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スメールの森は、雨上がりの匂いに沈んでいた。
夜半の大雨が枝葉を濡らし、朝になってもまだ雫は葉の裏に張り付いている。日差しを受けては光を砕き、ぽとりと落ちて地面の苔を叩く。湿った風は草いきれを運び、鼻腔の奥まで土の匂いを染み込ませた。鳥の羽ばたきが枝を揺らし、小さな蛙が泥を跳ねる。森全体が水に磨かれたように濃く、鮮やかに息づいていた。
「雨のあとに慌てて歩くやつは、足を取られるのがオチだぜい」
木陰を見つけ、荷車を止める。幹の下に腰を下ろすと、枝から雫がひとつ落ちて膝を打った。水音は心地よく、湿った風も肌を冷やしてくれる。ここなら昼寝にもちょうどいい。
「……ここで一眠りしていきてえな」
ヤマトが目を細めたそのとき、背後から声がした。
「……感心しないな」
耳の長い青年が立っていた。緑の装束に弓を携え、尾を揺らしてこちらを見据えている。森の警戒を解かぬその姿は、まさしくレンジャー長の威容だった。
「レンジャーか」
「君が狛荷屋の配達員だね。この森を通ると聞いていた。……しかし、雨上がりに道から外れて休むとは危険だ。森は一晩の雨で匂いも形も変わる。方向感覚を失うのは容易い」
「迷っちゃいねえよい。ただ、昼寝にいい木陰を見つけただけさ」
「……全く。危機感が薄すぎる。君の荷に責任はないのか?」
「荷は濡れねえようにしてある。倒れりゃ困るが、こうして支えてりゃ問題はねえ」
ティナリは眉をひそめ、耳をぴくりと動かした。
「荷が無事でも、運ぶ者が道を見失えば同じことだ。森は生きている。慎重さを欠いた者を、容赦なく飲み込むぞ」
ヤマトは肩を竦め、にやりと笑った。
「慎重も大事だが、急ぎ過ぎりゃあ足を取られる。……そういうもんだろ」
ティナリは短く息を吐き、ため息とも呆れともつかぬ声音を漏らした。
「……学者の弟子たちが君の少し前を通った。雨上がりでも急いでいたが、あれでは足を取られるのが目に見えている。確かめに行かねばならない」
「急いだ結果、足止め。ありそうな話だな」
「君も同行しろ。荷を運ぶなら道案内が必要だろう」
「助かるよい。昼寝はまた今度にするさ」
ヤマトは立ち上がり、荷車を押し直した。ティナリは前を歩き、二人と荷車は湿った森を進み出す。
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森は五感を覆った。湿土の匂い、濡れた葉のきらめき、枝から滴る水音。遠くで鳥が囀り、木々の隙間から射す光は霧を透かして揺れていた。
「この湿度、君にはきつくないか?」
ティナリが振り返った。
「荷には湿気に弱いものもあるだろう。管理はできているのか」
「問題ねえよ。しっかり包んであるし、重心も低くしてある。転ぶと困るがな」
「それは良い。……だが君の歩調は遅い。急げば昼までに着く距離だ」
「急いで泥に沈んじまえば、昼には着かねえだろうよ」
ティナリは眉を寄せ、言葉を探すように沈黙した。その背にヤマトは笑いを漏らす。
「お弟子さんたちは、昼までに着くかねえ」
「彼らはまだ半人前だ。研究に熱心なのは結構だが、足下を軽んじるなと何度も言ってきた。焦りは無駄を増やすだけだ」
「まあ、休んでから歩けば足は軽い。遠回りに見えて近道になることもある」
「……君のような考え方も、一理あるかもしれない」
ティナリの声は低く、しかしどこか譲歩を含んでいた。尾がゆるやかに揺れる。
森はなお湿り気を残し、二人の歩調は違えども、同じ道を進んでいった。
森の奥へ進むにつれ、湿り気はさらに濃くなった。水を含んだ土が靴底を吸い、枝からは雫が絶え間なく落ちる。虫の羽音がまとわりつき、時折小さな動物が茂みを駆け抜ける。
ヤマトはのんびりと荷車を押し、ティナリは前を行きながら耳を動かし、風の流れを読んでいた。
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「聞こえるか。前方から人の声だ」
ティナリの耳がわずかに震える。ヤマトも立ち止まり、耳を澄ませた。
「……助けてくれ! 足が抜けない!」
「このままじゃ荷も……!」
叫び声は切迫していた。二人は藪を分けて進み、視界が開けた。
そこは湿地の縁だった。昨夜の雨で水気を含んだ地面がぬかるみ、三人の弟子が片足を深く沈めてもがいていた。荷を抱えたままでは身動きが取れず、焦りに顔を歪めている。
「……やっぱりな」
ヤマトが小さく呟く。ティナリの顔は厳しく引き締まった。
「全く、だから言ったんだ。雨の後に不用意に走ればこうなる」
「ティナリ先生!」
弟子たちが救いを求めるように叫んだ。ティナリは矢筒から一本を抜き、周囲に目を走らせる。
「まず足場を固める。ヤマト、頼めるか」
「おうよ」
ヤマトは掌を打ち鳴らした。地面がざわめき、光を帯びた岩片が集まる。瞬く間に馬の姿をとり、岩馬が低く嘶いた。蹄が湿地を踏みしめると、石の筋が道のように広がり、足場を固めていく。
「ほらよ。これで抜けられるぜい」
弟子の一人が恐る恐る足を動かすと、泥は抵抗を失い、するりと抜け出せた。
「すごい……! 本当に助かった!」
次の瞬間、森の影がざわめいた。ぴょん、と跳ねる音。ぬかるみの奥から数匹のキノコンが飛び出し、胞子を撒き散らす。
「っ!」
弟子たちは思わず目を覆う。白煙が広がり、視界が曇る。
「下がれ!」
ティナリの矢が飛び、胞子袋を正確に射抜いた。破裂音と共に煙が弾け、風に流される。残った個体を岩馬が前脚で払うと、泥水が跳ね、キノコンは転がって動かなくなった。
「……ふぅ」
弓を下ろしたティナリが息を整える。弟子たちは泥にまみれたまま、胸を押さえて震えていた。
「助かった……危なかった……」
「危なかったでは済まされない」
ティナリの声は厳しかった。
「君たちは僕の忠告を忘れたのか。雨の後は地面が不安定になると何度も言ったはずだ。焦って進んだ結果、足を取られ、荷を失いかけた。もし今のがキノコンではなく大型の魔獣だったら、命も失っていた」
弟子たちはうなだれ、互いに視線を交わす。
「……すみません」
ヤマトは荷車の取っ手に肘を預け、のんびりと口を開いた。
「まあまあ。遠回りに見えても、休んでから歩いたほうが足は軽い。焦って足を取られるより、よほど近道だぜい」
弟子たちは顔を上げ、思わず聞き入った。ティナリは沈黙したのち、尾をひと振りして息を吐いた。
「……彼の言葉も、一理あるだろう。急ぐあまり無駄を増やすのは愚かだ。君たちも肝に銘じろ」
「はい!」
弟子たちは力強く返事をし、荷を抱え直した。
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その後の道のりは、慎重さに満ちていた。岩馬が固めた足場を弟子たちは恐る恐る踏みしめ、ティナリは前を歩いて時おり振り返る。ヤマトは荷車を押しながら口笛を吹き、湿った森の空気を肺いっぱいに吸い込んでいた。
やがて木々が途切れ、学者たちのキャンプが見えてきた。白い天幕が並び、焚火の煙が漂う。薬草を煮出す匂いが風に乗り、忙しげな声が響く。
「戻ったぞ!」
ティナリが声を張ると、学者たちが駆け寄った。
「無事で良かった……!」
「荷も弟子たちも揃っている!」
歓声が上がり、弟子たちは安堵の笑みを浮かべた。ティナリは荷を確かめ、満足げに頷いた。
「正確さと慎重さは、森を歩む者には欠かせない。だが……」
ティナリの視線がヤマトに向けられる。
「君のような余裕も、時に無駄ではないようだな」
ヤマトは取っ手を撫で、口の端を上げた。
「昼寝と同じさ。邪魔されずに終えられれば、それでいい」
ティナリは一瞬きょとんとしたが、すぐに小さく笑みを浮かべた。
「……全く、君というやつは」
荷を降ろし終えると、ヤマトは大樹の下に腰を下ろした。枝葉が陽を遮り、鳥声が涼やかに響く。湿った森の匂いはまだ残っているが、風は心地よい。
「さて……ちょっと昼寝でも」
目を閉じれば、雨の匂いと鳥声が遠ざかり、静かな眠りがすぐそこにあった。ティナリは尾を揺らし、呆れ半分に笑いながら背を向けた。
「君というやつは……」
森の静けさに溶け、ヤマトの寝息がゆるやかに響いた。
20話以降の狛荷屋ヤマトの方針について(活動報告に詳細アリ)
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