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稲妻の夏は、息をするだけで胸の奥が熱を帯びる。潮風は港の帆布を叩いては返り、焼けた木の香が空気に混じる。幟がほどけ、太鼓が試し打ちを受け、屋台の板戸が乾いた音を立てる。魚を捌く音、団扇の紙が鳴る音、子供らのはしゃぎ声が、石畳の上で入り混じって波のように寄せては返した。
狛荷屋の荷車を押すヤマトは、そんな喧噪のただなかをのんびり歩いていた。荷台には火薬の樽と木枠、紙筒、仕掛けの針金が積まれ、軋みながら揺れている。火の気は遠ざけ、揺れは抑え、音は静かに――祭りの心臓を運ぶのだ、派手さより正確さが肝心だ。
「ヤマトー、こっちこっち!」
陽射しより鮮やかな声が、進行方向の先から跳ねた。顔を上げれば、子供を数人引き連れた
「ええとこ通ったやん。ちょうど荷、増えたんよ。手ぇ貸してくれへん?」
「狛荷屋は遊び場じゃねえぜい。……まあ、宵宮の頼みは断れねえがな」
「助かるわ! せやけど、この子らにも手伝わせたって。運ぶんも祭りのうちやろ?」
宵宮は小さな手に飴玉を一つずつ握らせた。紙包みがほどける音、舌の上でころがる小さな幸福。子供らは「やった!」と跳ね、荷車の端に肩を寄せる。
「……飴の匂いが荷に移ると猫が寄ってくるぜ」
「来たら撫でたらええやん。祭りは賑やかなほうがええねん」
ヤマトは肩を竦め、
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屋根の下では、職人が提灯の骨を検め、染屋の娘が反物を張って風を呼ぶ。板場の包丁が刻む拍子に、路地のどこかで三味線が応える。祭りはまだ来ていない、だが町はもう祭りの半分ほどを先に受け取ってしまったように浮き立っていた。
「ヤマト、見てみ。今日の空、めっちゃ澄んどるやろ?」
「風がいい。煙が抜ける」
「せや。ええ風は、花火をよう咲かせる。――よっしゃ、もうひと踏ん張りいこか!」
掛け声に、子供らが笑って応じる。荷車の車輪が一段と唸り、坂は急になる。木枠がごろりと鳴った。
「おっと」
「みんな、ちょい下がりぃ! 危ないで!」
宵宮の声に子供らが跳ね退く。その刹那、樽が転びかけた。ヤマトは
「うわー! 馬や、石の馬や!」
「さっすがやな、ヤマト。助かったわ」
「揺れは敵だ。――宵宮、縄をもう一丁くれ」
「ほいきた。結び目は任せてな」
宵宮の指が走り、縄は二度、三度、手際よく締まる。汗がこめかみに光り、目尻のしわまで陽気に弾んでいた。
「火薬は危ないもんや。せやけどな、危ないからこそ綺麗なんや。怖い思いをひとつでも減らすんが、うちらの責任や」
「荷も同じだ。無事に届けてこそ、初めて役に立つ」
「せやろ?」
言葉は軽いのに、芯は太い。ヤマトはうなずき、岩馬の背を軽く叩いた。岩馬の影が地を伸びて、みんなの足元をひとつに包む。
その足元へ、影がもうひとつ、ぬるりと滑り込んだ。猫である。飴の甘さと、荷の隅に残った魚籠の匂いに誘われたのだろう。尾を立て、荷車に跳び乗ろうと腰を揺らす。
「こら、商品の箱は噛むんじゃねえ」
「ええやん、ちょっと撫で――あかん、今は荷が優先や。猫ちゃん、あとで遊ぼ」
ヤマトは指先で小さな輪を描いた。岩馬の足元から低い石の柵がすうっと生え、荷車の周りを囲う。猫は「にゃっ」と抗議して、柵の外に座り込み、飴玉を舐める子供らをじっと見た。
「見られてると落ち着かねえな」
「うち、視線は大歓迎やけどな。――ほな、先いこ」
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坂をさらに登る。途中、風が強く吹き、軒先の新しい提灯が二つ、ばさりと踊って外れかけた。
「やば、飛ぶで!」
「任せとき!」
宵宮は身を翻し、足場を二段飛ばしで駆け上がる。紐を片手で引き寄せ、もう片手で結び目を作る。その早さ、結びの確かさ――職人の手だった。見上げた子供らが「すげえ!」と手を叩き、店の親父が「おおきに!」と頭を下げる。
「そっちの縄、締め直しとくわ! ――ヤマト、荷は大丈夫?」
「岩馬が押さえてる。問題ねえ」
「ほな良し。――よし、次は花火屋や!」
呼吸を合わせて最後の坂を押し切る。長野原花火屋の暖簾が夕光に赤く揺れていた。軒先には木枠、紙張りの筒、金具の箱が整然と並び、奥の作業場からは澄んだ金属音が聞こえる。
「父ちゃん、戻ったでー!」
宵宮が声を張ると、奥から父・龍之介が出てくる。耳に手を当て、笑顔を向ける。
「おかえり。よう運んでくれたなぁ」
「ヤマトががおって助かったわ。みんなも、よう頑張ったな」
子供らは胸を張り、「おれ、木枠二つ運んだ!」「わたしも!」と口々に報告を始める。宵宮は一人ずつ頭を撫で、「えらいえらい」と笑った。
「荷はここに並べといて。火の気は厳禁やで。――ほな、仕舞い仕事、手ぇ早よすませよか」
ヤマトは荷を降ろしながら、作業場を一瞥した。木の机に広げられた色紙、筆で描かれた図案。「菊」「牡丹」「柳」の文字。線は生き物のようにしなやかで、紙の上ですでに火花の予感がひらいていた。
「お前さん、こういう線を見てる時が一番いい顔するな」
「そらそうよ。ここから先は、夢の入口やから。紙のままでは静かなもんが、夜になったら空で喋るんやで。ぱっと咲いて、すぐ散って。せやけど、人の胸には残るんや」
「刹那ってやつだな」
「せやけど、刹那がほんまに刹那で終わるかどうかは、うちらの仕事次第や。よう準備して、よう届ける。そうしたら、一瞬は長生きする」
宵宮は図案に指先をそっと当て、すぐに離した。触れたのは線ではなく、そこに宿る約束だった。
「――なあ、ヤマト。祭りの夜、いっしょに見よな。場所取りは任せ」
「団子は忘れねえようにな」
「そう言うと思った! ほんなら団子、うちが買うたる。あの子らにも配ろ」
「甘い匂いで猫が増える」
「猫はな、花火の音にびっくりして逃げるから大丈夫や。……たぶんやけど」
二人は顔を見合わせて笑った。笑い皺の形は違うのに、笑いの温度はよく似ていた。
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荷を納め終え、子供らは店先で輪になって飴玉を舐める。宵宮は紙吹雪の小袋を持ち出し、「合図でな」と言って空へ投げた。細かな色紙が夕景の中でひらひらと舞い、子供らの歓声が通りを駆け抜ける。
「今日はここまで。みんな、よう働いたな。――明日も手伝うやつ、集合やで!」
「はーい!」
解散の声がいくつも重なり、駆け足が遠ざかる。坂の上から港を見渡せば、帆柱の影が長く伸び、提灯に火が入る。潮の匂いは夜の気配を連れて、ひそやかに町を撫でていった。
「ヤマト」
「ん」
「ありがとな。うち、こうして走り回ってるときが一番うれしいんや。せやけど、一人やと届かん場所もある。あんたがおると、そこまで届くんよ」
「オレは荷を運んだだけだぜい」
「それがええんや。『だけ』が一番むずいんやから」
宵宮は両手を腰に当て、夕風に目を細めた。頬に残る汗が、光をほどいて消える。
「――うち、花火をあげるとき毎回思うねん。『今がいっちゃんええ』って。それを信じさせるために、うちは笑うし、よう働く。子らにも大人にも、それを見せたいんよ」
「昼寝も似たようなもんだな」
「昼寝が?」
「一瞬目ぇ閉じるだけで、体が軽くなる。起きたときに『今がいっちゃんええ』って言える」
「はは、ええこと言うやん。――ほな、今度一緒に昼寝もしよか」
「おう。邪魔されない場所がいるな」
「うち、ええ木陰知っとる」
宵宮がいたずらっぽく笑うと、路地の奥から鈴の音が転がってきた。さきほどの猫が、柵の外からついてきていたのだ。宵宮がしゃがみこみ、指を差し出す。
「ごめんな。今日は撫でられへんのや。仕事終わったら、ちょっとだけな」
猫は一声鳴いて、提灯の影に溶けた。風がゆっくりと暖簾を持ち上げ、花火屋の内部に夜の涼しさが流れ込む。
「さて、うちは中で最終確認してくるわ。ヤマトはどうする?」
「港を一回りしてから、どこかで一眠りだよい」
「ほんま変わらへん人やなあ。――でも、そういう人がおると、祭りはちゃんと始まれる」
宵宮は手を振り、作業場に消えた。残されたヤマトは荷車の取っ手を撫でて、ゆるく首を回す。仕事は終わった、風は涼しい、目蓋は重い。
坂を下りると、屋台の灯がぱらぱらと点った。油の匂い、焼ける醤油、甘い蜜。太鼓はまだ遠慮がちだが、明日の夜には堂々と腹を打つだろう。ヤマトは岩馬に短く合図を送り、見張りを任せて木陰に腰を下ろした。
「宵宮のやつ、よく喋る」
独りごちると、どこかで子供の笑い声が応えた気がした。仕事の手応えが掌に残り、耳の奥には太鼓の練習が残響する。石畳に背をもたせ、空を見上げる。篠の目みたいに枝の間から覗く青が、少しずつ藍に沈んでいく。
「祭りは、もう始まってるな」
ヤマトは目を閉じた。まぶたの裏に、まだ上がらない花火の図案がやわらかく灯る。菊、牡丹、柳。どれも一度きり、けれど、何度でも思い出せる。
眠りは浅瀬の水のように寄せては返し、やがて静かな底をつくった。遠く、提灯の灯が川面のように揺れ、誰かの「あした」が小さく笑った。
20話以降の狛荷屋ヤマトの方針について(活動報告に詳細アリ)
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