猫又綺良々の初めてのお仕事
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稲妻の城下町は、雷神の庇護のもと穏やかな日々を送っていた。港には異国の香辛料や布が並び、商人たちは海の向こうを語る。職人たちは腕を磨き、学者たちは知識を求め、外からの香りや品が行き交う。そんな活気ある街で、ひとつの配達会社が静かに信頼を築いていた。その名は『狛荷屋』。
狛荷屋の配達員ヤマトは、見た目こそ十四、五の少年に見える。癖のある黒髪に、どこか眠たげな目元。しかしその実、二百年を越えて生きる妖怪であり、歴史ある狛荷屋でも古参の者である。
事の始まりは、鳴神大社の八重宮司からの文であった。
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影向山の石段を登りきると、朝霧の中に朱塗りの社殿が浮かび上がった。桜の大樹は枝を広げ、淡く紫がかった花弁を散らしている。鳴神大社──稲妻の信仰の中心であり、雷神を祀る場所。そして、そこを司るのはただ一人。
畳の間に通されたヤマトは、背筋を正すでもなく、のんびりと座っていた。呼び出しの文はいつも通り、簡素に「来い」とだけ。宮司の書く手紙は、飾りも説明もなく、それでいて拒否できぬ重みを持つ。
やがて襖がするりと開き、淡い香を纏った気配が流れ込む。桜色の長い髪を低く結い、金の髪飾りを添えた艶やかな巫女装束姿の八重神子が、扇を片手に現れる。白と赤を基調とした衣が揺れ、しなやかな脚が裾からのぞく。切れ長の瞳には狡猾な光が宿り、狐のような笑みを浮かべていた。
「のこのこと呼び出しに応じて参る、その素直さは昔と変わらぬな。妾としては退屈しのぎにちょうど良いのじゃが」
「退屈しのぎって言い方はどうかと思うぜい。まあ、神子姐さんに呼び出されちゃ仕方がない」
「ふふ、相変わらず口は減らぬの」
彼女の目が横へ流れる。その先に控えていたのは、猫の尻尾を持つ少女。二本の尾は緊張と好奇心に揺れ、翡翠の瞳は期待で輝いていた。朝の光が畳に落ち、彼女の灰金色の髪に薄い銀の筋を描く。
「さて、ヤマトよ。妾が新たに見つけた面白き……もとい、新入りを紹介しよう。猫又の綺良々じゃ」
「き、綺良々です! 猫又です! あ、あとは、ええと……」
声は少し震えているが、まっすぐに前を見据えている。神子はその様子を扇の陰で眺め、満足げに頷いた。
「おお、元気がよい。妾としては新人が失敗して泣く顔も見物じゃが……まあ、狛荷屋でなら潰れはせぬ。むしろ退屈せぬであろう」
「姐さん、猫をからかわんでやってくれよ。新人を任せるってことかい」
「妾が任せるのではない。面白く育てるのはそなたの役目じゃ。失敗もまた研修の華……のう?」
八重神子の瞳に、いつもの狡猾な光が宿る。綺良々は神子の言葉の真意を測りかねて、尻尾をそわそわと動かした。ヤマトはその様子を見て、小さくため息をつく。
「よろしくお願いします! ヤマト先輩!」
「ま、見ての通りのんびり屋だが、荷物は早く正確に届ける。とりあえず仕事を見せてやるよい」
「ふふ、よいぞ。さあ行け。──帰ったとき、妾を退屈させぬ失敗談を一つは持って参れ」
扇の影で笑う八重神子は、最後に小さな包みを畳の上へ滑らせた。八重堂の校了紙である。端に「至急」と朱が入っている。紙は軽いが、退屈を嫌う神子の視線は重い。ヤマトは肩をすくめ、包みも一緒に懐へ収めた。
綺良々は神子に深く頭を下げ、ヤマトの後に続いて部屋を出る。廊下に出ると、緊張で固まっていた肩の力がふっと抜けた。
「八重宮司さま、とっても偉い方なんですよね……」
「まあな。偉いというより、厄介というべきかもしれんが──おっと、今のは聞かなかったことにしてくれよ」
石段を下る足取りに、綺良々の弾む歩調が重なる。朝の空気は澄み、鳥声が木々の間を渡っていく。綺良々は深呼吸をして、新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込んだ。今日から始まる新しい生活への期待で、胸が躍っている。
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稲妻城は朝の活気に満ちていた。商人の掛け声、板の軋む音、湯気の白さが石畳に踊る。綺良々の尻尾は興味深げに左右に振れ、鼻先で匂いを確かめている。海の塩、焼ける醤油、桜餅の甘さが層となって重なった。
街の匂いは野山とは全く違う。綺良々は猫又の鋭敏な嗅覚で、一つひとつの匂いを記憶に刻んでいく。魚屋からは潮の香り、鍛冶屋からは熱した鉄の匂い、茶屋からは煎茶の香ばしい匂い。それらが混じり合って、稲妻城独特の空気を作り出していた。
「さて、お前さんは街に詳しいみたいだが?」
「はい! 猫の時も、妖怪になった後も、沢山歩きました!」
一時期、稲妻城を騒がす猫娘の噂が立っていたが、眼の前で誇らしげに胸を張る彼女の事だろうとヤマトは当たりをつけた。屋根に上る、鑑賞池の魚を食べる、その他余罪多数で天領奉行が手を焼いていたらしい。
最初に訪れたのは
店主の葵は筆を置き、にこやかに二人を迎えた。
「葵殿、こちら新人の綺良々。これから世話になるだろうと挨拶に参った」
「綺良々です! よろしくお願いします!」
綺良々の声は緊張で少し高くなっていたが、しっかりと挨拶をする。店主は温和な笑みを浮かべ、丁寧に応じた。
「こちらこそ、よろしくお願いします。可愛らしいお嬢さんですね」
「うむ、元気なのは良いことだ。して、勉強のため渡し口を拝見させて頂きたいのだが」
ヤマトが店の奥を指差すと、店主は頷いた。
「ええ、古道具は奥の台で、新しい品物は入口近くの棚でお願いします。湿気の多い日は特に注意が必要で……」
綺良々は丁寧に頭を下げ、受け渡しの位置を確認する。古道具と新しい品の置き場を分けて教わり、呼び名を手帳に記した。文字は少し震えているが、一画一画が真剣だった。店主の説明を聞きながら、綺良々は店内の配置を目に焼き付けていく。
「分かりました。古いものは湿気を嫌うんですね」
「そうです。特に巻物や書画は要注意ですよ」
店主の親切な説明に、綺良々は何度も頷いた。
次は冒険者協会。通りに面した木造二階家で、黒と煤色の板壁に重い入母屋の破風。正面の大きな破風板には金の羅針儀を思わせる紋が据えられ、庇の下には藍紫の幕が左右に張られて同じ紋が金糸で染め抜かれている。石畳には桜の花片が散り、格子窓の内には帳場の灯りが淡く揺れていた。正面の出格子には木箱や巻物、陶の壺が整えられ、受け渡しの台は磨きこまれている。白い提灯が両脇に下がり、昼でも道標のように目を引いた。
キャサリンの機械的ながら温かい応対に、綺良々は尻尾をピンと立てる。
「エラー…新規登録を検出しました──こんにちは、新人さん」
「こんにちは! 狛荷屋の新人綺良々です!」
先程と同じやり取りの後、キャサリンは正確な動作で窓口を示し、受け渡し手順を説明してくれた。受け渡し窓口の位置、受領印のもらい方、依頼掲示の貼り替え時刻。ひとつひとつを手帳に書き留め、伝票の差し出し方まで確認する。綺良々の尻尾は集中すると先端だけがぴくぴく動く。
「受領印は必ず確認してください。印鑑の向きが逆さまの場合は無効です」
「はい! 気をつけます」
キャサリンの正確な指示に、綺良々は真剣に耳を傾けた。
小倉屋では反物の香りが鼻をくすぐった。絹の艶、木綿の素朴さ、染料の深い色合い。綺良々は思わず深呼吸をして、美しい布の香りを楽しんだ。
店主の女性は優雅な手つきで反物を扱いながら説明してくれた。雨気の強い日は油紙を一枚添える許しを得て、綺良々は安堵の息を漏らす。細やかな気遣いが仕事を支えることを、肌で感じ取っていた。
しかし、小倉屋を出ると、綺良々は小首をかしげてヤマトを見上げた。挨拶ばかりで、まだ一つも荷物を運んでいない。
「ヤマト先輩、お仕事はしないんですか?」
「してるさ。明日の道は、今日創るんだよい」
ヤマトの答えに、綺良々はまだ完全には納得できずにいた。でも、先輩の言葉には必ず理由があるはず。そう信じて、次の店へ足を向ける。
秋沙銭湯では湯気が立ちこめ、石鹸の匂いが甘い。主人の藍川丞は手ぬぐいで汗を拭いながら、通路の使い方を説明してくれた。藍川丞の優しい笑顔に、綺良々は安心した。
根付の源は、掌に収まる細工物が硝子の棚に整然と並び、檜の香りがほのかに漂う。店主は布で磨きながら「生地は指脂を嫌います、受け渡しはこの硝子台で」と穏やかに告げ、綺良々は当て紙をそっと添えた。
烏有亭に入ると、出汁の香りが路地へ流れ、藍の暖簾がふわりと揺れている。女将は配膳の合間に「客席を横切らず裏手から、汁ものは揺らさぬよう両手で」と手短に示し、綺良々は頷いて通路の幅と台の位置を確かめた。
奉行所の砂利は靴底に硬く響く。役人は書類の山に囲まれながらも、丁寧に応対してくれた。届け出の受理印のもらい方、混む刻と空く刻、荷車を止める位置。すべてを確認し、綺良々は窓口の高さや印鑑台の位置まで目に焼き付けた。役人の丁寧な説明に、綺良々は感謝の気持ちでいっぱいになった。
「皆さん、とても親切ですね」
「ええ、狛荷屋さんは信頼できますからね。それに──」
役人は綺良々を見る。
「──
役人の言葉に、綺良々は誇らしくも恥ずかしい気持ちになった。人間の姿に化けられる様になってすぐの事を思い出したからだ。
「その節はどうも……ご迷惑をおかけしました、にゃ」
最後は八重堂。紙と墨の匂いが濃く、活字の黒がきちんと並んでいる。担当者は眼鏡を光らせ、紙の扱いについて注意を促した。
「紙は湿気と衝撃が大敵です。特に校正紙は一点の汚れも許されません」
乾いた台の位置、受け渡しの合図、湿気を避ける包み方。綺良々は頷きながら、担当の名前も忘れずに控えた。八重堂の静寂な雰囲気に、知識への敬意を感じずにはいられなかった。
「文字って、こんなに大切に扱うものなんですね」
「相手に伝えるためですからね。一文字たりとも疎かにはできません」
担当者の真剣な表情に、綺良々は深く頷いた。
各店を回る間に、綺良々は街の人々の温かさを感じていた。皆、新人の自分に親切に接してくれる。それは狛荷屋への信頼があるからだと気づいた時、胸の奥が温かくなった。
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昼過ぎ、狛荷屋の詰所に戻ると、綺良々は少し疲れた様子で尻尾を下ろした。しかし目は輝いている。初めて見る詰所の内部に、好奇心が湧き上がった。
詰所は思っていたより広く、整然と整理されていた。壁には地図が貼られ、配達ルートが赤い線で示されている。棚には様々な大きさの荷物が種類別に並び、帳場には分厚い台帳が積まれていた。
「配達だけが仕事じゃない。戻ってからが半分だよい」
ヤマトの言葉に、綺良々は首を傾げた。しかし、これから始まる作業を見て、その意味がじわじわと分かってきた。
帳場で荷札の読み合わせが始まる。ヤマトは一つ一つの荷札を丁寧に確認し、宛先と内容物、注意事項を声に出して読み上げる。
「稲妻城下・小倉屋宛、反物。『湿気注意』……天領奉行所宛、書類束。『折曲厳禁』……」
未押印の受領分を分け、明日の順路札を作る。重さと弱点順に束ねる──紙ものは水気の弱い道、金物は人の少ない刻を選んで。
「順路札は、重さと弱点順に束ねる──ですね」
「そうだ。荷物にはそれぞれ適した運び方がある。紙は湿気を嫌い、香は強い匂いを嫌う。金物は重いから、人通りの少ない時間を選ぶ」
綺良々は復唱しながら、手順を体で覚えていく。ヤマトは一つ一つの荷物の特性を説明し、なぜそのルートを選ぶのかを教えてくれた。
「これは生モノ、明日一番に配達だ」
「なるほど……荷物にも順番があるんですね」
次は倉庫での整理作業。紙箱は乾いた棚へ、油紙包みは上段へ、金物は下段へ。当て紙を角に一枚ずつ裁ち、束の帯封で留める作業が続いた。
「当て紙は角に一枚。帯封で留める……」
「そうだ。角は荷物の弱点だからな。当て紙があるだけで、破損のリスクが大幅に下がる」
綺良々の器用な指先は、猫又の特性を活かして細かな作業をこなしていく。ヤマトは感心したように頷いた。
「器用だな。猫の手先は配達業に向いてる」
「ありがとうございます!」
道具点検では、ヤマトが様々な道具を取り出して説明してくれた。荷車の車輪の鳴り、楔の具合、車止めの効き、紐の擦れを調べる。
「車輪の音が変わったら、すぐに点検が必要だ。小さな異音を見逃すと、大きな故障につながる」
綺良々が手順を口に出して復唱し、ヤマトが癖を直していく。
「楔はこの角度で……あ、間違えた!」
「もう少し深く。そうだ、それでいい」
紐の結び方も、単純に見えて奥が深かった。荷物の形状や重さによって、最適な結び方があることを学んだ。
「この結び方だと、重さが散って安全ですね」
「そうだ。力の流れを理解すれば、自然と正しい結び方が分かる」
最後に工具箱の点検。槌、鋸、錐、鑢。一つ一つの工具の用途と手入れ方法を教わった。
「工具は仕事人の命だ。日頃の手入れを怠ると、肝心な時に使えなくなる」
綺良々は真剣な表情で、工具の手入れ方法をメモに書き留めた。
そして仕上げ。宛名を清書する作業に入った。
「──宛名は、鳴神大社・八重宮司様」
ヤマトは筆を手に、丁寧に文字を書いていく。その筆遣いは美しく、文字一つ一つに心がこもっているようだった。
「文字も大切な仕事の一部だ」
「はい。相手に対する敬意を示すものですね」
綺良々は八重堂での言葉を思い出す。筆の穂先が紙の上を滑り、墨の黒が文字の形を取る。包みの角を撫で、帯封を確かめ、ひとつの荷が完成した。綺良々は息を吐き、達成感に頬を緩ませる。
詰所での作業を通して、綺良々は配達業の奥深さを実感していた。単に荷物を運ぶだけでなく、準備、整理、点検、すべてが大切な仕事だった。
「先輩、配達って本当に奥が深いんですね」
「そうだ。だからこそ面白い。毎日が勉強だよい」
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夕刻、再び鳴神大社の石段を登る。桜の花弁が風に舞い、朱塗りの柱が夕日に映えていた。朝とは違う神聖な雰囲気が漂い、綺良々は自然と背筋を正した。
門前で一礼し、授与所脇で包みを整える。綺良々は朝よりも緊張していた。今度は実際の配達だ。失敗は許されない。
「狛荷屋をご利用いただき、ありがとうございます」
ヤマトの声は落ち着いていて、安心感があった。綺良々もそれに続いて、丁寧に頭を下げた。
八重神子は扇を手に、いつもの狐めいた笑みを浮かべて現れた。しかし、その目は鋭く綺良々を観察していた。
「ほう、朝よりも凛とした顔をしておるの。一日でずいぶんと成長したものじゃ」
神子の言葉に、綺良々は驚いた。自分では気づかなかったが、確かに朝とは違う気持ちでいる。
「……お仕事は、戻ってからが半分、ですね」
綺良々の言葉は、一日の経験から生まれた実感がこもっていた。神子の目が細くなり、扇の影で満足げな笑みが浮かんだ。
「ふふ、なるほど。妾の退屈しのぎは成功のようじゃな」
「姐さん、最初からそのつもりだったのかよい」
「当然じゃ。この子には素質がある。ただし、まだまだ青い」
神子は綺良々に視線を向けた。
「綺良々よ、今日学んだことを忘れるでない。配達とは単に物を運ぶことではない。人の心をつなぐ仕事じゃ」
「はい! 頑張ります!」
綺良々の元気な返事に、神子は満足げに頷いた。扇の影で笑い声が漏れ、夕風が桜の枝を揺らした。
──ああ、そうじゃ。彼女はこう付け足した。
「宛先が『鳴神大社八重宮司様』のものがあれば、優先するんじゃぞ。これは先ほどの話よりもさらに重要なことじゃ」
石段を下りながら、綺良々はこの一日を振り返っていた。朝の緊張から始まり、各店での学び、詰所での作業、そして最後の配達。すべてが新鮮で、学びに満ちた一日だった。
「先輩、明日も頑張ります!」
「ああ、そうしてくれ。だが無理はするなよ」
ヤマトの優しい言葉に、綺良々は心から安心した。信用は荷より先に運ぶもの。だから歩く。今日一日で綺良々が学んだのは、配達の技術だけではなく、人との繋がりを紡ぐ大切さだった。
夕暮れの稲妻城を歩きながら、綺良々は明日への期待に胸を膨らませていた。狛荷屋の一員として、もっと多くのことを学び、成長していきたい。石段に風が通り、最後の一件が静かに納まる。新人配達員の第一歩は、確かに踏み出されたのだった。