ミスター・ドビンズ。
アルバリー小学校化学専任教師。
この村では化学が特別尊ばれているのかしら、とアンは初日だけ期待した。ドビンズ先生とやらは個室を持っており、化学室と呼ばれるその部屋には常に鍵がかけられており、酢のような薬品臭が漂っている。アンに夢を抱かせるにはこの上ないシチュエーションだった。
ドビンズは若くない。容姿は醜い。人間嫌いだ。というデータが集まってくるにつれ、これは初恋になるかもしれないと胸のときめきが抑えられなくなった。
しかし、んなわけねーよと我に返る術も心得ていた。アンは賢い子だったのだ。
時間をかけて描写するのは苦痛だから、手短に述べよう。
地上の誰よりも自分には才能があると信じ続けて大きくなり、今も信じている少年。それがドビンズだ。
才能があるから努力なんてする必要ない。時が満ち、機が熟せば一気にすべてが好転する。現在虚栄を身にまとっている愚か者どもは、さぞかし悔しがるだろう。
ドビンズには雌伏期間だって心地よい揺り籠だった。雄大な空想世界とのギャップを心ゆくまで味わうことは、将来きっと難しくなるからだ。
しかし親は、稼いでこいと責めたてる。
衣食住には費用が発生するから、もっともかもなと思う。
コネで教会へ雇われた。小学校の先生へと抜擢された。
皆が、近寄りがたい存在だと認めはじめた。態度がばか丁寧なので敬意を払われていることを疑う余地は無い。そろそろ時は満ちつつあるのか。そんな風に考えていた頃合いだった。十何度目かの新学期が巡ってきた。
在職歴で一番上のドビンズは、低学年クラスの担任ミス・トランチブルと、高学年クラスの担任ミスター・フィリップスが代わってほしいと申し出ると、授業を引き受ける。
「疲れているようだな、代わってやるぞ?」と自分から持ちかけることもある。化学室の窓越しにお気に入りの女子児童を見つけたりした直後などは、その頻度が高まる。
生徒からは、体罰の厳しさで恐れられている。使いこまれた乗馬用の鞭を腰に提げ、授業中、何度もしならせて見せびらかす。実演する際は、男子生徒を壁に向けて立たせ、歯を食いしばらせ、まず、ふくらはぎから痛めつける。服に傷をつけると保護者に怒られることもあるから手加減する。
ギャラリーの盛り上がり具合にもよるが、終了したあとは打たれた子供に必ず元気よく「ありがとうございました!」と言わせ、教育的指導であったことを教室中に、当人にも自分にも、強く印象づけさせる。
ちなみに、女子生徒に対し鞭をふるった例は記録されていない。
その場での説教後、化学室へ反省文を届けさせるのが通例だ。密室で何が行われているかは、残念ながらわからない。一説には薬品臭が証拠を隠滅するための重要な小道具であるとされ、そのためにドビンズは化学専攻という仮面を被るようになったのでは、とも噂される。
事実、これはフィリップスにもドビンズにも共通することだが、時間割にラテン語だの幾何だの書いてあったところで、そんなもの身につきゃしないし、つけさせる気もない。先生はテキストを持ってくる。今日はここにしよう、と好きなところから朗読を始める。途中のどこかで脱線しはじめ、お説教・自慢ばなし・最近聞きかじった州や連邦のニュースについて思うがままにくっちゃべる。そのうち事務員がチャイムを鳴らせば休憩。
すべてにおいてこんな調子なのだ。いやはや、村の小学校とは、のどかなものである。
とりわけアンを落胆させたのは、こんな実態が何十年も放置され、あたりまえになっているばかりでなく、子供たちの親が概ね学校を肯定していることだった。
先生が厳しいおかげで家でも以前より素直になった、との高評価さえついてくる。マリラも「昔はもっと厳しかったし、女の子でも皆の前でお尻を撲たれるくらい、あたりまえだったんだよ。今の先生たちは甘やかしてばかりだね」と素っ気ない。
アンは、自分が間違っているのかしらと一瞬だけ狼狽した。しかし、んなわけねーよとすぐ我に返る術を心得ていた。
おかしいのは、おまえたちだ。
この村全体が、文明以前の原始社会なんだ。
おれは手術してやるぞ。メスで腫瘍をかっさばいてやる。
しかし準備が必要だ。
患部を正確に切り分けなくちゃならない。難しいぜ。
数週間かかったが、アンはひとつのシナリオを組み立てた。
じっとチャンスを窺った。
小道具として、ドビンズの化学室から古い鞭を一本盗んでおいた。何人の子供たちから生き血を啜ってきたんだ?おまえ。
時が満ちる頃、その鞭からは酢の匂いが抜けきっていた。