アンに対するマダム・クラリスの棘々しさは、影をひそめた。
消失したかどうかの確証は持てない。
マダムは直接的な発言は一切せず、すぐに次の執筆に取り掛かった。〆切をかなりオーヴァーしているらしい。はて、じゃあ昨日まで書いていた作品はどこへ出すものだったのやら。数が合わない。しかし訊けない。
アンは黙々とファンレターに返事を書き、近頃はマダムのチェックも雑になってきたので判断に迷うもの以外はとっとと出してしまう。
何曜日に何通届いて、何通返事して。リストはこれこれです、という報告だけはきっちりと。
それでいい。過不足なく片付けること。
アシスタントだもの。
それだけやってりゃいい。
時間があいたので外へ出かける。
原則、どこへ何をしに行くか大雑把に書き残してスマートフォンさえ携帯していれば、とやかく言われない。6名ほどいる使用人たちも同様で、受け持ちの業務に支障をきたさない限り、けっこう自由が許されている。
全員が一堂に揃うことはなく、しばらく休むからピンチヒッターに任せるなんて交代もよく発生するので正確に数えることは難しい。
おまけに、信用できない語り手ばかり。一人のこらずエージェント兼任なんじゃないかなとアンは思っている。だから迂闊に絡まない。
おそらく、お互い様だろう。
マダム配下の曲者たちにくらべると、モンモランシーは愛嬌もあって、わかりやすかった。
アンはストレートにラム・ダスへ挨拶をする。
アン「君のボスから聞いた。ハリファクスの撮影所にいたんだって?
ドラマの制作事情については詳しい?」
ラム・ダス「関わったことのある範囲でなら」
アン「8月にシャーロットでドラマの撮影が行われてたかどうかって、わかるかな」
ラム・ダス「8月なら僕たちは全員、ハリファクスにいた。関わってないよ」
アン「ギズが絡んでいたとしたら、スケジュール表かなんかで調べられないものかな」
ラム・ダス「かなり難しいね」
アン「なぜ?」
ラム・ダス「仕事のスケジュールは個人単位で、そのチームを作ったマネージャーが管理するんだ。それぞれに個別のセキュリティがかけられる。その全体を統制するシステムは、存在しない」
アン「先週始まった、ヒドゥンというドラマについてだけ知りたいんだ。それでも無理かな」
ラム・ダス「ヒドゥンなら大作だから、各国のいろんなプロダクションが関わってる。ギズも参加してるはずだけど、誰がどこまでなんて追いきれないよ」
アン「エンドロールのクレジットは手懸りにならないかな」
ラム・ダス「クレジットだって。君は何も知らないんだな。
あの人名と社名の羅列は、契約時の文書に基づいて機械的に生成されるんだ。準備期間から公開までに現場では様々な変化が生じるけど、そんなのいちいち反映させない。鵜呑みにして評論するライターは多いけど、君も同類かい」
アン「知らなかったんだよ、ごめんな。
てことはだ。撮影中にたとえば事故を起こしちゃった。その程度は取るに足りないアクシデントのひとつだから、記録にも残さない。これって、よくあることだったりする?」
ラム・ダス「いらいらしてくるな。
ショウビジネスってのは夢を売る仕事だぞ。観客を喜ばせる、都合のいいものしか見せないんだ。
そのためにはプロフェッショナルな嘘つきが揃ってなきゃダメだろう」
アン「ナチュラル嘘つきレヴェルじゃ勝負にならないな。ありがとう。
つまり仮に関係者のセキュリティを破って調べたところで、おれが知りたいような秘密は記録すらされちゃいないと。そういうことだな」
ラム・ダス「何を知りたかったのかわからないけど、理解はしてもらえたように思える。もういいだろ」
アン「感謝する。ところで今後とも相談したいことが出てくると思うんだけど、今日のぶんも含めてお礼をしたい。
金品でもいいし、情報でも、仕事の斡旋でも、いちばん喜んでもらえるものを準備しよう。
何がいいだろう」
ラム・ダス「金には困ってないし、この汚い大部屋も隠れ蓑には都合がいい。そうだな……
僕たちはまだこの街に不慣れだから、安心して食事のできる店なり施設を教えてもらえるならば嬉しいよ」
アン「ウホッ。お安い御用だ。じゃあ早速。一軒目のお薦めは、ここだよ……」
アンは再び事故現場の交差点へやってきた。
あの日のリアル・ハイドは撮影中だったのか?
しかしカメラ・レフ板・録音機材など、一般人にもそれとわかる道具や人の集団は周辺に見当たらなかった。
車で市街地を走り回るシーンだったとすれば、撮影チームは別なポイントで待ち構えていたか?
犯人は盗難車に乗っていた。これも気になる。
撮影のためにリアルな窃盗なんてしないだろう。
ハイド役の俳優が出来心で……いやいやそれも無理すぎだ。
ドラマとは無関係?
あのハイドは一般人のコスプレ?
しかし、ティーザー広告さえ発表される前だったしなあ。
ギズにはもっと以前から企画書なり設定資料が送られていたはずだ。
それを見た、あるいはメーキャップ担当がシャーロットで練習をしていて、怪人メイクされたばかりのスタッフがなりきり気分でつい暴走運転……ありえなくはない、けれど。
そもそも自分はどうしてこの件に首をつっこんでるんだっけ?
アンは我に返って考える。
そもそも何をしたいんだ、おれは。
素人探偵してるつもりか?それも、ただの好奇心で。