アンはアルバリーへ戻らなかった。スペンサー邸から、そのまま新しい職場へ連行されたのだ。
小高い丘に広大な農場を持つブリュエット邸は、まさしく富の象徴だった。田舎であって田舎ではない。洗練された古臭さが、敷地内のどこからでも漂っていた。
玄関で老練な執事にお出迎えされる。
アンにとっては大邸宅に正面から入るなんて人生初体験だ。さすがにビビる。その後すぐ、お仕着せを与えられた。ツナギだ。ポケットにはジッパーがついていて、開け閉めするたびヂヂヂと耳障りな音がする。
鍵束を預けられる。
ポケットに入れ、常にジッパーを閉めること。ヘレンはこれを奪いたがり、すぐに隠す。絶対に見つけられないから、そのたび邸内の鍵を全部取り替えなくてはならない。厳罰に処しますからね、と。
準備整ったところで、ブリュエット婆さんの息子の嫁であるところのミセス・ケイトに紹介される。このあと対面するヘレンの母親だ。
とても大変なお仕事ですけどどうぞしっかりお願いしますと、真剣な表情で強く手を握られる。
ヘレンは牧場で遊んでいるということなので、歩いていく。
パーシイという使用人がついてきた。なにかあったら力ずくで止める係だという。
よろしくね、と軽く握手。
柵で囲まれた草原の中で子牛を追い回している幼女がいた。
あれがヘレンお嬢様ですか。
フム。遠巻きに観察する。
獰猛だ。木の枝で、けっこう容赦なく牛を叩いている。
牛は面倒臭そうに時々体を揺り動かすが、幼女は器用に身を翻してよけてみせる。
あれで目が見えないなんて、聞いてても信じられませんね。
もう少し近付いてみる。
幼女、勘づいたようだ。こちらを向き、見えてはいないんだろうけど、睨みつけてくる。左目が飛び出している。なかなかチャーミング。
アンは柵の手前まで歩み寄る。ヘレンも迫ってきた。しきりに匂いを嗅いでいる。初めて来たヤツだなとデータをインプットしているのだろう。触ってきた。胴、またぐら、腕。ヘレンが手を伸ばすと、アンの耳くらいまで届く。ニヤニヤ笑い始めた。新しいおもちゃの外見は、もうバッチリ把握したようだ。
アン「柵の中へ入って、一緒に遊んでもいいですか?」
許可を得て、柵をよじ登り、とびおりる。ヘレンに、もっと体を触らせてやる。しゃがめ、と態度で命令された。従ってやる。
ヘレンはアンの耳や髪をおもいっきり引っ張り、目に指を突き刺そうとまでした。さすがに回避する。
柵の外のギャラリーは大声でヒントをくれているようだが、うるせえぞてめえら。おれたちは今、互いのリーチを拳でたしかめあっているところなんだ。気を散らさせんじゃねえ。
ひとしきり戯れたあと、邸へ戻った。
ジュースにアイスクリームなどいただきながら、緒戦の感想を語り合う。アンは合格点をもらった。ブリュエット婆さんからも、ヘレンからも。それと、パーシイから早くも中級向けのレクチャーを受ける。
ヘレンはいたずら好きなので、隙をみせるとポケットの鍵を奪われる。決して油断しないこと。ヘレンの手に触れそうな場所に、ハサミやナイフなどを置いてはならない。見つけられたが最後、彼女はなんでも切り刻む。邸にはヘレンの妹であるミルドレッドお嬢様も暮らしているが、ヘレンは傍に誰がいようと、ミルドレッドを目がけて攻撃する癖がある。母親の愛情を奪った憎い敵だという行動原理はわかるのだけど、理解させられないから容赦もしない。くれぐれも、この二人を接触させてはなりません。
アンは、なるほどなるほどと、深くうなずいた。
ホワイトサンズでは電気の供給が安定しているので、夕食は日没後になる。家主の帰宅も遅くなりがちだ。ヘレンの食卓は部屋を別にされていて、初日はアンとパーシイが給仕係となった。
ナイフもフォークも使わせず、お嬢様を宥めながら、床やテーブルを掃除しながらの会食となる。結構しんどい。
パーシイ曰く、アンの手つきは初めてとは思えないほどの熟練ぶりだった。どこかで似たような経験を?と好奇心たっぷりに尋ねられる。
アン「孤児院でガキどものお守りしてた頃を思い出してるよ。ただ、ヘレンの凶暴さは桁違いだね。7歳まで甘やかされすぎてたんだ。このままだともっと手がつけられなくなる。早いとこどうにかしたいが、それにはこの家全員の矯正が必要だ。
パーシイにはわかるだろう?ヘレンは、とても頭がいい。勘もたしかだ。それ以外のやつらがクソすぎる。どうにかしてやらねえとな」