アンは、ベキィが置いていった毛染め薬をさっそく使ってみた。
説明書をよく読み、ブラシとゴム手袋を準備する。
服を汚さないため裸になり、ブラシに薬剤をたっぷりつけて、髪を満遍なく梳く。変な匂いがするけど気にしない。
塗り終えたら30分放置。
ぬるま湯でしっかり洗い流す。
艷やかな黒髪のできあがりです。一年はこの美しさを保てます。
アン「髪なんてどんどん伸びていくんだぜ。新しく生えてきた部分は地の色だろ。どうして一年もつんだよ。と疑問が膨らんできたときはあとのまつりだったね。
いや、おれとしたことが。やっちまった。さすがに呆然としちまってさ。ごめんなさい」
おそらく何年も売れてなかった品で、成分が劣化していたのだろう。と思うが箱に使用期限など書いちゃいない。ベキィにも悪気は無かったと思われる。ただ、失敗した。
この世に赤毛よりも醜いものがあると知ったので、勉強にはなった。
授業料も、15ドルですんだことは幸運だ。血みどろにはなっちゃいないんだから。
じゃあ、おなかもふくれたことだし、マリラ、丸刈りにしてくれないか。
マリラ「いいのかい?と言ったって、それ以外にどうしようもないからねえ」
アン「当分は帽子着用で、服もそれに似合ったのを選ぶよ。
これが口や目に入れる商品でなくてよかったと本気でほっとしてるんだ。
むしろ、戒めに一房束ねて部屋に吊るしておこうか。今日のことを忘れないために」
翌日、学校で期待どおりに驚かれはしたが、おかげでエクセルシア石鹸について語る機会が容易に得られた。
クラスメイトでベキィに敷居を跨がせた家庭はほぼ無く、最大の理由は彼女がプレスビテリアン信徒ではなかったからだ。
アルバリーの閉鎖的な村民気質に感心すると共に、じゃあ信徒だったら皆がホイホイ石鹸を買ってやってたのかな?と思い、アンは暗澹たる気分を隠せない。
連鎖販売商法についても、
そこに集団催眠的な雰囲気がまとわりつくのはなぜか。
先行投資の御褒美として不労所得を受け取ることの何がいけないのか。
そんな美女から手下になれと勧誘されたら俺がんばっちゃうなあ。
とかいった反応が返ってきて、アンの思うところはイマイチうまく伝わらなかった。
ミス・ステイシーも大して興味は無いようで「やってみたい人にはやらせてやりなよ」と軽く流される。
そりゃそうかもな、とアンは頭をポリポリ掻きながら普段通りの勉強へとすぐに戻った。
近頃のアンは、好きな小説を読み通しながら、出てくる数字を細かくチェックしている。言うまでもなくマダム・クラリスの影響だ。
初読でこれを始めると時間がかかりすぎてストーリーが頭に入らなくなるので再読に限りやっている。数をこなしていくと、作者によってディテールへのこだわりが千差万別であることに気付かされる。
ガリヴァーやニルスの身長は対面する相手次第で大きく変動するが、アリスのように場面転換するたび伸びたり縮んだりする設定を加えると無茶苦茶なんだけど却って筋は通る。
作品は完全無誤謬を目指すべきなのか。
目指したい作者は目指したらよいが、ジョウゼフ・コンラッドやオスカー・ワイルドなどはそこにとらわれすぎて退屈な長文しか書けなくなった失敗例である。だいたい結末まで書いたあとで整合性をととのえていくのならよいが、行先も決めずに一歩一歩着実に踏みしめていこうと考える旅人が路頭に迷うのは自業自得というものだろう。読者をまきこむな。
矛盾だらけといえば聖書に勝るものはなく、しかも長寿の秘訣がここにある。
オリジナルを改変することは絶対悪という鉄則を掲げ、読者側に問題点の指摘と解釈を丸投げするのだ。
信徒は必死になって考え、擦りきれるほど読み通して正解を編み出し、ほらやっぱり聖書は完璧だよと誇る。一種の集団催眠効果もまとわりついて、皆が幸福感に包まれる。
悪いことではないんじゃないか。
誰も彼もが真似ればよいと思うんだ。
さてミステリというジャンルは読者も小難しい人ばかりだ。
犯人当てが成功すれば易しすぎるとケチをつけるし、外れればアンフェアだとコキおろす。知るかヴォケ。
同じ作者ばかり続けて読めば叙述のクセもわかってくるけど、適度にシャッフルすれば毎度新鮮なパズルを愉しめる。
同じようなタイトル・長さ・プロットで無限に量産する業界慣習には、ちゃんと理由があるのだ。
アンは、マダム・クラリスを見つけたかった。
すぐ見つかるだろうと思っていた。
ところがダイアナのコレクションにはミステリだけでも100を超える作者が並び、探偵の数はそれよりも多い。
片端から手に取り、読み、リストをつくる。
もはやどれがどれだかもわからなくなり、何を探していたのだったかも忘れて、ぶくぶくと幸福に包まれて沈みかけていた。
おそらくディテールの最も細かい作者がクラリスだ、と考えたが、この再読は沼を深めるだけに終わりそうだ。
やれやれ。ああ、やれやれ。