序章 『不屈』カチーナと名付け道中
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水の肌に陽が張りつき、浅瀬が薄い硝子のごとく呼吸している。スメールの砂の舌は幾度も水際を舐めては引き、遠い赤の台地は陽炎の縁をまとって膨らむ。背後では砂の唸りがほどけ、代わって岩の肺が低く鳴った。乾いた風は甘やかで、焦げた樹脂の匂いが喉の奥に薄く残る。空は高く、青は水へと解けていく。旅の道行、荷札の角が日を返し、晒の手甲ににじんだ汗が白く乾いた。
岩馬の蹄は砂のなかの石目を正確に探り当て、浅瀬を嫌うように歩幅を整える。軋みは小さく、荷台の鉄が鈴のように一度だけ薄く鳴る。ヤマトは綱を軽く引き、荷の重みを肩へと写す。石のたてがみは掌の熱を吸い、粉の匂いを指の腹に移した。音を乱さぬのが配達屋の作法、鈴はつけない。かわりに靴裏と石が囁き、胸の骨が地の脈動を数える。
境の気配は、風の色で分かる。ナタに踏み込めば、空の青が水へほどけ、赤い断崖が屏風のように寄り合って道を狭める。黄の草穂は風に一方向へ倒れ、踏み段は乾いた餅皮のように脆い。谷の影だけが涼しく、陽の射すところは刃のように鋭い。裂け目の奥から白い蒸気が細く立ち、遠い太鼓の低音が二度、岩に移って返ってきた。色布の切れ端が灌木に絡み、古い祭の名残りを思わせる。
丸太の欄干に日が積もり、そこに槍の銀が一本、風の線を引いた。少女は足の置き場を迷わず選び、腰の抜きがきれいだ。呼吸は三拍子で澄み、草穂の先がそのたびにふっと伏す。袖口の紐飾りがからん、と乾いた音で鳴り、影のうちで汗が宝石のように光った。
「……いち、に、さん──よしっ!」
「ほう、見事な槍捌きだよい」
黒曜の粒を散らしたような瞳がまっすぐこちらを射抜く。槍の石突を地に休め、砂塵を払う仕草が子猫めいて軽い。額の汗が光になってほどけ、頬のそばかすがきらりと笑った。岩馬は新しい匂いに耳を澄ませて、首だけを少し傾ける。
「ありがとう、お兄さん。その大きな荷物、もしかして配達の人?」
「おうよ、オレは稲妻の配達員ヤマト。『こだまの子』宛ての荷を届ける途中でね」
「わたしはカチーナ。『ウッサビーティ』のカチーナだよ。私もこだまの子なんだ。よかったら、案内するよ!」
「そいつは助かるぜい」
ヤマトは手甲を外し胸に当てて、一拍おいて浅く頭を下げた。風でほどけた髪が頬をかすめ、汗は塩の味を残す。岩馬の鼻面を一度撫でると、石の獣は満足げに喉を鳴らし、たてがみの色紐が小さく揺れた。
「それにしても、ウッサビーティか……もしかしてお前さん、古名の継承者ってやつかい?」
カチーナの目がぱっと丸くなり、肩が弾む。唇の端が跳ねて、嬉しさが顔の輪郭ごと明るくする。槍先の影まで笑って見えた。
「わっ、ヤマトお兄さん、古名を知ってるんだね!」
「ま、噂程度だがな」
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草の海に一本の獣道が走る。踏み痕の縁で粉砂が光り、乾いた土は古い絹のように手のひらで崩れた。二人の影は寄り添い、岩馬の影は長く、谷風に引かれて形を変える。遠いどこかで、細い金属の飾りが一度だけ鳴った。
谷は裂け、狭まり、色布を編んだ吊り橋が空へひと筋渡っている。岩壁には幾何の彩色、三角の飾りがからんと乾いた音で鳴った。上から差す光は割れ目から帯状に落ち、空気が白く塗られている。下は浅い流れ、石は青黒く光り、水煙が細糸のように揺らいだ。橋板の端には手で磨かれた艶があり、何度も通った足の記憶が宿る。
「足元に注意だよ。採掘の跡だったり、テペトル竜が潜ったりすると、足場が不安定になるの」
「道理で岩の気配が独特な訳だ。それに、遠くから楽器の音が聞こえるな」
「こだまの子ではみんな、叩くのも踊るのも好きだから」
「良い土地だよい、それに……戦士も」
ヤマトは少女を見やる。歩幅は無駄がなく、槍の柄を手の中で転がす指の節が稽古の数を物語る。肩の力は抜け、目だけが前を据える。岩馬の歩に合わせ速度を自然に揃える感覚も悪くない。息と足音が三拍子で合い、道が一段と歩きやすくなる。
頬に小さな火が灯る。視線は一瞬足元へ落ちるが、すぐまた前へ戻る。その戻り方が素直で、谷風みたいに気持ちがいい。髪の毛先が日を拾っては跳ね、影の中で耳飾りがひそやかに揺れた。
「私はまだまだだよ。でも最近はちょっと、自信がついてきた、かも。それに、ぐるぐるコマちゃんがついてるから!」
「うん? ぐるぐるコマちゃん?」
「うん、わたしの相棒。見てて。ぐるぐるコマちゃん、しゅっぱつ!」
少女の掌の上の空気がもつれ、薄い板が幾重にも重なって輪を作る。金属の境目は指の腹ですべり、岩元素の粒が回転の縁に沿って光の糸を引いた。風が輪郭を撫で、草穂が同じ方向へ倒れる。回転が速まるにつれて、谷の音が一拍だけ静まり、次いで柔らかく戻った。
それは──紛れもなくドリルだった。それも、少女が乗ってなお余りある程の。
「ほう、複雑な機構だ。……それに、強い岩元素の力を感じる」
「同じこだまの子のお姉さんに作ってもらったんだ!」
カチーナは胸を張って顎をちょいと上げる。瞳の奥で小さな火が跳ね、螺旋の音と同じ高さで笑いが弾む。槍を持つ手の甲に陽が集まり、薄い汗がきらめいた。
少女の視線が自然に岩馬へ滑る。たてがみの色紐に指先が伸びかけ、礼儀を思い出して引っ込む。その仕草がいじらしい。岩馬は一瞬だけ耳を動かし、つやのある石目を誇るみたいに首を張った。
「ねえ、そのお馬さん……ヤマトお兄さんの力だよね? すごいなあ、こんなに大きな荷物を運ぶ力に、不安定な足下でも全然転ばないなんて」
言葉に合わせ、岩馬が一度だけ鼻を鳴らす。石の獣のくせに、鳴き方がいかにも得意げだ。鼻先からは粉砂の匂い、首筋には乾いた温み。蹄は石目を選んで正確に置かれる。綱は緩み、音は静か、道の機嫌が良い。
「ねえねえ、この子のお名前は?」
「ぬ?」
「こんなに力強いんだもん、きっとかっこいい名前なんだろうなあ!」
「む?」
「あれ、もしかして、ぐるぐるコマちゃんみたいに可愛い名前だったり? それも良いと思う!」
言葉が弾むたびに三つ編みが揺れ、声の端が笑う。ヤマトは頬を掻き、視線を少しだけ空へ逃がした。崖の上を一羽の鳥が横切り、影が二人の足もとで一瞬だけ重なってからほどける。
「ちなみに、岩馬は名前のうちに入ったりするかい?」
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谷は一度広がり、赤土の平らが盆のように静まる。縁では白い花が風に擦れ、葉の裏で小さな音を立てた。遠い太鼓の拍に合わせ、足取りが自然と軽くなる。道端には糸を束ねたような草が群れ、誰かが結びかけた色紐が幹に残っている。陽は傾き、影がやわらかく伸びた。
「しかし岩馬の名前か。考えたことも無かったよい」
「そうなんだ。あのね、もし迷惑じゃなかったら一緒に考えてみようよ!」
「いいぜ。それじゃあ言い出しっぺのカチーナよ、何か案はあるかい?」
少女は空を一度だけ仰ぎ、唇の裏で言葉を転がす。槍の柄を肩に休め、つま先で砂を丸く掃いた。丸はすぐ風に崩れて、また描き直される。笑いを噛み殺したような息が一つ、喉の奥で弾む。
「あのね、『
「悪くないが、稲妻じゃあちょいと目立ちすぎるかもなあ」
「『岩丸』!」
「強そうだが、稲妻じゃ丸は船の名乗りだねえ」
「『スーパーアルティメットぱかぱかウマちゃん号』! ……は、ちょっと長いかな?」
「ちょっと?」
普段は軽口で地面を均す男が、今日は少しばかり足場を取られている。可笑しくて頼もしく、その混じり合いが心地よい。岩馬もまた、主の困惑を面白がるかのように耳を動かした。
「うーん、ヤマトお兄さんは何か思いついた?」
「そうさね、『カチカチ権蔵』とかどうでい」
「う、うん……強そう、なのかな?」
「んじゃあ『昼寝走り疾太郎』。昼寝も走るも
「ふふっ、面白いね。でも、早口だと噛んじゃうかも?」
二人の笑いが岩肌に跳ね、やわらかく戻る。橋の向こうから風が押し寄せ、色布が蛇のように身をくねらせた。流れの面が白光をひと撫でして、また暗い青へ沈む。
「それは確かに……ん? おお、こいつはなんとも──」
谷の天井がぱっくり割れ、白い光の柱が落ちている。木の歩廊に布が渡され、幟は風の手を受けてゆったり泳いだ。入口の脇には石で組んだ祠、対に置かれた壺に果実の殻が重なる。吊り橋の板がひとつ鳴り、子どもの笑いが粒となって駆けてくる。乾いた土に水の匂いがまじり、暮れ支度の音がどこかで始まった。
「──こだまの子にようこそ! ヤマトお兄さん」
背中で陽が跳ね、頬の汗が宝石のように光る。槍を立てる手が弾み、胸の前で小さく弧を描く。笑い皺が一つ増え、それがとても似合っていた。
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「道案内、助かったぜい」
「えへへ。どういたしまして」
段の多い台座に幾何の紋が光り、階の縁には鉢植えの黄の花。土壁は赤と青が刷毛目で塗り重なり、日の当たるところが飴色に艶めく。油皿の灯が細く、壁に魚の骨みたいな影を作った。歩廊には色紐の房、布飾りの端に小鈴が縫い込まれ、行き交うたびにからんと鳴る。香りは灯の煤と甘い果実。どこかの家の戸口で湯が立ち、湯気が藍色の空へ薄く伸びていた。
高い段の上、落ち着いた色の衣の男がこちらへ視線を降ろす。目は笑い、額の皺は穏やか。話していた子らが振り向き、道が自然にひらいた。誰かが幟を直し、布がひらりと光を返す。
「ただいま! パカルおじさん!」
「おかえりカチーナ。そちらの方は?」
「稲妻の配達屋さんだよ、ヤマトさんって言うの。ヤマトお兄さん、紹介するね。パカルおじさんはこだまの子の族長なんだよ」
ヤマトは綱を手から外し胸に当てる。一歩進み、足をそろえ、息を整えた。言葉の前に一拍の黙を置くのは、新たな地での礼儀。岩馬もまた、主に倣って静かに首を垂れる。
「ありがとうよ、カチーナ。……パカル殿、でよろしかったかな? 私は稲妻の配達会社『狛荷屋』のヤマトってもんです。この度は荷を預かり、道をお借りしてお届けに参った次第で」
「狛荷屋! 聞いたことがあります。なんでも、稲妻で評判の配達会社だとか」
カチーナの目がさらに丸くなり、肩がはずむ。槍を抱え直し、嬉しさが踵から跳ねている。髪飾りの小鈴が、ひとつだけ澄んだ音を出した。
「そうなんだ! ヤマトお兄さん、やっぱりすごい人なんだね!」
包みを二つ、台座の脇にそっと置くヤマト。ひとつは薄い木箱、もうひとつは包布の角が甘い香りを含んでいる。布の結び目を解きかけ、手を止め、深く頭を下げた。
「それから、こちら。つまらないものではございますが、稲妻土産の甘味と茶です。どうか皆様で」
「おお! これはご丁寧に。カチーナ、皆に持っていってあげなさい。稲妻の狛荷屋さんからだとな」
歓声が小さく上がり、近くの子が背伸びする。戸口の陰で年寄りが笑い、湯呑みを掲げた。焙じた香りがそっと広場を渡ってくる。色紐の房が風に泳ぎ、岩馬のたてがみを撫でてゆく。遠くの太鼓が低く三つ、間をおいて二つ。音が身体の芯でやさしくほどけた。
「うん、分かったよ。それじゃあヤマトお兄さん、またね。今度会うときまでに、お名前考えておくね」
「おう、かっこいいのを頼むよい」
帰りの吊り橋が三度だけ鳴り、風穴が低く答える。谷の天井から落ちる白い光は少しずつ細り、赤土は夜の色を含みはじめた。岩馬の蹄が石をコツンと叩き、コマちゃんは小さく回って光の糸をほどく。名は呼ぶほど胸がほどける。届けば十分、寝かせて上等。次の便で、もう半歩先へ──ヤマトは綱を握り直し、静かな足音で谷の影に溶けていった。
20話以降の狛荷屋ヤマトの方針について(活動報告に詳細アリ)
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どうでもいい