アンは2週間近く、ブリュエット邸で勤労した。
パーシイの前以外では原則、健気な優等生を演じていたが、一度だけ、強く感情的になったことがある。
ミセス・ケイトと語らっていたときだ。傍で遊んでいたヘレンが絨毯の毛の隙間から裁縫針を発見した。そ知らぬ風を装って、歓談中のアンの背後から近寄り、首にぶすっと突き刺す。
アンは悲鳴を上げた。
ミセス・ケイトは大慌てでヘレンを抱き寄せ、針を取り上げる。奥様付のメイドを呼んでアンの手当てをさせた。動脈からは外れていたので幸いだったが、ミセス・ケイトがヘレンを優しく言葉で叱って、飴を与えて宥める姿を見て、ここでアンがキレたのだ。
アン「奥様。それはいけません。いまの一連の流れで、ヘレンは、他人を傷つければ御褒美がもらえるものと学習してしまいます。最悪に輪をかけて最悪ですよ」
ミセス・ケイトはひたすら詫びた。子供の悪戯だと思ってどうか勘弁してあげて、と頓珍漢すぎる弁解に終始した。
アンは憤懣やるかたなかった。だから、とっととケリをつけねばと、計画を急がせることにした。
決闘場は、初日にヘレンと遊んだ柵の中。
アンはクリケットのプロテクターとヘルメットで完全武装している。
ギャラリーだが、パーシイのほか数名、趣旨を理解できる使用人だけを立ち会いさせた。それからマダム・ブリュエットを招待。あとで息子さんたちに解説をしてもらわなきゃならんのでな。
始まったらパーシイに傍についててもらい、くれぐれも最後まで止めないようにと、それだけ何度も念を押す。
では、ヘレンを連れて参りましょう。
邸を出てくるまではパーシイがエスコート。そこへアンが向かってゆく。いきなり口論を開始。
ヘレンには声は届いてないが、殺気立った雰囲気は感じとれているはずだ。
アン、ヘレンの腕を乱暴に掴み、引きずるように柵の中まで連行する。門を閉じ、閂をかける。
ヘレンはたじろぎながら身構え、お気に入りの人形をぎゅっと抱き締めたまま、動けない。生まれてから一度だってこんな状況に置かれたことはないはずだ。
では、いかせていただきます。
ありったけの力をこめて腹を蹴る。
髪をひっぱり地面の上を這い摺り回らせる。
人形を引き剥がし、これでもかこれでもかと踏みつけて、四肢をもぐ。
ヘレン、柵の横木をつかんで一周するが、出口は開いていない。
柵の外に人がいることはわかっているようだ。しかし誰もたすけようとしてくれない。ブリュエット婆さんは、皆が羽交い締めにしてくれている。
さあ、さあ、さあ。アンはのっしのっしと迫ってくるぞ。
逃げる。逃げる。ただひたすら、悪鬼につかまらないよう逃げまくる。
しばらくして、フィールドの中央付近にバットが転がっているのを見つけた。ヘレンはクリケットなんて全然知らないと思うが、長くて硬くて平べったい木の棒だ。
武器だわ。武器を手に入れた!
ヘレンはバットをしっかりと握り、その場に膝をつく。じっと息を殺し、敵の気配を感じとる。
アンは悠々と標的への歩を詰める。婆さんの口を塞がせてるのもそろそろ限界みたいだからな。
さあ反撃のときだ。かかってこいクソガキ。
ヘレン、全身全霊の力をこめて、バットを振り回す。
烈しい衝撃で自身が撥ね飛ばされる。
7歳ってこんなに怪力出せんのかよ、とアンも起き上がりながら戸惑っている。
背後から大歓声。
執事さん、ナイスショットが撮れたかね。
ふげぁ!!
2発目がきた。ヘレン、力まかせにバットを叩きつけてくる。ここで仕留めなければ何もかもが終わってしまうのだと本能的に理解しているようだ。それでいい。
それで正解だよ、お嬢ちゃん。
アンもだんだんスタミナが切れてきたようだから、ちょいと抵抗してやる。
バットを受け止めヘレンの腕から引き剥がし反対側へ放り投げる。
硬直するヘレンの腹に、もう一発蹴りを見舞う。
殺人鬼はそんな簡単にくたばりゃしないんだよ、ヒロインちゃん。
ヘレンは口からしたたる血をぬぐいながら懸命に走り回り、なんとかバットを見つけた。
もう余力は無い。これを外したら今度こそサヨウナラだ。そんな覚悟が窺える。
いい表情だ、小娘よ。ギョロ目がほんとチャーミング。この島でここまでエキサイトできるなんて思わなかったぜ。さあ、とどめをさせ。生涯ためこんできた憎悪の塊を、のこさずおれにぶつけてこい。
きもちよく果てようぜ、一緒にな。
いやはや、最後はメッタ打ちだった。
誰も止めてくれなかった。
ヘレンの怨念は、鬼を一匹屠る程度ではおさまらなかったのだ。
アンは赤土の上に嘔吐した。完膚無きまでのギヴアップ。
撮影は終了した。ブリュエット婆さんも大満足だった。
アンは病院へ搬送された。