アンがどれだけ説得しても、マチルダは素直についてきてくれないだろう。
だから有無を言わせず力ずくで誘拐する。許諾なんて求めたら、拒絶されるに決まってるから。
ちょっとだけ眠っててもらい、コッパー・ビーチズへ運びこんだら、ゆっくり時間をかけて洗脳を解く。
マチルダに、アンを平手打ちできるくらいの体力がついてからなら、いくらでも罪滅ぼしをしてやるよ。
これが、アンの計画だった。
どうしてマチルダがあんな両親に従属し、どうせ薦められるがままの結婚をして生涯をただ奴隷として過ごす、そんな未来を受け入れられるのか。
アンには今も解けない謎だ。
他の愚者ならいざ知らず、マチルダがだぞ。
ありえないだろう。
決して誰の言うなりにもならなかったヘレンと、いったい何が違うのか。いつかマチルダに言語化してもらおう。「もっと早く助けに来てほしかったわよ」くらい言わせられたら、報われるんだけどな。
そんな風にさえ、考えていた。
ほんの三日前までは。
マチルダは、父と兄の間に割って入った。虚弱な身体で。なぜだ。
アンが強烈に引っかかっていたのは、そこだった。
ありえないだろう。気でも違ったか。なにができるというんだ、おまえに。
おそらく本人も、わからなくなっていたのじゃないか。
そこまで、考える力を失っていたのか。
ゆるすまじ、洗脳。おそるべし、調教。
ただ実際のところはわからない。
アンには理解が及ばない。
ドクター・ベルと話していて、マチルダへ最初にかけるべき言葉を考えあぐねた。たどりつけない問いだった。
どう接したらよいのか。
むしろ、会うことにさえ恐怖する。
変わり果ててしまったマチルダ。
自分は、正気を保てるか。
なにを今更ノコノコと。そう自分を責めてしまうしかできなくなっている、アンだった。
ベル「おはよう。少しは考えがまとまったかね」
アン「昨日より混濁しています。ただ、はっきりとしたプランニングが固まるまでは動くまい。それだけ決めました」
ベル「じゃあプランを練ろう。ぐずぐずしていると、マチルダはますます君の手の届かないところへ行ってしまうよ」
アン「どういうことですか?」
ベル「実業家ハリー・ウォームウッドにとって今度の災難は途轍もないスキャンダルだし、企業のイメージダウンにも直結する。
彼は、君よりずっと冷静に考え、対策を実行しているよ。
立件されず、報道もさせていない。年が明ける頃には、あの夫婦に子供が2人いたことすら、近所の人に尋ねても知らないと言うだろう」
アン「そんなこと……可能ですか?」
ベル「マチルダは出来の悪い子扱いだったからマイケルとは小学校を別にされたし、その頃から両親は兄の方しか話題にしたがらなかったよ。
ミンチンへ入れてからは、ますます隠すようになった。
いずれ国外の富豪へ嫁がせるんだから、地元で悪い虫がついてもよくない」
アン「ミンチンについても、おれは誤解してましたね。生徒を外で遊ばせたがらないわけだ。
完全無垢な処女に変えた娘たちを、さぞかし高く売りつけるんだろうな」
ベル「マチルダは傷物になった。介助費用も発生するし、ミンチンへ戻す可能性は極めて低い。
売れなくなったばかりか、実家で両親に奉仕させることさえままならなくなった娘を、あの夫婦ならどうするか、ということだよ。
言っておくが、かれら自身も、まだ迷っている段階だ」
アン「おれが一生マチルダの面倒をみてやります。だから誘拐計画は変更しません。
あの両親との交渉は無し。
その方向でプランニングに協力していただけますか」
ベル「わかった。
それではまず、病院へ忍びこむのはやめてくれ。すでに私はマチルダについて探りまわっているから、ここで誘拐されると容疑者の筆頭に挙げられてしまう」
アン「わかりました。
それでは、ドクターにマチルダへの伝言をお願いすることまでは可能ですか?」
ベル「担当看護師を抱きこめば不可能ではない。ただマチルダと私を二人きりにはさせてもらえないだろう。メッセージも声で伝えるしかないが、依頼主がアンであることを知られずにはすむまいと思う。いかなる手懸りも、残すことは避けたいね」
アン「じゃあ、あまり具体的ではなく、精霊がずっと君の傍についているよとか、そんな感じでいいので、マチルダを励ましてやってください。
おれのこと、ヘムロックと言えばマチルダにだけ通じると思います」
ベル「努力してみるよ。それからミス・トランチブルにも、これ以上の詮索は控えてもらうよう君から頼んでおいてくれないか。
手下どもの中には、彼女をつかまえてウォームウッドへ差し出そうと付け狙っている輩もいるようだ。あの悪ガキ連中を甘く見ない方がよいな」
アン「ウォームウッド・モーターズの評判は昔から悪かったんですが、相当な荒くれがひしめいているようですね」
ベル「事故を起こせば起こすほど金が舞いこむ業界だから、小細工に秀でた知恵者が仲間をどんどん引き寄せる。
マチルダはそんな家庭で育てられたんだ。
容易に縁を切られる関係じゃなかったことは、考慮してあげるべきかもな」