5月を迎えた時点で、マチルダは低学年クラスへと戻っていた。
ミセス・マクドナルドの授業は退屈すぎたし、テストの成績で決められる席順でいつもアンと隣合わせになるのも不自然だろうと計画的に離れてみれば、マチルダには一週間がひたすら拷問と化す。
もともと無理のある飛び級だったし、マチルダは賢かったから、授業についていけない素振りをミセス・マクドナルドへ印象づけて、上級生のクラスメイト全員より励ましを贈られながら古巣へと帰っていった。
アンとはお昼休みや放課後にこれまで通り会えるし、その目的は達したのだ。
さあ、また書物に埋もれよう。授業中は脇目も振らずに活字を追いかけよう。
もちろんミス・ジェニファー・トランチブルには帰宅前の図書館通いというハードなノルマが復活したけれど、当人は誇り高い使命だと喜んでいるみたいだから、ありがたく働いていただこう。
マチルダ「古典ばかり読むのはなぜかって?
通俗本を軽蔑してるわけじゃないわよ。図書館に置いてくれないから、読めないだけなの」
アン「それでも、現代小説だってあんまり読まないよな。
マチルダが夢中になる本って、文字小さくて改行ほとんどなくて言葉もカタクルシくて、おれにはハードルが高すぎる。同じ本で感想戦、したいんだけどなあ。秘訣があれば知りたいよ」
マチルダ「昔は、本を一冊つくるのに、とてつもない労力をかけてたの。だから余白を遊ばせるなんて贅沢はゆるされなかったし、買う人だってコストパフォーマンスを重視して選んでたと思うわ。
その真剣さが感じとれるのも、古典の魅力に含まれるのよね」
アン「その魅力の前には、現代人のつくる本って、軽薄かい?」
マチルダ「歯応えが無いから、すぐ読み終えちゃって、印象に残りにくいのよね。何度も同じ本を手にとって、読み始めて気付くたびに、時間を無駄にしたわって凹んじゃう。
それから、同時代人の書く文章って、流行りものの話題や芸能人のニックネーム、大企業の商品名なんかが無意識かつ無節操に頻出するんだけど、あたしのような子供にはピンとこないわけ。
古典だと註釈つくから、かえって理解できるし、辞書で調べたりしてるうちにより強く記憶へ焼き付くでしょ。達成感と相俟って、ますます愛おしくなっていくわ。
そんな本命の背後に群がられても、正直、邪魔かな」
アン「その境地に達するには、どんだけ読みゃいいんだろう。永遠に追いつけそうな気がしねえよ」
マチルダ「追いつこうとしてるの?じゃあ、永遠に無理だよ。
さっき感想戦したいって言ったじゃない、アン。
同じ本を読んで同じような感想を抱くふたりの間で、どうして議論が盛り上がるの?そんな無駄な時間を過ごすくらいなら、別々に読みたい本へのめりこんでいた方が建設的じゃなくて?」
アン「そう……かも……しれないけどさあ」
マチルダ「ヒントをあげるわ。
あたしは、古典を読むのが好きだし得意。アンは、現代小説の方が好きなんでしょ?
だったらそっちを究めて。
お互いがそれぞれの専攻分野を持って、たとえばシャーロック・ホームズとは何者なんだっていうお題でプレゼンテーションをし合うの。
あたしはシャーロックが生まれるまでの歴史的背景を語ることができると思うし、アンは、シャーロックから派生した後継者たちのパラレルストーリーを花咲かせられるんじゃないかしら。
これなら、感想戦よりもずっとずっと刺激的に、相手の知らない蘊蓄ばかりを投げつけ合えるはずだわ。どう、よくない?よくなくない?」
アン「ああ……いいと思う。すごく、いいと思う。
そうだな、文献はマチルダにまかせよう。ちなみにおれ、小説よりももっと得意、つーか究めたいのは化学なんだ。その分野でなら、この場でだって、そこそこウンチクを語れると思う」
マチルダ「まあ!なんて素敵なんでしょう。じゃあ、ソークラテースって知ってるかしら?」
アン「ソークラテース?そんな薬品、聞いたことないな」
マチルダ「大昔の大道芸人。漫談で相手をかどわかすのが得意で、反政府運動を教唆した容疑で捕らえられ、死刑宣告されたの。
コニウム・マクラトゥムの液汁を一杯飲まされて絶命したっていう伝承があるんだけど、これについて何か知ってたりする?」
アン「長い名前だな。ラテン語かい?英語では何ていう?」
マチルダ「註釈では、現代のヘムロックと推定される、と書いてあったわ」
アン「毒人参か。種類もピンキリだし、ざっくりしてやがらあ。一杯で死ねたんなら、相当濃縮したんだろうね。
ソークラテースっていつ頃の人?
2400年以上前?じゃあ、ガラス容器もなかっただろうし、学者たちはどんな道具を使ってたんだろう。興味湧いてくるな」
マチルダ「さすがだわ、アン。あたしにはそんな着眼点無かった。
これからのギリシャ旅行が、一段と楽しくなるわ!」