「この病院にはね、おばけが出るんだよ」そう、マリラは言った。
夜になると、廊下からシクシクと泣き声が聞こえてきて、白い服を着た女の子の亡霊が、あてどもなく、さまよい歩くのだそうである。
アンはちっとも驚かなかった。
あたりまえだろうね。むしろおばけに扮して警備員すら震え上がらせ、戦利品をどれだけ持ち帰れるか競うような子供だもの。
ただ、興味は抱いた。
「そのゴーストは、ここに入院してる子なの?」とストレートに質問を返す。
夏休み、アビグウェイトへ遊びに来ていた少女が車に撥ねられ、この病院で治療を受けた。今も入院中。
両足を複雑骨折しており、これからずっと車椅子生活を送ることになると噂されている。
彼女の名はクラーラ・ゼーゼマン。12歳。
先祖代々上級軍人の家系でたいへん裕福であるが、大きなハンディキャップを背負うことになった悲しみはとても深く、周囲にあたりちらしたり夜中に突然大泣きし始めたりなどと、最初の頃は手がつけられなかったという。
クラーラのおうちはフランクフルトの大邸宅だが、そちらには住み込みの使用人が大勢いた。
この中にアーデルハイトという8歳の少女がいる。
クラーラお嬢様専属の召使いとして、スイスのデルフリという村から買われてきた。粗野な田舎娘だったが、都会で甘やかされて育ってきたクラーラには彼女のすべてが新鮮で、すっかり気に入られる。
たまにしか在宅しない父親も、女の子は少々ガサツなほうが見ていて楽しいと、アーデルハイトが時にはクラーラをやりこめてみせることだって容認していた。
夏休みに入り、クラーラがペンフレンドの家を訪ねて旅行に出たとき、アーデルハイトはメイド養成学校へ通わされた。そこへ事故の報せが届き、勉強どころではなくなる。
やがてクラーラの精神状態がかなり危険であると随伴の使用人から悲鳴が発せられるようになり、アーデルハイトがアビグウェイトへ派遣されることとなった。
2少女の面倒を見る武官が新たに抜擢され、疲労の甚だしかった前任者は郷里へ戻される。
現在、病院の最上位エリアにはゼーゼマン邸の女性が3名、それぞれの個室を借りて生活しており、フランクフルトへ帰るタイミングを見計らっているというわけだ。
すぐ移さない理由は、地元でゼーゼマン家の娘が取り乱すさまを見られるのが好ましくないからだと慮られている。
マリラが入院した頃の状況は、こんな感じであった。
9月に入って、クラーラの病状はようやく安定してきた。
あれだけ憎悪していた車椅子のカタログをあらん限り取り寄せ、触りもしないうちから尊大な批評家ごっこを愉しむ余裕さえ持てるようになった。アーデルハイトはいちいち感動してみせ、クラーラにもっともふさわしいメーカーの製品はどれか、という話題に来る日も来る日もつきあってあげていた。
そんなアーデルハイトの精神が、ついに壊れてしまったらしい。
夜になるとベッドから起きあがり、すすり泣きしながら廊下を往ったり来たりしはじめ、他の入院患者を怖がらせてまわる。
ただ本人はまったく自覚しておらず、夢にさえ見ていない。
だから日中はひたすらクラーラの演説に聴きいるという生活から抜け出せず、徘徊の移動距離と滞空時間は夜ごと長くなっていくという次第だ。
疲労が回復できないからアーデルハイトの顔色はだんだん悪くなり、ちょっと歩くだけでもふらつくようになる。
アンはこっそり観察してみて、ヴァンパイアそっくりじゃないかと感じた。
気の毒だなとは思う。どうにかしてやれんものかね。
しかしマリラが退院したので、もうこの病院へ来ることもないだろう。
さらばゴースト。達者で暮らせよ。
当分、杖を手放せなくなるマリラは、家事の半分をアンが手伝うことに同意した。
裁縫や、牛の乳絞り、チーズ作りなどは座ってできるから引き続きマリラの独擅場だが、そういう担当分けも今後はすべてアンと話し合ってから決めようというルールが定められる。
急に老けこんじゃった気分だよ、とマリラは淋しそうにつぶやく。
だが、若いうちに両足で立てなくなって絶望するのにくらべたら年齢相応だと思いなよとアンに諭されて、少し気が楽になる。
そうだね、まだまだ階段を昇り降りするくらいは、へいちゃらだもんね。
ありがたいことだよ、ほんと。
アンは、見た目ほど楽観はしていなかった。
仕事を引き受け納期を守ることは、思った以上につらいのだ。そこへ家事が加わった。
いつまでもダイアナに頼ってもいられない。
夜、蝋燭の灯りを頼りに、ひとりでしかできない作業だってある。
身がもたない。
授業中はとことん回復に充てよう。
夢遊病を発症するようになったら、あれ、けっこう地獄だぞ。