シンデレラガールズたちの事件簿   作:8000

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扉をひらいたら ~双葉杏の推測~

 

  窓の外を見れば、ついこの間まで桜色に染まっていた木々達は、すっかり花びらを散らして葉を青々とさせていた。少しずつ夏の気配が近づくのを感じる。

 あの華やかな景色も好きだったけれど、こういう緑色の景色も私は嫌いじゃなかった。実家の花屋でいつも植物たちに囲まれているせいもあるかもしれない。

 まあ、今の私たちに季節の移り変わりを楽しむ余裕など無かったのだけれど。

「ぐあーっ、疲れたぁ! もう一歩も動けないぃぃ」

 レッスンルーム横の休憩スペース。ベンチに腰掛けるというよりももはや倒れかかるように座りながら未央がぼやく。

「未央、さっきからそればっかり言ってない?」

 同じようにレッスンで火照った体を落ち着かせながら、私は未央の横に腰掛けて応じる。

「だってさぁ、足がもうパンパンになってるんだよ!? この痛みには慣れないって」

「トレーナーさんもいつもより厳しいですもんねぇ」

 汗だくになった額をタオルで拭いつつ、それでも微笑みながら卯月が反対側に座る。

「今は大事な時期だから、厳しくなるのもしょうがないでしょ?」

 今日までの自分たちを取り巻く状況を思い返しながら私は言う。

 

 私こと渋谷凛がプロデューサーを名乗るスーツの男性に突然スカウトされて、なんだかんだでアイドルになり、346プロというこのお城に招かれて一ヶ月が過ぎた。

 その一ヶ月のうちに、個性豊かなプロジェクトの仲間達に出会ったり、先輩アイドルのバックダンサーとして突然ステージに立つことになったり、私と未央と卯月の三人でユニットデビューすることになったりと、私の周りの状況は目まぐるしく変わっていった。

 今はデビュー曲のレコーディングを終えて、ユニットでの初めてのライブに向けて今まで以上に本格的な重ねる日々を続けていた。

 アイドルや芸能界の事情に疎い私でも、なんだか上手くいきすぎているのは感じていた。しかし、期待されている以上は手を抜きたくないと思っているし、やるからには全力で臨むべきだと思っている。

 それはきっと未央と卯月も同じ気持ちのはずだ。

 

「……うん、そうだよね」

 未央は少し上を向きながら納得したように一つ息をつくと、「よいしょっ」と少し勢いを付けながらベンチから立ち上がった。

「まだまだこれからなんだから、こんな所でへこたれている場合じゃないし、早くこの痛みにも慣れていかなきゃね。日々のレッスンに慣れてきたら、ようやく私たちも一人前って感じがしない?」

「まだ最初の扉をくぐったぐらいじゃない?」

「しぶりんは手厳しいなぁ。あ、二人ともなんか飲む? 今日は未央ちゃんがおごっちゃうよ~」

 笑みを浮かべながら、未央はポケットから取り出した小銭入れをチャラチャラ鳴らす。

「いや、別にジュースぐらい奢ってもらわなくても」

「こういう気配りもリーダーたる者の役割なのさ」

「リーだーっていうのも別に関係ないと思うけど」

 私のツッコミも意に介さず、未央は壁際に並ぶ自販機に近づきながら「何にする?」と私たちに訊いてくる。なんだかんだで断る理由も特に無いので私は答える。

「じゃあ、スポドリ」

「しぶりんはいつもスポドリだねぇ」

「運動後の水分補給には最適でしょ」

「なるほど、確かに理にかなっている。しまむーは何が良い?」

「あ、じゃあ私も凜ちゃんと同じもので」

「オッケー、ならみんな同じでいっか。……って、ありゃスポドリ売り切れてるじゃん。どうする?」

「えっと、じゃあ私はお茶にします」

「しまむーはお茶ね。私はオレンジジュースにして、しぶりんは?」

「いや、なら私は水にするよ」

 そう言って私は自販機の横に設置してあるウォーターサーバーに向かう。そして、タンクの上に置いてある紙コップを取ろうとして、

 

「あっ」

 私と目が合った 。

 

「ん? どうしたの、しぶりん」

 私の反応を見て未央と卯月が傍に寄ってくる。そして、2人とも私の視線の先にある私たちを見た。

「あ、これって私たちのポスターじゃん。こんな所にも貼ってあったんだ」

「前にプロデューサーさんが見せてくれたものですよね」

 私たちの視線の先に貼ってあったのは、私たちのデビューシングルの告知ポスターだった。3人揃って撮ったCDジャケットが大きくプリントされている。卯月の言うとおり、つい先日プロデューサーから完成品を見せてもらった事が記憶に新しい。現物を初めて見た時は未央も卯月も子供みたいに喜んでいたし、かくいう私もこのポスターを見ると撮影やレコーディングの時の事が思い出されて、なんとも感慨深い気持ちになる。

「確か、CDショップとかだけじゃなくて、社内にも何枚か貼るって言ってましたね」

「いや、確かにそれは聞いたけどさあ……」

 未央がポスターの貼ってある場所を指さす。

「こんな目立たない物陰に貼る意味ある?」

 未央の言うことも分かる。

 私たちが今居る休憩スペースは、柱に沿って設置してあるベンチの他には自販機と植木ぐらいしかないシンプルな作りになっていて、スペースの奥は大きなガラス張りで中庭の様子が見える。自販機は壁に3台設置してあって、その自販機と一緒に並ぶ形で窓側の奥まった場所にウォーターサーバーも置いてある。ポスターが貼ってあるのはそのウォーターサーバーの上で、少し離れると自販機の陰に隠れてしまい、正直言ってなかなか気付きにくい場所だ。

「まったく、プロデューサーももっと貼る場所を考えて欲しいよね」

「そんなこと言っても、実際に貼るのはプロデューサーじゃないでしょ。宣伝部の人とか業者の人とか」

 不満そうに眉をひそめる未央に私は言う。確かにこんな人目に付かない場所に貼る意味は分からないけれど、私たちがどうこう言ってもしょうがない話だ。

「そりゃそうだけどさぁ……。あ、そうだ」

 何か思いついたのか、未央は突然手を叩くとゴソゴソと鞄を漁り始めた。

「なにしてんの?」

「いやさぁ、せっかく私たちの記念すべきデビューCDのポスターなんだからさ」

 ニヤリと笑う未央。その手にはいつの間にかフェルトペンが握られている。

「サインでも書き込んでおこうかと」

「……ホントになにしてんの」

「イヤイヤイヤ、いーじゃんいーじゃん。どうせこんな所に貼ってあるポスターなんて見る人居ないでしょ」

「プロデューサーに怒られても知らないよ」

「ダイジョブダイジョブ、バレやしないって。よっと!」

「あっ、ちょっと!」

 聞く耳持たず。未央はポスターへグイッと手を伸ばすと、迷い無く自分の写真の下に一気にサインを書き込んだ。

「やっちゃった……」

「うわぁ。未央ちゃん、サイン上手ですね!」

「卯月、褒める所じゃないよ」

 しかしながら、未央が書き込んだサインは確かにそれっぽい雰囲気がある。上手い下手に関しては私には分からないけれど、デフォルメされたMio Hondaの文字には躍動するような勢いがあって、未央の元気溢れる感じが伝わってくる。名前の下に添えられた星のマークがとても未央らしい。

「フッフッフー♪ こういう時のために密かに練習してきたのだよ。じゃあ、次はしまむーが書いてみる?」

「ええ!? わ、私ですか? 私、サインなんて書いたこと無いですよ」

「練習だと思えば良いんだって。これも一人前のアイドルになるために必要なことだよ」

「な、なるほどぉ。よーし……!」

 未央からペンを受け取った卯月がポスターに書き込み始める。あんな単純な甘言に乗せられるなんて、卯月が将来詐欺とかに引っかからないか心配だ。

「なんで卯月まで巻き込んだの?」

「そりゃ私たちのポスターなんだから皆で書いた方が良くない?」

「やれやれ、よく言うよ」

「よし! こんな感じでどうでしょうか……?」

 二人で話しているうちに、卯月がサインを書き終えた。

「どれどれぇ? お、可愛い!」

「へぇ……」

 卯月が書き終えたサインはフルネームを漢字で書いたシンプルなもので、サインというよりも署名という感じに見えるが、丸っこい字体は卯月らしい可愛さがにじみ出ていると思う。

「うんうん、良いよしまむー! すごくしまむーらしさが出てるサインだよ」

「そ、そうですか? えへへ……」

「よし、じゃあ最後はしぶりんだね」

 言うと思った。

「なんで私まで」

「そりゃ私たち三人でニュージェネレーションなんだから、しぶりんも書かないと完成しないでしょ? ほらほら、私もしまむーも書いたんだし」

 未央は悪戯っ子のようなにやけ顔を浮かべながら私に促してくるが、残念ながら私はそんなイタズラに荷担するつもりは無い。すでに二人が書き込んでしまったものはしょうがないが、なんとか躱してここまでに止めておこうと思ったのだが、

「はい、凛ちゃん!」

 卯月が私にフェルトペンを差し出してきた。その顔は未央と違って満面の笑顔だ。

「う、卯月……」

 こちらへの期待を込めた無邪気な笑顔で見られると、どうにも断りづらい。どうにかこの局面を断る言い訳は無いかと思案したが、どうしようも出来るはずもなかった。

「はぁ……しょうがないな」

 私は渋々ペンを受け取り、改めてポスターと向き合う。

 とは言ったものの、サインってどう書けば良いんだろう。いかんせんアイドルはおろか芸能界自体にも疎いものだから、サインの正しい書き方というものがそもそも分からない。卯月のように漢字でフルネームを書くべきか、未央のように英語で書くべきか。個人的には未央の方がそれっぽい気がするかなと思いながら、横目で二人のサインを見ながらそれらしい感じで書いていく。

「……一応書いてみたけど」

 そうして出来上がったのは、未央と同じように英語で書いたサイン。見様見真似で文字の書き方を変えてみたり小さく装飾を加えてみたりしたけれど、本当に芸能人のサインっぽい仕上がりになっているかどうかは自分ではよく分からない。

「ははぁ~ん、しぶりん、私のを参考にしたでしょ?」

 ポスターをのぞき込みながら、未央がニヤニヤと笑いかける。

「しょうがないでしょ。サインなんて書いたこと無いんだから」

「まあまあ。でも、結構しぶりんらしいサインだと思うよ? なんか『蒼』って感じがするよ」

「あお……?」

「えー、そんな感じしない? しまむーはどう思う?」

「え~っと、それはちょっと良くわからないですけど、私も凛ちゃんらしいサインだと思いますよ」

「分かるの?」

「なんとなくですけどね。でも、やっぱり手書きの字っていうのはその人の人柄が表れるものなんだと思います」

「ふぅん……そんなもんかな」

 改めて自分の書いたサインを見る。

 私たちの顔の横に添えるように書かれた拙いサインを見ると、未央の言うとおりただのポスターがなんだか特別なものに見えているから不思議なもので、妙に感慨深く、同時に気恥ずかしくなる。

「私たち、こんなサインをこの先たくさん書いていくんでしょうか」

「そうだよ~、こういうサインをいろんな場所でいろんな人たちに書いていく。それがアイドルってものさ」

 そう、私たちはもうアイドルで、もうすぐデビューする。誰かにサインを書くなんてことは、今まではテレビの向こうに見ていたことだけど、今度は私がしていくことになるのだ。私は想像する。例えば握手会や街中で、例えば色紙やCDジャケットに、いろいろな人にこのサインを書いていく自分を。だが、そのイメージは靄がかかったように曖昧で、上手く想像することは出来なかった。

 

「あれー? 三人ともなにしてんのー?」

 自分たちのサインを見ていた私たちの後ろから、元気な声が聞こえてくると同時にパタパタという足音も聞こえてくる。振り返れば、私たちのプロジェクトの中でも小柄な二人が駆け寄ってくる所だった。

「おっ、莉嘉ちゃんとみりあちゃんもレッスン終わったの?」

「うん! みくちゃんやかな子ちゃんとも一緒だったよー」

 私たちがデビューに向けたレッスンをしているのに対して、他のデビューが決まっていない子たちは、これまでと同じ基礎レッスンをみんなで纏まって行っていた。

「で、なにしてたのさ――。なんだか楽しそうだったけど」

「ふっふっふ~、実は今ね、このポスターにサインの練習をしてたんだよ~」

「おお! ホントだ! 未央ちゃんたちのポスターにサインが書いてある! これ自分で書いた の?」

「うわぁー、なんだか本当にアイドルみたーい!」

 莉嘉とみりあは、目をキラキラさせてポスターを覗き込んでいる。

「本当にアイドルなんだけどね。良かったら莉嘉ちゃんたちも書いてみる?」

「えっ、良いの!?」

「ちょっと未央……この子たちにも書かせてどうすんの」

「まあまあ、固いこと言わない言わない。せっかくだからみんなで書いたら楽しそうじゃん?」

「書きたい! アタシも書きたーい!」

「みりあも書きたーい!」

「オッケー、ふたりとも順番に書いてこう! ポスターに届かなかったら私が持ち上げてあげるし」

 私がジト目になる横で、未央は勝手に莉嘉たちに書かせはじめている。卯月なんかはそれを純粋に楽しみにしながら見ているし。止めたほうが良いのかな。

「ちょっとー、みんなして何してるにゃ」

 新たな声が割り込んだ。奥のトレーニングルームから、みく・かな子・智恵理・李衣菜・蘭子・きらりの6人が連なって現れる。みんな揃ってレッスンが終わった所のようだ。

「未央ちゃん、なに小さい子たちをたぶらかしてるの! それは会社の大事な宣伝物にゃ!」「でも、これは私たちの宣伝ポスターなんだから、私たちの物でもあるでしょ?」

「か、完全にワルガキの屁理屈にゃ……」

「あ、みくにゃんも一緒に書く?」

 未央が悪い笑顔でみくにペンを差し出す。

「ナニしれっと共犯にしようとしてるにゃ! みくはそんな悪事に加担するつもりは無いよ!」

「流石みくにゃんはマジメだね~。じゃあ、りーなが代わりに書く?」

「えっ! 良いの!?」

「りーなちゃん……」

 みくがジト目で李衣菜を見る。

「ほ、ほら! CDショップで、バンドのサインが書いてあるポスターとか見かけたら、すごいロックだって思うじゃん!」

「よく分からないけど、これは他人のポスターにゃ」

 というわけで、李衣菜が莉嘉たちに続いて書き込み始める。

「よし、じゃあ次はちえりんたちも行ってみようか!」

「ええっ、えっと……、本当に書いちゃって、いいの……?」

「もちろんだよ! もうこうなったらみんなで書いて、もっと豪華なポスターにしちゃおうよ!」

「じゃ、じゃあ……、お言葉に甘えて?」

「それじゃあ、私も智恵理ちゃんのサインの近くに書こうかな」

「クックックッ……、我が深遠なる闇の印、今こそここに記さん! (私もがんばってサイン書いて

みます!)」

「うっきゃー♪みんなでぇ、ハピハピサイン書いちゃおう!」

 いつの間にか、みんなノリノリでポスターに自己流のサインを書き込み始めてしまった。こういうところでウチのチームはみんなノリがいいというかなんというか……。

 自分は書かない姿勢を貫いていたみくも、最終的にはみんなに無理やり背中を押される形で書き込んだ。無理やりという割にはそんなに嫌がっていなかったので、みんなが書いているのを見ているうちに書きたくなってしまったのだろう。

 そうやって各々がウキウキとオリジナルのサインを考えながら書き込んでいってポスターは完成したが、

「……なんだかゴチャゴチャしてよく分からなくなっちゃいましたね」

「そりゃこれだけの人数で書き込めばね」

 みんなでサインを書き込んだ結果、ポスターの私たち3人の姿を除いて全員分のサインで埋め尽くされてしまった。普通、この手のポスターに記念でサインを書き込むにしても、これだけの数を乱雑に書き込むことはしないだろう。ポスターというか卒業式の寄せ書き色紙みたいだ。

「ははは……、流石にやりすぎたかな~」

「でもでも! サイン書くの、とても楽しかったよ!」

 みりあが嬉しそうにピョンピョンと飛び跳ね、その横でかな子も頷く。

「うん! なんだか卯月ちゃんだけじゃなくて、私たちもデビューしたみたいだったよ~」

「この程度でデビュー気分になっちゃいけないにゃ! 油断せずに、日々努力あるのみ

にゃ!」

「最終的にはノリノリで書いてたくせに……」

「うにゃー! りーなちゃんソレを言うんじゃにゃいにゃ――!」

 なんだかんだ言ってもこうしてみんなで何かをするのは楽しいし、完成した物を見ると謎の達成感を感じる。なんだか未央の思惑通りみたいでちょっと悔しいけれど。

「ん~、これで別メニューのみなみんとあーにゃんもいれば、全員分書けたんだけどな~」

「……あれ、一人足りなくないですか?」

 そう言われてみれば、もう一人居るはずの小さな姿が見当たらない

「え? あ、ホントだ! 杏ちゃんは?」

 未央がみんなに訊くと、きらりが困ったように眉をひそめながら答える。

「杏ちゃん、レッスンに来てないんだにぃ……」

「きっと今頃、事務所のソファで寝てるにゃ。やれやれだにゃ……」

 みくがやれやれと大袈裟に肩をすくめた。

 

 ◆ ◆ ◆

 

「Спасибо アー……お疲れ様です」

「お疲れ様、みんな」

 事務所に戻ると、先にレッスンを終えたアーニャと美波が待っていた。

「ふたりともレッスンお疲れ様。そっちも大変そうだね」

「まあね。でも、初めてのライブなんだからいくらやっても足りないくらいだよ」

 それは私たちが初めてステージに立った時も同じ感覚だった。バックダンサーという役割ではあったが、本番までの毎日は緊張と不安に闘いながらひたすらに練習していた。

「大丈夫だよ、みなみん! 私たちも一緒なんだから、大船に乗ったつもりで安心しなって!」

「ええ。ふふ、なんだか未央ちゃん見てると本当に安心しちゃうな」

「へへへ……。あ、ところでふたりとも、杏ちゃん見てない?」

「アンズ、ですか? アンズでしたら、あそこに……」

 アーニャの指さした先、事務所の隅に置いてあるソファの上で、双葉杏は堂々と眠りについていた。いつも持っている兎のぬいぐるみを抱き枕代わりに抱きしめている。

「zzz……、うむぅ……」

「私たちが帰ってきた時からあんな感じだったけど、もしかしてレッスン行ってなかったの?」

「みたいだよ。ま、いつもの事といえばそうだけどね」

「あんずちゃ~ん! もぉう、起きてよぉー!」

 きらりが大股で駆け寄り、杏の身体を揺さぶると杏はまどろみながらも目を覚ます。

「……うあぁ? き、らり……?」

「うもぅ! 今日もレッスンお休みして! みんな心配したんだよぉ?」

「心配って……、心配してたのは、きらりだけでしょう?」

「そんなことないって~、みんなでレッスンしようよぅ」

「うぇぇ……、めんど~い……」

 億劫そうにぼやくと、きらりの揺さぶりに抗いながら、杏はまた寝る態勢に戻ろうとする。

「やっぱ、杏ちゃんはいつも通りだね~」

「そうだね……」

 彼女のスタイルは会った時からいつもこんな感じだ。自称『不労所得希望のニートアイドル』。怠けたい、働きたくないを行動理念に掲げ、レッスンにも徹底して参加しない姿勢を貫いている。かと思えば、みくに協力してストライキに参加したり、妙なアグレッシブさを見せていたりする。要は自分の主義主張を守るためには全力を尽くす子なのだろう。

 正直に言えば、私の好きではないタイプの人間だ。

 あいつはどうしてこんな子をプロジェクトに入れたのだろう。確かに見た目は小さくて可愛らしいかもしれないし、妖精っぽいイメージも分かる。しかし、それ以外はまったくアイドルに向いているとは思えない。

 ……とは言っても、私自身もスカウトされた理由なんてよく分からないけれど。真面目な人間には違いないだろうけれど、あの人がなにを考えているのかは未だによく理解していない。

「お疲れ様です。皆さん、揃っているようですね」

 噂をすれば、我らがプロデューサーが部屋に戻ってきた。いつも通りの大きな体と厳つい表情が威圧感を放っている。

「今日はもう時間も遅くなってしまいましたので、今日はこれで解散にしようと思います。皆さん、帰宅の準備をしていて下さい」

「あれ、もうそんな時間? 終業のチャイム鳴ってたっけ?」

 言われてみれば、レッスンの終わりに鳴っていた気がする。窓の外を見れば、かなり暗くなってきていた。

「終業だ! よっしゃ帰るぞー、ということでお疲れみんな!」

「ああ! 杏ちゃん、待ってよ~!」

 プロデューサーの言葉を合図に、杏が勢い良く跳ね起きてそのテンションのままで帰っていった。まったく元気なものである。きらりが慌ててその後を追っていく。

「本当に杏ちゃんブレないにゃ~。それじゃあ、みくも寮に戻ろっかな。蘭子ちゃん、アーニャちゃん、一緒に帰る?」

「ふっふっふ……今こそ己が起源を共鳴させる時! (それじゃあ、一緒にかえりましょう!)」

「うん、明日もよろしくね、アーニャちゃん」

「うーん、私は帰りにCDショップに寄っていこうかな」

「あ! そういえば、お姉ちゃんと待ち合わせしてたんだった! あんまり待たせると怒られる!」

「それじゃ、急ごうよ! 莉嘉ちゃん!」

 そうして、各々が散らばるように家へ帰って行く。いつも通りの帰宅風景だ。

「ていうかさ、346ってこういうとこ結構徹底してるよね。いつも7時位には帰されるじゃん?」

「確かにそうですね。遅すぎる時にはプロデューサーさんが送ってくれることもありますし」

「芸能事務所としては当然なんじゃないの? かなり所属アイドルのことを気遣ってて」

「いやいや、346の徹底してるのはそこだけじゃないんだって」

「例えば?」

「終業時間以降にはアイドルやタレントの使うところは全部入れなくなっちゃうし、外から入ってくる人の持ち物検査とかもかなり厳しいだってさ」

「へぇ……。というか、未央はそういう情報をどこから仕入れてくるの」

「美嘉姉とか、ちひろさんとか? で、現役の346プロ社員としてはどうなの?」

 突然話を振られたプロデューサーは、それでも特に表情を変えることなく答える。

「どう、と言いますと?」

「実際のところの話だよ~。やっぱさ、自分たちが働く場所のセキュリティって気になるじゃん?」

「……そうですね。ほとんどは本田さんが言ったとおりです。346プロでは、所属タレントの安全のために早めの帰宅を推奨しています。その他にも、社内の防犯にも力を入れています。レッスン場などの施設は、終業時間を過ぎると使わない部屋は全て施錠します」

「忘れ物とかしたら、警備の人に開けてもらわなきゃいけないんですよね」

「ええ、なので帰る際には忘れ物に気をつけてください。それと、外部からの来社に対しても、出入りの際に本格的な持ち物検査を行っています」

「本当に徹底してるんだ。346ってすごいね」

 他の芸能事務所がどうなっているのかは業界に詳しくないのでよく分からないが、346プロほどの大企業なら当然なのかもしれない。

「なんかね、昔、346でアイドルの事業が始まったばかりの頃に、結構ドロボウとか不審な贈り物とかあったらしくって、その経験を活かして一気にセキュリティを強化させたって話らしいよ」

「……あの、本田さん。そういった話も、千川さんや城ヶ崎さんから聞いたのでしょうか?」

「うん? そうだよ~」

「たしかにそういう話があったとは聞いていますが、あまりおおっぴらにするべき話ではないかと思いますが……」

「……まあ、会社的にはあまりいい話じゃないよね」

「あの二人にもよく言っておきます。では、皆さんは明日は朝からのレッスンとなっていますので、くれぐれも遅れないようにお願いします」

 いつもは学校帰りに出社しているけれど、明日は休日なので私たちは朝からみっちりとレッスンの予定になっている。

「うあ、そっか朝からか~。うへぇ、大変だぁ……」

「でも、デビューに向けての大事な時期ですから。頑張りましょう、未央ちゃん、凛ちゃん!」

「そうだね、頑張っていこう。それじゃプロデューサー、私たちもこれで。お疲れ様」

「お疲れ様でした、プロデューサーさん!」

「おっつかれー! 明日もよろしくねー!」

「はい、お疲れ様でした」

 そうして、この日は私達も皆帰路についたのだった。

 

◆ ◆ ◆

 

翌日、予定通りに私たち3人は朝からレッスンのために集まり、ダンスレッスン・ボーカルレッスンと一通りのメニューをみっちり行った。

「うへ~、今日は一段と厳しかったぁ。朝練だからってトレーナーさんも気合い入りすぎだって」

「それ、昨日も似たようなこと聞いたよ。未央がシャキッとしてくれなきゃ、私たちも気合いはいらないよ?」

「そうですよ、未央ちゃん。もっと頑張りましょう!」

「へへへ、二人にそう言われちゃあ、未央ちゃん、やる気出さざるを得ないな~。よし、今日も私がジュース奢っちゃうぜ!」

「わぁー、ありがとうございます!」

「だから……それはリーダーには関係ないって」

「言うな言うな~。ほい、しぶりんにポカリで、しまむーにりんごジュースっと」

「っと、サンキュ」

 未央から投げ渡されたポカリを受け取り、喉を潤す。これだけでも少し疲れが取れたような気がするから不思議なものだ。そうしながらいつも通りの会話をしていると、レッスン場の方から同じく朝からレッスンをしていた美波とアーニャが現れる。

「あ、三人ともお疲れ」

「みなみんにあーにゃんも、ちょうど終わり?」

「夕方にもうちょっとやっていこうと思ってるけどね。その前に小休止ってところかな」

「おお、二人とも頑張ってますなー」

「まあね、やっぱりちょっと気合い入ってるのかも」

「ミナミ、頑張り過ぎには気をつけてくださいね」

「うん、大丈夫だよ、アーニャちゃん」

 そこで、未央が突然ポンと手を叩く。

「あ、そうだ! 二人にもアレを書いてもらわなきゃ!」

「そういえば、二人にはまだ書いてもらってませんでしたね」

「アレ? 何のことですか?」

「昨日、他のみんなで面白いことやったんだー。ちょっとこっち来て見てみてよ」

 未央は手招きをしながら、例のポスターがある場所へ美波たちを導く。

「昨日、莉嘉ちゃんたちとも一緒に、ここにあ、る…………あれ?」

 ノリノリで壁を指さした未央の声は途中で消えていき、指も力なく下がっていく。その顔を見れば、未央があまり見せたことのないポカンとした表情が浮かんでいた。

「ミオ、どうしましたか?」

「ちょっと未央だいじょう――え?」

 アーニャの心配そうな声に続いて、私も未央の方に近寄ってみたが、結果的には私も未央と同じ表情になってしまったようだ。

「えっと……、ふたりともどうしたの? 私にはただの壁しか見えないんだけど」

「ああーっ! 昨日のポスターが無くなってます!」

 そう、昨日私たちがみんなサインを書いた私たちのデビュー告知ポスターは、昨日はあったはずの場所から綺麗に消え失せて、そこにはただの壁があるのみだった。

「どういうこと? 昨日は確かにあったよね? みんなで書いたよね、サイン?」

 そう未央に問われても、それに答えられる言葉を私は持っていなかった。

「ねえ凛ちゃん、一体どうしたの?」

「ああ、美波、実は昨日ね……」

 とりあえず私は、美波とアーニャに昨日のことを説明した。

「も、もしかして、昨日私たちがアレにサインしたのが、プロデューサーやお偉いさんにバレて剥がされたとか!?」

「……まあ、その可能性はあるだろうけど、バレて剥がされたんだったらあのプロデューサーが何も言わないわけはないでしょ」

 レッスンに向かう前に一旦事務所に顔を出して、プロデューサーと今日の予定などを確認している。その時にプロデューサーからポスターに関する話は聞いていない。私たちが来る前にポスターが撤去されたなら、プロデューサーから何らかの注意があったはずだ。

「だとしたら、どうしてポスターが無くなってるんでしょう?」

「もしかして盗まれた、とか……?」

 美波が発した言葉で、全員に緊張が走る。

「盗まれたって、そんなまさか……。デビュー前のアイドルのポスターだよ?」

「いやでもサインとかもいっぱい書いてあるし、まさかの事態もありえるかも」

「どどど、どうしましょう!? プロデューサーさんに相談したほうがいいですか!?」

 正直、盗まれたかどうか分からないけれど、昨日勝手にサインを書き込んだことも含めてプロデューサーに報告しておくべきだろう。

「未央、昨日のことはちゃんと全部話しなよ」

「お、おう。分かってるって。じゃあみんな一旦事務所に戻ろうか」

 事務所へ戻る前、私はポスターのあった壁に思わず目を向けた。無機質なコンクリートの壁にはうっすらとテープの跡のようなものが残っていて、昨日まで確かにそれがあったということが分かって、私にはそれが寂しく思えてしまった。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 事務所に戻ると、執務室で待っていたプロデューサーに私達は全てを説明した。

 昨日全員でサインを書き込んだこと、そのポスターが一日にして消えたこと。それらをプロデューサーは静かに聞いてくれた後に、「事情は分かりました。ちょっと待っていて頂けますか」と一言断るとスマホで何処かへ電話をかけ始めた。そして幾つかの場所へ短い通話を終えると、プロデューサーは私たちに向き直って口を開いた。

「今、宣伝部に確認を取りましたが、あの場所のポスターを撤去する指示は出ていないそうです」

「えっ」

 申し訳なさそうにしていた未央が目を見張った。

「それって、どういうこと?」

 私が問いかけると、プロデューサーは神妙に頷く。

「社外に貼った物に関しては関知できませんが、社内に掲示しているポスターについては期間を決めて掲載しています。あの場所のポスターはまだ貼りだしたばかりでしたから、なんらかの指示が無い限りは撤去される事はありません」

「つまりあのポスターが無くなった事に、プロデューサーは何も関わってないってこと?」

「はい。ポスターになんらかの不具合があり、社内の指示でポスターが撤去される場合は私にも連絡が入りますし、あの1枚だけを撤去するという事にはならないはずです。先程確認したところ、あの場所以外のポスターは撤去されていないそうです」

 つまり、社内で無くなったポスターは私たちがサインを書いたあの1枚だけで、それを撤去する指示も出ていない。会社やプロデューサーに関わりなく、突然ポスターが消えたとなると……。

「それってやっぱり盗まれたってこと!?」

「い、いえっ! まだそう決まったわけでは。ですが、万が一の事態も考えて、念のために警備の方にも確認を取っています」

「それは、ポスターを持った人がエントランスを通ったかどうかって事?」

 私が訊くと、プロデューサーはコクリと頷く。

「本日、社内に出入りした人物全員に持ち物検査を実施したそうですが、その際にポスターらしきものを持った怪しい人物は居なかったそうです。また、昨日の夜に巡回した際にポスターがあの場所にあるのを確認しており、不審な様子は全くなかったとのことです」

「えっ」

「そんな……」

 皆の間に動揺が広がる。それではまるで、ポスターがひとりでに消えたみたいじゃないか。

 私たちの不安げな表情を見てか、割り込むようにプロデューサーが話す。

「すみません。この問題に関しては、私と千川さんで必ず解決しますので、どうか心配せずに通常通りのレッスンを続けてください」

「あ、ちょっとプロデューサー!」

 そう言い残すと、プロデューサーは未央の制止も聞かず事務所を出て行った。もしかしてまだ調査を続けるつもりだろうか。無愛想ではあるものの、本人はあくまで真面目な性格なのだろうから、「後は自分に任せて安心して欲しい」とでも言いたいのかもしれないが、如何せんあの感じでは伝わりにくい。

 取り残されて、顔を見合わせる私と未央。

「どうする?」

「どうするって……窃盗があったかもしれない場所でレッスンはできないでしょ」

「だよねえ……」

「ど、どうしましょう? もうすぐみくちゃん達も来ますし……」

 私はホワイトボードに貼ってある予定表を見た。他の子達は今日は午後からのレッスンになっている。今はお昼前だから、もうしばらくしたら事務所にやってくるだろう。

 彼女たちにどう説明すれば良いだろう。デビューしていないとはいえ、みんな真剣に基礎レッスンに取り組んでいる。私たちですらこれだけ不安になっているのだから、彼女たちがどんな気持ちになるのかは想像に難くない。特に昨日楽しそうにサインを書き込んでいた莉嘉やみりあの顔が思い浮かぶ。

「……やっぱりダメだ」

「え?」

 意を決したように未央が呟いた。

「プロデューサーは自分に任せてって言ったけど、勝手にポスターにサインを書いたのは私なんだし、こうやって待ってるだけなんてできない」

 そう言うと未央はスッと立ちあがって出入り口の方へ向かい始めた。

「ちょっと未央、どこへ行くの」

「レッスンルーム! あの場所に残ってないかもう一度探してみる。みんなは先に帰ってて良いよ!」

 勢いよく扉の外へ消えていった未央を見送って、私は他のみんなと目を合わせる。卯月も美波もアーニャも、分かっていると言わんばかりに頷く。それを見て私は小さく肩をすくめると、未央を追いかけるべく立ち上がった。

【2】

 

 面倒なことになった。

 

 思えば朝からそんな感じだった。

 そもそも今日は土曜日なのだ。カレンダーで土曜日曜は休日だと何処でも決まってる。私はれっきとした17歳の女子高生なのだから、学校が休みの日はのんびり休んで羽を伸ばすのが当然の権利のはずだ。

 なのに、アイドルのスカウトを受けてからというもの、土日も休まずレッスンばかり。印税ガッポガッポの楽な商売かと思いきや、ブラック企業も真っ青の労働地獄で、これじゃあまるっきり詐欺じゃないか。他のみんなはアイドルとしてデビューするために毎日努力しなきゃ、なんて言うけど、体壊れるほど働いてまで得るべきものだとは私は思えない。

 というわけで、今日はガッツリレッスンをサボって、家で一日中ゴロゴロすることに決めた。……まあ、万が一レッスンに行かなきゃならなくなっても、忙しい子達と違って私たちの合同レッスンは午後からだから、午前中は堂々とゴロゴロできる。最終判断はギリギリでも良いだろう。

 そう思って二度寝する体勢を整えたところでインターフォンが鳴った。こんな時間に何のつもりだと思いながら、体を引きずって玄関を開けると、そこに居たのは見上げるほどの大きな影。

「……こんな朝早くにどうしたの」

「杏ちゃんと一緒にレッスン行こうと思って……張り切っちゃって早く来すぎちゃったにぃ。ちょっと早いけどこれから一緒に事務所、行こ?」

 いやそんなこと言われてもねぇ。きらりが張り切りすぎたからといって、私も一緒に早く行く必要は無いんじゃないの。予定より早めに行って働こうなんて、正直言って正気の沙汰じゃ無い。

 そんな感じのことをやんわり言うと、きらりの眉がどんどん下がっていって、

「だって……杏ちゃん昨日もレッスン来てくれなかったから、今日は一緒にレッスンしたくて……」今にも泣き出しそうな顔で言う。

 でも、それもあくまできらりの希望であって、私がそれに従う理由は全く無い。

 ……なんてことを言うのは、流石に私でもできない。しょうがないから渋々最低限の準備を整えて、子供のように機嫌を良くしたきらりと一緒に事務所へ向かった。

 プロジェクトルームに行ってみると、そこには誰も居なかった。まあそれは予想通りだ。どうせ先行組は熱心にレッスンを続けているのだろう。

「じゃあ、きらりたちもレッスンルームに行ってみよう!」

 そう言うと思った。

 本当はここでゆっくり他の子達を待てば良いと思っていたけど、泣き落としに負けて来てしまった以上、あまり強くも行けない。ここはおとなしくきらりについて行くことにする。

 どっちにしても今はちょうどお昼前だ。先行組もそろそろお昼休憩に入る頃だろう。適当に話を引き延ばしてしまえば、始まる時間は予定通りになるはずだ。

 

 と、なるはずだったのだが、どうも様子がおかしい。

 レッスンルームのある別館のフロアに行ってみると、休憩スペースで未央ちゃん・凛ちゃん・卯月ちゃんの3人が、ゴミ箱の中を開けてみたり椅子の下をのぞいたり、みんなでなにやら妙な行動をしている。

「おっ、きらりんに杏ちゃん。まだ時間早いけど、もしかして二人だけ?」

「おっすおっす☆ うん、ちょっと張り切り過ぎちゃって」

「お疲れ~。ってか、何してんの? レッスンは?」

「いや、それが……」

 いつもより真剣な顔をしながら、未央ちゃんはここまでの経緯を話し始めた。あいにく昨日のレッスンに出ていなかった私は、ポスターにサイン云々の話は全然知らなかったけど、凛ちゃんと卯月ちゃんも加わって詳しく説明してくれた。

 つまり話をまとめると、昨日勝手にサインを書き込んだポスターが無くなっていて、もしかしたら盗まれた可能性もあるらしい。で、他の子達が来るまでにポスターを見つけようと、こうしてみんなであちこち探しているわけだ。

 私としてはご苦労様としか言い様が無いけど、対象的にきらりは分かりやすく悲しげな顔をしていた。

 そして、そのちょうど良いタイミングで通路の奥から美波ちゃんとアーニャちゃんが戻ってきた。二人は別行動で他の場所を調べていたらしい。

「みなみん、あーにゃん、そっちはどうだった?」

「ううん、他の場所を調べたけど何も無かったわ」

「レッスンルームやトイレも調べましたけど、ポスターはありませんでした」

 悲しげな顔で首を振るアーニャちゃん。

「そっかぁ……」

「どうするの、未央?」

「うぅん……範囲を広げてもうちょっと探してみよう」

「みくちゃんや莉嘉ちゃんたちが来るまで、もう少し時間がありますね」

 ん、ちょっと嫌な予感がする。

「だったらきらりたちも一緒に手伝うにぃ☆」

 言うと思った。しかもきらりたちって何だ。私を巻き込まないでほしい。

「おお! 助かるよ、きらりん、杏ちゃん!」

 ああもう勝手に話を進められてる。ちょっとこれはマズい。

 正直言ってポスターがどうなろうと私の知ったことじゃない。だが、このままではポスターを探すことに付き合うことになるのは明白だ。ポスターが見つかるにせよ見つからないにせよ、その後にレッスンに直行して休む暇は無い。余計な労働をしてしまう羽目になるのは勘弁願いたい。それに、未央ちゃんが心配していたようにポスターが誰かに盗まれた(無いと思うけど)疑いがあるなら、その後の処理が面倒になるのも目に見えている。

 なにより、みんなこの件に関して凄く真剣だ。私を部屋から連れ出したきらりと同じような目。こうと決めたらテコでも動かないような意思だ。全くもってアイドルを目指す女の子というのは、なぜこんなにも余計な方向に頑固で心配性で真面目な人間ばかりなのか。私には理解に苦しむ。

 ともかくどうにかしなくては。彼女たちの意見を変えるのは無理でも、少しでもエネルギー消費の少ない方向にしないと。

「ちょっと待ってよ。探すっていっても、何処を具体的に探すか決めてるの」

「それは無いけど……でもとにかく手当たり次第探してみないと」

「いやいやいや、そんな場当たり的なやり方じゃいつまでやっても終わらないよ。他の子達が来るまでに間に合わないでしょ」

「じゃあ、杏はどうすれば良いと思うの?」

 心なしか冷ややかな目で凛ちゃんが問いかける。このメンバーの中でも、多分凛ちゃんは冷静な方だろうと思うので、私の話が通じやすいかもしれない。そう思いながら私は続ける。

「とりあえず情報を整理しよう。この出来事の全体図が少しでも分かれば、何処を探せば良いかの方針も立てられる」

 おおー、という感心の声が周りから漏れるが、私は当然行うべき効率の良い方法を提案しただけだ。特別なことは何もしていない。だが、こうしてみんなが私の話を聞いてくれるのは好都合だ。後はみんなから話を聞いて、できる限り穏便な方法を見つけ出すだけだ。

「で、まずポスターが人の手で持ち去られたのは間違いないの? なんか盗まれたみたいな話の流れになってるけど」

「あのポスターはかなり大きかったから、自然に落ちて何処かへ消えるのは無理があると思うよ。実際この辺りを探してみたけど見つからなかったし」

「大きいってどれ位?」

「えっと、A2サイズっていうのかな」

 頭の中で大体の大きさを想像してみる。なるほど、確かに何処か隙間に隠れて見つからなくなるのは無理があるのかもしれない。

「それぐらいの大きさだと、鞄とかに隠すのも難しいかぁ」

「うん。実際、出入り口での持ち物検査ではそれらしい物は見つからなかったみたいだし」

「アー、その話ですけど――」

 おずおずとアーニャちゃんが手を上げた。

「ポスターを普通に折りたたんではいけないのですか? 小さくすれば警備員さんにも怪しまれないような気がします」

「いやいやアーにゃん、傷や傷みがあったらポスターの価値が下がっちゃうんだよ。だからもし盗んだ理由が転売目的なら、できる限り綺麗な状態で持ち帰らないといけないのさ」

「おお、なるほど……!」

「ふぅん……そういうもんなんだ」

 未央ちゃんの説明に感心するアーニャちゃんと凛ちゃん。確かにこの話はアイドル界隈に詳しくないと分からないかもしれない。まあ確実とは言えない推測ではあるものの、皺くちゃになったポスターを個人用に保管しておくというのも考えにくいだろう。

「ということは、ポスターは外に持ち出されていないって事になるけど、うぅん……」

 美波ちゃんが深刻そうに眉をひそめる。

「ミナミ……?」

「ごめんなさい……ちょっと悪い想像しちゃって」

「悪い想像?」

「うん。えっと、もしポスターが会社の中に隠されているなら、会社の内部の人間が怪しいんじゃないかな。内部の人なら、コソコソしなくて堂々とポスターを剥がせるでしょ?」

 その発言にほぼ全員が顔を歪めた。

「えっ、それって――」

「トレーナーさんやプロデューサーを疑うって事?」

「ち、違う違う! そういうことじゃないけど、これだけ広い会社だったらそんな危ない人が何処かにいるかもしれないと思って」

 美波ちゃんはそう言い繕ったが、みんなの表情は晴れない。いつも過ごしている会社の中に犯罪者が居るかもしれないと思ったら、不安になるのもしょうがないだろう。重たい空気を纏い始めた状況を見渡して、私は少しため息をついて口を開いた。

「それはちょっとおかしいと思うよ」

「え?」

 幸いにも、美波ちゃんの説を否定するのは難しくない。

「簡単な話だよ。内部の人間にはポスターは盗む理由が無い」

「盗む理由?」

「346の関係者なら、所属アイドルの知名度くらいある程度知ってるはず。なら、デビュー前のアイドルのポスターなんて殆ど価値がない物盗まないよ」

「うぐっ。さ、先物買いって事は?」

 大袈裟にショックを受けている未央ちゃんの反論に対して、私は静かに首を振った。

「先物買いは結構だけど、それでも未央ちゃん達のポスターだけ盗む理由が分からないよ。この会社の中には、もっと価値のある物は沢山あるでしょ?」

「ううん……確かに筋は通ってる」

「でも、それって外部犯の場合でも同じ事が言えるんじゃない?」

 凛ちゃんの言うとおり。逆に外部の人間が盗んだとしても、アイドルに関係ある品物がいくらでもある社内に来て、あのポスター以外の物を盗まない理由が無い。もしもそんな物が盗まれていたのなら、今以上の大問題になっているだろう。だから、私は最初から窃盗という可能性を信じていない。

 まあ、そこら辺の問題は後で良い。

「例えばさ、清掃員の人とかはどう? 動機はともかく、あの人達なら社内をある程度自由に歩き回れる。ポスターの隠し場所とか外への持ち出し方とか分かるんじゃない?」

 と、私は言ってみたが。

「いや、それはあり得ないよ」

 未央ちゃんがすかさず否定する。

「346の清掃員は、全員346プロと直接契約してるスタッフだから、実質うちの社員みたいなモノなんだって。ゴミからアイドルの私物や社内の機密が漏れる可能性が高いから、そういう所は徹底的に管理してるんだよ。もちろん清掃スタッフの持ち物はちゃんとチェックされてるよ」

「へぇ……初めて知った。でも、なんで未央はそういう情報を知ってるの?」

 凛ちゃんが意外そうな表情で聞く。私もそういう話は初めて聞いたし、他のメンバーも同じような顔をしている。

「ちひろさんとかから教えてもらったり?」

「……それって良いの?」

 この会社の情報漏洩問題が心配ではあるが、そこは私たちが関わる話ではないだろうから、これも今は放っておこう。清掃スタッフ周りは、窃盗騒ぎが起こるならまず疑ってしかるべき所だし、これだけの大企業がそこを怠っているとも思えなかったから、この展開も予想のうちではあった。

「うぅん……」

「杏ちゃん、大丈夫?」

 腕を組んで考えていると、きらりが心配そうな顔でこちらをのぞき込んできた。私ときらりでは体格差が大きすぎるというのに、きらりはこういう時にわざわざ私に目線の高さを合わせる。

「心配しなくても大丈夫だよ、きらり」

「でも……」

「ホントホント」

 実際、ここまで出てきた情報で、ポスターがどうして消えたかについては大体推測できる。だから、あと分からないのはポスターがどこにあるかだけ。ま、これに関しては私が調べられる範囲では分からないかもしれないから、無理して考えなくても良いかもしれないけど。

 そう思いながら、私はポスターが貼ってあった周辺を歩く。ポスターが貼ってあったであろう壁には、テープの跡だけが残っている。その前に設置してあるウォーターサーバーには特におかしな所は見つからない。サーバーが乗っているパイプ机には脚の部分に空間があるから、ポスターが滑り落ちたらかなり目立つだろう。

 その横には何の変哲もない自動販売機が2台。なんとなく見てみると、1つだけドリンクが売り切れになっていた。

「ん?」

 頭の中に何かが走った。

「もしかしすると――」

 突飛な仮説。証拠も無いからやっぱり推測に過ぎないけれど、もしそうなら最も合理的かもしれない。

「だとしたら、まだ近くに――」

「杏ちゃん? どうしたの?」

 気付くと、またきらりが心配そうな目で私を見ていた。少し柄にも無く集中しすぎたかもしれない。

 私は口を開いた。

「――帰ろう」

「え?」

「一旦帰ろっか。ちょうどお昼時だし、杏お腹すいちゃったよ」

「ちょっ、ちょっと杏ちゃん!?」

 立ち去ろうとした私を、未央ちゃんが呼び止める。

「え、帰っちゃうの? ポスターは?」

「だからさ、これ以上杏たちにここで出来ることは無いって事。それに――」

「それに?」

「ここに杏たちが居ない方が、ポスターは戻ってくるよ」

「へ?」

 不思議そうな顔をする未央ちゃんを尻目に、私はスタスタと歩き去る。

 

 ま、戻ってくるかどうかは五分五分だけどね、と心の中で付け加えながら。

【3】  

 

「ねえ、そろそろ説明してくれない?」

 しびれを切らした私は、目の前に座る杏に言った。

 346プロの食堂に私たちは集まっていた。流石一流企業らしい広くて明るい食堂には、お昼時ということもあって社員やアイドルたちで賑わっている。その片隅にあるテーブル席を囲んで昼食をとっているのだが、みんな揃って落ち着きが無いように見える。

 それもそのはず。例のポスター騒動は何も分からず宙ぶらりんなままだ。間もなく他のメンバーも事務所にやって来るから、時間的な余裕もあまりない。

 にも関わらず、捜索を切り上げた張本人である杏は、特に気にしていないようにご飯を食べて満足そうにしている。

「ん~何を?」

「何をって、あのポスターのことだよ!」

 未央が不満げに応じるが、それでも杏は相変わらず気怠げだ。

「説明ねえ。うーん……今じゃなくてもよくない?」

「うもぅ! 杏ちゃん、みんなを困らせないの! ちゃんと答えてあげて」

 杏の横できらりが怒るが、彼女が怒ってもどうにも迫力が無いというか、「ぷんぷん☆」みたいな擬音が見えるようだ。

「はぁ……しょうがないなぁ。じゃあ、そろそろ見に行ってみる?」

 杏からそう返されて、今度は私が戸惑う。

「え、何を?」

「ポスター。もしかしたらもう戻ってきてるかもしれないし」

 そう言いながら席を立つ杏。気怠げな仕草からは、本気なのか冗談なのか読み取りづらい。顔を見合わせながら私たちもその後を追う。

「ねえ、しぶりん。杏ちゃん、どういうつもりなんだろ?」

 トレーニングルームへと向かいながら、未央が小声で尋ねてくる。

「分からないよ、そんなの」

「だよね。うーん……」

「未央は杏とは仲良くしてないの?」

 未央のコミュ力は私から見ても尊敬に値するレベルだと思っているし、出会って数日もすればすっかり打ち解けてしまっている印象がある。

「うん、仲は良いと思うよ。事務所やレッスンの時とか、きらりんも混じってよく喋ったりするし。でも、杏ちゃんっていつも気怠げでだらけてるから、ああいう感じの杏ちゃんを見るのは珍しくて」

「そんなに違う?」

「違うね。普段の杏ちゃんだったら、率先して話し合いに加わったり、落ち着いて私たちを先導したりしないよ」

 言われてみればそうかもしれない。正直に言えば、私には細かい印象の違いはよく分からないけれど、普段から周りのことをよく見ている未央が言うならきっと正しいだろう。

 そうこうしているうちに、トレーニングルームの休憩スペースまでやって来た。

「ん。よしよし」

 ポスターが貼ってあったウォーターサーバーの前で、杏が満足げに頷いて私たちを促す。まさかと思ってその先を見ると、

「嘘……!」

 そこには、消えていたはずのポスターが確かに戻されていた。勿論、昨日私たちが書いたサインも書かれている。

「え、ほんとに!?」

 未央が壁からポスターを剥がしてマジマジと見る。私も他のみんなと一緒にのぞき込んでみると、昨日より少し皺になっている気もするが大した傷も他には無いように見える。

 困惑する私たちをよそに、杏だけがホッと息を吐きながら笑う。

「ふぅ、これで一件落着ってことで。じゃ、帰ろっか」

 

 ◆ ◆ ◆

 

「どういうことなのか説明してよ、杏ちゃん!」

 数分前の私と同じ事を言いながら、未央が杏に詰め寄っている。

 ポスターが戻ってきたことを確認した私たちは、ポスターを持ってひとまず事務所まで戻ってきた。既にプロデューサーには美波が報告の電話を入れていて、向こうもホッとした様子だったらしい。とりあえず他の子たちが来るまでにはなんとか事態は解決したわけだが――

「ん~……別に全部丸く収まったんだから、説明とか無くても良くない?」

「いやいや良くないよ! どうしてポスターが無くなって、それでどうして戻ってきたのかも分からないし、戻ってくることをどうして杏ちゃんが知っていたのかも分からないじゃん」

「いや、杏の勝手な推測はこの一件にはどうでも良いし、何かあっても後はプロデューサーがなんとかしてくれるでしょ」

「でも、本当に不審者が入ってきてポスターを持って行った可能性もあるし、何も分からないままではみんな不安なままじゃない?」

 美波が援護射撃をして、卯月とアーニャも同調し小さく頷く。それを見て、杏は困ったように眉をひそめると、

「あのプロデューサーとこの会社が安全だって言えばそれで十分だと思うけど……みんな心配性だなぁ」

「ね、杏ちゃん。何か考えたことがあったら教えて? そうすればみんな安心してハピハピになれゆと思うの」

 きらりが優しくそう言うと、杏は少し逡巡してから軽くため息をついた。

「しょうがないなぁ。言っておくけど、証拠とかそういうのは何も無い話だからね。こうだったら良いなっていう推測っていうか、希望的観測の話だから」

 念を押すように杏はそう言って私たちを見渡す。皆、反対することも無く杏を見つめ、皆の意思を代表するように未央がコクリと頷き、それを見た杏は少し居住まいを正して話し始めた。

「じゃあ、簡潔に行こうか。まず第一に、ポスターは人の手によって持ち去られて、同じように戻ってきた。ポスターがひとりでに消えて、また現れるなんて非現実的な事があるわけないからね。ここまでは良い?」

「う、うん」

「次に、ポスターを会社の外に持ち出すことも出来ない。ポスターは大きいから普通の鞄には入りきらないし、出入り口の持ち物検査で確実に見つかってしまう。少なくとも綺麗な状態で持ち出すのは不可能。よって、ポスターは外ではなく、会社内に隠されていた」

「えっ! それって何処に――」

「まあまあ焦らない。で、ポスターを何処に隠したかだけど、社内には幾らでも隠す場所はあるけれど、それは社内の関係者しか入れない。でも、社内の人間は全員ポスターの価値が分かるから、まず盗むことはあり得ないし、もし何らかの理由でポスターを外す時は誰かに連絡が行く。プロデューサーや他のスタッフが誰も知らないということはまず無い。つまり、ポスターを持ち去ったのは、内部の人間ではなく外部の人間」

「ちょっと待って。その結論は短絡的すぎない? ポスターを持ち去る理由が無いのは、外部の人間でも同じだってさっき話したでしょ。それじゃ何も矛盾は解消してない」

 人の手によって持ち去られた事と、外に持ち出す手段が無い事、内部の人間にも外部の人間にも持ち出す理由が無い事、それらは噛み合っていない。

「だからさ、逆に考えれば良いんだよ」

「逆?」

 

「そう。ポスターを持ち去った人物――犯人は、ポスターの価値が分からなかったから持ち去らなければならなかったのさ」

 

 一瞬、意味が分からなかった。他のみんなも一様にポカンとした表情を浮かべている。

「えっと、どういう意味?」

「そのまんまの意味だよ。犯人はポスターの価値を知らなかった。むしろ、アイドル自体に詳しくないかもしれない。そもそも犯人はポスターを外に持ち出す気は無くて、一時的に隠しておくつもりだった。それは、こうしてポスターが戻ってきている事からも証明できる」

 私たちの視線が、机の上にポスターに集まる。そして、そのポスターの一部を杏は指さした。

「ここ、ちょっとポスターに皺が入ってるよね。これが、犯人がポスターを隠さなきゃならなくなった直接的理由だと思う」

 そう言われてもこの皺が何なのか、私には全く分からない。付いているのはポスターの隅の方で、皺にも折れ目にも見えるような跡だ。

「もしかして誰かがポスターを踏んだ跡、ですか?」

「え?」

 ポツリと呟いたアーニャの言葉に、私と未央はポスターに顔を近づけて見てみる。確かにそう言われればそうかもしれない。

「アーニャちゃん正解。というか、本当は踏んだ跡でなくても良いんだけどね。とにかく犯人はそのポスターに傷を付けてしまった。だから、バレないようにポスターをその場から持ち去った」

「どうしてポスターをこっそり隠さなきゃならなかったの? 誰かに言えば良かったんじゃ……」

「勿論、その選択肢もあったよ。でも、犯人はそれを選べなかった。なぜなら犯人にはポスターの価値が分からなかったから。もし、アイドルに全く詳しくない人がこのポスターを見たらどう思う?」

「どう思うって、別に私たちのグラビアと告知と、私たちのサインがあるくらいで……」

「あっ! そうか、サイン!」

「そう、このポスターにはアイドルのサインが書き込んである。しかも1人や2人じゃない、ポスターを埋め尽くすほどの数のサイン。アイドルを知らなければ、まさかこの全部が価値の無いものだなんて思えないでしょ? それを少しでも傷つけてしまった犯人は、それがバレたらマズいと思った」

「だから、持ち去ったって事?」

「ま、そういうことだね」

 分かってみれば単純な話だ。単なる偶然による事故と、一方的な勘違いによって起きたポスターの消失。だが、犯人の判断は事態を余計に複雑にしてしまった。

「さて、これでなぜの問題は片付いたから、次は誰がやったかだね。ここまでで分かっている犯人の条件は、ポスターの価値を知らない外部の人間であることと、ポスターを一時的に隠すことが出来る人間ってことになる」

 そう言われてもピンとこない。この会社にやって来る外部の人間なんて数え切れないし、さらにその人たちの中でポスターを隠すことが出来る人間なんて想像も出来ない。私たちが首をひねっているのも構わず、杏は続ける。

「あの休憩スペースには、ジュースの自動販売機が3台置いてあったよね。自販機があるなら当然、中身を補充しにやって来る業者の人が居る」

「それって――」

 

「そう、その業者がポスターを持ち去った犯人だよ」

 

 静かな衝撃が走る。犯人の正体が明かされて、私を含めたみんなの表情に浮かんでいるのは、驚きよりも困惑の方が強いかもしれない。なにせ滅多に会うことは無い人物であり、そんな人物が居ることをみんな今の今まで忘れていたのだ。しかし、否定は出来ない。杏の言う通り、自販機がある以上、その業者が定期的にあの休憩スペースに来ていることは明らかだ。

 そして、同時に私は思い出した。昨日は売り切れていたスポーツドリンクが、今日は補充されていたことを。自販機業者が今日あの場所に来たのは確かだということだ。

 杏の説明は続く。

「何があったかは想像するしかないけど、おそらくみんながレッスンに来る前かもしくはその最中か、多分それぐらいのタイミングで犯人は自販機の補充作業にやって来た。で、作業中の振動が壁に伝わってポスターが床に落ち、偶然それを踏んでしまった。ポスターに書かれている大量のサインを見て、とても高価な物を傷つけてしまったと焦ったその人物は、咄嗟にそれを隠すことにした」

「隠すって何処に?」

 

「自販機の中」

 

「な、中ぁ!?」

「自販機の内側にはマニュアルや点検表が貼ってあるスペースがあるんだよ。そこにポスターをすっぽり貼って閉じれば、もう犯人にしかポスターを取り出せなくなる。作業も早いからタイミングさえ合えば人に見つかることも無いしね」

 想像してみる。ポスターを踏んでしまって動揺し、咄嗟に開いていた自販機の中に隠し、足早にその場を去って行く作業着の人物。そして、しばらく経って人の居ないタイミングを見計らい、再び自販機を開けてポスターを取り出して元の場所に貼り直し、また足早に去って行く。

 本当にこんなことがあったのかは、杏の言う通り分からない。しかし不思議なことに、そうだったのかもしれないと思い始めてもいる。

「結局のところ、犯人はビビりの小心者だったんだろうね。サインの価値を勘違いしたのもそうだけど、それを誰かに言うことも出来ず、捨ててしまうことも出来ず、リスクを負って隠して、そしてそのまま隠し続けることも出来なかった。ま、大体そんな所だったんじゃないかな。はい、説明終わり~。久しぶりにめっちゃ喋ったから疲れたぁ。もう帰って良い?」

「ちょ、ちょっと杏ちゃん! まだレッスンしてないよぉ!」

「えぇ~……もうそんな体力残ってないんだけどぉ」

 杏がすっかりいつもの調子に戻っているのを横目に、私たちの目は自然と机の上に置かれたポスターに集まっていった。

「……なんだか不思議ですね」

「しまむー?」

「このポスターを隠した人は、私たちのことを本物のアイドルだと思ってくれたんですよね。それがなんだか嬉しくて」

 その言葉にハッとした。そうだ、私たちはまだデビュー前で、まだ世の中に名前も知られていないアイドル未満の人間に違いない。

「しかも、もしかしたら超有名アイドルだと思われてるかもよ」

 未央がそう言うと、少しみんなに笑いが広がる。

「でも、いつかそうなるんですよね」

「うん。絶対に」

 力強く言う未央と卯月を見て、私は2人がなんだか眩しく見えた。

「ねえねえ、このポスターに全員分のサイン書いてさ、記念に事務所に飾っておこうよ。みなみんとあーにゃん、サイン書いてくれない?」

「うん! 勿論大丈夫よ。えっと、どんなサインにしようかな……?」

「ふふ、なんだか楽しくなってきましたね」

「ほら、杏ちゃんも! お願いっ」

「ええ~面倒クサいなあ……まあ別にいいけどさ」

 盛り上がり始めた会話を聞いていると、今度はドアの向こうの廊下からも賑やかな声が聞こえ始めた。他のメンバーがちょうど到着したらしい。

 私はもう一度ポスターに目を向けた。ポスターには現在進行形で新たなサインが書き込まれている。

 昨日、みんなでサインを書いた時、これから先もアイドルとして多くの場所で多くの人たちにサインを手渡していくのだと話した。けれど、私はそのことをきっと半分も理解していなかった。私たちはマジック一本で、たった数十秒で書くサインは、手渡された誰かにとって一生の宝物になるかもしれないことも。

 果たして私は、卯月や未央が言うような、サインの価値に見合うアイドルになれるのだろうか。このポスターは、本当にいずれ大きな価値を持つようになるのか。

 未来のことは何処までも不透明なのに、目の前のポスターに映るステージ衣装姿の私は、未来を信じ切っているかのような渾身の笑顔を向けていた。

「……これも、最初の扉なのかな」

「ん? しぶりん、なんか言った?」

「いや、何でもないよ」

 

 私たちの背後で、聞き慣れた扉が開く音がした。 

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