★ ★
稲妻の鎖国が明けてから、早くも数ヶ月が経とうとしている。それはつまり、わたしとヤマト先輩の各国を巡る旅も同じだけ続いたということだ。
璃月の港では商人たちの喧騒と潮の匂いに包まれ、フォンテーヌでは雨と機械仕掛けの噴水の音が夜の街に響き、スメールでは熱砂と雨林の踊り子に目を奪われた。それらが今では遠く、霞のように胸の奥で揺れている。
旅の前は、期待と不安で胸がいっぱいだった。知らない土地への憧れと、自分の力不足への恐れ。
旅が始まってからは、無力感と向上心に押されて立ち止まる暇もなかった。先輩に追いつこうと必死で走り、迷子になれば手を引いてもらい、荷物が重ければそっと支えてもらった。
そして、旅が終わろうとしている今は──その答えがまだ胸の中で言葉にならないまま、朝日を浴びて甲板に立っている。
稲妻行きの船の甲板。遠くに見える影向山から昇る朝日が海面を淡い朱に染め、まだ薄暗い街並みを赤々と浮かび上がらせている。霧に煙る静かな水面に、船の舳先がわずかな波紋を描き、冷たい潮風が髪を梳いてゆく。
わたしは手すりに手を置き、出発前夜のように高鳴る胸の鼓動を静かに感じていた。
「おはよう、綺良々。ここに居たか」
背後から静かな声がした。振り返ると、そこには青碧色の着物に身を包んだ男の子──ヤマト先輩が立っていた。
黒髪は潮風に揺れ、朝日に照らされた琥珀色の瞳は眩しさに細められている。
身長はわたしとあまり変わらないが、所作のひとつひとつに落ち着きがあり、どこか年長の風格を纏っていて頼りたくなる。
「おはようございます、ヤマト先輩。早いですね」
そう応えると、ヤマト先輩は満足そうに頷き、わたしの隣に並んだ。やや身を屈めて手すりに腕を預ける仕草まで無駄がない。
「さっき船員と話したが、昼前には稲妻の港に着くそうだ」
彼はそう言い、再び水面を眺める。朝日を映す海に視線を投げる横顔には、仕事人の冷静と故郷へ帰る安堵が同居しているようだった。
その横顔を見つめていると、彼がふとこちらを向いた。
「俺の顔に何かついているか?」
「ううん……あっ、寝癖が付いています」
「そうか」
手櫛で髪を撫でつけるヤマト先輩。しかし一束だけ、潮風に頑固に逆らうように跳ね上がる。手櫛では収まらないようだ。
「直ったか?」
「直ってないです」
「そうか」
見かねたわたしは懐から小さな櫛を取り出し、ヤマト先輩の背後にまわる。目を閉じてそのまま座った彼の髪に櫛を通すが、寝癖は毎回ぴょこんと反抗する。
仕方なく、予備の髪留めで無理やり抑えた。以前なら自分の髪に飾っていたそれは、フォンテーヌで千織お姉さんに全身を改造されてからは、いくつも余っている。
「……これでヨシ!」
「お前さん、ありがとうよ」
ヤマト先輩の髪に花型の髪留めが輝く。わたしの前髪にもひとつだけ同じ髪留めが付いている。それが並んでいる光景に思わず笑みが漏れた。
「かわいいですよ、ヤマト先輩!」
「……そうか」
そう言って手すりから身を離すヤマト先輩。彼の横顔には照れ隠しのような硬さが浮かんでいた。
★ ★
甲板には他の乗客もなく、船がかすかに軋む音と潮騒だけが響く。
帰ったら、すぐ次の仕事だろうか──独り言のように呟くと、先輩は頷いた。
「人は増えているだろうが、仕事はもっと増えてるだろうぜい。だが、休息も仕事の内だ。帰ったら今日は挨拶と報告だけにして、しっかり休むといい」
休むことも仕事の内。先輩が教えてくれた事だ。わたしはその言葉を噛みしめる。それでもまた走り出したくなる心を、夜明けの潮風が少し冷ましてくれた。
やがて船は稲妻の港へと近づき、町の輪郭がはっきりと見えてきた。
遠目にも賑わう港に高く掲げられた旗と、行き交う人々の影。懐かしい景色に胸がじんと熱くなる。
船が着岸する頃には空も明るくなり、船員たちが手際よく縄を掛ける音が忙しげに響いた。わたしたちは荷室に向かい、自分たちの荷物と預かり物を手に取った。
「綺良々、そっちの荷は頼んだ」
そう言うと、先輩は両手で大きな箱を抱えた。木箱を抱える腕の筋肉が静かに盛り上がり、青碧色の袖が裾からかすかに揺れる。
わたしは包みをいくつか背負い、尻尾でバランスを取る。
桟橋に降り立つと、港の匂いが一気に身体を包んだ。潮と魚と炭火の混じりあった匂いだ。
それに、朝市だろうか。波止場を行き交う人々の表情も忙しないが、同時にどこか楽しげだった。
「おかえりなさい、ヤマトさん! 綺良々!」
わたし達を呼ぶ声に振り向くと、狛荷屋の別の社員が手を振っている。軽く会釈を返しながら港を横切り、石畳の道を町へと進んだ。
店にたどり着くと、狛荷屋の看板が日の光に照らされていた。戸を開けると、鼻を擽る紙と墨の匂い。木製の棚に注文書が整然と並び、奥では店長が帳簿に目を走らせている。たくましい顎髭を揺らしたその姿は、旅に出る前と変わらないが、わたしにはいつもより少し頼もしく見えた。
「ただいま戻りました!」
わたしと先輩が声を揃えると、店長は顔を上げて笑みを浮かべた。
「おお、おかえり。ご苦労だったな」
店長の声には包み込むような温かさがある。その眼差しは旅から帰った娘を見守る親のようで、胸がじんとした。
ヤマト先輩は端的に報告を済ませ、手土産を渡す。店長は報告を聞きながらフォンテーヌのクッキーをつまんでいる。わたしはその横で、旅で得た小さな学びや出会った人々のことを思い出しながら順番を待った。
「綺良々、何かあったか?」
店長にそう訊かれて、わたしは少し考え込む。旅先で起きた些細なトラブルや、笑い話ならいくつもある。けれどそれらを並べただけでは、自分の中で芽生えた変化を伝えられない気がした。言葉にできない感情が胸の奥で膨らんでいる。
「えっと……わたし、もっと荷物を大切に扱えるようになりました」
「……ほう?」
ようやく口をついて出たのは、そんな一言だった。店長は目を細め、耳をぴくりと動かした。
「以前は、とにかく早く届けなきゃと思っていました。でも旅をしている間に、荷物ひとつひとつに詰まっている依頼人の想いが、形のない重さになっていることに気づきました。速さも大事ですけど、それ以上に、届ける過程のひとつひとつを丁寧にすることが、信用につながるんだと……」
言っているうちに、胸の奥が少し軽くなった。店長はにやりと笑って頷いた。
「それに気づいたなら、大したものだよ。荷物を届けるのは技術でもあり、信心でもある。僕たちの信用は、荷物の数ではなく、想いの数に支えられているからね」
隣で聞いていたヤマト先輩も、静かに頷いていた。彼の視線が、ほんのわずかに優しくなった気がする。
報告が終わると、店長は奥から湯気の立つ茶を持ってきてくれた。椀から立ち昇る茶葉の香りは懐かしく、旅の疲れがゆるゆるとほどけていくようだった。わたしたちは湯呑を両手で包み、言葉少なに茶を啜った。
「今日はゆっくり休め。仕事は明日からだ。だけど、ひとつだけ……近々、カードゲームの大会が開かれるらしくてな。それの影響か、国を跨いだ配達依頼が増している。綺良々、お前に頼みたい」
店長はそう告げ、詳細の書かれた札を机の上に置く。わたしは手に取って目を走らせた。モンド、璃月、稲妻、スメール、フォンテーヌ。小口だが数と距離がある。確かにわたし向けの仕事だ。
「承知しました!」
自然と返事が強くなる。身体はまだ旅の疲れを残しているが、不思議と力が湧いてくる。店長は満足げに頷くと帳簿に視線を戻した。
店の外に出ると、日の光が高くなっていた。稲妻の街はすっかり目覚めていて、露店の声や子どもたちの笑い声が路地に満ちている。角を曲がれば見慣れた茶屋があり、少し歩けばお気に入りのお昼寝スポットがある。旅先で見たどの景色よりも、ここが心の居場所だと感じる。
久しぶりに子猫の姿でおばあちゃんの家に帰った。こんなに長く家を空けていたのは初めてなので、少し心配させてしまったようだ。
でも、『にゃあにゃあ』と鳴いて一緒に日向ぼっこをして過ごしていたら、わたしが元気だと分かって安心したみたい。
★ ★
翌朝、陽が昇る頃に目を覚ます。昨日までの疲れが嘘のように体が軽い。まだちょっとだけ着慣れない服に袖を通し、尾をふりふりと揺らして家を出た。
狛荷屋へ向かう途中、空は淡い桃色から青へと変わり、風には桜の香りが混じっている。木陰で白い猫が丸くなり、わたしと目が合って尻尾を振る。わたしも静かに手を振り返し、足取りを速めた。
店に入ると、先輩は既に荷造りを始めていた。木箱の蓋を丁寧に留め紙で止め、紐を回して結び、角の緩衝材を入れる。一度見れば覚えられる簡単な作業のようで、実際は絶妙な力加減と節度が求められる。先輩の指先は無駄なく動き、結び目ひとつにも美しさが宿っていた。
「おはようございます、先輩。寝癖は……無いですね!」
「おはよう、綺良々。そう何度も後輩に寝癖を直させるのもな」
「何回だって直してあげますよ。次はハート型とかどうですか?」
軽口を交わしつつ、わたしも作業に加わる。箱の素材を確かめ、紐の長さを指先で測り、結び目をつくる。以前までよりも、手の動きが自然だ。旅の間に覚えた数々の手際が、今、一本の道具のように自分の中で繋がっていることに気づく。
準備を終え、箱を背負い店を出る。街は朝の活気に満ち、屋台からは甘い団子や焼き魚の匂いが漂う。通りの人々が狛荷屋色の服に目を止め、会釈してくる。走り出す前、先輩がわたしに目配せをした。
「行くぞ」
「はいっ!」
掛け声とともに、わたしたちは駆け出した。石畳を飛ぶように風を切り、荷物の重さを感じながらも軽やかに前へ進む。周囲の景色が流れるように変わり、香りが移ろい、人々の声が点から線へと続いていく。
ふと横を見ると、ヤマト先輩の髪留めが陽光にきらりと光った。同じ花型の髪留めがわたしの髪にも揺れている。わたしは頬がゆるむのを感じた。
旅は終わっても、こうして並んで走る時間は続くのだろう。胸の奥に残っていた問いに、少しだけ言葉が浮かぶ。
それはたぶん、別れでも終わりでもなく、始まりとこれからの間にあるもの。夜明けの潮風と朝の茶の香りが混ざり合ったような、重くも軽くもない感覚。わたしはそれを大切に胸に抱え、次の配達先へと跳んだ。
道中では、瓦の隙間から覗く稲妻の景色が次々に現れては消えた。庭先で水を撒く老婦人、軒下で炙り餅を焼く男性、縁側で風車を掲げる子供たち。人々の日常の一瞬一瞬を眺めながら通り過ぎる。
時折、屋根上から猫の鳴き声が聞こえ、尻尾が思わずそちらへ揺れるのを我慢した。仕事中、寄り道は厳禁だ。
「狛荷屋さんですね、こちらへどうぞ」
「おお、これで足りない薬が補充できる。助かったよ」
「遠路遥々、ありがとうございました」
紙に受け取りの印をもらい、わたしたちは荷物を全て渡し終える。荷物を失った背中が軽くなるのと同時に、心の中に小さな充実感が溢れる。仕事の終わりのこの感覚は、旅を通じて少しずつ変わってきた。
かつては安堵と疲労だけだったものが、今はそれに加えて、次の仕事への静かな闘志が宿っている。
帰り道は、行きと違いゆっくりと歩いた。箱を抱えていないため、早く戻る必要がない。石畳の感触を足裏で確かめながら歩く。
道端で団子を売る屋台から甘い香りが漂い、わたしは思わず足を止めた。小さな串に刺さった団子は柔らかそうで、少し焦げ目がついている。屋台のおじさんと目が合うと、彼は笑って団子を差し出した。
「配達帰りかい? お疲れさん。試食だと思って食べてみな」
「ありがとうございま……わっ、熱っ!」
口に運ぶと、みたらしのとろりとした餡が舌に広がり、弾力のある団子がもちもちと弾む。思わず尻尾が大きく動き、先輩が小さく笑った。帰郷したばかりなのに、早くも町の温かさに包まれている自分を感じる。
店に戻ると、昼の陽光が店内に斜めに差し込んでいた。午前中の仕事を終えた社員たちが帳簿を整理したり、束の間の休息に茶を啜ったりしている。わたしと先輩が受領書を店長に渡すと、店長は目を細めて受け取り、棚にしまった。
「流石は二人だ。速く正確、評価も星五つだ」
店長はそれだけ言って、さらなる褒め言葉も詮索もしない。狛荷屋では仕事の成果が黙して語る。わたしは心の中で小さく胸を張った。
午後は各自が事務作業や道具の手入れに取り掛かる。私は久しぶりに自分の愛用の風防付き配達袋を広げ、革の状態や縫い目を点検した。
旅の途中で何度も雨や砂に晒された袋は、ところどころが色褪せていたが、縫い目は一度もほつれていなかった。それを見て、過去の自分の仕事が現在の自分を支えているのだと実感した。
夜、店の皆でささやかな食事会が開かれた。大きな桶に盛られた刺身や煮物が並び、湯気の立つ味噌汁が広げられる。
旅の土産話をひとつふたつと披露すると、年配の社員たちが笑い、若い社員たちが目を輝かせる。先輩は静かに箸を動かしながらも、ときおりわたしの方を見てうなずく。その優しさに気づいているのは、たぶんわたしだけだ。
食事の後、店の裏庭に出ると、空には花火が上がっていた。色とりどりの光が夜空に咲き、瞬いては消える。その音に重なって、街の人々の歓声がこだまする。
わたしは尻尾の先で草を撫でながら、花火を見上げた。その隣にはいつの間にか先輩がいて、同じ空を眺めている。
「今日は祭りの予定は無い筈だが。花火屋の試作品か?」
「でも、綺麗ですよ……花火って不思議ですね。上がって、光って、すぐ消えちゃうのに、みんな笑顔になります」
大きな花火が夜空を彩る。光と音がわたしたちの影をちらちらと揺らし、髪留めがその度にわずかに光を返した。そこでわたしはようやく、朝から胸の中で言葉にならなかった思いが少しずつ形になっていくのを感じた。
──ひとつの旅が終わると、また次の旅が始まる。ううん、もしかすると、ずっとひとつの旅が続いているのかも。
自分でも曖昧な答えだと思う。でも、その曖昧さこそが今のわたしにはしっくりくる。終わりと始まりの境目で、尻尾を揺らしながら立ち止まり、また歩き出す。夜空に残る花火の残光のように、旅の記憶はしばらく消えないだろう。その光が消える頃、きっとわたしはもう次の荷物を背負って新しい空の下を駆けているに違いない。
● ●
稲妻城は、夜明けの藍が薄れ始める頃から既に起きている。
長らく続いた鎖国令が解かれて幾月。それはつまり、オレと綺良々の経費旅行が終わり、狛荷屋の国際業務が本格的に始動したということだ。
とはいえ、国を跨いでの配達を任せられるような人員は限られている。今は綺良々の専売と言っても過言ではない。おそらく今頃は、モンドへ荷物の受け取りに行っているはずだ。あそこの物流拠点はキャッツテールを間借りしていると聞いた。マーガレットの所ならば問題は無いだろう。
「さて、作業はこんなものか」
狛荷屋の倉庫で荷馬車の点検を終える頃には、他の社員は既に出払っていた。当然、配達予定の荷物も全て無くなっている。少し前までは増える配達依頼と新人教育でてんてこ舞いだったのだが、最近の新人は覚えが良いらしい。
こうなると、町へ出て自分の足で配達依頼を受けに行くのだが……
「空の荷馬車を見せると、子どもたちにどやされるからなあ」
しかし、こうして店内で立ち尽くしていると、今度は店長に見つかりかねない。それはそれで面倒だ。それならば子どもたちに絡まれるほうがマシである。
「それじゃあ、出発するかねえ」
この後は、町娘のお房と小さな冒険を繰り広げることになるのだが、それはまた別の機会に語るとしよう。
──届けば十分、寝れば上等。
今日もまた、狛荷屋の一日が静かに過ぎていく。
予定とは異なりますが、このお話で『狛荷屋ヤマトの宅配便』はお終いです。
読んでくださり、ありがとうございました。
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