アン「君んとこのパンを手土産にすると、まちがいなく喜ばれる。
また買ってきてほしいとねだられちまうんだが、ヤバいもんでも入ってるんじゃないのか」
トモリル「ぶっとばすぞてめえ。
マジレスしといてやるが、余計なものが入ってないから旨いんだよ。魂に刻みこんでからあの世へ逝け」
アン「君はいずれ、この店を継ぐのかい」
トモリル「それができたら本望だけどね。
ハナの信頼を掴むには、まず、きさまみたいなアバズレに無駄口を叩かせないことを示してやらなけりゃな」
アン「やるか?相手になるぜ」
トモリル「おまえはその辺の犬とでも遊んでろ。あたしには大事な努めがあるんだ。
パン屋の売り娘は生傷なんか付けちゃいられないんだよ」
アン「ミセス・ハナは今日も地下室かい?」
トモリル「ああ。酵母たちとたわむれてる。おっちゃんはあいかわらず炭を焼いてるな」
アン「酵母菌かあ。ハマれば面白い世界なんだろうな」
トモリル「おまえは有機化学とか鉱物の方へ向いてるからな。
菌は生きものだぞ。愛でてやる精神が必要なんだ。お門違いも甚だしいぜ」
アン「発酵と腐敗って何が違うんだっけ」
トモリル「誰が得をするかだけさ。
おまえがシュールストレミングを食って死ねば、おまえ以外の皆が喜ぶ。
ただしここでは食うな」
アン「なるほど。テロに使えちゃうな。おい、嫌がらせをされたくなかったら金を出せ」
トモリル「最低だ、おまえって」
アン「この店のパンは、この店でしかつくれないって、マジなのか」
トモリル「あたりまえだ。いいパン屋は皆、そうだ。
とくに酵母がな。この家でずっとハナが育ててきた子供たちだぞ。
よその子へやればよその子として育つ。それはまったく違うパンになるんだ」
アン「おまえの先輩たちが、あちこちで店を構えているけど、どうしても本家を越えられないっていうんだよな。
秘伝の味を盗むとか、そういう話でもないんだろうな」
トモリル「そんな考え方をしている限り、越えるどころか永遠に盗っ人だ。
やっぱりおまえには愛される資格がない。とっととゾンビになっちまえ」
アン「資格なんてなくたって生きてやるさ。
しかしまあ、ここのパンを食いたいから襲うのは勘弁してやろう。また来るぜ。ごちそうさま」
アンはコッパー・ビーチズへ帰宅する。
最近、マダム・クラリスの機嫌が悪いようだ。
書斎に籠もって、時々唸り声を上げる。
アンの姿を見ると睨みつけてくる。
話しかけてもらえない。
そうかと思うと不意に海岸や繁華街へ出かけるのに付き合わせ、アンがぶらぶらしているのをしばらく遠くから眺めていたりするが、これまた急に帰ると言いだしてタクシーを呼ばせる。
アンにはミスをした心当たりは無いのだが、どうにも気持ちが落ち着かない。作家ゆえの、産みの苦しみというやつだろうか。
同居人には困ったものだが、いずれ嵐も過ぎるだろう。
そう考えてアンは粛々と日々の雑務に励む。
それにしたって他の使用人には愛想いいのに、なんでおれにだけ当たるのか。とヤキモキを抱えながら。
ダイアナの出演ドラマは9月末で終了する見込みだ。
毎週ほとんどお邸から出ることなくドタバタするだけのシットコムなので、延長したぶんだけネタかぶりとマンネリズムがきつくなっていった。
話題になっていたからこそ寄ってきていた女性ファンが離れ始めたので、安易でお下劣な男性向けエロネタが大っぴらに復権する。
しかし男とて、半年も付き合ってきた女が更に腰を振って迫ってきたところで興奮しやしないのだ。
もはや誰も見なくなった。
ある意味、平和が戻ってきたとも言える。
さて突然ダイアナから着信。
次なる情報の解禁か?とアンはゆっくり考えながらアイコンをスワイプする。
アン「やあ、モナミ」
ダイアナ「アン!ジェーン・エアって読んだことある?」
アン「……は?ジェーン・エア。小説の?
カラー・ベルだっけ」
ダイアナ「そう。読んだことある?」
アン「ない」
ダイアナ「すぐ読んで。読んだらすぐ電話ちょうだい」
アン「60秒くれ。折り返す」
アンはすぐに検索する。
初版1847年。パブリック・ドメインなので無料で今すぐ読むことは可能だが、3メガもある。長いな。
冒頭を10秒ほどめくってみた。フム。
ダイアナに電話する。
アン「明日まででいいんだな?サマリーは必要か」
ダイアナ「あれば嬉しいわね。読むのは私だけ」
アン「これに出るのか?まさか主演?」
ダイアナ「に、なるかもよ」
アン「ヒュウ。で、あいかわらず忙しいのか」
ダイアナ「世間話は戦後に語らおう。じゃ、レヴュー待ってる」
きれた。
大役をつかんだか。疾風怒濤の如きだな。
しょうがねえな、支えてやるよ。
たちまち後悔するアン。
マチルダと遊ばなくなって以来、古典からすっかり遠ざかっていたので、読むのにいちいちつっかえる。おまけに長い。だらだらと長い。
眠気に襲われる。
しくじった。ダイアナめ、自分で読みたくないものだからおれに押しつけたな。