのは、覚悟と、自らが背負う運命への静かな受容だけだ。
「有馬貴将……」
その名を口にする。
最強の喰種捜査官。悲劇の英雄。
中身が俺のような凡人で、彼と同じ道を歩めるはずもない。
だが、この身体(からだ)と名前を受け継いだ以上、逃げることはできない。
「やるしかない、か」
やるべきことは一つだ。
この世界に蔓延る捕食者――喰種を、一匹残らず駆逐する。
それが、この身体に与えられた使命であり、俺がこの世界で生きていく唯一の道標なのだ。
俺は部屋の隅に目をやった。
そこに、一本の黒い傘が立てかけられているのが、最初から気になっていた。何の変哲もない、ごく普通の洋傘だ。だが、なぜか強烈に俺の心を引く。
ふらふらと引き寄せられるように、俺はその傘を手に取った。
ずしり、と腕に心地よい重みが伝わる。滑らかな柄の感触が、驚くほど手に馴染んだ。
これを、ただの傘だとは思えなかった。
これは、武器だ。俺がこれから振るうべき、相棒だ。
「クインケ……」
そう、これは俺専用のクインケに違いない。
有馬貴将が愛用した、変幻自在のクインケ「IXA(イグザ)」や「ナルカミ」のように、この傘もまた、いざという時には恐るべき兵器としての本性を現すのだろう。まだその起動方法も性能も不明だが、これから使いこなしていけばいい。
俺は黒い傘を握りしめ、鏡の中の自分と、改めて向き合った。
白髪の少年は、傘を片手に静かに佇んでいる。その姿は、まるで雨の日に現れる、若き日の死神のようだった。
「喰種を駆逐する」
もう一度、静かに呟く。
それは、自分自身に課した誓い。
これから始まるであろう、壮絶な戦いへの宣誓だった。
こうして、俺の第二の人生――喰種捜査官、有馬 蒼としての人生が、静かに幕を開けた。
――なお、至極当たり前の事実として、ハリー・ポッターの世界に喰種は存在しない。