16世紀が到来するまで、人類は、とてもとても愚かであった。
神の教えを曲解し、聖職者たちは勝手し放題で惰眠と奢侈を貪った。
経済は発展することなく、文化の価値も権力者へ媚売る額に左右された。十字軍を何百年にもわたって派遣したのにイスラームを駆逐できなかったのだって、法王の統率力がグダグダだったせいだ。
愚か者へ対抗する戦いののろしは中部ヨーロッパで始まり、またたく間に全世界へ飛び火した。
人間ならばいま一度、純真無垢だった赤ん坊に戻らねばならない。神はすべてを見ておられるが、その神になんでもかんでもやってもらおうなどとは傲慢に過ぎる。
信仰が奇跡を生むなど、カトリックが広めたまやかしだ。人は自らの肉体や精神を鍛えることで悪魔を打ち滅ぼすべきであり、それを理解せず祈ってりゃ超能力が身につくなどとほざく偽信者など、とっとと地上から追い払ってしまおう。
約束の地とは、探して辿りつくものではない。自分で選んだ土地に、ありったけの力を奮ってつくりあげるべきものだ。
マードック・スーリスは、この哲学に覚醒した羊飼いのひとりだった。
そして今、目の前の悪魔と戦わねばならぬ窮地に立たされている。
自分は現実主義者で文明人のつもりだ。だからエクソシストや雷撃の一閃が頼れないことも知っている。
それがゆえ、黒衣の男に気付かれまっすぐ向かってこられた瞬間、あっさりと死を覚悟した。
公平に見て、ジェイムズ・シェパード……じゃなかった黒衣の男のほうがずっと現実を心得ていた。
ヤバい生き方してる以上は、肌身離さず愛用の武器を携えておくべきだ。
そして迷わず使う。
牧師はスタンガンで気絶させられた。
黒衣の男、注射器を取り出し、高濃度のケタミンを静脈注射する。
これで大丈夫だろう、と言いおいて去ってゆく。
あざやかだなあ、と感心しながらアンは見送り、牧師を置き去りにして自分も家へ帰った。
牧師館の住み込み女中ジャネット・マクルーアはスーリスが帰ってこないので心配になった。
カンテラを手に、敷地内と周辺を回ってみる。大声で牧師の名を呼びながら。
墓場の中で、なにか動くものがいた。
宗派や信心深さに関係なく、ほとんどの人間は近寄らないと思う。しかしジャネットにとってはただの庭だったし、夜間そんなところをうろついてる不審者がいるならとっちめてやらなければと考えてズカズカ歩み寄る。
うごめく物体に向けカンテラを突き出すと、なんとスーリスであった。
白目を剥いて、なにかにひどく脅えている。
抱きかかえて牧師館へ連れ帰り、ベッドに寝かせて看病した。
医者を呼びに行きたいが、スーリスがひどく暴れるので、目を離せない。
いつしかジャネットも疲れて椅子にもたれたまま寝息を立てていた。
スーリスは幻覚と幻聴にうなされながらベッドの上でのたうち回り続けている。
「殺人鬼だ、殺人鬼につかまってしまった。私はこれから生贄に供されるのだ。臓物を悪魔に捧げられ、祝福を受けることなく劫火に焼かれながら死ぬしかないのだ。おのれカトリックめ。ゆるすまじ。ゆるすまじ。ゆるすまじ……」
読者の期待を裏切ってしまうが、惨劇は起こらなかった。
黒衣の男が注射したケタミンは致死量よりもほんの僅か少なくされていたので、スーリスの記憶を曖昧模糊とさせるだけですんだ。
明け方、気分はすぐれなかったが意識をとりもどした牧師は憔悴しきっていたジャネットに心からの感謝を述べる。
ジャネットも、牧師が正気をとりもどしたことを全身全霊で喜び、粥をつくってふうふう冷ましながら食べさせてやった。教会業務はお休みしますと掲示を貼った。
その日のうちに、スーリスは本部へ辞任の意向を伝える手紙を書いた。これ以上牧師を続ける勇気が無いと。
小学校の先生も早くよこしてほしいが、教会の後継者も急ぎ見つけてほしい。
切々とそう訴えた。
教団は血相を変えた。もはや一刻の猶予もならぬ。
約束の地が目の前で奪い取られようとしている。これ以上敵の思うがままにさせてたまるか。
実力重視で人選が行われ、抜擢された夫婦には拒否権が認められなかった。ただし破格の成功報酬を約束された。審問官や牧童たちも現場で支援をするという。なれば、と二人は引越の支度にとりかかる。
マードックとジャネットは新天地へ旅立つ。
あの夜の緊張は、彼と彼女の親密度を急速に引き締めたらしい。
めでたしめでたし、といってよいのかな。