アガサ・マローワンとは、マダム・クラリスがミステリを出版する際に用いていたペンネームである。マローワンは2番目の夫の姓に因む。
もはや箝口令を敷く者はいないので、じっくり解説しておこう。
クラリスの小説家デビューは、初結婚後。当時の本名でだった。
怪奇・幻想風味の少女小説を何冊か出したあと、離婚。
吐き出したい感情がナポリ湾岸火山帯より危険なレヴェルで吹き溜まっていた。生活費を稼ぐ必要にも迫られ、クラリスはミステリ界での再デビューを志す。
だが出版社は購買者層を引き継がせたくて同じペンネームを使い続けるよう要求し、譲らなかった。
怒ったクラリスは有能なエージェントと契約し、その出版社と過去作の権利一切をこの世から消し去る。
ほどなく大型新人アガサ・マローワンが彗星のごとくデビューした。
彼女はヘラクレス以外にも名探偵を何人も生み出したが、彼に限っては特定の出版社専属にしなかったことが幸いする。神出鬼没な上に、登場するたび他社の名探偵を痛快に嘲弄するというお遊び要素が大いにウケて、世界最凶の名を恣にした。
安定した収益が見込めるのでヘラクレス・シリーズは続けているが、才能あるクリエイターにとってルーティーンワークなど苦痛でしかない。期待される新作を、期待される通りのイメージを損ねることなく送り出すという行為は、無限のストレスしか生まないのだ。
クラリスは捌け口を求める。
そこでアガサ・マローワン以外のペンネームも、その都度必要になっていく。
クラリス「アン。あなたは口が堅いわよね?」
アン「マダム。そんなことはありません」
クラリス「私との約束は、たとえその口が裂けようとも、永遠に口外しないわよね?」
アン「マダム、そんなことは不可能です」
クラリス「よろしい。ではスマートフォンのロックを解除して、私によこしなさい」
アン「マダム、どうぞ」
クラリス「フム……フム……はい、もういいわ。ありがとう」
アン「なにか役に立つ情報が見つかりましたか」
クラリス「もう完成まで一息だから言うわ。ダイアナを主人公にした新作を書いているの」
アン「ほう。ええと、まさか、おれも登場します?」
クラリス「どうかしらね。美女美男しか出てこないし、頭のキレる子もいるけどアンには遠く及ばないわよ」
アン「美女美男ばかり……てことは、芸能界が舞台ですか」
クラリス「そのつもりだったんだけど、規定の8万語に達しちゃったから、学園生活1年目弱でひとまず完結ね。
反響が大きければ、そのうちテレビ局も戦場にしましょう」
アン「フーム。まずは学校が舞台なんですか。
アイドルの卵が、まばゆく輝くボーイフレンドをとっかえひっかえしていく話……じゃあ、普通すぎますよね」
クラリス「その程度のプロットなら、あなたでも書けるでしょ」
アン「ヒントをください。そのう……センシティヴな表現には、どこまで踏みこみますか?」
クラリス「そうね。そこは重要だわ」
アン「過激な性描写はミステリと相性が悪い。やりたいならハードボイルドで。なんて話を以前されていた記憶がありますけど、ハードボイルドではなさそうだし。
学校。
美女美男。
ダイアナ。
センシティヴを否定されなかった。
きっと、過去のマダムとは縁もゆかりも無い人物が書いてるんでしょうね。となると……」
クラリス「もうわかってるじゃない。じらさなくていいのよ」
アン「ポルノ」
クラリス「まあお下品。ロマンス・フォー・アドゥレセント・ガールズと呼んでほしいわ」
アン「長すぎでしょ。
RAGでいいのかな。
ティーンズがターゲットなんですね?てことは、スマートフォン限定販売だ。
出版社は通すんですか?」
クラリス「新しいエージェントを立てて、完全に新規でやりたいんだけど、得意そうな人が見つからなくてね」
アン「なるほど。8万語ってのはペーパーバックで出すときの目安ですもんね。
デヴァイスで読むには長すぎます。もっと章ごとに細分化した方がいいでしょう。
1話300語程度にして、その都度ページめくりをタップさせる。まずは100話で第一部完。ここまで無料公開。
続く第二部をこれまた100話でパッケージングして、ここからはバーガー1個程度の価格でプリベイト決済させる。
……いけるんじゃないですかね」
クラリス「さすがねえ、アン。どう?このままエージェントをやらない?
アシスタントの仕事は続けてもらいたいけど、それとは別に能力給を支払うわ」
アン「この件について全部を任せてもらえるなら、やってみましょう。面白そうだ。
ダイアナには知らせます?
もちろん内緒ですよね。まかせてください、この口が裂けたってシラをきりとおします。
ヒロインのモデルなんだから、何も知らずに天真爛漫なまま次から次へと男漁りをしてくれてりゃいい。アイデアにつながりそうな言動をキャッチしたら、すぐマダムにキャプチャを送ります」
クラリス「たすかるわあ。こんな息抜きができるから、書きたくもないヘラクレスの冒険にも、時々は取り掛かってやろうかって気にもなれるのよ」
アン「マダムにはすっかり乾涸びたダンナでも、彼の姿を見たい読者だっているんですから。
そのうちでいいですから、ヘラクレスの舞台裏も聞かせてください。
誰にも言いませんよ」