死ぬほど周回したブルアカのフルダイブVRゲーム世界に転生(絶望) 作:ふい
デスクに置かれたタブレット端末――『シッテムの箱』。
その画面に浮かび上がった『From: 連邦生徒会長代理』の文字を、俺は無感動に見つめていた。これから始まる長い長いチュートリアルと、それに続く物語の始まりを告げる、忌まわしい通知だ。
指先が震えもしなければ、高揚することもない。ただ、目的を遂行するための一つのパーツのように滑らかに画面に触れた。
メッセージを開く。
そこに綴られていたのは何千回と読んだ、丁寧だがどこか一方的な文面だった。
『初めまして、先生。私は現在行方不明の連邦生徒会長に代わり、その職務を代行している者です。この度は、私たちの要請に応じていただき、誠にありがとうございます。先生には、ここ学園都市キヴォトスに新設された連邦捜査部『シャーレ』の顧問として、生徒たちが巻き起こす様々な問題の解決にご尽力いただきたく存じます。つきましては、まずお手元にある『シッテムの箱』を起動し、先生の業務をサポートするAIとの接続を確立してください。先生の今後のご活躍を、心よりお祈りしております』
「……茶番だな」
思わず心の声が漏れた。
このメッセージの送り主が誰なのか、俺は知っている。
連邦生徒会の首席行政官、『七神リン』だ。彼女がどんな思いで、どんな状況でこの文章を打ったのかも、手に取るように分かる。
だが、そんな背景を知っていても俺の心には何の感慨も湧いてこない。
俺はメッセージを閉じ、タブレットのホーム画面へと戻る。
中央に鎮座する特徴的なアイコン。
『<A.R.O.N.A>』
これこそが、この『シッテムの箱』の中核であり、俺のパートナーとなるメインOSだ。
アイコンをタップする。
画面が暗転し、幾何学的なラインが走り、システムが起動していく様子が映し出される。これも見慣れた光景だ。
この起動シーケンスの時間はRTAにおいて計測ロスとなるため、俺は昔、この時間をいかに短縮するか、あるいはこの時間に他の操作を先行入力できないか、血眼になって研究したものだった。
もちろん、そんなことは不可能だったが。
『パスワードを入力してください』
無機質なテキストが表示される。
初期パスワードは、『我々は望む、七つの嘆きを。我々は覚えている、ジェリコの古則を』。連邦生徒会長が遺したとされる言葉だ。
俺は一文字の間違いもなく高速でそれを打ち込む。タイピングの速度はもはや脳を介さず、指が覚えているレベルにまで達していた。
認証が完了すると画面の中央に光が集まり、一つの人影を形作っていく。
そして、弾けるような笑顔と共に、青を基調としたセーラー服に身を包んだ快活そうな少女の3Dアバターが姿を現した。
「初めまして、先生! 私の名前はアロナです! この『シッテムの箱』のシステム管理者であり、先生の業務をサポートさせていただく、超高性能な秘書AIです! どうぞ、よろしくお願いしますね!」
元気いっぱいの、弾むような声。くるくると変わる表情。その全てが完璧に計算され、プレイヤーに最高の第一印象を与えるように設計されている。
初めて彼女に会った時、俺はそのあまりの可愛らしさと、AIとは思えない人間味に度肝を抜かれたものだ。
だが、今の俺の心は、凪いだ冬の海のように静まり返っていた。
(アロナの顔を見ると頭痛がするようになったのは何周目からだっけか……)
内心でそう呟きながらも、俺の外面は完璧な『先生』を演じ続ける。
口角をわずかに上げ、驚きと喜びが混じったような、それでいて落ち着きのある表情を作る。声のトーンは、相手に安心感を与えると言われる周波数帯を意識して、ゆっくりと口を開いた。
「初めまして、アロナ。私がここの『先生』だ。これからよろしく頼むよ」
「はいっ! こちらこそ、よろしくお願いします、先生!」
俺の完璧な応答に、アロナは満面の笑みで応える。プログラムされた反応だ。
「えーっと、では早速ですが、先生の認証と個人データの登録を……あれ? あれれ?」
アロナが、何やら困ったように首を傾げる。予定調和の展開だ。
「おかしいですね……先生の個人データが、ほとんど何も登録されていません。お名前、年齢、経歴……全部、真っ白です。先生……いったい何者なんですか?」
不安そうな表情で、アロナがこちらを見上げてくる。
ここは、プレイヤーが自身の正体について、いくつかの選択肢の中からロールプレイを楽しむ最初の場面だ。もちろん、自由会話であるこの世界に、決まった選択肢は表示されない。
だが、最適解は存在する。
ここで与えるべき印象は、『ミステリアス』さと『包容力』、そして『信頼感』だ。
俺は表情を崩さず、困惑するアロナの瞳をまっすぐに見つめ返す。そして、ほんの少しだけ寂しげな、だが温かみのある笑みを浮かべてみせた。
「……ただの、『大人』だよ」
「お、大人……ですか?」
「ああ。名前も、過去も、今の君にはまだ、大した意味を持たない。それよりも、これから私が何をするのか、それを見ていてほしい。そして、君が私を『先生』だと認めてくれたなら、その時に改めて自己紹介させてもらえると嬉しいな」
完璧だ。
過去の何千回というプレイデータから導き出した、最も評価の高かった回答の一つ。曖昧に過去をはぐらかしつつ、未来への期待感を抱かせ、相手に判断を委ねることで誠実さをアピールする。攻略wikiの俺のページには、『安定する初期ムーブ』として太字で記載されているはずだ。
案の定、アロナは目をぱちくりさせた後、頬をぽっと赤らめて、どこか感心したように頷いた。
「……な、なんだかよく分かりませんが、すごい自信ですね、先生! 分かりました! これから先生のこと、私がしっかり見させていただきますからね!」
「ああ、頼りにしているよ、アロナ」
「はいっ! お任せください!」
チョロいものだ。 内心で毒づきながらも、俺は穏やかな笑みを崩さない。
そうだ。
こうやってこれから出会う全ての生徒たちを、最適解の言葉と行動で、チョロいチョロいと心の中で見下しながら手玉に取っていかなければならないのだ。
(……ああ、クソ……)
込み上げてくる吐き気を、深呼吸でなんとか腹の底に押し込める。
俺は一体何をやっているんだ。
こんな空っぽのやり取りを、これから何百、何千と繰り返すのか。
彼女たちの純粋な信頼や好意を、計算ずくの演技で受け流し続けるのか。
『完全クリアによる脱出』
その万に一つの可能性だけが、俺の心を繋ぎとめる唯一の錨だった。
ありえない、馬鹿げていると、頭では分かっている。
だが、この希望がなければ、俺は今この瞬間に窓から身を投げていただろう。
そうだ、やるしかないんだ。
絶望的な虚無感を押し殺し、完璧な『先生』を演じきる。
「さて、先生! 気を取り直して、最初のお仕事です!」
俺の内心の決意など知る由もなく、アロナがパンッと手を叩いて、明るい声で言った。
画面に戦闘シミュレーションの文字と、キヴォトスの地図が表示される。
「まずは、先生の指揮能力をテストさせていただくための、簡単な戦闘シミュレーションを行います! その後、実際に最初の任務地へと向かっていただきます!」
地図上の一点が、赤く点滅している。
『アビドス高等学校 自治区』。
全ての始まりの場所だ。
「戦闘シミュレーション、そしてアビドスへ。……分かった。すぐに準備しよう」
俺はアロナが驚くほど落ち着いた声で、そう答えた。
当然だ。これから何が起こるか、全て知っているのだから。
「あれ? 先生、なんだかすごく落ち着いてますね? 初めてのお仕事なのに、緊張とかしないんですか?」
アロナが不思議そうに小首を傾げる。
これもAIにプログラムされた反応パターンの一つだ。
プレイヤーの没入感を高めるための、ちょっとしたスパイスのようなものだろう。
俺は、ふっと息を吐き、窓の外のキヴォトスの景色へと視線を移した。
そして、この世界に来て初めて、完璧な演技ではない、ほんの少しだけ素の感情が混じった笑みを浮かべた。それは、諦観と、自嘲と、そしてほんのわずかな挑戦的な色が滲んだ、複雑な笑みだった。
「緊張か……。そうだね。少しだけ、武者震いがする、と言っておこうかな」
嘘だ。
震えなど微塵も感じない。あるのは、面倒な作業を前にした時の、うんざりとした感情だけだ。
だが、この回答もまた、アロナの評価基準においては高得点になるはずだ。
「む、武者震い……! かっこいいです、先生!」
ほらな。
俺はアロナに背を向け、執務室のドアへと向かう。
ドアノブに手をかける。
ひんやりとした金属の感触が、やけにリアルに掌に伝わってきた。
「行こうか、アロナ。いつまでも、ここにいるわけにはいかない」
「はいっ! シャーレ、本格的に始動です!」
ドアを開け、一歩、廊下へと踏み出す。
コンクリートと乾いた空気が混じった匂い。遠くから聞こえてくる都市の喧騒。肌を撫でる、空調の風。 その全てが、俺の五感を刺激し、「ここが現実だ」と訴えかけてくる。
だが俺は騙されない。
これはよくできたゲームだ。
そして俺は、そのゲームを遊び尽くした、ただの廃人プレイヤーに過ぎない。
これから出会う少女たち。
これから乗り越える困難。
これから紡がれるはずの、感動の物語。
その全てが、俺の目には色褪せて見えている。
それでも、やるしかない。
虚無の先にある、万に一つの可能性を信じて。
俺は、最初の目的地であるヘリポートへと向かって、静かに歩き始めた。