アンは、ミステリ作家アガサ・マローワンことマダム・クラリスにアシスタントとして雇われている。
しかし執筆風景に直接触れたのは、これが初めてだった。
理由は、納期の遅れ。
彼女の看板作品であるヘラクレス・シリーズは毎年クリスマスシーズンを狙って発売されるのだが、通常は9月までに初稿を出版社へ提出することになっている。
さすがに10月末を越えるわけにはいかないだろう。
それで、禁断の扉が開かれたという次第だ。
クラリス「あんまり早く送っても、そのぶん修正要求箇所が増えるだけだから9月末までは寝かせておくんだけど。
今回はさすがに余裕が無くなっちゃってね」
アン「夏の間、籠もりっきりで執筆していたはずでは。
もしかしてあれ、RAG第二弾だったりして……ですか?」
クラリス「まあ、そうね。収入にならない仕事をしていました。
白状するわ。本気で遊んでたの。あそこまで長引かせるつもりはなかったんだけれど」
アン「はあ……ところでおれ、こんな設計図見たことありません。それの整合性をチェックするなんて、無理難題もいいところです」
クラリス「承知の上よ。普通は他人任せになんてできないの。
でもアンは普通じゃないでしょ。
お願いだから、やって」
ここでいう設計図とは、殺人現場となる邸宅の構造を3Dモデリングした仮想空間である。
PCモニタ上であらゆる角度から覗き見することができ、屋根や床板を外してみたり、人物AがBをその角度から目撃することが可能か否かといったチェックを正確にできる。
マダム・クラリスはアイデアを固めていく段階で、この舞台セットを入念につくりこむのだ。
一作につき平均3人殺すとしてフィールドもそれだけ広くなるが、今回は時間が無いのでなるべく小規模な犯罪にした。
ところがいくら名探偵でも、呼ばれて来てみて警察の一次資料しか手懸りが無いのでは推理に限界がある。
そこで、目の前で同じ犯人に迂闊な行動を起こさせることにした。
急ごしらえの家が一軒建てられる。
アンがチェックを求められたのは、この3Dモデルだ。
アン「100年前にはこんな技術、そもそも無かったと思うんですけど。
現代のミステリ作家って、ここまでやんなくちゃいけないものなんですか」
クラリス「義務もルールも存在しないわ。設計図無しで家を建てたければ建てなさい。
売れるといいわね。それだけよ」
アン「あのー。この部屋、ドアから照明スイッチまでが離れてて不便じゃないですか?これって設計ミスですか」
クラリス「どれ?……ああ。隣の部屋のスイッチと、壁の裏表で重なっているでしょう。配線のコストを浮かせようとして、ケチな設計士はこんなことをよくやるの。現実でも多いわよ」
アン「えぐいほどリアルですが、それは今回のトリックに関係しますか」
クラリス「別に」
アン「じゃあ無視します」
クラリス「指摘はどんどんして。気になったら細大漏らさず。取捨選択の判断は私がします」
アン「承知しました」
こんな空間幾何学的舞台装置に手間暇かける小説家は多くないと思う。だがもっとシンプルで、一定レヴェル以上のクリエイターなら本編執筆前に必ずつくっておく予備制作物も各種ある。
登場人物相関図、作品内頻出用語の事典、そして時系列表だ。
アンにはどれも珍しかった。
まず相関図だが、クラリスはこれもPCで作成する。
よくある矢印だらけの一覧表ではない。物語が進むにつれて容疑者同士の関係性は変化していくからだ。
アンはまるで3Dチェスボードだと感じた。
めまぐるしい攻守逆転。駒はどんどん減ってゆく。
実際、マダムは名勝負が生まれるまで何度も遊んでみて、これでいこうと決めた棋譜をシナリオとして採用するみたいである。
適切にたとえるなら、これはチェスというよりモジュラーボード。地形や駒を毎回変えて遊べるゲーム全般を指す。プレイするたびに新しい戦術を考える必要がある。
ミステリ作家が飽きずにシリーズを書き続けられる秘訣かもしれない。
探偵や一部の刑事たちはともかく、犯人と犠牲者たちは一期一会のゲストばかり。同じ手口は使えないし使わせない。すべての行動は、その場限りの一発勝負であるのだから。
お次は用語事典。
登場人物の職業に特有の専門語などで、一般読者に馴染みの薄いものをまとめたリスト。……ではないようですね、とアンはマダムに問うた。
とくに今作では舞台全体がコンパクトなため、特殊なスキルを持つ人物がそもそも出現しない。
ではどんな用語に注意が必要か。
物語のその時点で、各容疑者が口にしてはおかしいキーワードの一覧だ。
整理しておかないと、作者だって書いているうちに混乱してくるのだとか。急かされている場合は、特に。
最後に、時系列表。
ミステリをミステリたらしめる里程標なので、とても重要。とくに犯行が起きる瞬間前後は、分単位秒刻みの行動が重なり合う。
遅延や衝突を起こさないために、正確で緻密なダイヤグラムが成立可能か、あらかじめ検証しておくのである。
もう驚かないが、大陸都市の鉄道時刻表なみに緻密でカラフル。小さな記号もあちこちに散りばめられ、眺めているだけでも楽しい。
まさしく8万語の軌跡がこれらの中に全部詰まっているわけである。
ヘラクレス冒険記とでも題して、デジタル画集にして販売したくなりますね。とアンはつい思ったままを口にしてしまう。
クラリス「それはまるで、私のつくってきたキャラクターたちを、誰が誰をどんな手法で殺したのかまで全部明らかにして競馬のデータブックみたいにしてしまう行為ね。
私の死後、物好きがやりたがるかもしれないけれど、作者としては面白くありません。
犯罪者はね、存在していたことすら忘れ去られて逝きたいものよ。だから引退するときに、こんな資料類は一切合切、処分するつもりでいます」