今回は少し短めです。
ぴちゃ、と水滴が水面を叩く音がプライベートルトロに響いた。
湯を湛えたピュエロスには、大量の黄金の血が滲んでいく。その大本で、一人の青い装束を身に着けた少女の身体が仰向けに浮かんでいた。
「……致命傷だな。見事な手際だ、剣旗卿……」
少女――ケリュドラは口の端からも血を滴らせながら、か細い声で呟く。傍に彼女の声を聞く者はおらず、その賞賛は虚しく響くばかりだった。
しかしケリュドラは寧ろ、淡く微笑んですらいた。
「……歓声が、聞こえる。……僕が愛する、人々の歓声が」
扉の向こう、或いは壁や窓の向こうから、老若男女、様々な人たちの声がケリュドラの耳に届いていた。
――カイザーが討たれた!? それは本当なのですか!?
――騎士長セイレンス様が? そんなはずないだろう! あの方はこのオクヘイマでカイザーに最も忠誠を誓っていたじゃないか!
――やった! やったぞ! これで火追いの旅などという凶事もようやく終わる!!
――あのチビめ、私の夫を無茶苦茶な理由で殺して! せいせいしたわ!
――カイザー万歳! 女皇陛下万歳!
――泣くな! 顔を上げろ! 我々がカイザーのご遺志を引き継ぐのだ!
悲痛、悪意、驚嘆、歓喜、決意、哀悼。数多の感情に満ちたざわめきを聞いて、自らの命が風前の灯火となって尚、ケリュドラはそれを好ましく思っていた。
「……暗黒の潮と戦い続けるだけの下地は、整えた。内憂外患は間に合わなかったが……、金織卿ならば問題、ない。剣旗卿も、いるから、な。運命卿も、神託を届けて、くれるだろう……」
自分が出来ることは、全てやり切った。カイザーの征途はここで終わりだと、ケリュドラは微笑む。
何故、ケリュドラの命は尽きようとしているのか。
それは、「法」の試練を乗り越え正式に半神となるべく、凶行及んだからだ。聞く者が聞けば、唾棄すべきことだとの非難を免れないような蛮行だ。
ケリュドラがしたことを知ったセイレンスは怒り、仕えるべき君主を問い詰めた末――その真意を知ることとなり、他でもないケリュドラ自身の命によって、深紅の刃を振るった。
セイレンスが自らの命を忠実に実行してくれたことを、ケリュドラは誇らしく思う。
「……は。最後の最後で、僕の命を聞かなかったあいつとは真逆で、素晴らしい……臣下だ……」
脳裏に浮かぶのは、もう何年も前に死に別れたもう一人の忠臣だった男の顔。目は碧く、髪は黒と赤のメッシュを短く切った、清廉で陽だまりのような笑顔が似合う男だった。
「ふふ。お前のことは、一度足りとて、忘れたことは無かった……。蛍火卿……リュスクス……」
胸元には今も、水晶の硬い感触がある。ケリュドラは彼が死んだ後も、その水晶が付いたペンダントを肌身離さずかけ続けていた。
水晶がほんの少し暖かくなったような気がしたが、大量の血を流したケリュドラには動く余力は残されておらず、確かめる術もない。血を流しすぎたことによる錯覚の線もあるかもしれないと思いながら、ケリュドラは瞼を閉じた。
「……ああ。剣旗卿との談議も、蛍火卿との休息も……。昨日のことのように、思い出せる……」
今にして思えば、暴君として恐れられ、実際にそのように振舞った身としてはあり得ないほどに、幸福な日々だった。
『蛍火卿。またしてもお前に縁談の話が舞い込んだぞ。今度は、元老院の男から娘を是非嫁に、とな。安心しろ、この男の家は火追いに賛成している。権力への野心はあるようだが、それでも我々の邪魔をすることまではしないだろう』
『お話は嬉しいのですが、カイザー。この身は既に、カイザーへ忠誠を誓った身。所帯を持っては、心配事も増えてしまう。俺は、なるべく身軽でいたいんです』
『つまらん、無欲な男だな』
『そうでもありませんよ。食欲とかその他もろもろ、ありますし』
『益々分からんことを言うな、お前は』
かつて、そんなやり取りをしたことがあった。
あの時のリュスクスはカイザーへの忠誠という決意を滲ませつつ、ケリュドラを見つめる目は、柔らかかった。彼にとってはきっと、あの時間すら幸福だったのだろう。
『カイザーは、四季を見たことがありますか?』
『お前の言葉から察するに、農作物の収穫ではなく、自然の景色が移ろう様を指しているのか?』
『ええ』
『見たことは無いな。そういうお前は、見たことがあるのか?』
『ありますよ。春はとある木が可愛らしい花を付け、夏は気温が上がって蒸し暑い中で草木と虫たちが躍動し、秋は葉が枯れ多くの生き物が寒さを凌ぐ準備をし、冬は多量の雪と寒さと付き合いながら次の春を待つ。――俺の生まれ故郷は、そうやって季節が巡っていました』
『そのような都市国家、僕の知識には無いが……。蛍火卿はどこで生まれたのだ?』
『それは――秘密です』
珍しく悪戯っぽい雰囲気を纏いながら、自らの唇に人差し指を当てて、リュスクスが笑っていたこともあった。
『うう……痛いよ……』
『ありゃ、痛そうなたんこぶだね、お嬢ちゃん。ほら、氷嚢だ。さっきお医者さんからもらってきたんだ。使って』
『ありがと、リュスクス兄ちゃん……』
『冷やしている間、気が紛れることでもしようか。そうだ、歌でも歌おうか。ら、らー……』
『……兄ちゃん、下手』
『あれっ? おっかしいな。セイレンス直伝なんだけど』
『ホントに?』
『ホントだって。……ら、ら~~』
『ふ、ふ、あはははっ!』
『――酷い歌声が聞こえると思って来てみれば……。何をやってるんだ、キミは』
聞くに堪えない歌声で歌うリュスクスと、痛みも忘れて楽しそうに笑う幼女、様子を見に来て呆れたように溜め息を吐くセイレンス。ケリュドラはそれを遠目から見守り、あの場所に流れる暖かな時間に目を細めていたこともあった。
「……ああ」
死の間際だからだろうか。次から次へと、思い出が浮かんでは消えていく。
まるで、夢のような時間だった。
「かつての輪廻でも、僕は、同じように征途を歩み、死んだ、のだろうな。あいつが、いなくても、僕は、歩めた」
この目で証拠を見たわけではない。だが、カイザーである自分なら、間違いなくそうしただろうという絶対の自信がケリュドラにはあった。
「今回の輪廻も、僕は、成すべきことを、成し遂げた。今までと違うのは、ただ一時、蛍火卿と……リュスクスと、出会ったこと……」
口の端から、黄金の血が零れる。意識もどんどん、薄らいできた。それでもケリュドラは、誰もいないルトロで、最期の言葉を紡ごうとする。先に旅立ってしまったあの青年に、それを届けるために。
「……もっと、良い女がいただろうに、何故僕だったのか、やはり、理解に、苦しむ。でも、お前がくれた、愛情は、嬉しかった。死んだ、後も、お前が遺した物が、僕を、支えてくれた……」
次の言葉を紡ごうと、ケリュドラは息を吸う。
「それでも、時折、お前に会いたいと、思うことも、あった……。お前が死んで、初めて、僕はその価値に気付いて、生涯唯一の後悔を抱えて、生きた。だから、いつか、西風の向こうか、輪廻の果てで会えたら、僕はお前に――――」
ぴちゃりと、水滴がピュエロスに落ちる。その後にはただ、静けさが残るのみだった。
そしてケリュドラの胸元に常にあった水晶の中の小さな蛍火も、その輝きを失ったのだった。
***
「セイレンス、入りますよ」
「……ああ」
セイレンスに宛がわれたプライベートルトロへ、アグライアは一声かけた後、部屋の主の了承を得て立ち入った。
視線の先にはピュエロスに浸かり、どこか疲れた顔のセイレンスの姿があった。
「遺言に従い、カイザーは行方不明扱いに。貴女の手による物だという噂も、あくまで噂に留まるように手配しました」
「……遺体は?」
「直ちに火葬をし、遺灰は既にリュスクスの故郷へと送り出しました」
「……そうか。今回ばかりは、キミに謝らせてほしい」
前髪に隠れて、セイレンスの表情は分かり辛い。ただ金糸を通さずとも、彼女が相当に参っていることはアグライアにも読み取れた。
「それは、何に対してですか?」
「カイザーを殺したこと。そのせいで、キミが突然オクヘイマの指導者を引き継ぐことになってしまったこと。それから……」
「それ以上は謝らないでください。彼女のことです。こうなるように誘導して、貴女の手で彼女を殺させるように仕向けたのでしょう」
ケリュドラから、自身が世を去った後の後継者として指名されていたアグライアは、彼女から指導者になるに当たって色々と教わった。その中には、カイザーが何を意図して征服や粛清を行ってきたのか、といったことも間接的ではあるが含まれていた。
その経験から、アグライアはケリュドラが何を意図していたのかには気付いていた。
「暴君であり、人々にとって最早恐怖の対象でしかない彼女は、これからのオクヘイマにとっては寧ろ障壁となる。暗黒の潮の脅威の前には、金のマスの人々を繋ぐ力が必要なのだと、考えたのだろう」
「ええ。ですからとうに覚悟は出来ていますし、貴女が手を下したことも罪には問えません。他ならない、カイザーの命ですから」
「そうだな……。こうするしか、道は残されていなかった……。結局ワタシは、ぎりぎりになるまでカイザーの意図に気付けなかった。忠臣の名折れだ。黒の鯉なら、きっと早い段階で察していただろうにな」
「リュスクスなら、あり得ない話ではありませんね。彼は、
アグライアは共に同じ君主を仰いだ身として、そして一人の友として、セイレンスが自責の念に囚われるのを見ていられなかった。
勿論、アグライアとてケリュドラの死はそれなりにショックを受けている。しかし、こうしてセイレンスを気遣う余裕があるのは、彼女がどれほどケリュドラに救われていたか知っていたからなのかもしれない。
「ふふ。『浪漫』の半神となっても、キミの優しさは健在だな」
「火種を継いだからといって、今すぐに人間性の全てを喪失するわけではありませんから」
少し前に、アグライアはケリュドラの後押しもあって「浪漫」の火種を受け継ぎ、試練を以って半神となっていた。その代償として「人間性の喪失」を受け入れることとなったが、今はまだ、その度合いも僅かばかりで済んでいる。これから徐々に、人間性がすり減っていくのだろうとアグライアは踏んでいた。
「……なら、その優しさに甘えて、もう少し話に付き合ってくれるか?」
「構いません。
アグライアが告げると、セイレンスはようやく顔を上げる。蒼海のように綺麗な眼の端が僅かに赤く腫れていたが、アグライアは見なかったことにした。
「――金のマス。カイザーは西風の向こうで、黒の鯉に再会出来ただろうか」
「……そうですね。彼の魂がステュクスに至れていたのなら、恐らくは」
「生者である我々には知る由もないことなのかもしれないが、それでも、そうあって欲しいとワタシは思う。カイザーは時折余人の目の届かないところで、彼の遺した水晶のペンダントを手のひらに乗せて眺めていることがあった。きっと、黒の鯉のことを思っていたのだろうな。そんな彼女を見ていると、ワタシは羨ましい、と思ってしまった」
「羨ましい、ですか。貴女の口から、そういった言葉が聞けるとは思いませんでした」
アグライアの知るセイレンスは淑やかで、確固たる自分というものを持っている。およそ、誰かに羨望の感情を抱くようには見えていなかった。
「付き合いはワタシの方が長いのに、あれほど思われていたんだ。正直、黒の鯉にカイザーを取られてしまったような気持ちにさせられたこともあった。……だが、黒の鯉は生前、ワタシとも親交を深めようとしてくれていた。歌を共に歌ったり、剣と槍で手合わせをしたりする中で、気付けば自然と友と呼べる間柄になっていた。そのことを思い出したら、嫉妬なんてものは小魚のようにどこかへ泳ぎ去っていた」
セイレンスは静かに語りながら天井を見上げ、薄く微笑む。
「まったく、あの男は最期の最期にカイザーへ途轍もない置き土産を置いてくれたものだ。どんな外敵との戦いでも、どんな害虫との戦いでも揺るがなかったあの君主を、その死一つでいとも容易くその心にさざ波を立たせてしまった。愛というものは凄まじいな、金のマス」
「――ええ、本当に」
アグライアも、セイレンスの言葉に同意する。
およそ困難だと言えることを実現してしまうほど、ケリュドラとリュスクスの間には確かな結びつきがあった。そこに至るまで、二人がどんな風に想いを紡いできたのかは、今となっては知る術も無い。
けれど、その物語は間違いなく、「浪漫」と呼ぶに相応しい物だった。
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実験進捗:エラーログ
侵入変数
○ Void000X
詳細不明。ID:NeiKos496「■■■■■」による、とある永劫回帰において存在が間接的に観測された。
セプターによる直接観測が不可能。現時点で原因は不明。管理者による直接観測も失敗。
オンパロス内に存在する黄金裔及び市民からは認識が可能な模様。
個体名称: エラー。名称記録を試みたものの、情報の空白を確認。再度試みるも、失敗。ログ解析失敗。エラー多数のため解析を中断。
仮ID:Void000X を割り当て。
ID:HubRis504「ケリュドラ」に対し、顕著な変化を与える。同個体はVoid000Xに対し、恋愛感情を持ったことが確認された。 補足:「ケリュドラ」が恋愛感情を持った時点でVoid000Xは沈黙していた模様。暗黒の潮との戦いによるものと推測されるが、死因は不明。
後年、「ケリュドラ」はID:ApoRia432「ヘレクトラ」によって沈黙。
NeiKos496「■■■■■」による永劫回帰は継続中。現時点で2900万回を突破しているが、Void000Xは上記の1回以降、存在が確認されていない。
出自は不明。オンパロス外より侵入した形跡は確認されていないが、要注意対象として侵入変数の項目に記録。