狛荷屋ヤマトの宅配便   作:さば殿

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第10話 狛荷屋ヤマトと狛荷屋綺良々の帰り道

 ■  ■

 

 

 

 夕刻の花見坂は、昼の熱をひとつ吐き出して、代わりに海の塩をうっすら吸い込んでいた。緑青の屋根は星明かりを待つように暗みを増し、桜の片が数枚だけ瓦に残り、灯りの下で薄い鱗のように光る。石畳は白く乾いて足音を柔らかく返し、遠くの木橋が一度だけきしみ、川の水面が細い銀糸を寄せてはほどく。

 

 店々の暖簾は簪の微音で触れ合い、提灯の紙は、夜のはじまりを舌で確かめるように小さく鳴った。屋台の油はもう火を落として、鉄板の残り香だけが路地の角に丸く留まっている。家並みの向こうを、天領の見回りの下駄がとんとんと遠くへ渡っていった。

 

 仕事あがりの綺良々が坂の中ほどに立つ。袖口には今日一日の風の匂いが少し残り、耳は静かな角度で、尻尾は落ち着きなく先だけ揺れる。鼻先で潮を嗅ぐたび、胸の奥の糸がゆるんで結び直されるように、気持ちが夜の形に整っていく。

 

 やがて、ヤマトの影が石段の上から降りてきた。荷札のない手は軽く、顔は「一段落」と書いたように緩い。歩幅はいつもの半歩短め、坂に合わせた余裕の歩き方だ。

 

 

「ヤマト先輩、今夜はわたしに奢らせてください」

 

 

 綺良々は間合いを測るように一拍だけ背伸びし、胸の奥に用意してきた言葉を出した。ヤマトは足を止めて、眉を少しだけ上げる。唇から出る息が白くない夜でよかった、と綺良々は思う。白い息が出る夜だと、言葉が揺れて見えるから。

 

 

「ほう、先輩の面子を潰す気か」

「潰さないよ、ちゃんと立てるやつ。ね?」

 

 

 綺良々の笑みは明るい。ヤマトはわざとらしく肩をすくめ、けれど口元はどうしても緩む。

 

 

「……甘えるぜい。腹も鳴ったしな」

 

 

 

 ■  ■

 

 

 

 二人は並んで坂を下り、花見坂の角、木橋に近いあたりにある木南料亭へ向かった。紫の暖簾に家紋、白い提灯がふたつ、炭の赤が暖簾の隙から覗く。樽が三つ並ぶ影に、縞の猫がちょこんと座り、尾をゆっくりと巻き解く。暖簾の端を指で押すと、乾いた布の手ざわりが夜の温度を含んで返ってきた。軒先の風鈴が短く鳴り、路地の奥からは三味線の稽古がへたくそな一音だけ遅れて追いかけてきた。

 

 

「こんばんは、木南さん。席、空いてますか?」

「いらっしゃい。空いてるよ、どうぞ」

 

 

 店主の声は、あたたかい出汁の湯気みたいに丸い。軒の下の木の客席には丸椅子が四つ。白木は磨かれていて、照り返しが水面のようにやわらかい。短冊札が五枚、風に揺れてぱらりと鳴った。奥には小さな竈があり、鉄の格子の上で炭が静かに呼吸している。障子の桟を伝う灯りが、白木の目に沿って静かな段を作っていた。

 

 

「燗をひとつ、お冷やをひとつ。料理はおまかせでお願いします」

「任せとくれ。焼きは銀皮、蒸しは出汁強めでいくよ」

 

 

 徳利が片口の盃とともに置かれ、湯気の薄い輪が生まれてすぐ消える。炭の火がぽっと膨らみ、煙が柚子の皮を撫でたような匂いを運ぶ。夜風が暖簾を持ち上げ、花見坂の音が少しだけ入り、また引き返す。隣の席では客が箸を指でもてあそび、漆がこすれる音が蟬の抜け殻みたいに軽く残った。

 

 綺良々は丸椅子の高さが背骨に合うのを確かめ、盃の縁に映る灯の揺れを指先でなぞった。

 

 

「ふう……仕事あがりの風、うまいよい」

「潮の匂い、今夜はちょっと濃いね」

「昼の熱が抜けて、坂の機嫌がいい。座りが良い椅子は助かるよい」

「ヤマト先輩、すぐ『座り』って言うんだもん。へへっ」

 

 

 最初の小鉢が来る。細く切られた昆布の上に、刺身が二切れ。海苔醤油の香りがこぢんまりと立ち上がり、舌の先に小さな波を作る。茶碗蒸しはふるふると震え、湯気に椎茸の影が薄く浮かぶ。蒸し物の蓋をあける店主の仕草は、水引をほどくときみたいに無駄がなく、湯気は襟元へ静かに滑りこんだ。椀の底で蒲鉾がやわらかく呼吸し、銀杏がつるりと喉を転がっていく。

 

 

「いただきます」

「海苔の香りが強いな。舌が目を覚ますぜい」

「出汁がやさしい……ほっとするね」

 

 

 焼き魚が、柚子の皮とともに運ばれてきた。皮の銀色は熾きの色をひとつ借りて、皿の上で細い光を結ぶ。箸を入れると、骨はその形のままに静かに分かれ、香ばしさが鼻の奥まで軽く跳ねる。焼き目のところに塩が小さく結晶し、それが舌の上で一瞬だけ鋭く鳴って、すぐに溶けた。皮のぱり、と身のしっとり、二拍子の小さな踊りが口の中で整う。

 

 

「焼き上がり。柚子皮はお好みで」

「香りが跳ねた。ヤマト先輩、どうぞ」

「お、すまん。……うん、骨の抜きがきれいだよい」

「骨の抜き、ってそういうところで分かるんだ?」

「手の丁寧さは、舌にも伝わるのさ」

 

 

 衣が乾いた音を連れて、天ぷらが揚がる。菜の花、白魚、薄切りのさつま。竹の箸で持ち上げると、衣は薄い紙みたいに光を返し、潮塩を一つまみ落とすと、表面で白い花がひらく。綺良々は熱さに舌を少しだけ巻きながら、頬の内側で甘みのゆくえを追いかけた。湯呑の陶肌は指にぬくく、縁に当たる唇から、呼吸の温度がゆっくりと戻ってくる。

 

 

 

 ■  ■

 

 

 

「盃、もう少しどう?」

「もらうぜい。……おまえ、今日もよく動いたな」

「う、うん。ほどほどに、かな」

「ほどほどじゃない。段取りが早い。声が軽い。気づきが先に歩く」

 

 

 ヤマトの言葉は、酔いがほどいた堅結びの紐みたいに、するすると出てくる。

 

 綺良々の耳は素直に熱を帯び、湯のみを持ち直す手の指先が、居場所を探すみたいに少しだけ遊んだ。

 

 昼のことを思い出す。花見坂の曲がり角で呼びかけた「先にどうぞ」の一言、川の上手で老婆の荷車を押した一拍。そんな小さな断片が、酒の灯りに照らされて、今、ふいに色を持った。

 

 

「急にそんな……さては酔ってるんですか?」

「それに、居ると場が明るい。尾がよく働く」

「尻尾は関係ないよっ!」

「いや、大事だ。おまえが振ると空気が柔らかくなる。助かるよい」

 

 

 店主が笑みを眼尻に置いたまま、鮪の握り寿司を小皿で出してくれる。赤身は灯りを吸ってしっとりと艶を帯び、米の粒はひとつずつ形を保っている。添えられた生姜が薄桃色で、灯りを透かして淡い花びらのよう。醤油皿に落ちる一滴が、黒曜石みたいに丸く広がった。

 

 

「……そんなに真っ直ぐ言われると、照れちゃいます」

「照れてろ。良い仕事だ。俺は安心して寝られる」

「寝ないでください、今は」

 

 

 湯気の向こうで炭がぱちと鳴った。その音に合わせるように、遠くの木橋がもう一度だけきしむ。盃の酒は底に一枚ぶんほど残って、灯りを受けて丸く光っている。

 

 綺良々は盃の縁を指でなぞり、冷やの薄い切っ先が舌に触れる感覚を楽しんだ。香は米と水の影、喉を通ると、胸の真ん中にだけ小さく灯がともる。奥の座敷では笑い声がひとつ、すぐに布団のように沈んでいった。

 

 

「握りだよ。口直しに」

「ありがとうございます。ヤマト先輩、どうぞ」

「うむ……うまい。おまえが奢ると、どれも二割増しでうまい」

「それは盃が進んだから、だよ」

「そうかもしれんが、そうでないかもしれん」

 

 

 綺良々は胸の前で一度だけ深呼吸をした。酔いで少しだけほどけた心の紐を、そのまま言葉に結び直すみたいに。

 

 

「ヤマト先輩」

「ん」

「わたし、いつも助けられてるんだ。学んだ所作も多いし、背中が大きいって、こういうことなんだなって。だから──」

 

 

「──ほんとに、ありがとう」

 

 

 言い切った瞬間、ヤマトの瞼がすう、と落ちた。肘を枕に、呼吸は浅く長く、口元は満足げに弧を描く。盃は安全な向きに置かれ、徳利の影は少しだけ伸び、短冊札は風に震えただけで、音は落ちた。寝息は規則正しく、炭の呼吸と重なって、店の空気にゆっくり溶けていく。猫が樽の上に移って丸くなり、尻尾の先で自分の夢を撫でている。

 

 

「……すぅ……」

「え、ちょ、今?」

「よく食べ、よく飲み、よく……すぅ……」

「寝た……もぅ」

 

 

 綺良々は唇を尖らせてから、肩をすくめて笑う。店主がそっと近寄り、薄手の膝掛けを差し出した。布は軽く、指の腹にさらりとまとわりつく。

 

 

「膝掛け、使いな」

「ありがとうございます。……先輩、肩に掛けるね」

 

 

 綺良々がそっと肩に掛けると、ヤマトの眉間の小さな皺がほどけた。

 

 

「……ふにゃ……」

「ふにゃ、じゃないってば」

 

 

 

 ■  ■

 

 

 

 会計はさらりと済む。店主と言葉を二つ三つ交わし、今夜の献立名を短冊の端紙に書きつけてもらう。紙は小さく折り、懐に収めると、そこだけぬくもりを覚えた。猫が樽の上で前脚を伸ばし、夜の風に目を細める。通りの端では、屋台の灯が一つ、油の残りで小さく揺れ、店仕舞いの戸がきしみを残して閉まった。遠くの港に向けて、舟の舳先が水を割る音がいちどだけ届く。

 

 

「ごちそうさまでした。すごく美味しかったです」

「またおいで。二人ともいい顔だよ」

 

 

 綺良々が軽く肩を叩くと、ヤマトはゆっくりとまぶたを上げた。眠りの底から引き上げられた声は、まだ水気を含んでいる。

 

 

「……届けば十分、寝れば上等……」

「はいはい。今日は届いたから、上等だよ」

「ん。……甘えるぜい」

「最初から甘えてたよ」

 

 

 席を立つと、店先の鈴が乾いて転がった。

 

 花見坂を夜風が抜け、桜の片が二、三、空気に紛れて揺れる。石畳の白は月の光を拾い、川の水面が暗い藍の上に細い光を寄せたりほどいたりする。提灯の紙は軽く鳴り、短冊札はもう鳴らない。

 

 二人は歩幅を合わせてゆっくりと歩き出す。夜の坂は上りでも下りでもない、ちょうどよい傾きで、話さなくても言葉があるみたいに静かだった。

 

 綺良々は懐の紙を指で押さえながら、さっき言い切った「ありがとう」の手触りをもう一度確かめる。言葉が届いたかどうか分からない。けれど、届いたことにしてしまうのも悪くない。

 

 夜は長いし、明日も坂はある。海の塩の匂いがふっと強くなり、遠くで木橋がかすかに鳴った。猫が一声だけ短く鳴き、樽の上の尾がゆっくりと揺れた。角を曲がると、簪通りの行灯が等間隔で灯り、紙の白が夜の青をやさしく割って道をつくる。人の声はもう薄く、足音だけが石の粒を探すように散っていく。

 

 鈴、風、水音――三つの音が、それぞれに別の場所で、同じ夜の中で、聞こえては消えていく。

 

 ヤマトは隣で大きく欠伸を噛み殺し、綺良々は笑って横目でそれを見る。灯りに照らされた横顔は、働きづめの線を持ちながら、今はただ穏やかだった。二人の影は石畳の上で並び、少し離れて、また重なった。坂の下で夜回りの拍子木が遠く二度だけ鳴り、海の黒さが息を潜める。家並みのどこかで障子が静かに閉まり、匂いの薄い煙が空へほどけていった。

 

 綺良々はふと思いついて、歩きながら小声で言った。「今度は、お昼にも来ようね。お弁当を買って、木橋の手すりに寄りかかって、海を見ながら食べるの」ヤマトは「いいよい」と短く答え、続けて「そのときは俺が払う」と、眠気の残る声で付け足した。「競争だね」と綺良々が笑うと、ふたりの足取りは自然と同じ速さになった。

 

 坂の上から、誰かの笑い声が風にちぎれて降りてくる。潮は満ち、匂いは濃く、夜はよく働いた人の肩を撫でる手つきで広がっていく。

 

 細い路地に入ると、家並みの隙間から星が三つだけ見えた。どれも小さく、けれど鋭い。綺良々はそのひとつに指を重ね、声にしないまま「届いたよ」と言ってみた。返事の代わりに、遠い舟の板が一度だけ鳴った。




「高評価、よろしくお願いしますっ!」

20話以降の狛荷屋ヤマトの方針について(活動報告に詳細アリ)

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  • 別の作品として中長編ストーリーを見たい
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