俗物少年合理君 作:この俗物怪物くん
野比家の玄関がバターンと開いた。そこに立っていたのは、見るも無惨なのび太だった。
顔はパンパンに腫れ、目の周りはパンダのように黒く、鼻からはまだかすかに鼻血が出ている。制服も泥まみれで、ズボンの裾は破けていた。
「うわぁぁぁん!ジャイアーン!!」
のび太は泣きながら居間に転がり込むと、ちゃぶ台の脚にしがみつき、まるで戦場から帰還した兵士のように叫んだ。
「覚えてろよジャイアン!この恨みは必ず晴らす!地獄の底から這い上がってでも祟ってやるぅぅぅ!!」
ちゃぶ台の上で麦茶を飲んでいたドラえもんは、ストローを吹き出して盛大に咳き込む。
「ぶふっ!? げほっ、げほっ! な、なにそれのび太くん! 祟るって……いつの話!? 来週?それとも来月?」
「バカ!僕が死んだらだよ!幽霊になって、ジャイアンの枕元に立ってやるんだ!」
涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔で、のび太は拳を振り上げた。
しかしその拳は、明日の宿題をやる気配もなければ、復讐を実行する体力すら感じられない。
「ふぅん…」
ドラえもんはわざとらしく頬を膨らませ、にやりと笑った。
「でもさ、それ、のび太くんが幽霊になる前に、ジャイアンが先に死んじゃったらどうするの?」
「えっ」
のび太はぽかんと口を開けた。ジャイアンの生命力を考えたことなどなかった。
「それにさ、その『恨みに使うパワー』があるなら、宿題とか練習とかに使えばいいんじゃない?」
「うるさいなぁ!僕の恨みは深いんだ!宿題なんかで発散できるもんか!」
のび太がジタバタと畳を転げ回ると、ドラえもんはとうとう腹を抱えて笑いだした。
「あはははは! のび太くんってば、恨みを晴らす気あるのかないのかわかんないよ! 幽霊になるまで待つなんて悠長すぎ!」
「うぅぅ……でも、でも、どうしても仕返ししたいんだぁ!」
「仕方ないなぁ。そんなのび太くんのために……」
ドラえもんは四次元ポケットに手を突っ込んだ。そして、取り出したのは怪しげな紫色の缶だった。表面にはどくろマークが描かれ、フタの周囲からはじんわり紫煙が漏れ出している。
「これは、『うらめしドロップ』!」
「うらめし……?」
「そう!これを飲んで寝ると、一時的に幽霊になれるんだ。魂が体からスポーンと抜けて、壁だって通り抜けられる。生きている間に幽霊体験ができちゃうんだよ!」
のび太の瞳がギラリと光った。
「それだぁぁぁ!ドラえもん、早くちょうだい!僕は幽霊になって、今すぐジャイアンに祟ってやるんだ!」
「ほんとにやるの?お化け屋敷で泣き叫んでたのはどこの誰だっけ?」
「だ、大丈夫だもん!今回は僕が化けて出るんだから怖くない!」
そうしてその夜。
のび太はベッドの上で、勇者のように覚悟を決めてドロップを口に放り込んだ。紫色の液体が喉を焼きながら落ちていき、彼は布団に潜り込む。
「う、ううっ……なんだか体が……」
次の瞬間、ポワン!と音を立てて、のび太の体から半透明のもうひとりののび太がスポーンと飛び出した。
「や、やったぁぁ!体が軽い!浮いてるぅぅ!!」
壁に手を伸ばすと、ズボッと腕が抜ける。勢いで全身がするりと抜けて、隣の部屋まで移動してしまった。
「すごい!ほんとに幽霊だぁぁぁ!」
喜び勇んで家を飛び出そうとしたが……
「……あれ?」
玄関の外は闇に包まれていた。
街灯の光は遠く、風が木々をざわつかせ、不気味な影を揺らしている。どこからともなく犬の遠吠えが響き、空には雲間から月が顔をのぞかせていた。
「ひ、ひいぃ……」
幽霊になったのび太は、逆にいつもよりも心細さを感じていた。
「ド、ドラえもーん!外、真っ暗だよぉ!一緒についてきてよぉ!」
布団にくるまったままのドラえもんが、片目だけ開けて呟く。
「えー、僕は眠いんだよ。幽霊になったのび太くんが行けばいいじゃない」
「そんなぁ!幽霊なのに、幽霊の自分が怖いよぉ!」
だが、時すでに遅し。
のび太(幽霊)は半透明のまま、玄関のドアをすり抜けてしまった。
「うわぁぁぁん!やっぱり行くのやだぁぁぁ!!」
◇◇
「うぅ……こ、ここまで来ちゃった……。も、もう戻る……?いや、ここまで来たら……やるしかない!恨みを晴らすんだぁ!」
半透明の身体で、のび太はおそるおそるジャイアンの部屋に入り込んだ。障子をすり抜け、布団を覗き込んだ瞬間──。
「えええぇぇぇっ!?な、なんで合理くんがジャイアンと一緒に寝てるの!?」
そこにはパジャマ姿のジャイアンと、隣で寝ている合理くんの姿があった。合理くんは目覚まし時計を片手に持ち、眉間にしわを寄せながら寝言をつぶやいている。
「……剛田くんの……歌唱データは……誤差0.03%……むにゃむにゃ……」
「な、なに研究してんだよ寝ながらぁ!」
のび太は涙目で、必死に「うらめしや〜」と両手をひらひらさせてみせた。声は震えて情けなく、恨みというより風邪気味の鳴き声にしか聞こえない。
しかし、その瞬間。合理くんの瞼がパチッと開いた。暗闇の中で光を宿した瞳が、のび太(幽霊)を捉えた。
「な……なんだと!?幽霊が……半実体化している!?音波を発し、空間を震わせているだと……!?これは……っ!」
寝起きのくせに、合理くんは一瞬でフル稼働モードに突入。布団を蹴飛ばして跳ね起きると、タブレットを掴み、猛烈な勢いでのび太(幽霊)に迫った。
「この目で見るとは……死後の世界が存在する!これは歴史的発見だ!幽霊の存在を科学的に証明できれば、人類は新しい段階に到達するぞ!待て、野比くん!」
「ひぃぃぃ!ちょ、ちょっと待って!僕、ただの幽霊で、そんなすごいもんじゃ……!」
「幽霊である時点で充分すごいのだ!君を逃がすわけにはいかん!」
合理くんは半透明ののび太を追いかけ回す。パジャマ姿で家の中を全力疾走する姿は、まるでホラー映画の幽霊に取り憑かれた人間のよう──しかし追いかけているのは人間のほうだった。
「野比くん!ニュートンは死後も重力について考察しているのか!?アインシュタインは相対性理論に誤りがあったと言っているのか!?答えろ!死者の声を聞かせてくれ!」
「ひええええ!知らないよそんなのぉ!助けてぇぇ、ドラえもんーっ!!」
のび太(幽霊)は泣きながら逃げ出し、自宅にすっ飛んで帰った。
翌朝。
「うぅ……昨日は怖かったぁ……」
「のび太くん、幽霊になってるのに人間より怖がってどうするの」
泣きついてきたのび太に呆れながらも、ドラえもんは仕方なく付き添うことに。二人は再びジャイアンの家を訪れる。
障子をすり抜けて入った部屋では、合理くんがまだジャイアンの隣で寝ていた。タブレットを抱きしめたまま、眉間にシワを寄せてうなされている。
「……ポルターガイスト……無限エネルギー源……ぐふふ……」
「ぜ、絶対夢の中でも研究してるよ……」
のび太はドラえもんに小声で合図をした。
「今度こそ驚かせるんだ!ほら、ポルターガイストってやつをやろうよ!」
二人で幽霊パワーを集中させる。机の上のコップがふわりと宙に浮かび、漫画のページがパタパタと勝手にめくれはじめた。
「へっへっへ……これでビックリだ!」
ところが──。
「……ふむ!」
ガバッと合理くんが目を開けた。飛び起きるや否や、ノートを取り出して現象を記録し始めた。
「ポルターガイスト現象だ!素晴らしい!このエネルギーの発生源は幽霊の感情エネルギーか!?もし解析できれば、人類は無限の動力を手にする!これはノーベル賞どころか、人類史の転換点だ!」
「な、なんで怖がらないんだよぉぉ!」
「幽霊?むしろウェルカムだ!おい野比くん、もっと物を動かせ!その机を、椅子を、ああ、その掛け軸でもいい!全部だ!」
合理くんは目をギラギラさせて手を伸ばし、のび太の幽霊パワーを煽るように指示を飛ばす。まるで幽霊を助手扱いだ。
その隣で、ジャイアンが寝ぼけ眼で頭をかいた。
「……んだよ、うるせぇなぁ……あれ?合理、お前まだ起きてたのか?」
「剛田くん!君の歌唱データは着実に改善しているぞ!昨日のハミング、音程のズレはわずか0.7%だった!すばらしい進歩だ!」
「へ……?ほ、ほんとか?」
ジャイアンの顔に、にやりと満足げな笑みが広がる。そのまま気をよくして布団に潜り込み、再び大いびきをかき始めた。
「すやすや……俺の歌、世界一……ぐー……」
「な、なんで褒め言葉一つで寝ちゃうんだよ!」
のび太は頭を抱えた。ドラえもんも呆れ顔でつぶやく。
「合理くんの科学的探求心と、ジャイアンの単純な自尊心……この組み合わせ、ある意味最強かもしれないね」
◇◇
翌日、ちゃぶ台の上に置かれた缶──その名も「うらめしドロップ」をめぐり、合理くんのプレゼンテーションが始まっていた。
「野比くん、ドラえもんくん。このドロップは、単なるひみつ道具ではない。人類の価値観そのものをひっくり返す革命的発明だ!」
合理くんは黒板を取り出し、マーカーで「幽霊化の三大メリット」と書き殴った。
「一つ、死後世界の探求!死んでからじゃ遅い。今すぐ行って帰ってくれば、宗教と科学を一挙に制覇できる!
二つ、移動革命!飛行機不要、燃料ゼロ!幽霊になれば、世界一周すら徒歩感覚!
三つ、セキュリティ突破!壁をすり抜けるこの能力は、軍事・諜報・物流・建設──あらゆる産業に革命をもたらす!」
ドラえもんは「お前ほんと怖いこと考えるなぁ」と冷や汗を流し、のび太は「……それで宿題すり抜けて終わるの?」と本質的にズレた質問をしていた。
鈴木さんは合理くんの隣で目を輝かせていた。
「すごいわ合理くん!これさえあれば、わたし、憧れのヨーロッパの図書館にも、一瞬で行ける!」
合理くんは満足げに頷き、優しく彼女の頭を撫でた。
「そうだ鈴木さん。君は優秀だ。しかし、それだけではない。実用面はもっと広がる。……物流、諜報、侵入、いや、国家の枠組みを超える可能性すらある!」
「い、侵入って今言わなかった!?」とドラえもんが突っ込んだが、合理くんは意に介さず、ちゃぶ台をバンと叩いた。
「譲ってもらおう。この『うらめしドロップ』を!」
ドラえもんは渋い顔をしたが、「のび太を追いかけてくれたし……まあ、いいか」と妙な納得をしてしまい、結局うらめしドロップは合理くんの手に渡った。
その夜。
高級マンションの一室、ベッドに並んで寝る合理くんと鈴木さん。二人は同時にドロップを口に含み、布団をかぶった。
「いざ、幽界へ!」
気づけば身体は透け、ふわりと浮かび上がる。合理くんは幽霊化した自分の腕をまじまじと見つめ、恍惚の表情を浮かべた。
「素晴らしい……質量からの解放……摩擦ゼロの移動性……!これぞ人類の未来!」
「すごい……!わたし、浮いてる!空気みたいに軽い!」
二人は窓をすり抜け、夜空へ飛び出した。街の明かりが星のように広がる。合理くんはさらに高く、高く昇っていく。
「さあ鈴木さん!僕は天国に行き、歴史上の偉人たちに会うのだ!この世の叡智を収集し、投資効率を最大化する!」
「ちょ、ちょっと待って合理くん!天国に行ったら……帰ってこれないんじゃ……!」
しかし合理くんは耳を貸さず、どんどん昇っていく。やがて空気が薄れ、地球の輪郭が見えはじめた。
「むぅ……なるほど……幽霊になっても引力から解放されないのか。重力、貴様どこまで人類に絡みつく気だ!撤退!」
慌てて高度を下げ、再び街へと戻る合理くん。
「……まあいい。実用面はすでに証明された。空を飛べること、壁をすり抜けられること……これだけで充分、産業に革命が起きる!」
「ねえ合理くん」鈴木さんが不意に囁いた。
「これって……なんでも欲しいものを盗んでこれるってことじゃない?だって幽霊を逮捕する警察官なんていないもの」
ピタリと合理くんの動きが止まった。夜風に揺れる街灯の光の下で、彼の瞳がギラリと光る。
「……なんだと……?」
「え?あ、ごめんなさい!今のは冗談!冗談だから!」
しかし合理くんは彼女の手をガシッと握り、雷に打たれたかのように叫んだ。
「す、鈴木さんッ!君は……天才だッ!!」
「へっ!?」
「幽霊による窃取──これは人類史上、最も安全で、最も効率的な富の再分配メソッドだ!税金も関税も不要!証拠も残らない!これぞ究極の投資回収術!革命だッ!」
「ちょ、ちょっと待って合理くん、それは泥棒って言うのよ!」
「違う!富の再分配だ!しかも超合理的!これは世界経済の歪みを正す崇高な行為なのだ!」
完全に目を血走らせた合理くんは、鈴木さんを連れて街の上空を滑空した。
「さあ行くぞ鈴木さん!コンビニの新商品から国宝級の秘宝まで、幽霊の我々に盗めぬものはない!今夜から世界を変革するのだぁぁ!」
「えぇぇぇぇぇ!?私そんなつもりじゃ……!!」
夜の街に、二人の幽霊の笑い声(と悲鳴)がこだました。
◇◇
夜の街を「幽霊コンビ」と化して滑空していた合理くんと鈴木さん。
「革命だ!」「いやこれ窃盗だからぁ!」と叫びながら、煌めくネオンの上を舞う姿は、傍から見ればただの怪しい光のシミであった。
しかしその次の瞬間、運命の断罪が訪れる。
バシュウウウゥゥゥーーーンッ!
野比家の天井から突如伸びてきた巨大なノズルが、夜空を切り裂いた。
吸引力はダイソンの比ではない。幽霊の二人を一瞬で巻き込み、ぐるぐるとサイクロンの中に閉じ込めてしまった。
「ぐわああああああっ!」
「きゃあああああああっ!」
グルグル回される幽霊の二人。髪の毛もスカートもぐるんぐるん。
ノズルの根元で掃除機を抱えるのは、言わずと知れた青い猫型ロボット。
「ダーメーッ!人の物を盗むなんて、絶対にいけないんだからね!」
彼は仁王立ちで鼻息も荒く叫んだ。
「これは『もしもボックス』で作った特製の幽霊掃除機!悪い幽霊にはきちんとお仕置きが必要なんだ!」
サイクロンの中でぐるぐる回る合理くんは、目を回しながらもなお論理を展開する。
「くっ……!まさか幽霊の天敵が存在したとは!このリスクは完全に計算外……!
リスクマネジメントにおいて最大の盲点は『未知の未知』……!僕としたことが……!」
「うぅぅ……三半規管が……もうむりぃぃ……!」
鈴木さんは回転寿司のエビのように目を回し、ぐったりと漂っていた。
やがて夜が明けると同時に「うらめしドロップ」の効果が切れ、二人は野比家の畳の上で同時に目を覚ました。
合理くんは体を起こすと、頭を押さえながら呻いた。
「ぐっ……昨夜の出来事は……幻覚か?いや、違う……あの掃除機……あの吸引力……まさか……」
振り返ると、ドラえもんが腕を組んで仁王立ちしていた。
「当然だよ。僕の『ひみつ道具』に敵うと思ったら大間違いだ!」
「ひ、ひみつ道具……!?」
合理くんの目がカッと見開かれる。
「そうか、あれは四次元ポケットからの……!くっ、最高のビジネスプランが……!ノーベル経済学賞どころか世界経済を支配するはずの夢が……!」
彼は畳に崩れ落ち、涙を一筋流した。
しかし隣で、鈴木さんがパッと顔を輝かせる。
「合理くん!でも私、夢の中で憧れのティアラを手に入れたの!キラキラ光って、ほんとに本物みたいで……!」
「バカを言うな。夢の中の物なんて現実に──」
合理くんはそう言いかけて、自分のポケットを探った。
「な……なんだと……!?」
そこには、昨夜確かに幽霊として掴み取ったはずの──高級車の鍵が、金属の冷たさを持って存在していたのだ。
合理くんは震える手でそれを掲げた。
「……実体化している……!質量保存則を無視して……!これは……!」
鈴木さんも、昨夜のティアラを胸の前に掲げていた。
「ほ、ほんとだ……!消えてない……!」
二人は同時に目を見合わせ、その瞳に妖しい輝きを宿した。
合理くんの内心:
(……これはまだ終わりではない。むしろ始まりだ。幽霊化による物品の現実化……!
これは錬金術を超えた資本の錬成……!経済学の新境地……!いや、国家の枠組みすら崩壊させる究極の……!)
鈴木さんの内心:
(……ティアラが現実に残った……!なら、次は……ドレスも……お城も……!うふふ……!)
二人は笑った。ニヤリと、危険なほど妖しい笑みを。
その笑みを見て、ドラえもんは深いため息をついた。
「……はぁ。もう……ほんとに、この二人は……」
その日から、野比家には奇妙な緊張感が漂うようになった。
合理くんと鈴木さんの目が、常にキラリと輝いているからだ。
のび太は震えながら、ちゃぶ台の陰から呟いた。
「……あの二人、ぜったいまたなんか企んでるよ……!」
ドラえもんは頭を抱えつつ、いつでも掃除機を取り出せるようにポケットを押さえた。
こうして、「幽霊ビジネス革命」は、ドラえもんの一喝によって強制終了……したかに見えた。
しかし合理くんの心に再び炎が灯ったことは、まだ誰も知らなかった。
夕日の差す居間で、彼はそっと高級車の鍵を握りしめ、呟いた。
「……これは、まだ序章に過ぎない」
そして──ドラえもんはさらに深くため息をつくのだった。
映画版に突入
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