退院してきたアンを、ヘレンは温かく迎えてくれた。
ひざまづかせて頭をなでなでしてくれ、鼻クソを食べさせてくれ、夜はベッドに寝かしつけてから自分の部屋へ戻っていくのだ。お気に入り人形たちと同格の扱いをしてもらえてるぞと、さすがのアンも恐縮する。
変革は順調に進んだ。
パーシイが地均しをしてくれていたのだが、復帰後のアンはなるべく行儀正しい振舞いをすることに努めた。
ヘレンはそのしぐさを触って真似して、急速におしとやかさを身につけていく。
食卓は戦場ではなくなった。
言葉は使わないけれど、ヘレンが食前食後にお祈りのしぐさをするなんて、ブリュエット家では驚天動地の大事件だったのだ。
あの日いったい何が起きたのか。
ミセス・ケイトも夫のミスター・アーサーも執事の撮影したホームヴィデオを見たがるのだが、さすがにまだセンシティヴすぎるとおばあさまが封印している。
しかし奇跡は疑い得ない。ヘレンを見れば、それは誰の目にも明らかなのだから。
アン「勘違いしないでほしいんですけど、ヘレンが野獣から人間に変身したわけじゃありませんよ。
彼女は最初から人間でした。それなのに5年以上も野獣のごとく扱われていたことが諸悪の根源です。
今だって、ヘレンは言葉から遠ざけられている。
意思疎通を図りたいならこの壁をぶち破りたいところですが、おれにはそれは無理です。だから、ここから先は専門家にバトンタッチするべきですよ。電話使っていいですか?
シェパード商会に相談してみましょう」
アンはジェイムズ・シェパードに対しては、もっと本質的な詳細を説明した。
アン「家族どもがクソなんだよ。こいつらを改宗させられる教師をよこしてくれ。金ならいくらでも搾り取れると思う。
ヘレンについては、猛烈に知識を吸収したがってる風に見えるから、点字でも教えてやったらグングン賢くなるんじゃないかな。
今は、おれというモンスターを力で捩じ伏せて家来にした、この達成感で得意の絶頂にある。異世界文化のマネゴトくらい造作もないですわよオホホホホって余裕かましてる段階だが、覚えが速いからすぐに飽きるだろう。
それを、ここの、バカ共は、まったく理解できねえでヘラヘラ喜んでるんだよ。
根こそぎ乗っ取ってやったらいい。引き継ぎをしたら、おれは出ていく」
こうしてやって来たのが、ミス・ジョアンナだ。
一見華奢だが、長距離走者型の肉体づくりをしているので持久力は高いという。ヘレンとはすぐに仲良くなり、細くしなやかな指でいくつかの単語を覚えさせた。指話というコミュニケーション技術だそうだ。アンには初めて触れるものだった。
ジョアンナ「相手の掌をそっと包みこむの。そう。動きも邪魔しないように、柔らかく。はい、今のが自己紹介。
一瞬だった?ジョアンナ・マンスフィールド・サリヴァンってフルネームで伝えたわよ。
慣れるとフォンでチャットするよりも速いの。音声通話なんて時間かかる上にスペルが伝わらないからイライラしちゃう。
まずはこれをヘレンにマスターさせましょう。やがて邸内では、指話を使いこなせる順にヒエラルキーが再構築されていくはずよ。
考えてもみて。
圧倒的に便利で効率的な言語を、コミュニティ内で自分だけが使えない状況のもどかしさと疎外感を。
これまではヘレンが一方的に最弱の立場に置かれていた。それを完全に逆転させます。すべてが変わるでしょうね。
賢い者が正当な権力を手に入れるまで、見守るつもりよ。
こんなところでどうでしょう?アン・シャーリー先輩」
おれもウカウカしてられねえなあ。
そんな苦笑いをしながら、アンはカスバート邸へ戻ることにした。
アン・シャーリーには法外な高評価がついて、ブリュエット家から大量のお土産をもらった。それをマダム・スペンサーから伝えてもらったので、マリラには拒否などできようはずもなかった。
アンは、カスバート邸で初日に泊まった部屋を、正式に自室として与えられる。
ただし家事はするべからず。農作業の手伝いだって、マシュウが困り果てるので近寄らない。当面はこんな奇妙な居候の立場である。いまは7月で夏休みだが、9月の新年度からアンを村の学校へ通わせてあげなさいとホワイトサンズの貴婦人たちは自然に決めてマリラに指示した。
田舎ってほんとユルいなと呆れながら、アンはまた周辺の散策をしてみる。
ラヌンキュラスが群生している藪をみつけた。
ラヌンキュラスか……
これだけあれば、アレを作り放題じゃないかな。