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「さて、次は
昨日の騒ぎからひと晩――よく眠った体は軽く、ヤマトは肩紐を一穴詰め、胸の紐を指で整え、腰袋の口金を押さえて重みを確かめた。
宿の戸を押すと、風が一寸だけ髪を撫で、段を降りる足裏に板の目がまっすぐ伝わる。開けた広場の中央で、旗竿に吊られた飾り布がゆっくり息をし、その下に族長ワイナの影が長く伸びていた。
「おはよう。昨日は良く眠れたか?」
「ああ、ぐっすりだぜい」
寝床は選ばない、選ぶのは影の濃さだけ──。とは口に出さず胸の紐を一段だけ整える。
「昨日の件だが、稲妻への手紙は既に出してある」
昨夜、灯の下で交わした話の続きだ。狛荷屋と懸木の民が手を結ぶ件――決裁は遠い海の向こうにある。ワイナは厚手の紙を封し、印を押すと、夜のうちに伝達局へ自ら足を運び、管理人ミチカの立ち会いで受付簿に署名し、封蝋を確かめて扱い便に回した。
「それと下の集積所にヤマトに運んでもらう分の荷を纏めておいた。降りたら確認してくれ」
「了解だよい」
まずは『お試し』の小荷がいくつか――下の集積に用意済みだと聞く。降りたら封緘の張りだけ指で撫でればいい。
昨夜の席で、お互い肩書きは帳場に置いていくと決めた。これからは名で。
ふと、階段の影から軽い足音。昨日、空で揺れていたあの子が、頬にまだ赤みを宿したまま立っていた。
「あの、その。おはよう、ございます……」
「おう、おはよう」
叱られた痛みは言葉にしないのがよい。ヤマトはただ挨拶を返し、少女の口元に小さな笑みが灯る。後ろでワイナが目だけで頷く。
「ヤマトさん、もう行っちゃうんだよね? ……また会えますか?」
言葉にすれば重くなる。ヤマトはただうなずき、視線を合わせて指先で額の乱れ毛を払ってやる。
人々は段の端へ半歩ずつ寄り、旗竿の影が細く並んで、道の真ん中がすっと空いた。やがて低い囁きが一粒ずつ続き、自然と見送りの列になった。
振り返った少女は、族長にそっとたずねる。
「狛荷屋さんって、ナタの人でもなれるかな?」
ワイナは陽の輪郭を帯びた横顔で、強く肯いた。未来のどこかで、今日の決意が出発点になる――そんな気配が、布旗の縁で柔らかく揺れた。
■ ■
崖の影を抜け、低い草の匂いが濃くなる。水の近い道だ。石の脚は段差に合わせて高さを揃え、回転軸は朝の温度に落ちて、少しの力で静かに転がった。
ヤマトは封緘の張りを一度だけ撫で、影の向きを確かめる。丘と水面の境に、小枝の影がちょうど枕の高さで落ちていた。
風は温み、雲は淡く。昼寝に適う刻というものがある。今日はそれだ。
「今日は昼寝日和だよい」
ヤマトにとっては毎日が昼寝日和であるが、誰も咎めず、草はやわらかい。横になれば土の涼しさが衣越しに広がり、ほどなく遠い方でコホラ竜の鳴きが細く返ってくる。
目を開けた時、視界の端に褐色の肌と銀の髪がすべり込んだ。陽に温められた肌の色、潮の街の布を思わせる鮮やかな飾り紐。ヤマトの肩先、わずかな距離に少女が同じ角度で眠っている。
「むにゃむにゃ、もう食べられないよ……」
「おお、ベタな寝言」
あまりの直球に頬が緩む。ヤマトの声に、彼女のまつ毛がかすかに震えた。
「うーん。あ、起きた? おはよう! あれ、それともこんにちは?」
「挨拶に早いも遅いも無いだろうよ。目覚めたならその時がおはようだ」
「確かに……君、良いこと言うね」
彼女はすっと立ち上がる。白銀の髪に淡い水色がさす束を高くまとめ、額には細いヘッドバンド。結びは耳の上で輪を作り、波の跳ねみたいに布端が二重の弧を立てる。
装いは黒と水の色を重ねた動きやすい仕立て。胸元には交差の意匠、腰や腕、足もとには鰭のような薄片飾りが流れをつくる。
陽に焼けた褐色の肌は水辺の光をよく弾き、笑うと頬に浅いえくぼが出た。近くに立つと、潮と木の樹脂がまざる匂いがわずかにした。
「それで、お前さんは? 岩馬が動いていないのを見るに、荷を狙った盗人という体ではなさそうだが」
「泥棒さんなら一緒にお昼寝なんてしないよ!」
「それもそうだ」
こほん、と少女は小さく咳払いして胸を張る。
「あたしは『流泉の衆』のガイド、ムアラニだよ! 君はヤマト君だよね?キィニチから聞いてるよ、懸木の民のヒーローだって。まさか配達の途中でお昼寝するとは思わなかったケド……」
「ヒーローは余計だよい。それにしても、ガイドか……」
『ガイド』の語で浮かぶのは、旅人の小さな白い相棒の輪郭。空に浮いた声色が耳の奥で笑う。
「あれ? ガイドがどうかした?」
「なに、オレの知るガイド役はもうちょっとちっこくて白い奴だったからな」
ムアラニの瞳がぱっと明るむ。
「もしかしてパイモンのこと? もう、旅人の友達なら先に言ってよ!」
「ぬ。お前さんも旅人の知り合いか? あいつはどこに行っても有名人だよい」
「そういう事なら、あたしがガイドしない訳にはいかないね! さあ、ついて来て!」
ムアラニは手を伸ばし、迷いなく引く。その勢いのまま草斜面を駆け、橋を渡り、湾曲した小道を軽やかに登る。登りは節の筋が濃く、踏むたびに目が足裏へまっすぐ届く。影は互いに重なり、二人の呼吸だけが歩幅を決めた。
後ろでは岩馬が石の脚で高さを合わせ、車輪は砂を噛まずに滑らかに回った。
二人と一騎、影を連ねて水の街へ向かう。
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やがて視界が開ける。水の色は幾層にも分かれ、浅瀬は翡翠、流れは藍。遠くからは噴き上げる水輪の音、桟の下では浮き輪と船飾りが低く擦れる。
ここは流泉の衆。中央の大きな舞台は船の腹のように丸みを帯び、青と金の幕が弧を描いて張られていた。
湯気が昼の光に細く透け、笑い声がたえまなく交じる。荷の顔を前へ向けたまま、所定の店へ。受け渡しは手短で、紙の擦れるひそかな気配だけが残る。
「お仕事終わった? じゃあ次は遊ぶ番だね!」
忙しない調子に、ヤマトは肩をすくめて笑う。
「そうさな。少しだけなら問題ないだろう」
「まずは水辺、軽く滑ろ? 見てて!」
ムアラニは
「おお、見事なもんだ」
「いえーい! 次、甘いの食べよ!」
屋台の陰は涼しく、薄い生地の菓子に甘い蜜が挟まれている。木皿を受け取る指に蜜の香りが移り、舌に触れれば冷たさが先に立った。
「うむ、美味い」
「流泉の衆と言えば音楽! 私は踊っちゃうよ!」
広場の端、三人組の奏でる弦の音が風にほどける。ムアラニは拍に合わせて腰をひらりと返し、腕で弧を描いた。ヤマトは桟の柱にもたれ、目だけで拍子を取る。横顔に日が当たり、まぶたが一瞬長く閉じる。
「むにゃむにゃ、もう食べられないよい……」
「おお、ベタな寝言」
目覚めては働き、隙あらば眠る。長い年の癖は、賑わいの只中でも変わらない。ムアラニの勢いに押されつつも、足取りは崩れないのがこの配達屋の妙なところだ。
「ここがあたしのお店。欲しい物があったら言ってね、割引するから!」
「自分の店があるのか。若いのに大したもんだ」
水面に張り出した小さな桟。救命輪が三つ並び、青い布幕の下に木のカウンター。貝の飾りと航路図のような札が立ち、瓶の中には潮の色をした液。
ふと、向かいの店先で不思議な生き物と目が合った。丸い頬、眠たげな瞳。
「む。夢喰い獏がどうしてここに……」
「あれ、ミント大福のこと知ってるの?」
その名乗りの調子が、遠い縁を思い出させる。甘い名付けを好む、あの心理療法士の顔。
「いや、直接此奴を知っている訳では無いが、同じ夢喰い獏の瑞希姐さんとは古い仲だ」
「え、瑞希とも友達なの!? 世間って狭いんだね……」
旅人に続いて、ここでも繋がる線。水の街の風は軽く、湯気は夕方の温度で薄まっていく。
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「まさか瑞希姐さんがここに居たとはな」
「最近まで居たんだけどね。稲妻でやることがあるって、すれ違いになっちゃったね」
「瑞希姐さんとはまたいずれ会うだろうよい」
軽く言って、重く抱えない。彼のそういうところをムアラニは悪く思わない。顔をぱっと明るくして、正面から問うた。
「それでヤマト。今日はどうだった? 楽しんでくれてたら嬉しいんだけど」
「ああ、ムアラニのおかげで楽しめたよい。ありがとう」
礼を受け取る人の方が、より大きな笑みになることがある。ムアラニはヤマトの手をもう一度引いた。灯の縁が水にほどけ、夜の気配が桟を浅く包む。荷の角は前を向き、配達屋の足は、次の邦へ向けて静かに重心を移した。
20話以降の狛荷屋ヤマトの方針について(活動報告に詳細アリ)
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