狛荷屋ヤマトの宅配便   作:さば殿

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第4箱「狛荷屋物見遊山の段」

 ■  ■

 

 

 

 朝の鐘がほどけ、総務司の屋根に光が差す。緑の瓦は露をほどき、赤い回廊はまだ夜の冷たさを少し抱いていた。正面の楼門には金具が静かに光り、石獅子の足元には掃き清められた白い段が続く。幾重にも重なる庁舎の棟が山肌と重なり、璃月という街の背骨を見せていた。

 

 大階段の天面に立つと、視界の底に水が広がる。対になった門柱が海を切り取り、そのあいだから桟橋と小舟の影が覗く。吊り灯は消えたまま、風だけが笠の縁を撫でた。木の台には荷が組まれ、帆を畳んだ船が番を待っている。

 

 今日は配達を休む、と決めた。綺良々は昼の包みを抱え、ヤマトは肩に敷物を担ぐ。楼門の影の涼しさに別れを告げ、最初の段に爪先をかけた。

 

 潮の匂いに小麦の粉、遠くで温め直す油の匂い。翡翠の目が細くなり、耳が一度だけ動く。

 

 

「ヤマト先輩、はやく行きましょう!」

「慌てるな。踏み外して下まで転がる奴も居るって話だよい」

 

 

 石が平たく足裏に当たる。三つ降りて、ひと息。もう三つ、ひと息。尻尾が段の拍で揺れ、袖口の飾紐が風を撫でていく。視界の左右を赤柱がゆっくり後ろへ流れた。

 

 途中で一度だけ振り返る。棟の重なりが空へ伸び、金の飾りが小さく光る。ヤマトの横顔が少しだけ上を向いた。

 

 

「璃月港は朝から賑やかだな」

「うん。わたし、ここを降りるの好きです」

 

 

 段を下り切り、楼門の影から日向へ。肌の上で空気が一段あたたかくなった。

 

 

 

 ■  ■

 

 

 

 二枚目の通りは、屋台と屋台のあいだを風が抜ける場所だった。吊り下がる灯の笠はまだ薄明るく、天幕の布は露の湿りを少しだけ含んでいる。木の台の上には壺と茶筒、竹の籠には果物が盛られていた。

 

 

「いらっしゃい、狛荷屋さん。今日は荷はないのかい?」

 

 

 声が飛ぶ。顔なじみの屋台の店主が手を止めてこちらを見た。綺良々は包みを胸の前で持ち直し、にこりと笑う。

 

 

「今日はピクニックなんです。なので……おやつを買いに」

「そりゃあいい。じゃあ、杏はどうだい。今朝、北の方から甘いのが入ったよ」

 

 

 差し出された籠に、薄紅の皮が朝の白に映えた。細い指がそっと一つをつまむ。香りがふわりと立って、尻尾が小さく弧を描いた。

 

 

「茶もいるかい?」

 

 

 隣の茶舗の老人が、量りの皿を指先で叩いてみせる。匙に茶葉をすくい、紙に落とす。乾いた葉の音が、石畳に軽く転がった。ヤマトは茶の紙包みを受け取って、包みの角を揃える。

 

 

「こいつは昼寝に効く匂いだ」

「また昼寝。でも今日はそれも頼もしいですね」

「任せろ。寝るのは仕事より得意だ」

 

 

 店主が笑い、茶舗の老人が歯の隙間から息を鳴らす。短いやり取りが、道の空気を柔らかくした。やがてモラが掌で鳴り、包みが二つ三つ増える。

 

 

「またおいで。帰りに腹が減ってたらこれを齧っていきな」

「ありがとうございます!」

 

 

 見世棚の豆菓子をひとつ、飴のように紙に包んでもらう。紙の角が指先に触れ、綺良々はそれをそっと懐にしまった。

 

 大橋へ向かう道は、石がなだらかに広がっていた。橋の手前で欄干の影が斜めに道へ落ち、水の匂いが強くなる。視線を上げれば、橋の向こうに門の屋根が重なっている。赤い柱、緑の瓦。朝の陽がその縁を薄く照らし、門の中央の影だけが深い。

 

 橋の板に足を載せると、木が低く鳴いた。歩幅が揃い、歩みが橋の弧に合う。左右の水面は穏やかで、小舟の櫂が遠くで一度だけ濁った音を立てた。

 

 

「相変わらず立派だ」

「はい。ここを渡るたびに、胸がしゃきっとします」

 

 

 門は近づくほどに大きくなった。梁の彫り、扁額の文字、吊るされた灯。細部がひとつずつ顔を出す。綺良々は一歩止まり、門柱の影に身を入れて見上げた。翡翠が空色を含み、ひと呼吸のあいだだけ静かになる。

 

 

「荘厳──ってこういうのを言うんでしょうか」

「そうだな。背筋が自然に伸びる。いい門はそういうもんだ」

 

 

 足元では、橋板の継ぎ目がきちんと揃っている。ヤマトは欄干に手をかけ、結わえ紐の結び目を指で確かめた。

 

 

「紐は手の記憶で結ぶ。目で追うとほどける」

「手の記憶……」

「何度もやれば、指が勝手に動く。荷もそうだ」

 

 

 会話は短く、橋は長く、風は淡い。門の下をくぐると、木の影が背に落ちた。門を振り返れば、橋の向こうに港の屋根が並び、そのさらに向こうに海が青く光っている。港の鐘がひとつ鳴った。

 

 門の先は、石畳の坂がゆるやかに上へ続いている。道の脇には背の低い木が並び、葉が陽光にまだらを作る。坂道の端には水を逃がす細い溝が刻まれ、そこをさざなみが涼しく走る。歩くたびに、靴の底と石の肌が静かに擦れた。

 

 

「先輩、声が響きますよ」

「山彦みたいだな」

「はいっ」

 

 

 尻尾が弾み、綺良々はまた前を向く。坂の上へ行くほど風は乾き、港の匂いが薄くなる。代わりに草の匂い、土の匂いが強くなった。遠くの岩肌が白く光り、間に黄の葉が点々と混じる。

 

 坂の頂に着くと、景色がふいに開けた。振り返れば、璃月港の屋根と塔が重なり、海の青がその背に広がる。港の手前には橋の弧、門の屋根、吊る灯。すべてが小さく、しかし整って見えた。

 

 

「わあ……」

 

 

 翡翠の目が丸くなる。胸の奥が深く息を吸い、耳が風の音を拾った。

 

 

「港の匂い、ここまで来ると薄いですね」

「そうだな。ここから先は、腹が鳴る匂いより、眠くなる匂いだ」

「ふふっ」

 

 

 笑いがひとつ。坂の向こうには、さらに高みに向かう小道が細くのびている。その先に、岩が橋のように渡った大きな門が見えた。空の青がその間にはまり、向こう側の草地が四角く切り取られていた。

 

 

 

 ■  ■

 

 

 

 岩門の下を抜けると、道は郊外の建物の脇を通った。木の柱に緑の瓦、縁側に竹の簾。店の前には簡素な屋台がひとつ出ていて、焼いた団子の香りが風に混じる。支える柱には布の旗が一枚、端だけほどけてひらひらと翻っていた。遠くには、七天神像が青い光を立ち上げている。石の台座に座する岩神は顔を伏せ、掌を膝に置いていた。

 

 

「他の国の神様は初めて見ました……」

 

 

 翡翠の瞳に青い光が一滴だけ宿る。合わせた掌にそっと力が入り、吐く息が細く整った。尻尾はためらいの形にひと振り。

 

 ヤマトは台座の縁と像の輪郭を目でなぞり、彼女の肩越しに半歩だけ影を差し出す。言葉を選ぶように口を結び、視線を静かに持ち上げた。

 

 

「岩王帝君。七神で最も古い神様だ」

 

 

 像の脇に立つと、風の道が変わった。衣の裾がふわりと揺れ、青い光が指先の爪に淡く映る。綺良々は掌を胸の前で合わせ、目を細めた。

 

 

「願いごと、ひとつだけ」

「なんだ」

「先輩が、ちゃんと昼寝できますように」

「よし、叶った」

「早いっ!」

「寝ることだけは、信心がなくても叶う」

 

 

 短い掛け合いが風に混じって消える。二人は像の前から少し外れた小道を上り、丘のふくらみを回り込んだ。

 

 草が明るく広がる、小さな平らがあった。陽は高く、風は穏やか。ここなら、敷物が気持ちよく広がる。

 

 

「ここにしよう」

 

 

 敷物を広げる。四隅が風でふわりと浮いた。綺良々がすばやく端を押さえ、ヤマトが握りこぶしほどの石を拾って角に載せる。荷をほどくと、包みの中に万民堂の包子がいくつか入っていた。香辛の匂いがあたたかい。

 

 

「香菱の。昨日のうちにお願いしておいたんだ」

「気が利くじゃないか」

「えへへ」

 

 

 紙を開けば、白い皮がつやりと光る。指で割れば肉と野菜の匂いが鼻を満たした。綺良々は小さな口で慎重にかじる。翡翠の目がたちまち喜びに細くなった。

 

 

「ん……おいし」

「味の答えは短いほど正しい」

 

 

 ヤマトは大きくひと口でかじり、顎をゆっくり動かした。噛む音に草の虫が一瞬だけ静かになる。二人は続けて、さきほど市場で買った杏を出した。薄紅の皮を指で押すと、香りがつよくなった。

 

 

「先輩、どうぞ」

「ああ」

 

 

 唇に細い指が一度だけ触れて、果汁が舌に広がる。甘さは軽く、酸があとから追いつく。綺良々は尻尾を小さく揺らしながら、種を紙に包んだ。

 

 

「お茶、淹れますね」

 

 

 茶の紙包みを開き、湯を注ぐ。葉が湯の中でゆっくり沈み、色が出ていく。湯気に草の匂いと茶の匂いがまじり、胸の奥がほっと温かくなった。

 

 

「……風が気持ちいい」

「腹も膨れた」

「ヤマト先輩」

「なんだ、綺良々」

「ピクニックって良いですね」

「ああ。遊山も段取りが命だぜい」

「じゃあ、次の段取りは?」

「昼寝だ」

「やっぱり……」

「大事な仕事だ」

 

 

 茶を飲み干すと、風の音がいつもよりよく聞こえた。遠くの崖で、鳥が短く鳴く。草の上に影がゆっくり流れ、雲がそれを追い越す。綺良々は敷物の端に体を横たえ、両手を胸の上で重ねる。

 

 

「先輩、呼んだらちゃんと来てくれる?」

「呼ぶ前からいるよい」

 

 

 ヤマトは敷物の外側に腰を下ろし、影になる位置を選ぶ。背で風を受け、腕を組む。視線は少しばかり港の方へ向けて、すぐに戻る。

 

 綺良々の呼吸がゆっくりと揃っていく。胸の上下が小さく、一定に。尻尾は最初のうち二度ほど動き、それから静かになった。口元がかすかに笑い、牙が白くのぞく。ヤマトは懐から小さな飴を取り出し、自分の膝の上でころんと転がした。

 

 

「よく歩いた」

 

 

 風に言葉が混じる。答えるものはない。ただ草が返事をする。穂が擦れ、地面の冷たさが背に伝わる。

 

 どれほど時間が経ったのか、港の方角から鐘が二度、重なって届いた。綺良々の指が小さく動き、まぶたの上に光がひと筋落ちる。まぶたがふわりと起きて、翡翠が薄く開いた。

 

 

「……寝ちゃってました」

「寝るのは仕事より得意だって言っただろう」

「先輩の影、気持ち良かったです」

「それはよかった」

 

 

 綺良々は身を起こし、伸びをした。骨がひとつ鳴る。空は高く、山の縁がはっきりしている。草の匂いはまだ濃いが、日差しは少し斜めになってきた。

 

 

「帰り、どうします?」

「同じ道を戻る。坂は下りのほうが話が弾む」

「はい」

 

 

 敷物をたたむ。角と角がきれいに合い、布の面が一枚の板のようにまとまった。包みを元の袋に戻し、石をどけると、草がそこだけへこんでいる。綺良々は指で優しくならした。

 

 

「また来ましょうね」

「ああ。また来よう」

 

 

 

 ■  ■

 

 

 

 七天神像の脇を通ると、光は先ほどよりも淡くなっていた。屋台の前を過ぎ、岩門をくぐり、坂を下る。風は今度、港の匂いを連れてくる。油、果物、木材。橋の上で一度だけ立ち止まり、欄干に肘を置いた。

 

 

「先輩、あの舟、どこへ行くのかな」

「どこへでも。行き先は乗る人間が決める」

「じゃあ狛荷屋は?」

「呼ばれたところへ、どこへでも」

「はい」

 

 

 港の屋根は夕の支度に入っている。吊る灯の紐が試しに引かれ、店先の木札が裏返る。市場へ戻ると、朝に声をかけてくれた店主が桶を洗っていた。

 

 

「お帰り。よく寝れたかい?」

「ばれました?」

「寝顔はすぐばれるよ。なにしろ目が正直だ」

 

 

 笑い合って、氷砂糖を二つもらう。舌の上で、角が音もなく溶ける。喉が冷たく、胸が軽くなった。

 

 

「次は山のほうへ行ってみるか」

 

 

 綺良々は頷き、尻尾を一度大きく揺らした。

 

 通りの端で、夕風が早い。灯がひとつ、ふたつと点り、白い石の肌に淡い色が落ちる。二人は家路へ向かい、石の街はゆっくりと夜の顔になっていった。

 

 市場を抜ける前、綺良々は帯の結び目をそっと確かめた。指の腹で布の重なりを押すと、今朝ヤマトが結んでくれた固さがまだ残っている。解けにくく、しかし引けばすぐにほどける結び。覚えたつもりでいて、同じようには結べない。

 

 

「先輩の結び、好きです」

「ほどけるために結ぶのがなによりだ」

「どういうこと?」

「荷は渡すためにある。渡すときにほどけない結びは、良くない」

「……なるほど」

 

 

 言葉は短く、指の記憶だけが確かだ。綺良々は帯に一度だけ指を回して、息を吐いた。

 

 市場の端では、菓子を揚げる鍋が一度ぶくりと膨らみ、香ばしい匂いが路地へ流れた。果物の籠の間を猫がするりと抜け、子どもが笑う。綺良々は子どもの目線まで腰を落として言った。

 

 

「走ると転んじゃうよっ」

「はーい!」

 

 

 小さな返事が素直に返り、母親が頭を下げた。綺良々は笑って手を振る。名を呼ぶ声が背中に一度だけ届く。それだけで、胸の中がぽっと明るくなった。

 

 遠くの海面に小さな白い筋が走っていた。風の向きが変わる合図。港の船頭たちはそれを見逃さない。櫂を持ち直し、帆の紐を少しだけゆるめる。ヤマトはそれを見て、短く頷いた。

 

 

「いい手だ」

「手、ですか?」

「ああ。職人の手は美しいもんだ」

 

 

 綺良々は欄干から身を離し、掌をそっと裏返した。白く細い指には傷ひとつなく、それが少しだけ後ろめたい。恥じらいの逃げ場にするように、そっとヤマトの手を探した。

 

 朝は駆け下りた大階段を、今度は二人でゆっくりと上る。絡めた指に、節の固さと微かな傷の縁が触れるたび、体温が溶け合う気がした。職人の手というものは、こういう重みを持つのだろうと、自分の柔らかな掌と比べてみる。

 

 広場の灯が次々と点り、楼門の赤が夜の色に溶けていく。宿の角を曲がるころには、通りはもうしっとりと暗い。戸口の灯に照らされて、女将がこちらを見た。

 

 

「おかえりなさいませ。ふふっ、良い顔をされておりますね」

「はい。おかげさまで」

 

 

 夕餉は軽く、茶を差す。湯気が頬を撫で、杏の残り香が舌に淡く戻る。食器の触れ合う小さな音が、今日の終わりをやさしく知らせた。

 

 寝支度にかかる。帯の結び目を解く布の音が、板間に静かに落ちる。綺良々は結びを一度確かめ、指の腹で形を覚え直した。ヤマトは窓辺の灯を少し落として言う。

 

 

「よく歩いて、よく寝た。いい一日だった」

「はい。お弁当も美味しかった」

 

 

 綺良々は笑い、布団に身を沈める。尻尾が一度だけ寝床の端を撫でた。灯の輪が静かに縮まり、外では港の鈴が遠くにひとつ。

 

 

「ヤマト先輩」

「ん」

「おやすみなさい。また明日も、がんばります」

「おう。おやすみ」

 

 

 ふたりの息が同じ調子になり、石の街は夜の深さを増していった。




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