ジョセフ・ベルは、アンの訪問を喜ぶ。
お隣さんではあるのだが、カスバート家とはほとんど交際が無かった。
男所帯で、いつも台所が汚い。アンは、ストレスが昂じてくると大量の焼き菓子を作ってベル邸へ持っていく。ものすごく感謝される。ついでに洗い物を片付けたり、余裕があれば洗濯までしてやりながら、雑談に興じる。
それでもアンは、肉体的な奉仕よりずっと大きな見返りを精神的に受け取っていると考えていた。
ベル氏は、同じ仕事を長く続ける才能には恵まれていないけれど、州内あちこちの病院にコネクションを持ち、それらから仕入れる情報の更新頻度も高い。
糖分を摂取させることで、アウトプットが促進される。これがアンにとっては極上の栄養分になるという、無駄のない生態系を構築するのだ。
ベル「クラーラ・ゼーゼマンは退院したよ。
パラソムニアを発症したアーデルハイト嬢の故郷であるデルフリで、ひと冬療養するんだそうだ」
アン「へえ。あの奴隷娘の。症状、よくなるといいですね」
ベル「人によっては、ふるさとほど辛い場所もないから一歩間違えると拷問になってしまうんだが、アーデルハイト嬢はしきりに帰りたがっていたみたいなので、丸く収まることを期待したいな。
ちなみにデルフリは閑静な温泉町だ。ゼーゼマン嬢の足の回復にも効果があるといいねえ」
アン「温泉ですか。実物見たことないんですけど、どういう仕組みなんですか?」
ベル「この村にも、あちこち井戸があるだろう。地下水を汲み上げているんだ。
その地下水脈よりもっと深い層には、高圧力で溶解した熱源帯がドロドロ流れている。
火山の付近では、これらが地表から10マイル程度の浅さまで噴き上がってグラグラ煮立っている場所が存在する。その直上を流れる地下水も熱せられ、お湯になってるんだ。これを掘って、華氏100度くらいまで冷ませば、人が気持ちよく泳げるプールが作れる。
この施設を地域ぐるみで盛り上げているリゾートタウンが温泉町だね」
アン「ただあったかいだけですか」
ベル「源泉は高温だから、細菌類が死滅している。加えて地中の鉱物が溶けこみやすい。硫酸塩やラドンが含まれている温泉では特にその効能を謳った宣伝が盛んになるね」
アン「ラドン?そんなプールで泳いだら死んじゃうでしょ」
ベル「何を言うんだ天才少女。
人は必ず、いつかは死ぬさ。どんな毒素でも致死量を下回るまで薄めれば薬品に分類していいんだよ。
そこで泳いだ人間が直後に大量死しない限り、温泉経営者は無実だ。むしろ名士扱いされる」
アン「そうか。ま、仮に大量死しても裁判で勝てればいい話だ。判事次第というところだな。
納得しました、ありがとう先生」
ベル「砂糖だって、肥満者には致命的な凶器となるけれども、君や僕たちにとっては至福の栄養素さ。
毒と薬は常に表裏一体で、その価値は相対的なものだ。アーデルハイト嬢が発症したパラソムニアだって、それが帰郷に結びついたのなら寧ろ良かったことじゃないか。
斯様に、解釈ひとつで人は躁にも鬱にもなれる。費用をかけるまでもなくね。
この極意を知ってしまうと、これから先、二度とあくせく働くものかと思わずにいられなくなるよ」
イグナティウス「まったくです。僕たちの家は汚い。でも、そのおかげでこうしてレイディ・アンが来てくれて、楽しいひとときを過ごすことができる。これがもし二人で家事を完璧にこなしていたら、そこから先の交遊が広がっていかないでしょう。
僕も師匠の極意に学ぶようになってから、医師免許をとるために勉強するのがばからしくなっちゃってね。やめちゃいました」
ベル「イグナティウス。今の発言は訂正の余地がある。私はともかく、君はアンから一方的に受け取っているだけで、対価を支払っているとは言い難い。
勉強しなくなったぶん、余暇は増えたんだろう。だったらアンに喜んでもらえることに費やしたまえ。さもないと、次から君のぶんのケーキは無くなるぞ」
イグナティウス「心得ます。失礼しました、レイディ・アン。そのうちちゃんとお返ししますよ。何かリクエストがあれば僕にもチャンスをください」
アン「はあ。考えておきます。それにしても、あの、イグナティウスさんの正体が私にはずっと謎だったんですけど、ベル先生の……助手さん、なんですよね?」
イグナティウス「そうですね、最初は講師と学生でした。今は……雑事全般を仰せつかってます。家庭内労働は師弟揃って苦手なので、ほったらかしですけど」
アン「うーん。ぶっちゃけ、愛人関係と解釈してよいものですか?」
イグナティウス「あはは。否定も肯定もできないなあ。お好きな御想像のままにどうぞ。あ、思い出した。ぼくは、先生のエージェントなんです。そう、エージェント。かっこいいでしょ」