カラカラと引き戸が開く音がすると、途端にむあっとした熱気と大音量で鳴る蝉の声が入り込んできました。
その直後に「ありがとうございました」と女性の声がして、引き戸が閉まる音。ぴしゃん、と控えめな音で扉が閉まると、再び静寂と涼しさが戻ってきます。
その静けさを感じながら、私、橘ありすは読んでいた本を棚に戻してその場を離れました。
それほど広くない室内を埋める書棚を縫うように進むと、こぢんまりとしたレジカウンターがあり、そこに黒髪の女性が座っています。
その人は少し俯くようにしながら本を読んでいます。姿勢のせいで長い前髪が下りて目元はほとんどこちらからは見えません。集中するあまりページをめくる手以外微動はだにすることなく、まるで部屋の中と一体化しているようです。
それを見て私は小さくため息をつくと、ツカツカとカウンターへ近づいていきます。女性はそれでもこちらに気づく気配はありません。
なので私は、カウンターに設置してある〈ご用の方はこちらを鳴らしてください〉と書かれたベルを鳴らすことにしました。
チーーン!!
甲高く通りの良いベルの音が響くと、ほぼ同時に女性がビクッと体を飛び上がらせて辺りを見渡しました
「はっ、はい! いらっしゃいませ! ……あれ、ありすちゃん」
女性――鷺沢文香さんは、呼んでいる途中の文庫本を片手に持ちながら、私を見てポカンと首を傾げました。
私は今、長野県にある文香さんの叔父さんが経営する古書店に来ています。
数日前、学校も夏休みに入る中、アイドルの仕事にも奇跡的に休みが出来て、それなりの長期休暇を頂ける事になりました。
アイドルになって以降、少しずつ自分の知名度が上がってお仕事も忙しくなってきたので、まさか夏休みらしい長期休暇が貰えるとは思っていませんでした。
なのでプロデューサーさんからお休みの話を聞いた時には私も年相応にワクワクしましたが、例によって両親は二人とも仕事でスケジュールが合いませんでした。
この結果はある程度予想の範疇ではありましたが、ありがたい休暇を頂いたにも関わらずポッカリ空いたスケジュールに肩を落としていた所に、
「でしたら、一緒に私の叔父の古書店へ来ませんか?」
と、声をかけたくれたのが文香さんだった。なんでも昔から世話になっている叔父さんが用事で数日店を空けるそうで、ちょうどスケジュールが空いていた文香さんが店番に行くとのこと。
その誘いを私が断る理由はありませんでした。そうして一緒に長野へやって来た私は、鷺沢古書店に数日泊めて頂くことになりました。
鷺沢古書店は個人経営のお店なので広さはそれほどでもないですが、品揃えは充実しており近隣ではそれなりに有名な古書店のようです。主に文芸書を中心に硬派な物から近年の売れ筋まで幅広く揃っています。
店の隅にはこぢんまりとしたアイドル関連書コーナーがあり、文香さんのエッセイ本や写真集などが販売されているのですが、それ以外はまさに古き良き本屋さんといった感じの佇まいです。
そこで叔父さんの代わりに店番を勤める文香さんは、基本的にはレジからほとんど動きません。本の買い取りに関しては資格を持っている叔父さんにしか出来ないそうなので、売りに来られたお客さんには後日査定することになります。
なので、文香さんがする仕事はほとんど本を売ることだけなのですが、お客さんの出入りも多くない店なので文香さんはいつもレジで本を読んでいるのです。
とはいえ、それがこの店の日常なのか、文香さんもお客さんのほとんどもお互いに気にすることはありません。
そうやって文香さんがお仕事をしている間、私はどうしているかというと特に何もしていません。文香さんにゆっくり過ごして欲しいと言われ、店の蔵書はある程度好きに読んでも良いとも言われました。
確かにこの店は居心地が良く、普段は電子書籍が中心の私でも紙の本に囲まれてそれを好きなだけ読む日々は幸せです。
幸せではあるのですが……
「あの、ありすちゃん? どうかしましたか?」
私がしばらく黙っていたので、文香さんが少し心配そうに覗き込んできました。
「い、いえ、なんでもありません。大丈夫です」
「……お茶でも淹れましょうか」
少し安心したように微笑んだ文香さんはレジからゆっくりと立ち上がりました。
「あのっ、文香さん!」
立ち上がる途中の文香さんに、私は意を決して話しかけます。
「はい?」
「私に何か手伝わせて貰えないでしょうか? お、お店のことを」
「え?」
再びキョトンとする文香さんに、私はさらに続けます。
「こうして貴重な夏休みにこちらへお招き頂いたのはありがたいのですが、文香さんが働いている横で私だけがのんきにしているのは申し訳ないんです。何かお店のことをお手伝いさせてください」
簡潔に要件を告げて、私は頭を下げました。礼節も問題ありません。
「あ、ありすちゃん! 頭を上げてください……!」
文香さんの困ったような声を聞いて顔を上げます。
「えっと……ありすちゃんはお客様ですから、うちの仕事を手伝ってもらうなんて、そんな……」
「しかしっ、それでは私の気が収まりません! ご厚意に与っているのですから、なにかお返ししたいんです。お願いします」
私の真剣な声が通じたのか、文香さんも真剣な顔で考え込み始めました。
「ちょっと待っててくださいね」
バックヤードの奥へ引っ込んだ文香さんは、段ボール箱を抱えながら戻ってきました。
「では、ありすちゃんにはこの書を整理してもらってもいいでしょうか?」
そう言いながら文香さんが段ボールを開くと、中には文庫本を中心に箱いっぱいに本が詰まっていました。心なしか他の本よりも古ぼけていて痛んでいる気がします。
「この本たちは?」
「これは買い取った際に、訳あって売り物にならなかった本や、最低金額に設定した本です。ありすちゃんにはこれを整理して欲しいんです。すでに叔父さんが印を付けてくれているので分かると思いますので、売り場に出す物と処分する物に分けてください。売り場に出す物は、店の隅にある特価商品の棚に出してください」
そこまで説明した文香さんは、少し申し訳なさそうな微笑みを私に向けました。
「本来であれば私がレジの合間でやるべき仕事なので、ありすちゃんにお任せするのも申し訳ないのですが、……お願いできますか?」
「もちろんですよ! 申し訳なく思う必要なんてありません。私にお任せください」
私はフンと胸を張ります。どんな小さな仕事であっても、文香さんのお役に立てるのであればまさにお安いご用というモノです。
早速、私は作業しやすい場所に段ボール箱を移動させるために持ち上げようとして、
「あっ、その箱はかなり重たいので無理はしない方が……」
「うぐっ!?」
全く箱は持ち上がる事無く、私と文香さんの力の差を実感したのでした。
◆ ◆ ◆
私は小さなバックヤードで本の整理を始めました。
作業内容は文香さんが言った通り、本に付いている付箋に従って、売れる物と売れない物に分別するだけの単純な作業です。
しかし作業自体は単純ですが、段ボール一箱に入っている本はなかなかの量が有り、しかも分別をしなければならない箱は一箱だけではありません。
文香さんの叔父さんは仕事の合間にこの作業を進めていたそうですが、一人で運営している店では他にも多くの仕事を抱えているので、なかなかこの分別作業が進んでいなかったそうです。
というわけで、私はひたすら黙々と本の分別を続け、販売可能な本には最低金額100円の値札を貼って時々棚へ持って行く、という作業を続けていました。
単調作業ではありますが、私は辛くはありませんでした。
作業の過程の中で自分の知らない様々な本に触れることができて楽しかったからです。あらすじを読んで面白そうと思って冒頭をパラパラと読んだり、後で買っておこうとメモを取ったり、そんな感じで作業が止まってしまう事も度々ありました。
この点については反省しなくてはいけません。
なにより、文香さんのお役に立てる事が嬉しく、それが大きな原動力になっていました。
そうして作業を続け、二つ目の箱がそろそろ終わりそうになった頃、私はスマホを取り出して時間を確認しました。
開始してからずいぶん時間が経っています。もう夕方に近いぐらいです。
もう一踏ん張り頑張ろうと、作業を再開した時のことでした。
「ん?」
箱の底にあった一冊の本が目に入りました。
とても古い物のようで、ページもすっかり変色し、表紙もかなり掠れてしまっています。それでも表紙に大きく印字してある文字だけは読めました。
「取扱注意……?」
文庫本に似つかわしくないその文言が気になって、ついその本を手に取りました。
タイトルは『生者と死者』。どうやら小説のようです。
ページは薄めで、紙の端がいつもよりギザギザしているように見えますが、それ以外は普通の小説にしか見えません。
付いている付箋を見ると、これは値段が付かなかった本みたいです。
私はネタバレしないように内容を極力見ないようにしながら、パラパラとページをめくっていきました。
すると、
「あっ」
後ろの方のページから2枚の紙が滑り落ちました。
拾い上げてみると、それはどうやらノートの切れ端のようです。本と同様に古くなっていましたが、薄く罫線のような物が見えます。
いえ、それだけではありません。その紙には何か書いてありました。
「クロスワード……?」
手書きで書かれた縦に連なった四角と横に連なった四角が交差していて、その組み合わせが二つあります。
交差しているマスは赤く縁取られていて、マスの端にはA・B・C・Dというアルファベットが振ってあります。2枚目の紙にも同じ物が書かれており、こちらにもマスの端には同じアルファベットが記してあります。
これはどう見てもクロスワードパズルです。
クロスワードパズルであるなら、このマスに答えを埋めるための問題があるはずです。ですが、この紙には問題らしき物は書かれていません。
もしや、と思い私は紙の裏を見ました。
「うっ、これは」
そこには確かに問題らしき文章が書かれていましたが、私にはその文が読めませんでした。なぜならその文章は英語で書かれていたからです。
近年は小学校でも英語学習が始まって、私も多少は英語を勉強しています。ですが、この英文は長く、知らない単語も沢山あります。どう見ても私の学習範囲で読み解けるものではありません。
ですが、ここで諦めたくはありません。
古い本に挟まれていた謎のパズル。まるでミステリーに出てくる暗号のようでワクワクしてしまいます。どうしても自力でこのパズルを解いてみたい。
私は自分のタブレットを取り出しました。
本来こうして答えを検索するのは反則かもしれませんが、自分の力が至らない以上仕方ありません。それにこうして技術を使いこなすのも、立派な探偵のスキルです。
書いてある英文を打ち込んで日本語に翻訳し、訳された問題の答えを検索します。そうして出てきた答えを英訳し、マス目に合う文字数の単語を探します。
自動翻訳と検索を使っているものの作業自体は地味ですし、慣れない英語を調べているのも相まってなかなか大変です。
それでも根気よく調べて、なんとか計8本のマス目を全て埋めることが出来ました。
そして、交差するコマに記されている文字を抜き出すと、1枚目のABマスに当てはまる文字は「N」、CDマスの文字は「D」です。2枚目のABマスは「I」、CDマスは「E」でした。
あとはこれを組み合わせて単語を作るだけですが、
「ABの文字の後にはCDの文字が来るはず。なら組み合わせはNDIEかIENDの2つ。うーん、でもそれらしいのが出てこない。やっぱりこれだけじゃ問題が足りてない? それとも当てはめる単語を間違えてるのかな? ええと……」
「ありすちゃん?」
「うわぁっ!?」
いつの間にか後ろに文香さんが立っていてこちらを覗き込んでいました。
「そろそろ店を閉めようかと思いまして、ありすちゃんの方の様子を見に来ました」
「えっ、もうそんな……!」
慌ててタブレットの時計を確認すると、もう夕方になっていました。当然、箱の中にある本の整理は終わっていません。
「――っ!
すみません! つい別の事に注意が逸れてしまって、文香さんに頼まれた仕事終わってなくて、えっと……」
「いえ、謝ることはありませんよ。ありすちゃんはもう1箱分を終わらせてもらっていますし、そもそも急いで全部を終わらせなければならないものでもありませんから」
文香さんは優しく言ってくれましたが、私は申し訳なくて目を逸らしてしまいました。人からの頼まれ事を、他のことに気を取られてサボってしまうなんて、私にとってあってはならない事です。
「……お茶にしましょうか」
そんな私に文香さんは、微笑みながらそう言いました。
◆ ◆ ◆
文香さんが紅茶を淹れてくれました。
以前お仕事で行った先で買った良いお茶だそうで、とても美味しいです。深みのある優しい味わいに、落ち込んでいた気持ちも少しずつ晴れていきます。やはり美味しい物を嗜んでいる時間は心を落ち着かせます。
しばらくの間、私と文香さんは静かにお茶を味わいました。そして、カップの半分ほど無くなった頃、文香さんが話し始めました。
「そういえば、先程ありすちゃんが読んでいた本は何だったんですか?」
そう聞かれて、私はビクッとしました。その反応を見て文香さんは慌てて言葉を続けます。
「ああっ、別に先程のことを責めるつもりはありません。そもそも私も常日頃から、本を読み始めると他のことが手に付かなくなる不器用で不真面目な人間ですから」
「そんな、文香さんが不真面目だなんて」
私が反論すると文香さんはフルフルと首を横に振りました。
「ありすちゃんがそう言ってくれるのはとてもありがたいのですが、私は昔からそんな感じだったんです。本の事以外はなにもかも不器用で、知識ばかりで何も出来ない。それでも、自分に自信が持てない中で、私を肯定してくれて、見えていた世界を広げてくれたのは、プロデューサーさんであり、他のアイドルの皆さんでした。その中にはもちろん、ありすちゃんも含まれています。だから、えっと……」
そこまで話して、文香さんは急に顔を赤くして俯いてしまいました。
「ごめんなさい。私、こんな話をするつもりではなかったのですが」
「……ふふっ」
恥ずかしそうにする文香さんを見て、私はなんだかおかしくなって吹き出してしまいました。文香さんが不器用なのはよく分かりましたし、どうやら私を励まそうとしてくれていることもよく分かりました。
「す、すみません。でも、なんだか元気が出てきました。文香さんと、このお茶のおかげです。ありがとうございます」
私がそう言うと、文香さんも安心したように笑いました。
「えっと、それでさっき読んでいた本のことなんですけど……」
気を取り直して、私は『生者と死者』と挟まっていたメモを取り出して、書かれていたクロスワードパズルの事を文香さんに話しました。文香さんはその話を静かに真剣に聞き入っています。
文香さんは自らを不器用で何も出来ないと評していましたが、圧倒的な読書量によって培われた知識量は事務所でも随一だと思いますし、私はいつも感銘を受けています。
だから私は、文香さんならもしかしてこのパズルの謎を解けるのではないか、と期待していたのです。
私が経緯を話し終えると、文香さんはテーブルに置いた本とメモを手に取り、しげしげとそれらを観察し始めました。私はドキドキしながらその様子を見守ります。
やがて、文香さんが静かに口を開きました。
「泡坂妻夫の『生者と死者』ですか。名作ですね」
私は内心ガクッと脱力しました。やはり文香さんにとっては、本の方が興味深いようです。
「ありすちゃんは、この作品をご存じですか?」
「い、いいえ」
「この本には、日本出版業界の歴史に残る、ある画期的な趣向が使われているんです」
そう言いながら文香さんは本を開いて、一番初めのページを私に見せました。
「消える短編小説……?」
ページに書かれていた言葉を私が読むと、文香さんはゆっくり頷きました。
「はい。この本は、最初はページが袋とじによって区切られていて、その状態で読むと一編の短編小説として読むことが出来ます。そして袋とじを全て開いて再び読むと、物語が全く違う内容になって文字通り短編小説が消えるのです」
「えっ!? そんな事が出来るんですか?」
「それこそが作者・泡坂妻夫の技術なんです。この前代未聞の仕掛けの為に全ての文章が計算されて配置してあり、まさにこの小説は本の形をした奇術そのものと言えるでしょう。そしてその仕掛け故にこの本は、新刊として読まなければ作品が成立しない本でもあるんです」
「新刊として読まなければ……ああ、袋とじを空けてしまったらもう短編の方は読むことが出来ないからですか」
そう言いながら私は気付きました。
「あ、だからこの本は売ることが出来なかったんですね。袋とじが全て空けられているから」
「そうですね。残念ですが仕方のないことです。ですが、この本は重版を重ねて新刊として流通しているので、ありすちゃんが読みたいと思えば新刊書店で手に入れる事が出来るでしょう」
「は、はい」
「今作に登場するヨギ・ガンジーが探偵役を務める『しあわせの書』も、同じくミステリー界に誇るトリックを持つ名作として有名です。ミステリー作家でありながら紋章上絵師、そしてマジシャンでもあった泡坂妻夫は、奇術的なトリックやモチーフを取り入れたミステリーを多数発表しました。その傾向が強い代表作として『11枚のとらんぷ』や、女性マジシャン・曾我佳城が活躍するシリーズがあります。デビュー作の『DL2号機事件』から始まる亜愛一郎シリーズも逆説の発想が魅力的で、日本のチェスタートンと評されることも……」
「あの、文香さん」
「はい?」
「泡坂妻夫の話も興味深いんですけど、メモの方はどうですか?」
文香さんがまた本の世界にのめり込んで解説が止まらなくなっていたので、私は若干強引に話題の方向を戻しました。
「す、すみません。本のことになるとどうしても……コホン」
気を取り直して、文香さんはメモの方を手に取りました。
「正直に言うとこのクロスワードパズルについては、これだけでは情報が足りません。なので確実な事は分かりません」
それを聞いて私は少し落胆しました。とはいえ、このたった2枚のメモで分かることは確かにたかが知れていますから、半ば予想していたことではあります。
しかし、
「ですから、これから私がお話しできるのは解釈の一つに過ぎません」
「えっ」
続いた文香さんの言葉に私はハッとしました。
「このメモだけで何か分かるんですか?」
「勿論なんの根拠もありません。こうだったのではないか、という予想ができるだけです。例えばこのクロスワードパズルですが、おそらくこの2枚だけでは答えは完成しないでしょう」
「それは私も考えました。しかもこの2枚に番号などは書かれていませんから、問題が何枚あって、答えの文字をどう並べるのかも分かりません」
「ええ、その通りです。ですが、少しおかしいと思いませんか? 1枚ごとの問題はABCDで振り分けられていますから、そこから文字の順番は推察できます。でありながら紙の順番と総枚数は分からないのはどうもチグハグです。ですから、逆にこう考えてみましょう。
【このパズルは番号が書いていなくても文字の順番と総枚数が分かるものである】」
そう言って、文香さんは文庫本を掲げました。
「ヒントはこの『生者と死者』です」
「小説の内容が目印になってる、ということですか?」
そうなるとこの小説を読んだことが無い私は、まったくヒントが分かりません。それに私は未読ミステリーのネタバレを、できれば知りたくないのですが。
「いえ、この小説の内容はパズルにはおそらく何も関係ありません。とはいってもこの本を初めて見るありすちゃんには、ちょっと分かりにくいかもしれませんね。えっと、ありすちゃん、この『生者と死者』という小説は、最初幾つもの袋とじになっていると話しましたね」
「はい」
「その袋とじは、未開封の状態だと全部で14枚あるんです。そして、当然ですが袋とじの上下の部分は開いていますね」
「そうですね」
「もし、袋とじの一つ一つにこのパズルを一枚ずつ入れていくとどうでしょう?」
「……ん?」
「袋とじを開いていくと、クロスワードパズルが揃うとすれば、【パズルの総枚数は袋とじの数と同じ14枚、そして順番も袋とじの順番と同じ。】であれば、番号を書く必要はありません」
私は想像しました。
袋とじを順番に開けていくと、1枚ずつクロスワードパズルが出てくる。そのパズルを解いて、小説の続きを読んで、また袋とじを開けてパズルを取り出す。そうやってパズルの答えを少しずつ繋げていく。
「そうか。袋とじをそのまま袋として使って、中に紙を隠すという事ですか。そしてその推論を元にすると、1枚の紙に書かれている答えの文字数は2文字ですから、14×2で28文字と言うことになります」
文香さんが頷きました。
「でも、それが分かってもこの4文字だけでは、答えの全体を推測することは出来ませんね」
なにせあと24文字あるはずなのです。これだけでは全く全体像が分かりません。
「考えられるとすれば、もしかするとこれも、紙の順番や総枚数と同じ考え方なのかもしれません」
「と、言うと?」
「ありすちゃんが発見した時、パズルに答えは書き込まれていなかったのですよね?」
「はい」
「この2枚に答えが書かれていなかった理由が、もう問題を解く必要が無かったからとすればどうでしょうか。【この4文字が無くても答えにたどり着ける状態だった。つまり、この4文字は答えとなる文章の最後の文字だった】」
私はもう一度クロスワードが書かれた紙を見ました。
「その考え方でいくと、I・EとN・Dが最後に来て、28文字の英文というのが答えの条件という事ですか」
「そうなりますね。ただ、これ以上の答えは想像するしかありません」
「想像でも良いんで、何か思い浮かぶ事はありませんか」
少し期待して私が問うと、文香さんは首を傾げて考え込みました。
「……そうですね。例えば末尾がIENDになる単語ですと、友人の意味を持つFRIENDが思い浮かびますね。そして、FRIENDが最後に来る英文ですと……」
「あっ、これなんかどうでしょうか!」
私はタブレットの画面を文香さんに見せました。
「I think of you as more than a friend ですか……」
「すみません。文香さんのお話を聞きながら、出てきた条件で検索したらこの文が出てきました。FRIENDが最後に来てちょうど28文字になりますよ」
「なるほど……ふふっ、確かに良い文章ですね」
英文を見ながら、文香さんは満足げに笑いました。
「ありすちゃん、この文章がどういう意味なのか知っていますか?」
「え? えっと、英訳すると……『私はあなたのことを友達以上に想っている』、ですね。友達からの友情を表す、みたいな意味でしょうか」
「あるいは友達以上の関係、つまり恋人になりたいという意味合いで使われる事もありますね」
「こいっ……!?」
予想外の言葉が文香さんから飛び出したので、私は思いっきり動揺してしまいました。
「それは、つまり愛の告白という事になりますから……もしやこのパズルはラブレターなんですか!?」
いや、それは実は理に適っているかも知れません。袋とじの中に隠し、その上でクロスワードパズルを解くという回りくどい方法も、告白であったならば納得がいきます。
私のテンションは自然と上がっていましたが、対して文香さんはまだ穏やかに笑っています。
「ありすちゃん、それもまた可能性の一つです。条件に合う英文は探せばもっと出てくるでしょうから」
「あっ、そうですね。すいません、勝手に盛り上がっちゃって」
「謝ることはありませんよ。とてもロマンのある推論だったと思います」
「ロマン、ですか。……もしかして文香さん、面白がってました?」
「……少しだけ」
「もう、私に恥ずかしいセリフを言わせるなんて、意地悪だと思います」
「すみません、推論を進めていくありすちゃんがちょっと誇らしかったものですから」
……そういう言い方も狡いと思います。
ともあれ、このメッセージに関してこれ以上分かる事は無いでしょう。推理ごっこもここまでです。
そう思うと急に思考が冷静になって、少し心配になりました。
「あの、文香さん……」
「なんでしょう」
「パズルの答えが何なのか分からないですが、これを私たちが持っていても良いんでしょうか?」
「それはどうしてですか?」
「このパズルはもしかしたら単なるお遊びかも知れないですけど、実は本当に大事なメッセージなのかもしれないじゃないですか。それを私たちがこうして謎解きに使ってて良いのかなと。
……いまさらですけど」
「そう思う気持ちは間違っていないと思いますよ。ですが、ありすちゃんが心配する事も無いと思います」
「……というと?」
「この本はこうして古書店へ売りに出されています。理由はどうあれ、本の持ち主が本を手放す決断をしたのは確かです。その上で袋とじは全て開けられ、パズルの用紙は2枚しか残っていません。メッセージは届き、本と共に役目を終えたと解釈するのが自然ではないでしょうか。
その証拠というほどではありませんが……」
文香さんはそう言いながら『生者と死者』を開き、一番後の奥付のページを私に見せました。
「1994年初版……」
重版の記載はありません。どうやらこれは初版本のようです。
「1994年なら、今から27年前。もはや遠い昔の話です」
再び机の上に戻された文庫本を、私はジッと見つめていました。
「なんだか不思議ですね」
「え?」
「こんな一冊の文庫本から、これだけの物語が浮かんでくるなんて。私はこの小説の内容を何も知らないのに」
「本を読んでいれば、いつかそれを手放す時もあります。それらには全て元の持ち主の物語が染みついています」
文香さんは、ふと店舗の方へ目を向けました。
「そんな物語も含めて次の持ち主へと繋ぐ。それが古書店なのではないか、と私は思います」
文香さんは、静かに語り終えました。
窓からは夕日が差し込み、壁越しに小さくヒグラシの声が聞こえます。
「……東京へ帰る時に、この本、探してみようかな」
私が呟いた声が聞こえたのか、文香さんは柔らかく微笑みました。